『囚われのお姫様』 【大野木 ささめ】
悠朝中と裏山を仕切るフェンス前。
フード被った頭をぽんぽん叩くと、積もってた苔が目の前を落ちていった。ふと、小学生の頃図工で使った色砂を思い出す。そういえば、絵の具にせよ色砂にせよ赤は中々減らない色だった。別に嫌いってワケじゃないんだけど。
手に着いた苔をパーカーの裾で拭い、ケータイを出そうとして──止めた。アイツは一度だって、約束の時間に遅れたことなんてなかった。だったら、時計を眺めてたって無駄にイライラするだけだわ。
フェンスにもたれかかって、ぼんやり空を眺めていると、
『おや、待たせてしまったかな』
文字通りの意味で煙みたくクロは隣に現れた。
「何してたの?」
『定刻通りに来た相手に対する発言とは思えないね』
そう即答され、自分の声が低くなっていたことに気付く。
「別にそういうつもりで言ったんじゃないわ。ただ本当に、私の知らないときアンタが何してるんだろうなってふと思っただけで──」
言いかけて、何か惨めだったから止めた。
「ごめん。何かイライラしてるわ、私」
『そうかい。神経のいらだちにはじゃこを摂るといい。そして責める意図がなかったのはお互い様だ。とはいえ、このまま話を打ち切ったのではまるで私が他人様に口外出来ぬような行いに興じていたのではないか、とあらぬ妄想をされかねないからね。報告しておくと、道すがら出くわした可憐な少女を介抱していた』
「そりゃあ……イイことしたわね」
『ああ、実に良いことをした。ちなみに虚言ではないよ。残念ながら舌は無いがね』
相変わらず気ぃ遣ってボケてんのか、素なのか判断に困る。多分後者だろうけど。いや半々?
フェンスに凭れるのを止め、背中をはたいた。なんとなく控え目な深呼吸をした。
「さて、さっさと行きますか」
『ふむ、私は問題ないとしてささめ君はどうする? 乗り越えるのかね』
「ううん。さっきそこ壊したからそっから入るわ」
手を拳銃に見たて、壊したフェンス門扉の施錠を指差す。
「こう、バンッとね」
手首を軽く上に曲げた。まっ、私の使うそれに反動はないんだけど。
『壊したのかね』
「いや、あとで直すわよ? 流石に」
ヒヒイロゴケを使って、ね。
苦笑しながら、フェンス門扉に手をかける。
『そうかい。ところでささめ君』
「何よ?」
『つい先ほど藤枝蘇子の目的は達成不可能となった』
押そうとしていた手が、止まった。
※
ココが学校を休んだ日、杉林にある分校跡地。
「どうして、私に何も言わなかったのよ?」
私は、クロを問い詰めていた。蘇子が事件に関わってることを、クロはいつから知ってたのか。もし知っていたのなら、どうしてそれを教えてくれなかったのか。あからさまに非難するような声で。
今思えば、クロにはホント悪いことをした。あのときはクロへの不満だけじゃなくて、蘇子の異変に気付けなかった自分の不甲斐なさとか、また義妹を危険な目に遭わせてしまった自分の愚かさとか、ただの八つ当たりでしかないものまで、一緒くたにしてぶつけていただろうから。
結論から言うと、クロは私が依頼する前からそれを知っていた。なのに、何も教えてくれなかった。
「何よそれ。私のこと相棒だって言っといて、結局私の力なんて信用できないっていうの? だから、自分だけで〈あいつら〉を倒して、それでこっそり終わりにしようなんて考えてたの?」
それは、願望だったんだと思う。これなら、この現実であってくれれば、まだ私は受け入れられるっていう甘い幻想。でも、教えられた現実はそんなもんじゃなかった。
『此度の件、仮にささめ君から調査依頼がなかったとしよう。それならば、私はどうしたと思う? ささめ君に見つからない内に、藤枝蘇子と共にいる妖怪を始末する? そして、人知れず事件を解決する? 残念ながら不正解だよ。私はきっと──何もしなかった』
何もしなかった? 予想と違ったクロの台詞は、いつも以上に遠回しで、意味深で。それでも、私の幻想にヒビを入れるくらいには、充分だった。
『まず、異界の事件に興味がなかったというのが理由の一つ。二つ目、藤枝蘇子の目的は珠置山という狭い世界だけで事足りるものだった。彼女はあの山が強大な魔窟であり続けさえすればそれで満足だった。そして三つ目、私は四件目直後の藤枝蘇子の様子から、彼女がこれ以上能力を行使することはないだろうと推測した。もっとも、此度はその甘い見解がささめ君の義妹君に怪我を負わせるという事態を招いてしまったわけだがね。その点については深く反省している』
クロはシルクハットを脱ぐと、立ち昇る煙でできた頭を下げた。ヒビが入ってはいけないものに、どんどんヒビの広がる音が聞こえる。
「何でよ……。どうして、蘇子がもう何にもしないって思ったのよ……」
そして、頭を上げたクロが口にした言葉に、
『彼女の身体がその時点で既に限界を迎えていたからだよ』
幻想が、砕け散る音を聞いた。
粉々に、バラバラに、砂糖菓子みたいに呆気なく。
「限界って──」
『そう遠くない内に消滅するということだよ』
ようやく絞り出した声は、容赦ない言葉に撃ち落とされる。
『狭き世界にて自己完結する野望。もはや風前の灯であるにも関わらず、身を隠す砦だけはやたらと強固。そんな相手をわざわざ打倒しようとする変わり者、そうはいないよ』
クロはシルクハットを被ると、くるりと背を向けた。振り返って私を見た。
『ささめ君。君が如何なる行動をとるにせよとらぬにせよ、これだけは胸に留めておきたまえ。この物語の結末は変わらない。藤枝蘇子がこの世から消えるという幕引きは、絶対に避けられない。それを理解した上でなお君にやりたいことがあるのであれば、その行いに私の力が必要不可欠だというのであれば、そのとき私は喜んで君に力を貸そう』
そう言い残すと、クロはいつも通り宙に漂うように消えた。
そのあと、どういう道順で家に帰ったのかは憶えていない。ただ、意味もなく暗くなるまで、そこにぼーっと突っ立っていたことだけは憶えている。
翌日の放課後、私は蘇子と話をした。
そこで、初めてあの娘のあんな顔を見て、あんな声を聞いて、あんな想いを知って。
スカートの中から零れ落ちる苔に、クロの言っていた消滅の兆しを見て。
そして、初めて「ささめちゃん」って呼ばれた。
そう──初めてだったんだ。
※
『もっともあの目的に「達成」などはなかっただろうが。説明は必要かね?』
黙ってじっとしてれば、そう訊かれもするだろう。かぶりを振った。
私は、蘇子の目的を知らない。あの日、蘇子が言った隠蔽工作と贖罪の意味もわかっていない。クロに訊けば、きっと大体のことは教えてくれると思う。でも、そうしようとは思わない。それは、どうしても蘇子の口から真実を聴きたいと思ってるからじゃなくて──。
「ぶっちゃけさ、知らなくていいんじゃないとか思ってるわけよ」
『何の話かね?』
「蘇子の目的とか、そーゆーの。もちろん知りたくないってわけじゃないけど、あの娘が話したがらないもの無理矢理訊き出して、これが蘇子との友情がまだ続いてる証なんだって、私だけほっとすんのは、なーんか違うと思うのよ」
息を吐いた。ちょっとだけ肩が軽くなった。
「蘇子ね、『来ないで』って言ったの。でも、私には『来てほしい』としか聞こえなかった。でもさ、あの娘が何であんな言い方したのかなーって考えると思考がストップしちゃって。蘇子の想いを知るためには、やっぱりその目的ってのを知っといた方がいいのかなーなんて迷ったりもしたんだけど、ふと、つくしがいなくなって引きこもってた頃を思い出したとき、なんとなくわかった。あの頃の私が欲しかったのは、理解じゃなかったもん」
クロを見上げる。今の私はいつもより優しい顔をしてる気がする。
「あのとき私、『助けて』って言ってたんだわ」
まさかこんなにも早く、あのときとは逆の立場が回って来るなんてね……。
ただ違うのは、蘇子がどう足掻いたって助からないという事実だけ。
「あ……」
思わず、声が漏れた。フェンスを開けようとしていた私の手に、クロの手が重ねられていた。そこで、やっと自分の手が震えてるってことに気付いた。手袋の中身は真っ黒な煙だけ。それなのに、確かに触れられているという実感があって。生きてるんだなっていうあったかさがあって。
『ささめ君』
うん、と私は心の中で頷く。
『共に行こう。藤枝蘇子が君を待っている』
うんっ、と頷く。今度は心の中じゃなくて、クロに見える形で、はっきりと。
「クロ、今の内に謝っとくわ。私ね、蘇子のところに行って何しようとか、実は全然考えてない」
『だと思ったよ。全くそんな不明瞭な目的で共に命を懸けろと言うのだから、毎度それについて行く私の身にもなってもらいたい』
「いや、いっつも喜んでついていくって言ってんのは、アンタでしょーが」
『対外的要素を取り入れた上での発言だよ。だがね、ささめ君。そのことで君に伝えておかなければ──否、伝えておきたいことがある』
「何よ?」
『私がささめ君と共に行く理由は、これから君が親友のもとへ行く理由と酷似しているのだと思う』
その先にどんな結末が待っていようと、じっとしていることだけはできないから。
クロがシルクハットのつばを下げる。それはコイツなりの照れ隠しだったのか、それとも気を遣って、ちょっとだけ赤くなってるっぽい私の顔を見ないようにしてくれたのか、まあ、よくわかんないけど。
私とクロは、フェンス門扉を力強く押した。
私が先に押したかもしれないし、クロが先だったかもしれない。
でも、気持ちとしては二人一緒に。境界を越えた。
※
終わりました。全て終わってしまいました。
その場に、ぺたんとへたり込みました。
死体を隠せば罪になる、けれど魂という全く異なる形で生かし続ければ、それは罪にならない。そう信じて、何よりその行いが氷垣君のためになると信じて、今日まで無傷という魂の揺り籠を維持してきました。
しかし、氷垣君がささめちゃんに秘密を打ち明けた今。ココさんが無傷を倒した今。私と元の世界を繋ぐものは、全て断たれてしまいました。
さっきまでここにいたあの娘の言う通り、好都合と言えば好都合なのでしょう。どのみちささめちゃんたちと過ごしたあの日々に戻れはしないのですから。この身体はここで朽ち果て、私はこの世の土ではなく、異界の苔に還るのですから。
いいえ、たとえこの身が消えゆく運命になかったとしても、もうあの日常に私の居場所はないのです。何せ私は二人の女の子を手にかけようとしたのですから。その事実を知る者たちは、決して私の非人道的な行いを許すことはないでしょうし、決して許してもいけないのです。藤枝蘇子という文字通りの人でなしを受け入れてはならないのです。
それなのに──
「どうして──あんな言い方をしてしまったのかしら」
友だちだから来ないでね──なんて、ずるい言い方だわ。
落とすように、自嘲します。その答えがわかっている分、余計に力なく。
『蘇子』
歩み寄って来た地宰の頭を撫でます。地宰はそうしてもらいたくて近付いたわけではなかったようですが、私の手を嫌がったりはしません。優しい子で、サイケデリックな体色の羊さんです。この子は、あの娘から選択肢を用意されたとき、何故か私と最期を共にすることを選びました。青い首輪──付けている限りは飼い主と一心同体にあるコントラクトリング。彼はそれを外すことを拒んだのです。だから、優しい子ですけど、優し過ぎて、ちょっぴりお馬鹿さんなのかもしれません。
「どうしたの地宰」
『蘇子。あれを見よ』
地宰が顎で指す先には、銅鏡に酷似したモニタの群れが浮かんでいます。フラフープほどの大きさをしたそれらは、九面ともあの娘が用意してくれたもので、戦場と化した珠置山の光景を今なお映し続けています。その一つ、中央のモニタに──
「え?」
映っているはずのないものが、映っていました。
地宰が気を遣ってくれたのでしょう。そのモニタだけがズームされます。
『まるで夢語の王子じゃの』
嘲るようでも呆れたようでもなく、むしろ感心すら込められているような地宰の声。
「どうして──」
口を両手で覆います。もはや視界は明瞭ではありません。
酷いことをしたじゃない。来ないでって突き離したじゃない!
「ささめちゃん……っ!」
言葉を失う──とは、きっとこういうことを言うのでしょう。
※
景色が目まぐるしく流れている。それでも、苔が顔に張り付いたりせず、枝葉を揺らす音が遠いのは、私とクロを乗せたこの〈ペルシャ絨毯〉が、風のバリアみたいなもので覆われているからだ。
空飛ぶ絨毯──クロがどこぞの露店で、破格の値段で買ったという飛行アイテム。普段は、ほぼ四次元ポケットと化しているクロのコートの中にあって、常時張っているバリアは仕様、でもってその最高速度は特撮ヒーローのバイクかよってツッコミたくなるくらい速い。で、何で私たちが上空からではなく、山道から頂上を目指してるのかというと、絨毯が高所恐怖症だかららしい。……安値には必ず理由があるっていうけど、まあそういうことね。
「ねぇ、クロ」
『何かね、ささめ君』
クロが振り向いた。バリアのおかげで声を張り上げる必要がないってのは助かる。
「さっきから気になってたんだけど、アレ何?」
クロの腰──っぽい部位に両腕を回したまま、そっちを顎で指す。
平たく言うと、蛙と豚が喧嘩してた。いや、喧嘩って表現はちょっとヌル過ぎるかも。蛙は蛙で明らかにヤるための得物振り回してるし、豚は豚であの数で圧し掛かるのはマジで殺す気満々だし。とにかく双方加減がなさ過ぎる。
「あの蛙、稲荷神社によくタムロってるわよね」
『ああ、この辺りは元々彼らの縄張りだったからね。きっと縄張り争いだろう。彼らの珠置山攻略と私たちのそれが重なるとはいやはや何たる偶然』
クロがふい、と前を向いた。
……ホント、マジで隠したいのか、何か勘付いてほしいのか、よくわかんない。
回している腕に力を込めた。クロの背中に頬を押し付け、聞こえるはずもない鼓動に耳を澄ます。
きっとクロとあの蛙たちには、私の知らない繋がりがあるんだろう。それについてとやかく言うつもりはないし、言える道理もないと思う。
なのに──なのに何で、今私はコイツに無言のままひっついてるんだろ?
これじゃあまるで、嘘吐かないでって抗議してるみたいじゃない……。
「クロ」
反応はない。もう一度声をかけようかどうか迷ったところで──クロが身を固くするのがわかった。緊張が伝わる。勘が良いねと背中が言った。まあ、それなりにねと苦笑いを返す。
『絨毯にしっかり掴まっていたまえ』
言うが早いか、クロが腕の中から消えた。いや、こんなペラペラどこ掴めっていうのよ! とりあえずクロのマネをして、絨毯の前の反り返ったとこにしがみつく。
淡い緑色に光る何かが、木々の間を縫いながら迫って来ていた。距離が狭まっていくにつれ、それが蛇に似た〈あいつら〉の類なんだとわかる。くそっ、輪郭ぼやけてて数把握できない。全身を覆う緑色の正体はやたらぬめり気のある炎。ケータイには手を伸ばさない。あと僅か数メートル。口が裂けるように開いて、涎みたいな炎が溢れて、思わず手に力が入って──。
蛇たちの頭上から、クロが降って来たこと。
鯉口を切る音が聞こえたことに、ニヤリとする。
途端、絨毯がカーブした。クロを避けたと思ったとこで急ブレーキ、身体が宙に浮いた。落ちる──そう思ったのに、クッションに飛び込んだような感触があって、押し戻された。ああ……そういえばバリアがあったのよね。ちょっとくらくらする頭を抑えながら起き上がった。
クロの周りを緑色の火の粉が漂っていた。色からしてさっきの蛇たちの末路ってとこだろう。こっちの意図を察したのか、絨毯がクロへ近付いていく。
『病龍の具現か……』
クロが、刀を鞘に収めた。
「びょうりゅう?」
『ささめ君。この山の頂には荒廃した祠堂があるのだったね』
「荒廃した祠堂って──珠置神社のこと?」
『ああ道理で。まったく理に適った龍を見付けてくれたものだ』
顎を撫でるクロに眉を顰める。
「そうやって独りで納得すんの止めてくれない?」
『ふむ、すまない、説明が必要だったね。風水において山は龍と呼ばれていてね。「山が清楚だと優秀な人材を輩出し、山が汚濁していると愚昧な人間が出る」と言われるほど絶対的な条件とされている。そして龍の姿形からその中に潜んでいる精気──龍脈の良否を判断する方法を看龍法といって、それによると龍は十二種類に分類される。五格の吉と七格の凶。先ほど私が言った病龍とはその内の一つでね。「病」という字面からわかる通り凶格に当る。今回のように山頂に祠堂を建てられたことで頭を損傷した龍や、洞窟や井戸を掘られたことで本身を傷付けられた龍などがその例だよ』
「あー、それってつまりこの山には悪い気が流れてるってことよね?」
『その通り。まさに欠陥が生じた龍、悪疾敗亡の凶格だよ。だからこそ、この山の淀んだ地気は奴が操るに適している。なあ地宰』
──地宰?
クロの視線の先を見る。
ピンク色の綿菓子みたいな羊がいた。神経質そうに細められた眼はまるで透明感のない黄水晶。濃い紫色をした角はくるくると渦を巻いている。何つーか、アメリカ人の子どもが喜んで食べるケーキみたいな色してるわね。そして、地宰と呼ばれたそいつの首辺りを見て──目を疑った。
どこか東洋っぽいニオイを漂わせている謎の文字。
それの羅列で構成された首輪が、ぼんやりとした青い光を放って、そこにあった。
「何で──」
アンタが。その一言が続かない。無理矢理声にしようとすると気持ち悪くなる。
何で。どうして。アレは一体何なのよ。どうしてアイツがアレを着けてんのよ。私からつくしを奪っていったアイツと。ロクに攻撃できない私をつくしの姿で嘲笑ったアイツと。私が自ら壁を作って閉じこもるきっかけになったアイツと。私の知らないところで死んでしまったはずのアイツと。同じモノを。同じ首輪を。
『大野木ささめか』
聞き慣れないしわがれ声が、頭の中に降って湧いた。
今のって……地宰の?
『通れ』
「は……?」
『大野木ささめは通せ。しかしその連れは通すな。それが我が主からの達しじゃ』
「我が主って──それって蘇子のことを言ってるの?」
返事はない。クロが一歩前へ出た。
『そのわりにはえらく手荒な出迎え方をしてくれたね』
『なあに、お主がおるのはわかっておったからのう』
『過分な評価誠に恐悦』
『心にもない言葉を並べて世を渡っておるところは変わらんな』
地宰がふんっと鼻を鳴らした。
「知り合いなの?」
『同じ根源より生まれたのだ。知り合っていない方がおかしい』
もっともできることなら忘れたい部類に入る顔だと付け足して、地宰を睨み付けるクロ。
同じ根源? 出身地の言い換えにしては変……よね。
『まあ良いわ。それでどうする。通るのか通らぬのか』
地宰はこっちに顔を向けたまま、横ざまにゆったりと歩く。
「もし、私とクロでアンタを倒してから先に行くと言ったら……?」
言いながら、ポケットの上からケータイに触る。
地宰が歩くのを止めた。ただでさえ寄り気味な額に、さらなるシワが刻まれる。
『それを腕に宿しておきながら、この首輪の機能を解しておらぬか。良いか、この首輪がある今、儂が過度に力を消費することは我が主の導力──儂らギノーを媒介者とし、〈彼岸の智慧〉より、実効性のある魔術、呪術、妖術等を受信する〈人工回線〉──の酷使に直結する。その果てに待つは我が主の脳髄の死じゃ。お主らが共に儂を打倒するのであれば、必然儂は自身の許容範囲を凌駕する力を消費せざるを得なくなるじゃろう。大野木ささめが指示に従わぬ場合は、我が主の脳を厭うことなく全力を以てその連れ諸共足止めせよ、というのが儂に下された命じゃからの』
え、ええっと……。
「と、とにかく?」
『ここで私たちが共に彼と切り結んでしまっては本末転倒ということだね』
「……そういうことみたいね」
どうする? クロをここに置いていくの? クロだけにアイツを押し付けていいの?
ふと、呆れたような溜息が聞こえた。
『やれやれ何を躊躇うことがあるのか。地宰がここにいる時点でもう答えは出ているだろう。ささめ君が先へ進み、私はここに残ればいい』
「で、でも……っ」
『いいかいささめ君。考えてもみたまえ。地宰がここにいる今、藤枝蘇子は独りなのだ。そこへ君が私のような妖を連れて行けば彼女はどう思う? 彼女の目に私の姿はどう映ると思う?』
諭すような声。蘇子の目にクロがどう映るか……?
『この山に立ち入ってからここへ辿り着くまでの間、一度も〈あれ〉を撃たなかった君なら、もうわかっているはずだよ』
はっとした。ケータイをぎゅうと握り締めた。
私がここに来るまで、ケータイを武器に変えなかった理由。
クロには言ってた。力を温存しておきたいって。でもホントは違った。見抜かれてた。
それは、変えたらダメだって思ったから。私なりの決意だったから。私はここに戦いに来たんじゃないって。アンタともう一度話がしたい、ただ会いたいからやって来たんだって。
でも、私が戦わないってことは……。
──そのことで君に伝えておきたいことがある。
手の甲に触れる。そこにはまだ、あのときの熱が残ってる。
ああ、そうね。こうなるってわかってたから、こういう気持ちで私が足を止めるかもしれないってわかってたから、アンタはあんなこと言ったのね。
自分がじっとしていられないだけ。この行動は誰かにやらされているものじゃない。
アンタはホントに、ホントに……ああチクショー。
緩みそうになる頬を左右から二回叩いた。よっし気合注入。絨毯を、しっかりと掴む。
「クロ!」
行く先をまっすぐ見据えたまま、名前を呼ぶ。
「私はアンタのこと、相棒だって思ってる」
『知ってるよ。そして私もまた君のことをそう思って止まない』
「知ってる。でも、今回はアンタに汚れ役を全部任せる。だからゴメン」
『ああ、酷い話だ』
「クロ」
ぎゅっと眼を瞑って、開いた。ほんの少し視界がクリアになった。
「もしダメそうになったら呼ぶのよ」
『承知。もしそうなったとしたら、君がすぐさま駆け付けざるを得なくなるような、それはそれは情けない悲鳴を上げよう』
行ってと絨毯に言い放つ。見えないバリアが展開される気配がして、絨毯が飛び出した。上昇は抜きでいきなりの飛翔。両サイドで苔が舞い上がる。地宰の横を通り過ぎた。あっという間だった。振り向かない。だって、この場はアイツに任せたんだから。
──蘇子!
ややあって頭の隅に届いたのは、心底不機嫌そうに鼻を鳴らす音だった。