『夜の始まりを告げる白き少女』 【大野木 ココ】
あと十二回。
じりり……と踏み出した爪先に何かが当たった。目線を下げて、すぐに戻した。目の動きで、それがここにあるって事実を知られてはいけない。それにこっそり意識を集中する。いつも目を瞑ってやるから、やり辛い。無傷がぼやけて見える。
──それでも、やるしかない。
と、無傷の膚が赤いブツブツに覆われた。貌も、喉も、胸も、腕も、脚も、犬や鶏と化した部分でさえ残すところなく。びっしりと一斉に。
小刀を振り抜き、無傷へ空気の刃を飛ばす。直後、無傷のブツブツから、真っ赤な糸が飛び出した。それが瞬時に編み込まれ、作り出された盾は、刃をあっさりガードした。
「なっ……」
『なっ、なんじゃあ、その防御方法!?』
無傷が突っ込んで来る。小刀をくるりと逆手へ。手首の動く幅が狭い方が力を入れやすい。大振りな右フック──犬による噛み付き攻撃を、小刀で受ける。牙に挟み込まれた小刀が軋む。犬の吐息が手にかかる。刃を押せばいい? 引けばいい?
と、背後でギャッという鳴き声。振り向くと、ヘビドリが糸に縛られていた。
「ヘビドリ!」
ぐんっと腕を引っ張られる。手首に痛みが走り、消えた──と思ったときには、こっちを見上げる無傷が見えた。宙に、浮いていた。落ちながら前宙、四つん這いで着地と同時に無傷へ跳び掛かる。獣が爪で獲物を引っ掻くように一閃! けど、またあの盾に弾かれる。ダメだ。一旦距離を取らないと!
そう思い、滑走し続ける私に放たれたのは、数え切れない程の糸。木々の間を縫うように追いかけて来るそれは、道中で互いを捩じり合わせていく。私の腕より太く、先が尖ったそれは、もう単なる糸の束なんかじゃなくて──
「来る……!」
──ドリル!
小刀をがむしゃらに振り回す。斬られたドリルは奥に引っ込むと、他のと合体して再び迫って来る。まるでたくさんの頭を持った怪物と戦っているみたい。離れれば離れるほど、あれに意識を集中させるのが難しくなる。途端、視界が歪んだ。
──やっぱり無茶だったかな。
はっとした。ドリルが目の前にあった。避けられない。ばっと赤が弾け、世界がひっくり返った。背中で地面を滑りながら、何とか両脚を振り上げ後転、膝を着いて──止まった。
……血の入った右目が、痛くて開かない。身体から、どんどん力が抜けていく。額は、多分タワシでゴシゴシされたみたいにささくれ立ってるんだって、鏡を見なくてもわかる。
無傷が、近付いて来る。空気の刃を飛ばしたけど、やっぱり無駄だった。
『サア、夜ハ終イダ』
髪に付いてた苔を摘まみ、とりあえず耳に押し込む。
『モウジキ黎明ガ来ル』
無傷の貌に浮かぶ黒い満月──その周りで、あの嫌な感じの虹色が歪んでいる。
ふと、気付いた。無傷の胸辺りに一つ、輪郭のはっきりしない黒い塊があることに。
さっきまで、こんなの見えてたっけ?
それは、一つじゃなかった。数えてみると、十二はあった。
最初、胸に目が止まったのは、そこにある影が一番大きかったから。
お腹にも、腕にも、脚にもそれはあった。
あって、膚の上を漂っていた。規則性なく、人魂みたいに、ふよふよと。
──ああ、生きている。
そのとき、わかった気がした。藤枝先輩が、どうして無傷に動物たちの魂を丸呑みさせたのか。どうして無傷をこんな姿にしなければならなかったのか。
──生きていて、欲しかったんだ……。
死体を隠して、証拠を消して、氷垣先輩が犯人だという事実を「隠蔽」したいんじゃない。「抹消」したいんだ、この世から。殺された動物の命を、無傷の一部として生かすことで。そうすれば、氷垣先輩が殺したことにはならない──それが恐らく藤枝先輩の考え。藤枝先輩にとって、氷垣先輩の為になる行い。
『サラバダ白子。御前ノ無ヲ喜ブ声ヲ聴ケ』
私は、想像する。瞼の裏に思い描く。大丈夫、あれが鶏の魂による能力ならば、朝を象徴する鳥の鳴き声ならば、これで必ず打ち破れる。
蜘蛛が動き出した。浮遊感がやって来る。足許が瓦礫になって崩れたけど、怖くはない。小刀を順手に。足の裏に地面が戻って来る。世界を塗り替える〈声〉は、もうそこまで来ている。だから、目を開けるより先に振るった。ただ、水平に。
それで──世界は静かになった。
固まった水飴に刃物を通すような感覚は、微塵もなかった。
ゆっくり瞼を開くと、無傷が棒立ちになっていた。
『何ヲ……』
「前に──」
私の話を待つことなく、無傷は攻撃を再開した。小刀を振り下ろす。迫っていたドリルが、一瞬で元の形を失った。宙を漂う糸屑は、彼岸花に似ていた。
「義妹から聞いたことがあるんです。ナイチンゲールには『小夜鳴鳥』という呼び名があって、夜の訪れを告げる鳥として考えられているんだって。だから、ナイチンゲールを憑依して、打ち消しました。貴方の夜を終わらせる〈声〉を、私の夜をもたらすこの刀で」
『其レ、ダケカ?』
「はい」
『本当二、其レダケナノカ?』
多分今の私は、さっき小刀に映っていたような、ぼうっとした眼をしているのだろうなと思う。
『有リ得ナイ……ッ。有リ得ナイゾ! 教エロ白子! 何時ダ! 一体何時其ノ刀ヲ呪物ト成シタ!? 憑依ダケデ、想像シタダケデ、タッタ其レダケノ過程ヲ経タダケデ、魂ガ宿ッタ際ト同等ノ効果ヲ武器二付与スルコトナド、人間二出来ルモノカ!!』
無傷が、唸り声を上げた。それは、夜を終わらせる鶏の〈声〉ではなくて、無傷自身の怒りの声。
十数本のドリルが、あらゆる方向から襲いかかってくる。でも、無駄だ。小刀を一振りすれば、全て粉々になる。刃先を、無傷に向けた。
「もう──そんな〈幻戯〉は通じない」
力は要らない。迅さも要らない。殺意も要らない。
ただ、腕の力だけで小刀を振るう。
それだけで──たったそれだけの動作で、ドリルは糸屑になってしまう。
視界を埋める鮮やかな紅。彼岸花の群れ。
赤は血の色だと、命の始まりの色だと、以前どこかで聞いた憶えがある。
でも、違う。私が散らしたいのはこの色じゃない。
見ていて切なくなるような、それでいて命の鼓動を感じさせるような色じゃない。
私が散らしたい色は──白い膚を漂う十二の黒だ。
滑走し、無傷との距離を一気に詰める。どくんっと。一際大きく心臓が打つ。
そう感じたときにはもう、無傷が目の前にいた。突き上げた小刀は掌で受けられた。
──無駄だ。どこに刺さったって結果は変わらない。
「お嬢の懐刀」に込められた夜の闇は、その身体にある十の太陽に必ず届く!
無傷が幽かに呻いた。私は柄から手を離し、後ろに跳ぶ。犬の頭が、目の前を下から上へ通り過ぎて行った。これで手許に武器はない。けど、大丈夫。〈本命〉は、ついさっき完成したばかりだから。
私は、じっと見つめる。白い身体に閉じ込められた魂の群れを。
空気が、鈴のような音を立てて揺れた。
ころころと。とても清らかで、素敵な音。これは、もしかして──
「小夜鳴鳥……」
眼に映るいくつかの魂が、ぐにゃりと歪んだ。そして、しぼんでいったあと、消えてなくなった。
「届いた……」
鶏の頭が、最期の一声を上げる間もなく崩れ落ちた。片翼も地面に落ちて苔に還った。
『ア、嗚呼……?』
無傷が、頭を揉み込んでいる。何が起こったのか理解できていないのだろう。それはそうだ。さっきまで頭の中で騒いでいた鶏十羽。それが一斉に消えてしまったのだから。二度と、鳴かなくなってしまったのだから。
『コノ空漠ハ、何ダ……?』
それは、多分自分自身に向けた問い。
「あと──二回です」
宣告する。残る黒色は、二つだ。
無傷がこっちに満月を向けた。そして、啼いた。すごくうるさい。でも、それだけだ。その声にもう朝を呼ぶ力はない。
──〈本命〉をここまで持って来て。
しゃらしゃらしゃら。
無傷が走って来た。掌には小刀じゃなくて木の枝が刺さっていた。「お嬢の懐刀」は役目を終えたんだ。ありがとう、って呟いた。
手を前にかざすと、ソレは勢いよく苔の中から飛び出した。掴み取る。その感触が、何だか懐かしい。引き抜いて、すぐさま斬り上げた。何かがくるくる宙を舞った。犬の頭──無傷の右腕だった。ゆったりと中段に構える。うん……やっぱりそう。あなたが一番しっくりくるよ。
それは羽のように軽く。
まるで身体の一部かと思うくらい手に馴染み。
あくびが出るような迅さの一閃でも構わず空気を抉って喰らい。
どんなに乱暴に扱っても決して折れたり曲がったり刃こぼれしたりしない。
そんな──冗談みたいにデタラメな刀。
無傷と戦いながらもこっそり創っておいた、私の大本命。
残る魂は一つ、胸の辺りに一際大きな黒があるだけ。
『ソウカ……。ソウイウコトカ、白子』
無傷が、斬られた右腕を見ながら笑った。笑っているんだとそう感じた。
『御前ガ、俺二クレタノダナ? モウ一度見セテクレタノダナ? アノ澄ミ切ッタ世界ヲ。アノ安息ノ日々ヲ。俺ヲ、助ケテクレタノダナ? アノ魂ノ獄カラ。雑音ノ洪水カラ。ケレド何故ダ。何故ダロウナ? コノ五体ハ、ドウヤラ俺ガ無傷デアルコトヲ忘却シタラシイ。躰ガ思ウヨウ二動カナインダ』
もう──見ているのも哀れだった。
足の裏全体で大きく一歩。それだけで、間合いに無傷はあった。
その足で体重を引っ張り、二歩目を出しつつ、振り抜いて──
無傷と世界を、遥か後ろに置き去りにした。
『月ダ……』
言われて、空を見たりはしない。あの〈声〉が空に開けた穴は、もうとっくに閉じているとわかっていたから。そこに月はないってわかっていたから。
『初メテ〈声〉ヲ得テ鳴イタ時、月ヲ見タ……青イ光ガ美シカッタ』
脳裏に、あるイメージが浮かんだ。黒い点が徐々に小さくなっていき──
『嗚呼、コレデ……ヤット静カ二ナル』
やがて、消えてしまった。苔の崩れる音がした。
とても──静かな決着だった。
「あ……」
脚から力が抜けた。刀を杖代わりにしようとして、し損ねて──抱きとめられた。
──えっ?
びっくりして目を見開く。顔を上げて、もっとびっくりした。
黒いのっぺらぼうがいた。煙が渦を巻いていて、その上にシルクハットが浮いていた。私が掴んでいるのは、ケープを長くしたみたいな黒いコートで、両肩に置かれた手は、執事みたいな手袋をつけていた。
『出遅れてしまったようだね。手遅れにならなかったようで何よりだが』
「あ、あの……」
『私かい? 私の名はクロ。親愛なる我が相棒より授けられた名だ。以後お見知りおきを、大野木ココ君。否、別段見知って置いてくれなくとも構わぬのだが、頭の片隅にでも置いておいてくれれば、それはそれで実に喜ばしく思う』
……何だろう。ヘビドリに比べると、喋る早さも言葉遣いもずっと落ち着いてる。なのに、何だかすっごくついていくのが大変そうなオーラを感じる……。あれ? 今私の名前──
『ところで、大野木ココ君』
「は、はい……」
『君に一つ尋ねたいことがあるのだが、構わないだろうか』
ちょっと考えて、頷いた。
何だろう、いきなり。
『君が無傷に挑んだのは、君と〈彼ら〉の誇りのためか。それとも──』
それとも……?
『藤枝蘇子が肩代わりした氷垣蓮太郎の罪を、さらに君が肩代わりするためか』
思わず、目を剥いた。それから、伏せた。
『無論、罪とは肩代わりできるものではなく、動物たちを殺めたのはあくまで氷垣蓮太郎の所業だ。しかし、藤枝蘇子はそうは考えなかった。彼によって無残に破壊された動物たちの器、そこから解放され森羅万象の概念に還らんとする魂を、彼女は無傷に一呑みさせることで現に留まらせた。それによって彼の代わりに罪を償うことができると信じた。姿形が異なれど魂が健在でさえあれば、動物たちは生きている。故に氷垣蓮太郎は何もしていない。罪のない動物たちを殺めてなどいない、と。藤枝蘇子にとって、あの無傷こそが氷垣蓮太郎に対する想いの証だったのだ。だが今宵、君はそれを斬った。そこに生きる動物たちの魂諸共無傷を滅ぼした』
クロさんはそこで語るのを止めた。わかってる。私の言葉を待っているんだ。
「私……」
声を絞り出す。それだけのことで、胸が苦しい。
「そんなに難しいこと、考えてません……。でも、無傷の中に黒い魂が視えたとき、ああ生きてるなぁって思って、そのときやっと藤枝先輩がどうしてこんなことしなきゃいけなかったのか、わかった気がしました。わかったのは……そのときです。戦ったのは、私とボスとヘビドリと皆のためです……」
『わかったときに、逃げ出そうとは思わなかったのかね。斬ることを恐れなかったのかね』
無傷の中に生きていた十二の魂ごと。
「逃げようとも思ったし、怖かったですよ。でも──」
『でも?』
「無傷と動物たち、すごく苦しそうでした」
だから、止めなかった。他に何とかする方法はあったかもしれないけど。
視界が、端から暗くなっていく。コートをぎゅっと掴んだ。もうダメかも。この声はヘビドリだろうか。やけに低い位置から聞こえるのは、どうしてかな? まあいいか。元気ならそれでいいや。
そして、私はしがみ付いていた世界から、そっと手を離した。