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『無傷』   【大野木 ココ】

 斜面のきつい獣道が続き、僅かに息が弾みだした頃──。

 しゅー、しゅー。しゅー、しゅー。

 聞き覚えのある呼吸音に顔を上げると、そこはもう私の知ってる珠置山じゃなかった。

 地面から這いずり出してくるモノ。木の表面から熟れ過ぎた木の実みたく落っこちて来るモノ。

 肩に乗っているボスが腕を組んだ。

(じゃ)か』

 邪──地中に棲む豚の形をした中国の妖怪。それが〈豚〉の正体だとボスは教えてくれた。

「すごい数だね」

『ええ、何せ邪は存在(モノ)ではなく現象(コト)。天変地異の地異と同義故、その数に際限などありはしません。そんな連中相手に太刀を振るうなど、賽の河原の石積みが如し。真に討伐すべきは、大地に宿る気を御し土塊から邪を創り出している──形ある存在です』

「つまり〈豚〉を倒すのは時間の無駄で、どこかにいる親玉を倒せばいい──ってこと?」

『聡いキョウダイ分を持って、ボスは幸せです』

 自分のことをボスと呼んでいるのが何だかおかしかった。

 その間も、邪の増殖は止まらない。世界を覆う苔を日焼けあとの薄皮みたくぺろりと捲れば、真っ白な〈豚〉たちが寿司詰めになっているんじゃないかって思うくらい。

『お嬢』

「うん、大丈夫。覚悟はできてる」

 日傘を畳み、その石突(てっぺん)で地面を二回突いた。目の前の地面が盛り上がっていく。私の身長の二倍はある真っ赤な海坊主。すでに五つ以上のそれが、視野を遮るように現れつつある。打ち合わせ通りなら、私の遥か後方にもいくつか浮上しているはずだ。

 日傘を振り上げ、息を吸い込む。戦場(いくさば)の空気が身体に行き渡ってゆく。背筋が震えた。

「──行って!」

 振り下ろす。直後、海坊主が一斉に噴火し、真っ赤な津波と化した。木々をなぎ倒すほどの勢い。そこに潜むカエル人間たちが、〈豚〉の群れへと迫っていく。

 最初に波から飛び出したのは、抱っこするにはちょっと厳しいくらい大きなカエル人間。石斧を担いだ彼らは、松ぼっくりに似た生物──四本脚は皮がルーズソックスみたいになってるのによく走る──に跨っている。名前は特にない。眼が蜻蛉みたいだから『トンボックリ』とかどうかなと言ったら、何故かヘビドリにこれ以上犠牲者を増やすのだけはマジ勘弁して下さいと頭を下げられた。カエル人間たちも周りでうんうんと頷いていたけれど、あれはどういう意味だったんだろう? 

 その後ろ、一丸となった大ガエルが続き、彼らの背を石槍で武装したカエル人間が追いかける。

 緑の津波と白の防波堤が、ぶつかった。

 走るトンボックリが邪を蹴散らし、跨る大ガエルが石斧でそれを払い除ける。敵陣に抉じ開けられる、大きな穴。そこを二列目が押し広げ、バラバラに逃げる邪を三列目が追い掛け、叩いていく。

「すごいね」

『ええ、相手も隊形であるのならば理想的な戦運びと言えましょう』

「──どういう意味?」

『相手は隊形ではないという意味です』

 隊形ではない? ──ああ、そっか。

 表情から察してくれたのか、ボスは続ける。

『お察しの通り、邪は主の命ある限り無尽蔵です。長期戦に持ち込まれれば不利なのは言うまでもなく、何より脅威とすべきは連中が神出鬼没であること。陣形に死角から攻め入ることが奴等にとって造作もない以上、このままなら敗走は必至でしょう』

 ボスが、私の肩から下りた。枝切れを拾い、両手で握り竹刀みたく中段に構えた。

「ふんっ!」 

 気合の一声に、苔が枝切れへと群がっていく。そうして現れたのは、白木の鞘に収まった小刀。ボスが持ってると「ドス」という言い方がよく似合う。

 ボスは、それを両手でこちらへ差し出すと、

『姫君に懐刀は付き物でしょう』

 口の端を歪めた。柄には、布が巻かれていた。

 これが、今回の私の武器。苔を使った武器の精製と自己暗示の併用は、とにかく脳に負担をかける。二つを同時に使っていいのはここぞというとき。私にしか斬れない大将首を前にしたとき。

「ありがとう。大事に使うね」

 そう言って、私がそれを受け取るのと、

『はいはい珠置神社へと続く安全安心なルートを再度確認してくるというそれはそれは偉大な軍功を成したヘビドリちゃんが無事お嬢の御肩に帰還しましたよーっと。うっわ何ナニこのスペクタクルな眺め。こんな関ヶ原見たことねぇ!』

 肩にヘビドリが羽を休めるのはほぼ同時だった。爪が食い込んでちょっと痛い。

『ヘビドリ』

『オウ。何だいカエルの旦那?』

『それは本当に──安全安心なルートなんだろうな』

 恐い声で念を押すボス。ヘビドリが肩を竦めた。

『ああ、正真正銘安全安心さ。豚サン連中が出てこないって意味じゃあな』

 邪が出現することのない神社までのルート。それが「ある」ということは、ここに来るまでの間にヘビドリから聞かされていた。同時に、それが間違いなく罠だろうということも。

「ねぇ、ヘビドリ。そのルートが藤枝先輩の見落としってことは、本当にないの?」

『期待を裏切るようで悪ぃが、有り得ねぇよお嬢。たとえその藤枝とやらがミスに気付かなかったとしても、そいつが侍らせてンのはこと〈土遊び〉に関しちゃ一級の地宰(じさい)だ。龍脈を操って豚やら人型やらを作り出せるあの干からびた羊の肝っ玉が、こんな間抜けな見落としするとは思えねぇ』

「じゃあ、やっぱり──」

『ああ、百パーセント罠だぜ。しかも、こっちが罠だとわかってるのに突っ込まざるを得ないクソ仕様だ。プライド的な意味でな。何せそこには──』

 ヘビドリが、ボスに視線をよこす。

『お嬢の面に泥を塗った張本人がいる』

 私を、私たちを、一度殺した相手。

 左腕がずきりと疼いたような気がした。

無傷(むしょう)、だよね」

 地宰が起こす地異によって生まれた、無傷という名の地底人。それが〈のっぺらぼう〉の正体。

 ──宇宙人じゃなくて、地底人だったんだ。笹ヶ瀬さんに話したらどんな顔するかな。

『お嬢!』

 ボスの鋭い一声。一匹の邪が、こっちに飛んで来ていた。ぶつかる──目を瞑った直後、バチーンという乾いた音が響いた。恐る恐る眼を開けると、そこには背を向けたボスとぴくりとも動かない邪。多分カエル人間の攻撃で吹っ飛んだ奴が、こっちに飛んで来たのだろう。邪の横腹には、椛型がくっきり付いている。ジャンプしたボスが、バレーのスパイクよろしく叩き落としたのだろう。

『少し悠長にし過ぎたな』

 ボスが戦場を見つめながら、肩を回す。

 ──そう、最初から私たちはこのつもりだった。ボスたちカエル人間が邪の足止めをしている間、私はヘビドリ先導の下、珠置神社を目指す。最初から二手に分かれて行動しなかったのは、道中二つの〈武器〉を禁じられ丸腰な私を、ヘビドリだけで守るのはほぼ不可能なため。〈のっぺらぼう〉を倒してなお、地宰と戦えるかどうかは不安だけど、もう引くわけにはいかない。

『ヘビドリ。お嬢は任せたぜ』

『おう! 合点承知之助! さあ、おいらに付いてきなお嬢!』

 ヘビドリが肩を離れた。すぐに飛び出さず、頭上で羽ばたいているのは、私の〈準備〉を待っているからだ。近くの杉から毟った苔を耳へ押し込む前に、ボスの小さくて、けれど大きな背中に声をかける。

「ボス!」

 ボスが振り返る。目が合った途端、頭の中が真っ白になった。稲荷神社で氷垣先輩にメロンパンを押し付けた日のことが頭を過ぎる。どうしよう。何か、何か励みになるような言葉を──

「にっ」

『に?』

「逃げてもいいから──死なないで」

 ボスが──眼を点にした。眼を伏せて、口の端をつり上げながら、

『御意』

 と頷いた。

 こねていたビー玉大の苔を耳に入れる。

 瞳を閉じ、瞼の裏に描くのは──〈狼〉。戦場と化した紅の杉林を吹き抜ける一陣の旋風。仲間が隣にいなくたって心はいつも共にある誇り高き獣。


 苔を踏み潰す音よりも、心臓の音の方がよく聞こえる。

 どきん、どきん、って。憑依しているときのこの感じは、結構好き。

 右手に小刀、左手に日傘を持って、ヘビドリの尻尾を追いながら、頭の中でおさらいする。

 地宰。千年経った羊の肝が化け、大地を流れる気──いわゆる地気(ちき)を操る中国の妖怪。邪と無傷は藤枝先輩ではなく、正しくはこの地宰に使役されている。だから必然──地宰を倒せばこの戦いは終わる。

 正直なところ、話し合いの中で「気」という単語があまりにも自然に出てきたときは、どういう顔をしていいのかわからなかった。ヘビドリが言うには「人間の体から地球まであらゆるところに宿っている眼には見えないエネルギー」のことをそう呼ぶらしい。

 そして、地中を流れている気の道を「龍脈」という。これは人の神経構造とそっくりで、龍脈にとって悪いことをしたら、色んな病気を引き起こしてしまう。例えばよくある怪談で、校庭にある樹齢何百という木を伐採したら、工事の人が事故に遭ったというお話があるけど、これがそういうことらしい。正しい龍脈のツボを押さえていた木を切ったから、土地が病気にかかったのだ。

 左右に視線を走らせる。今走っているのは木馬道(きんまみち)で、両脇にはたくさんの邪が見える。

『お大名様ってのぁこういう気分なのかね』

 私は、どうだろうねとだけ言って、軽い笑みを返す。

 ──本当にこの道は結界の外にあるんだ。

 邪が入って来れない安全安心なルート。ならこのルートの守りは、間違いなく〈あいつ〉だ。

 お腹の底が、ずしりと重くなる。

 珠置山に張られている結界の規模は、地宰の力量を遥かに超えているらしい。そうなると、当然誰かが影で地宰をサポートしているってことになる。その役目を果たしているのが、殺されたウサギ八匹ではないかとボスたちは言ってた。

 ウサギは「更新され続ける生命」のシンボル。なら、その死体で正しくないツボを押すと何が起きるのか? 地宰が張った「主の命ある限り邪が無限に湧き出す」という結界に「更新され続ける生命」という相性のいいタイプが加わって──結果、邪の増えるペースが大幅にアップしたそうだ。

 これから逃れる方法は、地震と同じ。震源地──ウサギの死体が埋まった場所から距離をとればいい。ウサギ一匹の有効範囲なんて見当もつかないけど、さすがにこの山をすっぽり覆えるほどではないと思う。

 実際──こうして〈穴〉はあった。話し合い中、せっかく防衛陣の手薄なとこがわかってんだし一点突破しやしょうぜと、とあるカエル人間が提案したけれど、すぐボスに却下された。

 この見落としはどう見ても罠だし、もしかしたらウサギはゾンビ化しているかもしれない。それはウサギが動けば結界も動くということ。皆で進んでいるところを、八重の結界で包囲されては一溜まりもないと、ボスは言っていた。……「ゾンビ」という単語が出てきたときも、やっぱりちょっとくらりときた。

 ちなみにヘビドリが、どうやってこのルートを発見できたのかというと。

 ──へへっ、そりゃあウサギの臭いでわかったのさ。こう見えておいらってば鼻が利くんだよ。死臭にドンマな現代っ子のお嬢と一緒にされちゃあ困るぜ。

 ……もう蛇なのか、鳥なのか、犬なのか。

 今頃ボスたちは、十匹程度のチームに分かれて走り回っている頃だろう。そこまでは作戦通り。ボスたちの役目は相手が動ける結界であることを想定し、逃げる振りをしながら結界を分散させること。たとえ動かないタイプだったとしても、広い範囲を逃げ回られれば地宰だってそれだけ多くの地気を操らなければならない。ボスたちが疲れ果ててしまう前に、無傷と地宰を倒して藤枝先輩を止めないと。

 ──無傷と地宰を倒して?

 足にぐっと力を込めたのは、そうしないと止まってしまいそうだったから。

 藤枝先輩は、氷垣先輩を庇うためにこんなことをやっている。

 氷垣先輩のことが好きだから。


 じゃあ、無傷と地宰を倒したら──藤枝先輩の〈好き〉は止まるのかな?


 と、頭上で葉擦れの音がした。

 見上げると、枝の上にいた二匹の邪、その内の一匹が宙に浮いていた。

「えっ」

 突っ込んでくる。それも、きりもみ回転しながら。

 小刀を薙ぎ払った。邪が、空中で真っ二つになった。

 もう一匹も宙に浮く。いや──違う。浮いたんじゃない。私には視えている。邪を持ち上げる両腕が、真っ白な身体が、黒い半分の月が。

 地底人。無傷。〈のっぺらぼう〉。私たちを一度、殺した相手。

 投げ付けられた邪を横っ跳びで避ける。自分の意思で結界を出られなくても、こういう出方はできるんだ。

 無傷は、木馬道を挟んだ向かいの木へ。そこにいた邪を、こっち目掛けて蹴り飛ばして──

 目の前が、真っ赤になった。両腕で顔を庇う。邪をわざと爆発させて、煙幕代わりにしたんだ。慌てて後ろに跳んで、無傷を探す。いない。どこにもいない。木の上にも、茂みの中にも。

「一体──」

 どこに?

『畜生! 何なんだよあの色白マッパは! 忍の末裔か何かぁ?』

 辺りを見回すヘビドリの真下をなんとなく見た。地面が──盛り上がっていた。

「ヘビドリ!」

 その声を掻き消したのは、白い影が地中から飛び出した音。無傷だ。その腕がヘビドリの尻尾を掴んで、お嬢と呼ばれたような気がして──頭にすっごく血が上った。

 ──助けなきゃ!

 ヘビドリが叩きつけられた。翡翠の鱗と千切れた赤い苔が散った。

 日傘を放って、たった今踏みしめている苔にお願い。苔を使って滑走し、胸目掛け小刀を突き出す。

 だけど──その先にあるはずの手応えはなくて。躱されたって思ったときには、世界がぐるりと回っていた。受け身をとり、小刀を構え直し、無傷を再び見据えたところで、

「な──」

 言葉を、失った。

 無傷が日傘を持っていた。それだけなら、いい。それだけなら、まだ。問題は、武器を精製するときの──あの紅い蟲たちが、それへ群がりつつあったこと。傘布が、親骨が、持ち手が、蛾やムカデ、ミミズへと姿を変えた苔に喰われていく。急いで止めないと──そう思うのに、身体が言うことを聞かない。

 やがて出来あがったのは、日本刀じゃなかった。反り返った刃、ピストルの持ち手みたく曲がった柄からぶら下がる赤い飾り布。似たような刀が、まるで舞うような動きで振り回されているところを、テレビで見たことがある。

 ──中国刀。

『嗚呼、マタダ。マタ五月蠅イノガ来タ』

 無傷が、胸に手を当てた。

『ドウセ御前モ此処二来ルノダロウ? 主ガソレヲ望ムノダロウ?』

「主……?」

 それは──地宰のこと? 藤枝先輩のこと?

『ダガ、モウ不要ダ。否、元ヨリ不要ダ。コレ以上ノ魂ハ耳障リナダケダ。俺ノ存在ヲ虚無ヘト近付ケルダケダ。本当ハ主ノ声ダッテ、モウ良ク聞コエテイナインダ。俺ノ居ル深イ深イ闇ノ底マデ、届イテイナインダ』

 刀を払った。私が刀を振るったときに出る──あの独特の音は聞こえなかった。けれど、その一太刀が脅威であることに変わりはない。刃先が、私に向いた。

『ダカラ御前ハ要ラナイ。──白子(しらこ)ヨ。陽光ト月影ガ渦巻イタ末ノ虚無ヘト還レ』

 わからない。こいつの言っていることはちっともわからない。


 ──でも、確かにわかっていることが二つある。


 刀を持った手首を沈め、跳び込んでくる無傷。半歩、下がった。躱すならこれで充分。案の定、バネのように跳ね上がった刃は、私の鼻を掠めるだけに終わった。それが振り下ろされるより早く、回転しながらジャンプ、蹴りを放つ。無傷の喉に、足刀がめり込んだ。呻き、よろよろと数歩下がった。

『御前……っ!』

 また襲いかかって来る。感情的な声に内心びっくりした。荒々しく踊る刃はまるで嵐のようで。最中、無傷が背を向けた。やって来るのは、多分回転の勢いを乗せた一撃。頭を下げて躱しつつ、ローキックを出すと、あっさり避けられた。当然。だって、避けられるスピードで出したんだから。

 すかった右足を、すぐさま(さか)廻し蹴りへ。横に身体を倒しつつジャンプ、全体重を乗せて、無傷の頭を蹴っ飛ばす。これは──あのときの戦いで、無傷が私に見せたコンビネーション。落ちる寸前で横受け身を決め、すぐさま立ち上がると、三メートル程離れた木の根元に無傷がのびていた。

「……ざまあみろ」

 慌てて口を押さえる。

 えっと、そりゃあんな目に遭わされたら、これくらいの仕返し誰だってしたくなる──よね?

 無傷が、刀を杖代わりにして立ち上がろうとしている。


 ──ひとつは、無傷が私のキョウダイを傷付けたということ。


 無傷のいるところまで続く苔に、念を送る。さっきよりもさらに速く、無傷の懐へと運んで欲しい。しゃらしゃら苔が擦れ合った。それは、〈彼ら〉なりの了解の表現。直後、世界が加速した。走る狼から見える景色ってこんな感じなのかな、と思ったときには──もうそこは、無傷の懐。突き出す。粘土の塊に刃を突き刺したような手応え──柄を離し、後ろに跳んだ。

 無傷のお腹に刺さった小刀から、じわじわ赤が広がる。手から、中国刀が滑り落ちた。 


 ──もうひとつは、私の方が無傷よりも強いということ。


 両腕を大きく広げる無傷。来る。踏み出された一歩、その膝へカウンターの踵蹴り。そこを足がかりに空中でくるりと一回転し、脳天へ踵落とし一閃! 着地後、顔を上げると、無傷の首から上がなかった。刺した小刀は、引っ張ればあっさり抜けた。

 無傷が両膝をつく。あちこちからさらさらと苔を漏らしながら、残された身体が崩れていく。

 何気なく小刀を見た。刃に映っているのは、どこかぼんやりしてる私の顔。

  

 ──でないと先輩は……私みたいになってしまいます。


 小刀を胸に抱いた。柄を両手で握り締めた。

「氷垣先輩──」

 名前を呟く唇が──幽かに震える。

「やっぱりこんな人、増えない方がいいですよ」

 頭の上には、黒と赤で彩られた空が広がっている。

 何だか──月が見たくなった。


 ──ヘビドリは?

 はっとして、辺りを見回す。見当たらない。埋もれてる? とにかく早く助けないと。

 頬を風が撫でていった。その冷たさに背筋が震えた。

 どことなくざらついた感じがするのは、風に苔が混じっているせいかな。

 ──風?

 立ち止まって、心の中でかぶりを振る。おかしい。だって、〈彼ら〉の世界には風がない。ヘビドリのように空飛ぶ〈彼ら〉は、みんな風以外の何かに乗って空を自由に舞っている。じゃあ、どこからともなく吹くこの風は……?

 ふと、細長い霧のようなものが一筋、顔の横を流れていることに気付いた。赤い糸を何本も束ねたようなそれは、まるで地を這う蛇のよう。五匹、八匹、十匹と、それぞれが意思を持っているかのように、傍を横切っていく。ゆたりゆたりと。まるで私の後ろに獲物がいるのだと言わんばかりに。

「うし……ろ……?」

 でも、嘘、そんなはずは。振り返る。蛇の群れは大きく螺旋を描きながら、そこへと吸い込まれていく。さっきまで無傷(むしょう)がいた場所に。無傷の死体が崩れた場所に。

「あ……」

 蛇たちが創る。目の前で、苔に命を吹き込んでいく。いけない。苔が寄せ集められていく。戻ってきてはダメ。赤い苔が赤いヒトガタへ。だって、私が倒したんだから。大の字になったヒトガタ。まるで時間を巻き戻すみたいに。もう二度と。全身を覆う苔は銅色へ。こっちに戻って来てはいけないのに。ぺりぺりと剥がれた銅色は宙へ。

 地底人。無傷。〈のっぺらぼう〉。

 未だ銅色の苔に隠された貌に、青筋すら見えないミルク色の身体。

 その姿に、二、三歩後退ったところで──両脚が地面を離れた。

 一瞬息が止まって、小刀が手から落ちた。宙に浮いた身体を無傷の両腕がロックする。そのまま、私を担いで走り出した。後ろに何が待っているのかはわかる。樹だ。このまま、そこへ叩き付けるつもりなんだ。無傷の頭に肘打ちするけど効いてない。止まらない。

 ──間に合うの?

 途端、無傷が大きく傾いた。視界の端からやって来た何かが、無傷にタックルを喰らわせたのだ。赤いトサカ、黄色い蛇腹、全身を覆う翡翠色をした鱗。

『どぉっくぅわぁんえぇぇぇぇ~すっ!!』

 言ってることは、叫んでる内容はやっぱりよくわからない。


 でも、今はその声で──こんなにも奮える。

 

 無傷の頭を押さえつけ、膝蹴りを喰らわせる。苔の仮面がひび割れた。ロックが僅かに緩む。もう一発──そう思ったところで、突き飛ばされた。まだだ。後ろにあった樹を強く蹴り、その反動で無傷の貌に跳び膝蹴り。カウンターを決まる。二回、三回と転がって、四つん這いになった無傷が貌を上げる。苔の仮面が剥がれ落ちた、その貌には──

「え──」

 ぽっかりと、満月が浮かんでいた。

 口周りの空気が、陽炎のように揺らめいている。

 赤い苔の消滅。ナイフが家の鍵へ。切り離された二つの世界。

 ──啼かせてはダメ!!

 そう思ったら、聞こえた。しゃらしゃらと。苔が風もないのにそよぐ音が。こっちだよ、こっちにあるよって知らせる声が。だから、そっちへ走った。素早く小刀を拾い上げる。

()ッ!!」

 びりりと肌を震わせる確かな「音声」。飛んでくる揺らぎは丸い形をしている。小刀で受け止めた。重い。水に浮いている油みたいな七色がちらつく。固まった水飴に、刃を捻じ込んでいるような感触がする。小刀の背目掛け手刀を押し出し、当てる瞬間捻じり込んだ。打つのではなく押し込むイメージ。ボス直伝の掌底だ。弾いた小刀で、揺らぎを空へと押し返す。


 ややあって──空に穴が開いた。


 打ち上げ花火が花開いたときと同じくらいの大きさだった。穴からは私たちの世界の空が覗いている。やっぱりそうだ。無傷の〈声〉は苔だけじゃない。〈彼ら〉の世界そのものを消し去るんだ。

 無傷は、ぴくりとも動かない。

『お嬢ォ~!!』

 聞き慣れた声に振り返る。

「ヘビドリ!」

『お嬢ォ~!!』

 飛びながら、翼を大きく広げる。なんとなく考えていることがわかったので、ギリギリまで引き付けてから、咄嗟に身をかわした。ヘビドリは、えぇ~っという驚きの声を上げながらしばらく進んだあと、木にぶつかって止まった。そんなに勢い余ってたかな?

「もしかして──」

『何スカ』

 大の字に張り付いたヘビドリが、首だけをこちらに向ける。

「ぶつからないとオチがつかないからと思って、わざとやったりした……?」

『お嬢。おいらたちにあげ損なっちまった菓子パンを、誰か他の家族にでもやりゃあいいのに、それを家に持って帰ってきたそれっぽい理由が思いつかないからって、いや、そもそもそれっぽい理由なんて帰り道偶然見かけて美味しそうだったからとかそれっぽっちのことで構わねぇのにそれすらも上手く口で伝えられなくって、結局無理して晩メシ前に菓子パンを食う羽目になるくらい普段は要領クソ悪いのに、こういうときの勘はイイのな』

「それ、要領関係ないよね」

 ヘビドリがへへっと悪戯っぽく笑って、木から離れた。身体に付いた苔を翼ではたき落とす。

『いやぁ、ソーリーソーリー。一体どこの聖堂騎士(パラディン)だよって言いたくなるくらいお嬢のディフェンスが固いもんだから、ちょっとした嫌味を差し上げようかと。おっ? おいおい待てよぉ……。ひぃ、ふぅ、……うっわ鱗ハゲ過ぎ! 私の年収低過ぎ!? あのマッパ思いっ切りブン投げ過ぎだろ! 本気投げっぱなししていいのはジャーマンのときだけだぜ! ったく、この被害で一体何羽のメスヘビドリちゃんが涙ぁちょちょぎらせると思ってやがる! まあ、ハグの件は出来たら出来たで、バレたら間違いなくカエルの旦那に五輪砕き喰らわされるんだろうけどな。無論頚椎ヤられるまで』

 ヘビドリは、相変わらずおしゃべりだ。

 今、私はヘビドリの声を聞いている。ヘビドリが、私に話しかけてきてくれている。

「なんか──」

『お?』

 肩の力が抜ける。鼻を啜る。眉尻が下がる。

 

「大丈夫そうで──安心しちゃった」

 

 ヘビドリが、大きく目を剥いた。

「どうしたの?」

『──あっ、ああ、何でもねぇぜ。何でも。ただ、今の顔で充分元は取れたかなってよ』

「もと?」

『ハグなんて必要なかったんやってことだよ。しっかし、可愛く生まれてくると女ってのぁそんだけで勝ち組だねぇ。もっとも可愛いだけじゃねえのがウチのお嬢サマ何だが。それよりさっきマッパがぶっぱなしたあの「んちゃ砲」。ははぁん、なるほどそういうワケだったのか……』

 翼を組んでうんうんと頷く。

「んちゃ砲」って何だろう……。さっき無傷が口から出したのをそう言うのかな。

 とりあえず、何がなるほどなのか訊こうとすると、

『嗚呼……嗚呼……嗚呼……』

 すすり泣くような無傷の声。膝立ちで頭を抱えていた。教室で見たときとそっくりだった。

『嗚呼、五月蠅イ。何テ五月蠅イ。酷イ雑音ダ。悪夢ノ様ナノイズダ。悲惨魔道ノ世界ダ。コンナ、コンナ身体ガ俺ノ身体ダト言ウノカ? コンナ他所者ダラケノ身体ガ俺二相応シイト、似合イデアルトソウ言ウノカ?』

『ああ、そりゃあうるせぇだろうよ』

 ヘビドリが前に出た。

『顔ナシさんよ。てめぇ犬と鶏を、氷垣とかいうヤサ男がぶっ殺した動物の魂を丸呑みにしただろう?』

 顔を伏せた無傷が、痛みに耐えるかのように唸る。

 氷垣先輩が殺した──連続動物殺傷事件の被害にあった動物たち。それの魂を無傷が丸呑みにした? 

『そいつを噛み砕いてただのエネルギーにしてから取り込むってぇならまだわかる。だが、てめぇはそれを魂のまんまで呑み込みやがった。んなのうるせぇに決まってらぁ。何せ頭ん中にぶっ殺されたそいつらを放し飼いにしてるようなもんなんだからな。しかもそのバカみてぇな数──あーっと、十二か? いや、お嬢が一回ヤっちまったから十一だな。一つや二つ保険か愛玩目的でってぇのならまだ納得もいくが、そんなに喰ったら自分のスペース無くなっちまうことくらい、想像付いてたろう?』

 無傷は反応しない。ただ、ぶつぶつと怨みの言葉を漏らすだけ。ヘビドリが舌を鳴らした。

『想像は付いてた。だが、主サマが、藤枝とかいう嬢ちゃんがそれを望んだ。だから、そうしたのか』

 ──やっぱり応えない。

 ヘビドリは溜息を吐いて、小さくかぶりを振った。そこだけは、どうしてもヘビドリなりに応えてほしいところだったのだろうか。もう一度、幽かに舌を鳴らす音が聞こえた。

 どうしよう……。完全に質問するタイミングを逃してしまった。

『お嬢』

「なっ、何?」

『あの顔ナシが貌の穴ボコから出した〈声〉。おいらたちの世界そのものをぶっ壊すサイテーのノイズ。ありゃ鶏を丸呑みして得た能力だ。鶏は「夜の終わり」を意味する鳥って言われててな。ほら、お天道様が昇りゃあコケコッコーって鳴くだろ? でもって、ここで言う「夜」ってのは、おいらたちの今いるこの世界のことだ。あいつは声だけで、おいらたちの住処を消し飛ばせるのさ』

「……その〈声〉。ヘビドリは使えないの?」

 ヘビドリがずっこけた。わざわざ地面に向かって、それなりの勢いでヘッドスライディングしてくれた。結構真面目に訊いた分、ちょっと傷付いた。苔を払い落しながら戻ってくる。

『おいらは鶏に似てるだけであって鶏そのものじゃねぇっつーの! お嬢、おいらが朝日に向かって鳴いてるとこ見たことないっしょ? いや、そもそも東からも西からも朝日昇らねぇんだけどよ。ああ、まあいいや。鶏は鶏でクソ厄介だが、今回もっとヤバいのはむしろ犬の』

 と、強烈な雑音。教室で聞いたものと同じ、たまらなく不快な叫び。両耳を押さえて無傷を見ると、

「え──」

 右腕が肘のところで千切れ、落ちるところだった。絶叫に紛れて、熟し過ぎた果物がやっと枝を離れて落ちたような音。それは苔に変わって。腕の断面から溢れたピンクの液体が、かき氷のシロップみたいに降り注いで。泡立つ断面から、新しい腕がにょきにょきと生える。いや、腕なんかじゃなくって、それは犬の頭。赤い眼に白い毛並み。ナイフのように鋭い牙。

 身体を丸める。背中の骨──「天使の羽」と呼ばれる骨の左側がいきなり出っ張った。突き破って飛び出した。真っ白な鳥の翼。鶏の頭も、肩の辺りから一緒に飛び出す。

 無傷が啼いて、右腕の犬が吠えて、片翼の鶏が鳴いて。

 堪らず──目を背けた。

 その醜さに、痛々しさに。


 ──これが、いくつもの魂を閉じ込めた檻のなれの果て。


『結局、そういうオチか……。従うだけが忠義じゃねぇたぁよぉく言ったもんだぜ』

「じゃあ、藤枝先輩がああなるよう命令したって言うの?」

『さぁて、どうだかな。こうなることを見越してなかったとしても、全くの無関係ってこたぁねぇだろうよ。魂を自ら何個も丸呑みするような自傷行為、ご主人様から尻でも叩かれなきゃ普通はやらねぇしな。それよりお嬢。さっきの続きなんだが、犬ってのは「死者の魂を導く者」としての扱いを受けてる』

「死者の魂を導く……?」

『お嬢はその能力をもう身を持って体験してるはずだぜ? 実際──あいつはすぐに蘇えっただろう?』

 頷く。そう、確かに無傷は蘇えった。

『そいつが犬の魂が持つ能力だ。いくら魂のストックがあるからって、普通あんなにも早く復元して動き回れたりはしねぇよ。魂と器が馴染むのには時間がかかる。魂同士でケンカすっしな。今から殺し合いをして一番強い奴だけがモノホンの魂だぜってな具合に。で、犬の役割は、その待ち時間を大幅に短縮すること。ケンカを強引に仲裁して、は~い皆さん一列に並んでねとか、勝手に魂を蘇える順に並べちゃうわけ。でも、今回の場合は流石に数が多過ぎだ。おまけにお嬢が最初に仕留めたのは、消去法で考えるに犬。残る一匹で、十一を面倒見るのは、さすがに限度があったんだろうよ。その結果が、まあご覧の通りだわな』

 ヘビドリの横顔は、やり切れない思いを押し殺しているように見えた。

 ──主サマが、藤枝とかいう嬢ちゃんがそれを望んだ。だから、そうしたのか。

 ……ん?

「ちょっと待ってヘビドリ。消去法って何?」

『お? ああ、おいら視えてるんだよ。あいつの魂。今残ってんのは無傷のが一つ、鶏のが十、そして犬が一つ。そっから考えれば必然的にさっきお嬢がやっつけたのは犬ってことになるだろ?』

「あっ、う、うん……」

 もしかしてヘビドリは、こう見えて本当にすごいのかもしれない。

 無傷のあちこちが鳴き喚いた。まるで戦いのゴングのように。

『お嬢。言わなくても、もうわかってるとは思うが──』

 ヘビドリが、苦く笑った。

『あの貌ナシ、あと十二回蘇えるぜ』

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