『真相へ』 【大野木 ココ】
しゃりしゃりと小気味良い音が聞こえる。石段を覆う苔が、私に踏み潰されている音だ。
腕時計の針は午前二時半を指している。目線を学生鞄へ移した。さんざん迷った末、結局持ってきてしまったけれど──どうしよう。あの人に会えるかどうかも、まだわからないのに。
鳥居をくぐったところで、足を止めた。
境内のあちこちにいるカエル人間が、皆こっちを見ていた。いつもなら相撲を取ったり、チンチロリン──スゴロクを使ってやる博打らしい──に興じていたり、手水舎を銭湯代わりに使ったり、組み手なのかケンカなのかよく判らないものをしているはずの〈彼ら〉が、皆。
息をゆっくりと吐きながら、瞳を閉じた。吐き切ったところで開けた。賽銭箱の上で胡坐を掻いているボスと眼が合った。
カエル人間たちが、そそくさと参道の脇へ並ぶ。それから、任侠映画でよく見るあのお辞儀をした。
私が賽銭箱の前まで来ると、
『おかえりなさいませ。お嬢』
ボスに会釈をされた。うん、と小さく頷いてそれに応える私。
『お怪我はもう宜しいのですか?』
「お怪我って……知ってたの?」
三日前のあのことを。
『ええ、まあ俺たちには俺たちで情報網がありますから。それで、行かれるのですか』
「えっ?」
『俺たちに力を借りに来たのでしょう?』
うん、ボスの言ってることは正しい。だけど──。
堪らず、目を伏せた。
「ねえ、ボス。前にボスは言ったよね。俺たちは自分が強いと認めたヤツの言うことしか聞かないって」
『ええ、確かに申し上げました』
「私、もうあれから二回負けてるよ」
一度目は〈狸〉の変化の前に、二度目は〈のっぺらぼう〉の圧倒的な力の前に。
「それでもボスたちは、私なんかのために」
『お嬢』
ボスの野太い声が私の言葉を遮った。目線を上げると、眉間に深い皺が刻まれていた。
『お嬢は何故ご自分が俺たちにお嬢と呼ばれているのか、その所以はおわかりか』
「所以……?」
ボスは、傍に置いてあった煙管を咥えた。
一匹のカエル人間が、賽銭箱に跳び乗って、マッチの火を差し出す。ボスの隣にいつも待機している右大臣か左大臣のどっちかだと思う。
『お嬢。俺たちはそう簡単に人を信用しねぇ。けどな、一度信じると心に決めた相手なら、何が起ころうととことん信じ抜く。そのとことん信じてる〈キョウダイ〉が、俺らの知らねぇところで、学友人質にされ罠にハメられ木っ葉喰わされた。ここまで言やぁ、もう、俺が言いてぇこたぁおわかりでしょう』
まったりとした煙草の煙を鼻から漏らしつつ、睨むような上目遣いで私を見る。
『俺らはな。肚ぁ立ってんだよ。俺たちが認めたキョウダイを、ボロ雑巾みてぇに扱われてどうしようもなく頭に来てんだよ。お嬢の恥は俺らの恥。お嬢の敗北は俺らの敗北だ。お嬢が戦に負け、面に泥ぉ塗られた時点で、例えそれが如何なる理由によるものであろうと、もうそれはお嬢だけの戦じゃねぇんだよ』
これまでの戦い──〈狸〉と戦ったときだってそう。〈彼ら〉が私に力を貸してくれるのは、出来の悪い子どもを放っておけない親心みたいなものだと思っていた。でも違った。〈彼ら〉にとって私は対等、もしくはそれ以上の存在だったんだ。だから、身体を張って、命を懸けて、一緒に戦ってくれてたんだ。
稲荷神社に足を運ぶ度、〈彼ら〉が言ってくれる「おかえり」の意味。そっか、そんなにも強い絆で──私たちは結ばれていたんだ。
不意に、差していた日傘がずしりと重くなった。
『ヒャッハー! キョウダイと来たかキョウダイと! まっ悪くねぇセンスだわな』
陽気な声。姿を見なくたって誰かはわかる。
『ご無沙汰だねぇ、お嬢。相変わらず白いお肌が赤い世界によく映える。いや、ここからじゃ全く見えねぇーンスけどね』
「うん、とりあえず、早く降りてくれないかな?」
『おっ? ソーリーソーリー。へへっ何か懐かしいやり取りだな』
ヘビドリがボスの隣に着地した。さっきマッチを差し出した大臣が、露骨に嫌そうな顔をした。
『さっきカエルの旦那が言ってたこと、おいらだっておんなじ気持ちさ。いいかいお嬢? 人間の戦争ってぇのは大きく分けて二つのモノを奪い合う。一つは糧で一つは誇りだ。二つのうちどちらか一方でもキープしてりゃあ人間生きてはいける。誇りはなくとも糧がありゃあ腹は膨れるし、糧はなくとも誇りがありゃあ空腹を耐え忍べる。でもよ、両方無くなっちまったら、それはもうお終いだ。両方失っちまったら、それはもうおっ死んじまっていることと何ら変わらねぇ』
喋り方こそ軽い感じだけど、今日のヘビドリは何だかいつもと違う。らしくない、凄味がある。
『けどな。おいらたちは──妖怪は違うんだ。おいらたちの戦争は、いつだって一つのものしか奪り合わねぇ。それは誇りだ。賭けるモンがプライドしかねぇんだ。食はおいらたちにとって欠かせぬ三大欲求じゃあねぇ。ただの娯楽だ。つまりよ。おいらたちの戦争ってぇのは、人間サマのそれと違って後がねぇんだ。糧という名の滑り止めがねぇから、負けたらソッコー〈死〉なんだよ。そしてお嬢が敗北喫した今、ここにいるおいらたちは当てどなくこの世を彷徨う餓鬼ドーゼンってわけだ』
らしくないっていうのは、そういうこと。ヘビドリも心の底から怒ってるんだ。
この広い世界で真剣に悩んだり、考え込んだりしている人間は、存在は私だけじゃない。
私は、一昨日それを笹々瀬さんから教わった。
世界はこんなにも──たくさんの強い思いで成り立っているんだ。
『さぁてお嬢よキョウダイよ。決断の時来れりだ。キョウダイなんて呼ばれた以上、もう迂闊に私なんかとか抜かして自分を卑下することは許されねぇ。戦うのか戦わねぇのか、俺たちの戦を決めてくれ。言っとくがぁ、おいらは死にっぱなしで終わりなんざ御免だぜ?』
ヘビドリが翼を私目掛けて突き出した。指を指されているのだとわかった。
ボスが頷いた。だから私も──しっかりと頷き返した。
「ボス、前に教えてくれたよね。誰かのために命を懸けて戦うのは、良くないことなんだって。私も──そう思うよ。理由がどうあっても、やっぱり誰かを傷付けたり殺したりするのって良くないことだもの。大切な人を守りたいからって、正当化されていいものじゃないもの。だから、私は自分のためにしか戦わない。大切な人のために血で血を洗うようなマネ、絶対したくない。でもね。私、死にそうになって、やっとわかった。自分のためだけに戦うってすごく難しいことなんだね。実際、私は自分の負けを、一瞬、笹々瀬さんのせいにしようとした。多分今の私には、頭ではわかってても無理なんだと思う。自分のためだけに戦うこと。一人じゃ、ダメなんだと思う」
だから──。
「だから、私、今回は皆のために戦わせてほしい。一人じゃ無理だから、ボスやヘビドリたち、皆に私を支えてほしい。私はまだまだ弱いけど、今はこれが精一杯だから。少しずつだけど、これからもっともっと強くなってみせるから。だから──」
日傘を畳んだ。背筋を伸ばし、頭を下げた。
「お願いです。私に皆の力の貸して下さい」
私だって、死んでしまったままはイヤだから。
『お嬢、顔を上げて下さい』
言われた通りにする。ボスが、少し呆れたように微笑んでいる。
身体ごと振り返った。お辞儀を止めたカエル人間たちが皆整列していた。こんなにも大勢の視線に晒されたのは、多分小学校の学芸会以来のこと。彼らは深々と私に向かってお辞儀をした。
『これが──俺たちの答えです』
もう一回頭を下げた。心臓がすごくドキドキしている。強い思いから心が奮える。
本当に──ありがとう。
『ところでヘビドリ。お前敵情視察に行ってたはずだろ。何でお嬢の私なんかの下り聞いてんだよ』
『へっ、おいらは有能だからな。ンなモンちゃっちゃと終わらせちまったぜ。ウチのお嬢を可愛がってくれたあの顔ナシ野郎、どうやら珠置山にある廃神社を根城にしてるらしい』
「珠置山!?」
慌てて振り向いた。ヘビドリがうひゃあっと仰け反ったあと、羽先で嘴を掻きながら応える。
『えっ、ええ、お嬢の学び舎裏にあるあの珠置山ッス。憎き相手のアジトが裏山たぁまさに灯台デモクラシーってやつだな。まあ、あの顔ナシが何で人質取ってまでお嬢にケンカ吹っかけてきたのかはまだわかんねぇんだけどよ。あー、あれか? お嬢も最近ブイブイいわせて、おいらたちの世界じゃ有名になってきたところだし、ぶっ飛ばして名ぁ上げようってぇ魂胆か? うへぇ穏やかじゃねぇ。どこのストリートギャングだよ』
珠置山にあいつはいる。ということは、笹ヶ瀬さんの言ってた〈のっぺらぼう〉と私が戦った〈のっぺらぼう〉はやっぱり……?
「ねぇ、ヘビドリ」
『ん? どうしたお嬢?』
「その廃神社にいたのって……その顔ナシとか〈豚〉たちだけだったの?」
そりゃあまあそうでしたけどと言って、ヘビドリが首を傾げた。
『お嬢?』
言いたいことがあるなら言えばいい──そう言いたげなボスの眼差し。
私は少し戸惑った末、口を開いた。
「あのね、これって本当に〈彼ら〉だけがやったことなのかな……?」
『と、おっしゃいますと?』
「うん。私、何か違うような気がするの。巧く言えないんだけど、でも──やっぱり何か変な感じがする。〈彼ら〉の裏に大きな何かがいるような、まるで私たちが今からあの山に向かおうとしていることまで、仕組まれているみたいな──」
と、背後から玉砂利を踏む音が聞こえた。そう、苔に全てが閉ざされているこの世界で、玉砂利を踏む音が。この世界に属していない者の立てる足音が。
『あぁ? アレは確かいつぞやお嬢と一緒にいむぐぉ!?』
咄嗟にヘビドリの嘴を掴んだ。左右に激しく首を振るヘビドリを押さえつけたまま、ボスが訝しげに睨み付ける先を──見た。
「やあ」
その人がここに現れないこと、予想していなかったと言えばウソになる。ううん、むしろ期待さえしていた。でないとこんなもの、持ってくるはずがないんだから。
「大野木さん。少し──お話、いいかな」
鳥居前に立つその人──氷垣先輩が微笑んだ。
前にここで見せたそれよりも、ずっとぎこちなかった。
〈視界〉を元に戻すと、夜空に三日月が浮かんでいた。今夜は月も星も、暗い昏い海の中でキラキラと輝いている。いつだったか、台風が近づいているときの夜空は、星の光がよく見えるのだと鏡花さんが教えてくれたのを思い出した。
枯れた手水舎の縁に二人腰掛けてから、氷垣先輩は語りたかったことすべてを語ってくれた。悠朝村連続動物盗難事件が、実は「盗難」事件ではなく「殺傷」事件だということ。その事件は三件目までは自分の犯行で、四件目は〈彼ら〉の仕業だということ。三日前、私と笹々瀬さんが〈彼ら〉に襲われたのは自分のせいだということ。そして、その〈彼ら〉を操っているのが、藤枝蘇子先輩だということ。
藤枝先輩──ささめ姉さんのお友だち。「清楚」という言葉がよく似合う綺麗な人で、学校で姉さんと二人一緒にいるところを何度も見かけたし、一緒にお昼を食べたこともあった。
あんなにも、優しそうな人が──。
心の中でかぶりを振った。俯いて、やるせなさに下唇を噛んだ。
──案外人って人のこと見てないもんなんだよ。
笹々瀬さん。やっぱり私もその一人だったみたい。
「けど、不思議だね」
氷垣先輩は僅かに俯いていた。寂しげな横顔が月の光に照らされて、より一層白く見える。そして、一度だけ私の顔を見て、またすぐに視線を落とした。
「僕が事件の犯人だって聞いたのに、大野木さんは驚かないんだな」
「これでも結構驚いてます。私、あんまりそういうの顔に出ないタイプですから」
氷垣先輩が、口に手を当てて小さく噴き出した。
「あんまり感情を表に出さない人が、あそこでメロンパンを渡したりはしないよ」
「それもそうですね」
笑いを押し殺す氷垣先輩を見つめながら、幽かに頬を緩める。声に出して笑わないのは、そういう場所じゃないと思ったから。そのとき浮かべる表情が、そういう人の前で見せるそれではないと思ったから。
もし、氷垣先輩がそういう人でなかったなら──。
「氷垣先輩。私たちが最初に会ったのって、ここじゃないですよね」
私もためらうことなく、笑うことができたのに。
「そりゃあ、同じ学校に通ってるんだから、何度かすれ違ったりはしてるだろうね」
「氷垣先輩」
私の声は、思った以上に大きく夜の中に響く。ややあって氷垣先輩が口を開いた。
「ああ、そうだね。……君の言う通り、僕たちが最初に出会ったのはここじゃない」
氷垣先輩は空を仰いだ。ときに白く、ときに赤く、ときに青く、様々な色で瞬く星に目を細めてから、私を見た。そして、とある日付けを口にした。忘れもしない日付けだった。
「覚えてるかい? それは、僕たちが最初に出会った日だ。僕たちが──最初に出会った夜だ」
「はい」
「そして──僕が初めて事件を起こした日だ」
最初の事件が起こった日。それは、一匹の飼い犬が殺された日。
「あの日──私はちょっと〈用事〉があって、その〈用事〉を片付けるために外へ出ました。私はその途中で氷垣先輩を見たんです。氷垣先輩は大きな斧みたいな物で、犬を襲っている最中でした」
そう、私は稲荷神社で氷垣先輩に会ったときから気付いていた。
メロンパンを渡すとき、手が触れ合ったのにドキドキしなかったのも、付き合ってると訊かれて動揺しなかったのも、すべては──私が最初から氷垣先輩を、そういう人として見ていたせい。
「ああ。けど、よく僕だとわかったね。あの日は今日みたいに月明かりもなかったのに」
「月明かりは、要らなかったんです」
「要らなかった?」
「はい。だって私はあの日、向こうの世界にいましたから」
向こうの世界は、〈彼ら〉の世界。〈彼ら〉の世界には時間の流れがあっても、空の移り変わりがないから、夜も暗くて歩けないということはない。だから、視えたのだ。暗闇の中、氷垣先輩の犯行が。
「向こうの世界は、夜でも明るいんだ」
「はい」
「そっか。月明かりも街灯も要らないのか。夜の散歩が楽しそうな世界だ」
氷垣先輩が、幽かに笑った。
「氷垣先輩は……いつ、私を?」
「ああ、僕が大野木さんを見たのは──大野木さんが丁度、怪物たちと戦っている最中だった。そのときはまだ藤枝さんも普通だったと思うから、あのときの僕は──まだ怪物たちの存在を全然知らなかった」
「なら、そのときの氷垣先輩には、私が変な人に見えたんでしょうね」
氷垣先輩には〈彼ら〉も赤い苔も視えてはいないのだから。
「いいや。確かに普通の娘じゃないな──とは思ったよ。でも、それ以上に──何と言えばいいのかな。戦っている君が、とても羨ましく思えた」
──羨ましい?
この人は知らない。あの眼に焼き付くような、見ているだけで眩暈のするような、夢に何度も現れるような、あの〈赤〉を知らない。何も──知らない眼をしている。そんな人に何が──。
「だって、とても綺麗な眼をしていたから」
こんな人に──。
「僕にはいくら頑張ったって見えないような、何かとても綺麗なモノを視ているようだったから」
どうしてだろう。氷垣先輩は何も視えていない人のはずなのに。
綺麗──その一言だけで、胸のあたりがすっとした。
この人は悪いことをした人なのに、どうしてこんなにも屈託なく──。
「だから、とても羨ましいとそう思ったんだ」
屈託なく……? どこが? どのあたりが?
だって今、氷垣先輩が浮かべている笑顔は、どう見たって私がよく使うあの笑顔なのに。
氷垣先輩が三日前の昼休みに見せたあの笑顔、氷垣先輩が今日ここで私に全てを話してくれた理由。
違ったんだ。猫じゃなかったんだ。あの日、氷垣先輩が本当に身を案じていたのは──。
「氷垣先輩。私、何であのとき先輩が私と笹々瀬さんに事件の話を振ったのか、ようやくわかりました。──先輩が心配していたのは、私だったんですね」
氷垣先輩が目を見張った。それから、何とも言えない表情でしばらく眼を泳がせたあと、まるで私から顔を隠すように俯いてしまった。
「あれは違う。あれは僕のミスだったんだ」
「違います。そうじゃないです。氷垣先輩はわざとあの話を私たちに振ったんです」
「僕が藤枝さんを利用して、故意に君たちを襲わせたっていうのか?」
私は、何も言わず頷いた。
「事実は──そうです。でも、氷垣先輩が求めていた結果はそうじゃなかった。……氷垣先輩はこう考えたんじゃないですか? 私なら、藤枝先輩を止められるって。藤枝先輩の操っている〈彼ら〉を倒せるんじゃないかって。だから、先輩はあそこで私たちに事件の話題を振って、私たちを標的に仕立て上げた。自分の力ではもう藤枝先輩を止めることができないと諦めてしまったから」
でも──と言って、一端口を噤む。
「私は、氷垣先輩の期待に応えられなかったんですね」
あの日、私は〈のっぺらぼう〉に負けたのだから。藤枝先輩を救い出せなかったのだから。
「恨んでいないのかい? 僕を」
氷垣先輩の声は震えている。
「君をあんな目にあわせた僕を、死ぬような目にあわせた僕を、君は恨んでいないのかい?」
「恨んでなんか──いません。だって、氷垣先輩のために戦ったわけじゃないですから。私は自分の意思で勝手に戦って、勝手に負けて、勝手に死ぬような思いをしたんです。あの戦いは私だけのモノだから、私は先輩を恨んでなんかいません」
「そんなっ!」
そこで、氷垣先輩はようやく顔を上げた。暗がりの中、瞳がちらりと輝いて見えた。
「どうして君はそうなんだ! どうして君は、事件の犯人である僕を責めないんだ! どうして君は、藤枝さんのことを君に押し付けて逃げ出した僕を侮辱しないんだ! どうして君は、君を騙した僕を──」
「多分、資格がないからですよ」
腰を上げ、後ろで手を組んだまま歩く。月の光が優しい。身体ごと氷垣先輩の方を振り返る。
「私、こう見えてたくさんの命を奪ってきてますから」
氷垣先輩が、あっと呟いた。ふらふらと視線が落ちた。
「でも、君のは正当防衛だろう?」
「仮に正当だったとしても殺してることに変わりはないですよ。氷垣先輩。先輩が思ってるほど、私って綺麗な娘じゃないんです。先輩が夢に見ているほど、〈彼ら〉の世界は綺麗なモノじゃないんです。そんな世界で、来る日も来る日も氷垣先輩より多くの命に手をかけている──そんな私に氷垣先輩を責めたり、恨んだりするような資格ありませんよ」
「君は──」
「はい?」
「大野木さんは、それで平気なのか?」
資格がどうとかそんな言葉で飾り立てて、溢れそうな思いを押し殺して、怪物たちと戦いながら、生きてきて平気なのか。
幽かに──本当に幽かだけれど、笑みが零れる。
「割と平気ですよ」
一緒に罪を背負ってくれるキョウダイたちがいますし──と言うのは、心の中だけに留めておいた。
本音を言うと、氷垣先輩が動物たちを殺したことについて特別な感情なんてなかった。もう単純に慣れてしまっているんだと思う。自分とは直接関係のない命が、〈彼ら〉によって奪われて仕舞うことに。
日傘を差し、氷垣先輩に背を向けた。
「氷垣先輩、殺すってこういうことだと思うんです。私みたいに、何も感じなくなってしまうことだと思うんです。私は、自分みたいな人がこれ以上増えて欲しいとは思いません。だから氷垣先輩。先輩がどうしてあんなことしたのか、その理由はわかりませんけど、今の私を少しでも『怖い』と思う気持があったなら、もうあんなことは止めて下さい。自分がしたこと、貴方なりのやり方でしっかり反省して下さい」
でないと──。
「でないと先輩は──私みたいになってしまいます」
私が歩き出そうとしたところで、
「大野木さん!」
氷垣先輩が強く私の名前を呼んだ。
「君は──僕と出会ったことを後悔しているかい?」
弱々しい声。深呼吸をひとつした。ちょっとだけ頭が冴えたような気がした。
「氷垣先輩。私、そこに鞄置いてますよね」
「えっ、あ、ああ……」
「その鞄、先輩に預けます。中に私の日記帳が入ってるんです。夜が明ける頃には必ず戻って来ますから、その、悪いんですけど、できればそれを持ってここで待っていて下さい」
「……日記帳?」
突然のお願いと「日記帳」というあまりに場違いな単語に、首を傾げる氷垣先輩の姿が目に浮かぶ。私は、はいと静かにけれど力強く頷いて、
「──私、その日記帳にその日起こったいいことしか書かないんです」
と言った。
稲荷神社の石段をボスとヘビドリを連れて下りる。
『あ~、なぁーんか引っかかるんだよなぁ~』
私の頭ほどの高さを飛びながら、ヘビドリが首を捻った。
「何が?」
『あの氷垣とかいうヤサ男が言ってたことだよ。あの顔ナシ集団を指揮してんのお嬢の姉貴のダチで、先輩なんだって?』
「……うん、みたいだね」
「そこなんだよ、そこ!」
ヘビドリが顔を近付けてきた。飛び散る唾に眉根を寄せながら、ああやっぱり舌割れてたんだとどうでもいいことに気付く。
『今更言うまでもなく、おいらぁついさっきまで珠置山に偵察に出てた。そこで山頂にある神社があいつらの根城だってことを突き止めた。でもよぉ。その根城に人間はいなかったんだ。これは何もおいらの視野に人間が入らなかったとか、そういうこと言ってるんじゃねぇ。本当に全くこれっぽっちもヒトがいた痕跡がなかったんだよ。ヒト特有の残り香すらそこにはありゃあしなかった』
〈のっぺらぼう〉と〈豚〉を使役しているはずの藤枝先輩が、肝心の根城にいたことがない……?
氷垣先輩は言っていた。藤枝先輩は、珠置山に隠した氷垣先輩の〈罪〉を今もなお死守していると。それなのに珠置神社にはヒトがいた痕跡が残っていない。それって一体──。
──その神社には「ヒト」がいた痕跡がない。
思わず、あっ……と声が漏れた。
もしかして、まさか、そんな。藤枝先輩はもう。
『お嬢』
「えっ?」
ボスの低い声で、我に返った。
『俺にも今回の事件、引っかかる点はいくつもあります。あの氷垣という男、藤枝蘇子が怪物を操っている──と断言していました。だが、少なくとも俺の知る限りじゃ、例え俺たちの姿形が視えたところで、この世界の人間に本当の意味でそんなマネできるわけがねぇんです。だとしたら、その怪物たちとやらも何らかの目的があって藤枝蘇子に力を貸しているんでしょう。とはいえ──』
ボスが最後の石段を跳び下りた。着地点にあった苔が澄んだ音を立てて潰れた。
『もう、お膳立ては整えちまいましたし、全員肚ぁ括った。脳味噌こねくり回して考えるのは、ひとまず保留と致しまして──ここからは全員一丸、五体で真実に辿り着く時間と参りましょう』
振り返り、不敵な笑みを見せるボスの隣に、私も最後の一歩を気持強めに下ろす。
「うん……そうだね。皆で行こう、珠置山へ」
真相は、きっとそこにあるんだから。