悪役令嬢、ヒロインにときめく
公爵令嬢アルゾニア・エギエルネは、その日、高貴な姿をかなぐり捨てて、頬を真っ赤に染め、呆然と口を開き、目を見開いていた。
「アルゾニア・エギエルネ! お前を、婚約破棄する」
十二月二十四日。終業式恒例のパーティーのさなかでの出来事だった。
幼き貴族たちの学院のパーティーだ。拙さはあれど、その独特な雰囲気は大人のそれと全く変わらない。
それをぶち壊したのはこの国の王子。先ほどの台詞を放った人物である。気が狂ったわけでも、無能なわけでもない。元々喧騒がかってていた空気を確定的にさせ、元凶を排除して少しでもパーティーを崩さないようにとしたのだ。
元凶とは、むろん、アルゾニアのことだ。彼女が貴族令嬢に難癖をつけ、あれやこれや罵詈雑言を浴びせていたために殺伐とした空気が流れていたのだから。
一向になにか言う気配を見せないアルゾニアに、王子がその合理性や正当性を主張しようと、口を開きかけたとき。
「……あ、あの」
アルゾニアが、普段の強気な口調とは打って変わって弱弱しい声を、発した。その様子に王子は、案外好かれていたのだろうかなどと思った。
しかしアルゾニアの視線は、驚嘆は、婚約破棄などに向けられてはいない。そんなものはただの自分の責任であり、心を動かすものではない。
王子の傍らに立つ、愛らしい少女が一瞬見せた表情にのみ向けられていた。
彼女の名前はリノア・リング。この学院に入学するタイミングでリング家の養子となった人物である。天使じみた金髪に、甘いピンクの瞳。優しく明るい性格から皆に好かれている。
そんな少女が、アルゾニアの心を動かすわけがないと思うだろう。ところがアルゾニアは、リノアが本当に、たった一瞬見せたあくどい笑みに、一目ぼれしたのだった。今までのマイナス印象が軽く吹っ飛び、好感度ゼロからカンストまで飛びぬけるほど。
「……リングさん。……いえ、リノア様。あの、わたくしと、お話し、いたしませんこと?」
高貴さも威厳もまるでない、恋する乙女の声だった。
リノアと王子は、頬に手を当て目を細め、そっと控えめに声を発するアルゾニアに、困惑半分ドン引き半分の顔をした。リノアは困惑、王子はドン引きが少し強かっただろうか。
「……エギエルネ様。あの、私と貴女様では釣り合わないとおっしゃったのは、貴女様自身ですよ……?」
リノアの声に、すっとアルゾニアは先ほどまでの冷めた表情に戻った。
「……リングさん。貴方がその態度を続けるのなら、わたくしは貴方に失望しますわ。も、もっと、人間のどうしようもなく醜い部分を開き直って、それでいて惹かれてしまう魅力あふれるあの表情で、もう一度だけ、わたくしを睨んでくださいまし!」
戻ってなかった。王子ははあとため息をついて、
「……エギエルネ。リノアにも他の生徒たちにも乱暴もせず悪口もいわず、パーティーを壊さないのなら、好きにして構わないよ。僕は止めない。……婚約破棄はしてもらうけれどね。いくらエギエルネ家といえども、敵対している公爵家のご令嬢に怪我を負わせたのだから」
アルゾニアは、王子に毅然と問うた。
「貴方のパートナーをお借りしてもよろしくって?」
「……リノアになにもしないならね」
ぱあっと信じられないほど笑顔で、アルゾニアはリノアに目を向けた。
「……その、ベランダが空いてますの。ご、ご一緒しませんこと?」
リノアは困惑を深めながら、やがてこくんと頷いた。王子の深いため息が、パーティーに微かに響いた。かくして、パーティーは元の華やかな雰囲気へと姿を戻したのであった。
リノア・リング。大人気乙女ゲームのヒロインである。彼女に裏表はなく、純粋な少女のはずだったが、彼女に転生した少女がいた。
佐藤夢美。歩きスマホによる交通事故での死亡である。家庭環境はあまりよくないため、死に感慨はなかったが、転生に感動はあった。唯一生きる意味ともいえる乙女ゲームの、しかもヒロインに転生したからである。鏡を見ればかわいい顔がある。最高だ。
順調に攻略は進んでいるはずなのに攻略対象のキャラたちから恋愛感情は向けられなかったが、それでも、平民の母も、そんな母と再婚した貴族の養父も、養父の子供である兄も、家族愛をくれたのだ。今までに感じたことがないくらい満たされて、おまけに好きなキャラと会話でき、力になれる。前世なんて忘れてしまうくらい、充実した生活だった。
そんな彼女の不満は、アルゾニアと顔を合わせることだった。アルゾニアに同族嫌悪にも似た嫌悪感を抱いていたのだ。
それが今日、達成されるはずだったのだが。
なぜか、件のアルゾニアと、夜のベランダで二人、話している。ハートマークでも浮かんでいそうなアルゾニアの甘ったるい目に、『リノア・リング』を演じるのをやめ、気持ち悪さに染まった目をした。
「……リノア様。わたくし、リノア様のこと、もっともっと知りたくなりましたの」
だが、静かにじんわり微笑んで、ぽつぽつと言葉を紡ぐアルゾニアの姿に、ちらと罪悪感が生じた。リノアが嫌悪していたアルゾニアは、こんな顔をしない。悪役令嬢というのが正しい、美貌を悪辣に歪めた笑みをしていた。決してこんなどろっどろに溶けた目で、ほわほわと頬を染めて、そうっと語り掛けるなんてしない。
アルゾニア・エギエルネ。艶やかな黒髪に、アメジストじみた紫色の瞳を持つ公爵令嬢である。黒い手袋、黒いドレス。ところどころにある紫色で暗くなりすぎないよう調整されていて、リノアとは対照的なデザインになっている。
血のような唇をぼんやり眺めていた。
「わたくし、きれいごとが嫌いですわ。きれいごとを信じるには、あんまり世界が汚くってよ? でも、でも、です。その汚ささえ愛することができたなら、世界は愛するものであふれていますの。ですからわたくしの世界では、きれいなものが、嘘をついた醜いものにしか見えませんわ」
「……嘘は、悪いこと?」
最近はめっきり減った、前世の夢。そこでリノア――否、佐藤夢美は、必死に嘘をまくしたてていた。一軍と呼ばれるカースト上位の女子に取り入るためにおだてて冗談を言って、へらへらと笑って。自分をみっともないと分かっていながら、それをやめられなかった。分かっている。自分がしんどいだけだと。……だが、アルゾニアにだけは言われたくなかった。
「ふざけたことを言わないで。貴女にだけはそれを言われたくない。醜いというのなら、貴方がしてきた行動の方が、よっぽどでしょ」
殺気だったリノアに、アルゾニアはあわあわと慌てて、じっとリノアの目を見た。
「……あ、あの。誤解なさらないで。わたくしが嫌いなのは、本当は汚いのに、あたかも自分がきれいであるかのような振る舞いをする――そういう嘘を吐く方のことですわ」
毒気を削がれたリノアは、アルゾニアを睨んで言葉を待った。アルゾニアはまた、言葉をこぼした。
「だから、リングさんを好きになれなかったんですの。けれど、リノア様。貴方は、お分かりでしょう? 自分の汚い本音の部分を。その上で、それにのっかって生きている。とっても、心惹かれますわ! あの、えと、どういえばいいのでしょう。貴方に、恋をしたのです。……こんな気持ち、初めてですわ」
思えば、まっすぐ恋愛的な好意を伝えられたのは、初めてだ。……いや、相手は女で、さらに嫌っていた相手だが。
そうなのだが、目の前にいるのは悪役令嬢アルゾニアではなく、もはや単なる恋する乙女であって。
考えてはならないような気がした。一歩、後ろへ足を動かす。ここは乙女ゲームの世界。……当然、キャラクターであったアルゾニアの顔は、綺麗だ。面食いのリノアには、効く。
「……こんなの、気持ち悪いですわ。ごめんなさい、リノア様」
焦りに笑うしかなくなってきたリノアの顔を眺めていたアルゾニアが、声を落とす。
「……い、いや。嬉しい、よ」
事実だ。前世ではもちろん誰にも自分の欠点を嫌わない、まして好きと言ってくれる人はいなかった。今世でだって、好かれるのは『リノア・リング』だ。自分とは似ても似つかない、かわいい少女。褒められようが好かれようが、家族からのものを除いて、満たされることはなかった。
その証拠に、今、リノアは泣きそうなくらい、救われた。世界に存在していいよと、肯定されたような安堵感が胸いっぱいに広がった。
「……嬉しい……? う、嘘じゃ、ありませんよね?」
「う、うん」
無理に笑みを作って答えると、アルゾニアは心からの笑みを浮かべた。
「あの、リノア様。わたくし、リノア様とお付き合いしたいのですわ。……ダメ、でして?」
ギャップ萌えに強すぎやしないか、この悪役令嬢。プライドが高い傲慢なご令嬢が、素直で健気なかわいい少女になってしまった。リノアはぐらつく自分の心を押さえつけ、
「ダメに決まってるでしょ。大体、女同士とかおかしいし。身分だって――」
リノアは、我に返った。あのアルゾニアにタメ語を使ってしまっている。これはあの面倒くさい説教が始まるのか、と身構えるが。
「わたくし、身分を落とすくらい簡単にできますわ。今回と同じように、同じ公爵令嬢に怪我をさせたり、ナイフを向けたり。ああ、王女様を侮辱するほうが楽かしら。それから、女同士? 大した問題はありませんわ。結婚をするのなら法を変える必要があるでしょうが、付き合うのなら関係ありませんわ」
想像の斜め上をいくアルゾニアに、リノアは諦めた。もう完全に突っ切るぞ、と。
「……正直、ツンデレでヤンデレって好きだけど。でもやっぱり、私男の子と付き合いたいなー、って」
「つんでれ? やんでれ? よく分かりませんが、性別さえ変われば、わたくしにチャンスがありますの?」
今のアルゾニアなら実行しかねない。というか全く効かない。もう頭がおかしい奴だと思ってもらえば話は早いか、と、前世の話をし始めた。
「……! つまり今ここからともに飛び降りれば、別の世界でまた会えると?」
ダメだ、そりゃそうだ、悪手を打った。リノアは自分に呆れかえって、キラキラの目をするアルゾニアにぴしっと指を突き付けた。
「……?」
不思議そうな目で自分に突き付けられた指を見る。……なんで急に仕草がかわいくなるんだよ。脳内で突っ込みつつ、リノアは言った。
「いい? 私が付き合いたいのは男の子なの! 悪役令嬢なんてお呼びじゃないの! 嬉しかったけど、付き合うかどうかとか、私が貴方のこと好きになるかどうかは別で……。まあ、女じゃなかったらタイプだけど!」
……あ。言ったらまずいことを口走ってしまった。なんで、口が言うことを聞かないの。リノアはやらかしに冷や汗をかき、アルゾニアの反応を待つ。心が傾きつつある気がする。なぜだ。
「…………」
アルゾニアが俯いた。両手を顔に当てて、数秒。ぱっと上げた顔は真っ赤だった。
「あの、リノア様。それは、もう、告白と同じかと、思いますわ」
……リノアは、アルゾニアに滅法弱いらしい。顔とギャップ萌えとツンデレのデレと若干のヤンデレに、リノアは負けた。
「……もう、それでいいよ」
アルゾニアの目の熱を見たらおかしくなりそうなので、リノアは俯いた。
……しょうがない。だってかわいいし。顔いいし。救われちゃったし。絶対尽くしてくれそうだし。言い訳を心の中で繰り広げつつ、こわごわと顔を上げる。好奇心が沸いてしまった。
後悔した。紫色の目にはとんでもないほどの熱がこもっていたし、真っ白な顔はこれ以上ないほどの赤をまとっていた。顔が、熱を持った。
「……それじゃあ、わたくし、リノア様の彼女……?」
「そう、だね」
乙女ゲーの世界に入って、なぜ美少女と恋愛せにゃならんのだ、と思っても、こう……、好きなキャラが報われるルートに入って歓喜する感覚が出てきてしまった。
「わ、わーい、ですわ! リノア様、早速、明日デートいたしましょう!」
かわいいかよ。慣れていないのだろう、覚束なく両腕を突き上げるアルゾニアにそう思い、リノアは頷いた。
「う、うん。いいよ」
明日。……そういえば、今日、十二月二十四日だったな。ゲームだと、ここで一番好感度の高いキャラクターとパートナーになる選択肢ができて、個人ルートが確定する。同時に悪役令嬢のアルゾニアが退場して、よりリノアとパートナーの深掘りがメインになってくるんだ。
それはともかく、明日、クリスマスだ。クリスマスの日を、まさか女の子と過ごすことになるとは。しかも悪役令嬢と。リノアは、どこで選択を間違えたのだろうと考えるが、多分、現在進行形でだ。
「わたくし、クリスマスの日、誰かと一緒に過ごしたことなんて、初めてですわ。一緒にお出かけにいく、というのも。……楽しみですわあ」
どうでもよくなってきた。リノアはアルゾニアが楽しそうにするのが微笑ましくなって、苦笑気味に一緒に話していた。
「私も、楽しみ」
――うっかり悪役令嬢の個人ルートに入ってしまったことにリノアが気づくまで、あと一日。