絵画の中の男
おかしい。この部屋には自分しかいなかったはず。酸素の足りない部屋の中、視線を巡らせど人影一つ見当たらない。ならば、声は何処から――。
「此処だよ此処、おじょーさんの真ん前」
声の発生源は額縁の向こう。
グリム・ウィッチの肖像画から聞こえていた。
「ああ、ついに幻聴が聞こえてきた。しかもよりによって絵からとか……ボク、最後まで――」
「うんうん、死ぬ間際に大好きな絵画からの幻聴を聞いちゃうほど、俺のこと大好きなんだよねー? いや照れちゃうな」
「……は?」
やけに明瞭に悠長に聞こえる幻聴。しかし、幻聴は自分の頭の中にある考えやイメージが聞こえてくるもの。トワのイマジナリーフレンドであるグリム・ウィッチはこんなおちゃらけた感じの男ではなかった。トワは絵画をはっきり目に捉える。
「あ、正気に戻った? 泣きわめき始めたと思ったら急に笑ったり。発狂しちゃったのかと思ったぁ」
「な、絵が動いて喋ってる……!!」
絵の中の男はいつも閉じていた目を開き、トワをしっかり見ていた。男は驚くトワに愉快だとばかりに笑っている。
「いいねその反応。でも、魔法のある世界では絵が動いて喋ってるのはふつうじゃね?」
「それは魔力濃度の高い場所か絵自体が幽霊じゃないと動かないんです。この国、魔力濃度低いし……アナタ、もももしかしてゆうれい」
「幽霊ではないかな〜」
幽霊ではないと言う男に、では何なのかと問おうとした時、閉じた扉の向こうから凄まじい爆発音が響いた。余りの音に、トワはピャッと絵画の方に飛び跳ねる。
「いやあ大炎上してるじゃん。前から実家が炎上しますよーにって願掛けしてたし、お願い叶ったねぇー」
「ボクは物理的に炎上して欲しいなんて一言も言ってない!」
そう、確かに炎上して欲しかったが、それは評判が悪くなってバッシングされろというニュアンスの炎上であって、本当に燃えて灰になれということでは無かった。
火はどんどんとトワのいる部屋を侵食していく。
しかし、トワはある事に気がついた。
「あれ、絵の周りだけ熱くない」
現在、彼女は絵のすぐ真ん前に立っている。その絵の周りだけ炎も煙も寄ってきていなかった。
「どうして……」
「そりゃあだって、トワちゃん自分で言ってたじゃん。誰か"助けろ"って」
「なんでボクの名前を知ってるんですか」
「トワちゃんがほんのちんちくりんだった時からずっと見てきたんだから、名前ぐらい知ってるよ」
男はトワに優しくねえ、と問いかける。
「俺、トワちゃんにお願いがあるんだよね」
「お願い?」
「そそ。そのお願い叶えてくれたらトワちゃんの事、ずっと助けてあげるよ」
男は絵の中で大袈裟な動きでもって、まるでサーカスの団長の様に話す。
「俺がここに買われた理由。それは俺がなんでも願いを叶える絵画だから」
「それは知ってますが、父様は嘘だと――」
「本当だよ」
「っ」
男は愉快そうに目を細める。
「俺は本当になんでもお願いを叶える事ができるよ。現に、今はトワちゃんを炎と煙から助けてる」
さっき助けろと叫んだ事。男は本当に実行している。
絵の周りは既に火の海。この男が自身を見放せばきっとすぐに炎に飲まれて死ぬだろう。トワは考える。
このまま炎に焼かれて苦しんで死ぬのは嫌だ。しかし、この絵の中の男は幽霊ではないが悪魔の可能性があった。悪魔のお願い事など碌なもんじゃない。最悪魂を取られるだろう。どちらにしろ自分は死ぬ。
ああでも、それでも彼女はこの絵が好きだった。例え絵の中の男が思ってたのと違くっても、胡散臭くっても。
彼女はいちど好きになったら割と一途な女だった。それに、どうせ死ぬならクソ王子が発端の火事より友達(仮)に殺される方が遥かにマシであった。
「助けるというのは……これからずっとというのは本当ですか?」
「ほんとほんと、インド人嘘つかない」
「インド人ってなに……ずっとって、ボクが死ぬまでの間?」
「うん。トワちゃんが死ぬまで俺の持ち主になるならね」
「お願いは、例えば金が欲しいとか、食料が欲しいとか、寝床がほしいとか言われたら、用意してくれるんですか?」
「うんそお」
トワは一度目を瞑り、深呼吸する。
「分かりました。言うとおりにします」
「お、やりぃ! 俺このまま一生炎の中に閉じ込められるのかと思ったわぁ」
トワの決意を聞いてにこにこ喜ぶ男。どうやら自分では動けない様だった。自立移動できないという事はお願いの内容は此処からの脱出、または移動の件だろうか。
「俺のお願いはずばり」
「……」
「ちゅーです!」
「――はい?」
トワはまた背後に宇宙を背負う。頭の中で男の言い放った単語を反芻した。
「俺にちゅーしてくれたら助けてあげる♡」
「はあ!? ちちち、ちゅーってキスの事ですか!? できるわけ無いだろッ!!」
トワは思わず絵から離れたが、周りが余りにも熱すぎて「あっっづッ!!」と言いながら慌てて元の場所に戻る。
「えー。ちゅーくらい大丈夫でしょ。愛しの王子様とちゅー以上のこともしてきたでしょ? なら絵にちゅーするくらい平気平気」
「そういう問題じゃないしボクはまだファーストキスどころか手繋ぐのもまだですが!?」
「あっ(察し)」
「憐れんだ顔するな!!」
彼女は自分の婚約者に相手にされていなかったし、彼女自身初心で恋愛ド素人であった為にまだ真っさらであった。
それと、トワはボッチだった。余りにも友達ができなさ過ぎて絵を友達認定するほど寂しいやつだった。絵を友達にしちゃう程痛いやつが、今度はそれにちゅーするなんてとんでもない。痛さが増してしまうではないか。
「もしかして絵にちゅーするなんて痛いって思ってる? 大丈夫だよ。ここには俺とトワちゃんしかいないし」
「いや、でも、んぐぐ」
「ほらほら早く、何処にしてもいいから。悪いようにはならないからさ」
葛藤したトワは壁から絵画を外し、瞳を閉じる。
彼女は額縁の上の方に、控えめにキスをした。
――パンッ!!
突然、クラッカーを鳴らしたような音が響き、閉じた瞼の向こう側が光った。恐る恐る目を開くと、辺りにはらりはらりと星クズが舞いちる。煌めくそこには絵画から上半身だけを出している男の顔が少しだけ高い位置にあった。
「額縁も体の一部ってわけぇ? はーシケた呪いだこと。マ、ちゅーした場所が額縁で上半身出られるなら上等かぁ」
トワの肩に両腕を乗せてバランスをとっている状態の男は、少し下の唖然とするトワを見て笑う。
「さて、外に出してくれたお礼にこれからばんばんお願い聞いてあげる。まずは手初めに屋敷から出ようか」
にっこり笑う彼は背後を指差した。気がつくと辺りの炎は消えていて、扉は焼けたのか綺麗に無くなっていた。
歩く屋敷内は何処もかしこも丸焦げで、しかし炎は完全に消えていた。トワは絵を持ちながら跡形もない廊下を進んで行く。
「ありゃあ、なんっも残ってないねぇ」
「妖精の炎で燃えたので当たり前です。寧ろ跡が残ってる方が可笑しいんですよ」
トワは真っ黒になった木片を蹴っ飛ばす。忌々しい記憶しかない屋敷の残骸をぞんざいに扱う事で少しだけ気分が晴れた。彼女は実家が心底嫌いだった。
「それにしても、どんなに水をかけても消えない炎がどうして消えたんでしょう」
「さあ、俺の呪いが五分の一くらい解かれた反動で消し飛んだんじゃね?」
「待ってください。呪い?」
初めて聞く話だった。彼は呪われていたのか。呪いによって絵にされたと言う事だろうか。彼女は思考を巡らせる。
「俺ね、使う魔法が強力すぎて封印されちゃったんだよね。で、その封印を解く為のトリガーが真実の口づけ」
「真実の口づけ……」
「いまどき真実の口づけで魔法が解けるとか古くなーい? マジ時代錯誤。センス皆無。魔法っつか呪いじゃんね。これ考えた聖女とかいう生命体生きてる価値ある? いやない(反語)」
トワは『聖女』というワードにピクリと反応する。絵の彼はトワに抱えられている状態なので、聖女に反応した彼女にすぐ気づいた。
「聖女、嫌いなの?」
「王子の浮気相手が聖女でして」
「はわわ」
トワは額縁を強く抱き締め、怖い顔をする。そうだ、この屋敷を出たらもしかしたら奴らが居るかもしれない。また剣を向けられて、今度は魔法を撃ち込んで来るかもしれない。体を強張らせていると、額縁から伸びる手がトワの髪の間に差し込まれた。
「わ、ちょっと何ですか」
「トワちゃんの事は守ったげるから心配しなくてもよろしくってよ〜」
「何だその喋り方。ちょ、わかりましたから今すぐ手を離しなさい!!」
男は「そ?」と一言呟いたあとに撫でるのをやめた。トワは離れていく手を見つめて、ちょっと残念に思った自分を頭の中で十回は叩いた。
「はぁ〜、それにしても五百年ぶりのシャバの空気は美味しいな〜」
「周り、焼け野原で焦げ臭いですけどね。というか五百年ぶりってアナタいったい何歳ですか」
「忘れた。アでも心はいつでも十八歳だよ」
「その顎の下に握りこぶし持ってくるポーズ、ムカつくのでやめてください」
「やだ、傷ついちゃった」
トワは不思議な気持ちになった。話す分には初対面で上半身だけ外に出ている珍妙な男と自然に会話できている。それも昔から知り合いだったかのようにスムーズなものだった。
男は会話が止って気まずくなる前に喋り、トワのキツイ言い回しにも不機嫌になること無く茶化す。トワの扱いを完璧に理解している様に思えた。
「あの、アナタがうちに来た時から意識ってあったんですか?」
「んあ? うん、そだね。あったよ普通に」
「……ボクがアナタに喋りかけてたときも?」
「あったねぇ、意識」
トワは顔に手を当て天を仰ぐ。羞恥で爆発しそうである。
「嘘だ……嘘って言ってくれ……」
「うそ!!」
「嘘つくな!!」
「え〜」
トワは絵画の前でそれはもうはしゃいだ記憶がある。嬉しい事があれば報告し、悲しい事があれば愚痴り、床に寝っ転がって暴れた事もある。つまり、他人に見せられない自分の姿を全て見られていたということ。
「なあんで早く教えてくれなかったんですか! アナタに意識あるって分かってたらあんな……あんな醜態晒さなかったのに!」
「醜態って? 王子様の惚気を延々と喋ってたこと? それとも王子様と結婚したらしたい事紙に書いてた事? いやあ微笑ましかったなあ年相応で」
「あ"あ"あ"あ"あ"忘れてくださいッッ!!」
王子の婚約者になったばかりの時、彼女は盲目的に王子を好いていたので、毎日デレデレだった。歳を重ねて少し落ち着いてきていたが、トワの成長を額縁越しに見守っていた男の記憶では話の内容が家族への恨み言からほぼ、王子の話になっていたと記憶していた。
「良いじゃん別に。そこまで気にしなくたってさぁ」
「嫌なものは嫌なんです」
「言いふらすつもり無いのにぃ」
男の言っている事に嘘はない様に思える。トワはさらに不思議な気持ちになった。
顔だけ知っていて殆ど話したことがなければ顔見知りとは言えない。ただの見たことのある他人である。
人見知りのきらいがあるトワとここまで会話のできるこの男は人の懐に入るのが上手い。
「そういえば、まだアナタの名前を聞いてませんでしたね。絵の名前自体は『グリム・ウィッチ』でしたけど、これは本名ですか?」
「本名ではないよ。勝手につけられたの。にしても酷くない? 直訳したら『無慈悲な魔女』だよ? 誰が無慈悲だこのやろう」
「魔女という呼称についてはノーコメントなんですね」
「いやホラ、俺って顔がかわいいじゃん? だから魔女って言われても仕方ないっかな〜なんて」
「……」
なんとなく男、グリムの性格がわかってきたトワである。彼女は道端の雑草を見るような顔をした。
「俺が絵に閉じ込められる前なんか男に求婚された事あるし。引っ叩いて伸したらそいつ国の第三王子でさぁ。はぁー、死ぬかと思った!」
「それ、アナタが住んでた国の話ですか」
「違うよー。全然違う国」
「アナタ、旅でもしてたんです?」
「ちゃんと二足歩行してた時にね」
旅。その単語に今後の事を考えさせられる。
現在は屋敷の残骸の中をゆっくり歩いているが、外に出たら自分は捕まるかもしれない。もしくはもう死んだとみなされているかもしれない。どのみち、もうこの国にはいられない。自分はこの小さな国から出ていかなければならないのだ。
トワは足を止めてグリムと向かい合わせになるよう額縁を持ち直す。
「グリムさん」
「ん、なあに?」
「ボクが旅に出たとして、生きていけると思いますか?」
トワの切実な問いに、グリムはニンマリ笑顔を作る。
「さあ? いまの君はただの"魔法の使えない"ちっぽけなお嬢様だ。そんなちんちくりんが旅? 正気?」
――嗚呼、また『魔法』だ。
トワはグリムを泣きそうな目で睨む。
トワとて分かっていた。魔法が使えない者が旅に出るなど、無謀で危険な自殺行為だ。非魔力保持者への差別が激化する昨今、差別対象であり性別が女となれば、どんな仕打ちが待っているかなど分かりきっていた。
それでも――それでも、彼女は旅に出なければならなかった。だって、このままでは始末されてしまうから。
「無謀だと、わかってる。理解してる。きっとボクはすぐ死ぬでしょう。魔法が使えないから国に入れてもらえないかもしれない。箒で飛べないから道中崖から落ちるかもしれない。襲われても抵抗できず慰みものにされるかもしれない」
魔力が無ければ、魔法が使えなければ身を守れない。どんなに努力で補おうとも、補いきれないものがあった。
「けれど、」
「けれど?」
彼女は強い意思を宿した瞳でグリムを射抜く。口元は笑っていた。
「――あんなド腐れ王子に殺されるくらいなら、うんこに頭突っ込んで死んだほうがマシです」
「つまり、王子に殺されるよりうんこで溺死のがマシで、うんこで溺死より旅の道中で死んだほうがマシってこと?」
「ええ、そういう解釈で合ってます」
キョトンと問うたグリムは先程の何を考えているか分からない笑みを崩し、心の底から楽しそうに笑った。それはもう豪快に、手を叩きながら。真っ黒な屋敷の焼死体には似つかわしくないクラップ音が響く。
「あっははは、いいね最っ高だね!! 俺、口の悪い女の子だーいすき!!」
キャッキャといっそ無邪気なグリムはひとしきり笑うと涙を拭いながらトワを見る。それは、いままでトワが見てきた中でいちばんいちばん優しい視線だった。そこには確かに愛情が込められていた。親にも、誰にも向けられなかったものだった。
「俺は君の願いを聞くといった。君は旅をご所望だ。魔法が使えないなら"俺"を使えばいい。約束はいま、果たされた」
グリムはいつの間にか手に一本の平筆を持っていた。
「さあ、今日から君はラベンディア家のトワから魔法使いグリムの弟子、新しいトワに生まれ変わった」
筆がタクトが振られるように動く。しゃらりと舞ったそれは緩やかに光を描き、トワに降り注ぐ。
すると、トワのボロボロだったドレスは白のブラウスに青のスカート姿になっていた。
「これは仕上げ!」
グリムはどこから出したのか分からないリボンをトワの胸元に飾る。ピンクとは反対の、青空のように鮮やかなリボンだった。
「うん、やっぱりトワちゃんにはピンクよりこっちの色の方が綺麗だね」
満足そうに微笑みながら頭を撫でるグリムをみて、トワは何だか無性に泣きたくなった。
本当は、ピンクより黒や青みたいな落ち着いた色が好きだった。ふわふわした服より、スッキリした服が好きだった。好きな人の好みの服を着て一言、かわいいと言ってほしかった。綺麗だと言ってほしかった。彼女は王子殿下の婚約者である前に、恋するふつうの女の子だったのだ。
今まで感じていた重みが、一気に宙に浮く心地がした。
(ずっと迷子だった子供がやっと親を見つけたとき、こんな気持ちになるんだろうか)
トワは涙が収まるまで、額縁の下の方に額をくっつけて沢山泣いた。その間、グリムは何も言いはしなかったが頭を撫でる手だけは離さなかった。