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雪解けの曲

作者: 宮本颯太

 限りなく透明度の高い空気に導かれた朝日が北欧の地をそっと(いだ)いて、今日を生きる人々の目覚めに寄り添う。

 フィンランドのトゥルクにある森の中、ぽつんと佇む一軒の家にも安らぎの太陽は微笑み、ベッドで眠っていたライラが深緑色の瞳を開くと、落ち着いた日の光はその目覚めを祝福した。カーテンの隙間から差し込む福音は新たな一日の始まる喜びを知らせているのだ。ライラは束の間の安楽を味わう。今日一日を、始まりの瞬間だけでも喜ぶ為に。それが今日一日の糧となるように。

 心の中で神に感謝を捧げた後、ご加護を願うと共に体を起こした。

 始まりの瞬間は過ぎた。ここから今日もまた、生きていかねばならない。

 ライラはベッドから雪の様に白く長い脚を床について深く呼吸を整えると、首にかけたネックレスチェーンを胸元から手繰り寄せて、繋がれた指輪に無言でキスをした。


 ゆっくり立ち上がるとくらりと目眩がして、ふらつきそうになる体勢を立て直しながら寝室を出る。白を基調としたリビングには中央にテーブルが置かれ、部屋の片隅にはもう長いこと音を奏でていない白いピアノが静かな存在感を放っている。

 それらを横目にしながらリビングの一画に設けたキッチンで朝食の準備を始めるのは、もはや惰性であった。

 一昨日スーパーで買った即席のプーロ(ミルク粥)をシチューボウルに入れて水を注ぎ、レンジで加熱するその顔に表情はない。ライラは栗色の長髪を掻き上げながら窓の方へ移動し、サーミ伝統模様のカーテンを引いた。

 10月上旬の今、外の森は鮮やかな紅葉に染まり、雪の代わりに降り注ぐ太陽の光が映えている。プーロが出来上がるまでの2分間、天からも地からも授けられる温かな抱擁に目を閉じて、ぱたりと倒れ込んでしまいそうな体を窓枠に手を掛けて支えた。それでも白い手は指先からゆっくりゆっくり力が抜けていって、弱々しい腕の筋肉はついに平衡感覚からも見放され、ふわりと足が浮く感覚と共に頭に手を掛けられて引っ張られる気がした。地獄の底から悪魔か亡者が手を伸ばして来たのかと思う様なそれが地球の引力による錯覚であると気付いた時、もうこのまま顔面を床に打ち付けるしか無いのだと自覚した。

 痛いのかな?痛いんだろうな。

 どこか他人事というか、俯瞰した風に考えながら木目の床が迫ってくるのを諦めた。


「ライラ」

 額を打ちつける寸前、聴き覚えのある声にハッとして意識を取り戻すと、ライラは窓枠に手を掛けたまま窓辺に立ち尽くして、リビングにはレンジの鳴る音が響いていた。

 どうやら立ったままうたた寝をして、夢を見て見ていたらしい。


 夢の中で自分を呼び起こしたあの声……。

 窓のすぐ傍に置いた小さな祭壇に無意識に目が行くと、ライラは左手の薬指が締め付けられる感じがして苦しくなった。

 祭壇の上には十字架や花立てと共に、昨年に27歳の若さで他界した夫のアレクシの写真が飾ってある。

 ヘルシンキの音大でトゥルク出身の彼と出会い、一緒にピアノを学びながら街を案内したり、図書館に行ったりしている内にいつの間にかお互いに好きになっていて、卒業と共に結婚した。彼の病気が分かったのは、それからほんの数年後。ピアニストととしての実力が認められ始めた矢先のことであった。


 ライラは優しく微笑む夫の真影から目を逸らす様に踵を返してキッチンに戻り、レンジから生温かくなったプーロを取り出してテーブルに置いた。ため息と共に椅子に座った後に掌を合わせて指を組み、祈りを捧げてからようやくプーロに手をつけ始めた。

 ゆっくりと時間をかけて朝食を済ませたライラは、自分の書斎で仕事を始めた。かつてはライラもピアニストや指揮者として生計を立てていたが、今は一線から離れて音楽教本の監修や翻訳をしている。

 この時間だけはひたすら虚無に浸れる。ほとんど自動化された動きでノートパソコンのキーを叩いていると、自分が誰であったか、そもそも人間であったかすらも忘れてしまいそうになる。本当にそうなる前に自身の脳が本能的に正気に戻してくれるのだが、このまま虚ろに沈んでしまう事ができたらどんなにいいだろうかと思うのであった。


 ◆


 仕事がひと段落した。手元のデジタル時計を見ると15時を示している。いつも時間を忘れて取り組むので、こういうのはよくある事だった。

 コーヒーでも飲もうと思い書斎を出てリビングのキッチンでコーヒーメーカーの準備をし始めた丁度そのタイミングでインターホンが鳴り、今日が木曜日であるのを思い出した。

 訪問者には心当たりがある。ライラはコーヒーメーカーの準備を中断して玄関へと向かいドアを開けると、そこには予想通り……と言うよりいつも通り、コート姿の青年が立っていた。彼はアウリと言う名で呼ばれている音大の同期で、今はトゥルクにある大きな劇場の音響スタッフとして働いている。

「こんにちは。あの……良かったですか?」

 恐る恐る訊ねてくる辿々しい英語とは対照的に、

「うん。大丈夫よ」

 ライラが流暢な英語で返して家に招き入れると、アウリは軽く頭を下げてから玄関を跨いだ。

「いつもお邪魔してすみません」

「いいのよ。気にしないで」

 ドアを閉めながらライラはそう言って、

「奥へどうぞ」と案内した。


 リビングに通されたアウリは、窓辺の祭壇……アレクシの写真の前で立ち止まると、そっと手を合わせた。

 指を組む手がぎこちなく見えるのは、アウリが日本人だからだろう。

 そう。実は『アウリ』とは愛称で、彼は本名を(ふじ)(さき)(あおい)と言った。『アオイ』が段々と訛っていき、いつの間にか『アウリ』として定着したのだった。

 彼は毎週、仕事が休みの木曜日にこうしてアレクシに会いに来る。ライラにはこれが意外で、正直なところ少しだけ煩わしかった。

 アウリは日本からヘルシンキの音大に留学して来たわけだが、最初から変わっているというか、寡黙が過ぎる印象で、人を遠ざけようとしている風に見えた。

 そんな彼を唯一気に掛けたのがアレクシであった。

 それはアレクシ自身もまたヘルシンキにはあまり馴染みが無く最初はライラに助けられたからであった。外国から来た彼は自分よりももっと不安だろうと、いつも心配していた。

 一方のライラはと言うと、アウリの性格が得意ではなかった。アレクシが手を差し伸べるのでさえ迷惑そうにしているように見えて苛立ったのを覚えている。


 そんな彼がどうして……。

 夕方に近づく太陽の逆光に、アレクシの平安を祈るアウリの後ろ姿をチラリと目に入れてから、ライラは目を伏せた。

 ふと静かに息をついたアウリが祈りを解いて振り返り、

「ライラさん、お邪魔しました」

 そう言って再びぺこりと頭を下げてからそそくさと立ち去ろうとする。いつもなら黙って見送るのだが、ふと脳裏に準備しかけのコーヒーメーカーが浮かんで、

「待って」と呼び止めた。自分でも不思議だった。

「丁度コーヒーを作ってるところだったの。すぐに出来ると思うんだけど」

「……ありがとうございます」

 予想外の誘いにアウリはびっくりしていた。


 ◆


 コーヒーを手元にテーブルを挟んで二人は向かい合う。

「どうぞ」とライラが促して、

「どうも……」とアウリがコーヒーを一口飲んでから、

「美味しいです」と言った。

「そう……」


 重苦しい沈黙が続いた。聴こえるのは外に吹く風に落ち葉の舞う音だけだ。


「滑稽よね」

 不意にライラがぽつりと呟くように言うと、

「え?」

 飲みかけのコーヒーカップに顔を俯けていたアウリが戸惑った。

「アウリ。私ね……自分のこと、世界で一番幸せだと思ってた」

 力ない自嘲を浮かべるライラを見るアウリの顔に困惑が増す。

「でも、ほんの少しの間だけだったわ。今は見ての通り。あの人はもうピアノを弾けない。私も彼のピアノを聴けない。それを一緒に哀しんでた人達も、ちょっと時間が立てば皆んな自分の事で頭が一杯になって、あの人を忘れていって……。私も忘れてしまえるならどんなに楽か」

「ライラさん……」

「でも、どうしても憶えていたい。もう自分でも分からなくなっちゃった。どうしてか私は彼の面影も、形見も、手放す事ができない。今ここにいるのだって、あの人の故郷にしがみついて、あの人が存在した過去を毎日確かめてる。本当にもう、自分がこんなに馬鹿だとは思わなかった……!」

「ライラさん」

 アウリが少しだけ声を大きくして、ライラの言葉を遮った。


「アウリだってそう思ってるでしょ……?」

 喉から悲痛に声を振り絞って、グリーンの瞳が鋭く尖った。

 アウリは言葉選びに大いに逡巡してから結局、

「そんなこと思ってません」と、ブラウンの瞳で訴えかけた。

 真っ直ぐに見つめてくるつぶらな瞳に、何故だか彼に対する苛立ちが蘇って来たライラは両手でテーブルを叩きながら勢い良く立ち上がり、

「嘘よ!腹の底では嗤ってるんでしょ!アウリ、ここに通ったって貴方は他の人達と変わりない!貴方はいつも自分だけ当たり障りの無い場所にいて、あの人が入院してした時だって一度も会いに来なかった癖に!!」

 と叫んだ。ライラ自身、理不尽な怒りをぶつけているのは分かっていたが、沈黙するアウリに感情を吐き出さずにはいられなかった。


「あの人は貴方に歩み寄ろうとしていたわ!日本から来て右も左も分からない貴方と自分を重ねて、いつだって気に掛けて!貴方はそれをどうした!?煩わしそうにしてたわよね!押しやっていたわよね!?それが今更何なの?こうなってから気の毒になった?それとも今の私が見てて面白いの?ねぇ!ボロボロになっていくのが楽しい!?楽しいんでしょ!?ねぇ何とか言いなさいよ!!」

 最後の咆哮と共にライラは崩れ落ち、テーブルに(すが)るように突っ伏して、声を上げて泣いた。背中を大きく震わせて泣き叫ぶ彼女の足元にいつの間にか転がっていた椅子が、感情の激しさを物語っていた。


 それからライラは体を起こせなくなってしまった。アウリは彼女の嘆きが落ち着くのを待って、

「ライラさん」ともう一度呼び掛けた。

「……ごめんなさいアウリ。本当に」

 耳を澄ましてなければ空気の流れる音にも掻き消されそうなほど小さく掠れた声が聞き取れた。

「すみません……」

 アウリはぽつりとそう言って、静かにテーブルを立った。

 それからドアが開いて、またすぐに閉まるのを聴いたライラは鍵を掛けに行く気力も無く床に滑り落ちて、そのまま気を失う様に眠ってしまった。


 目を覚ましたのは3時間後。暗くなった外の様子に慌ててドアの鍵を掛けに行った後、テーブルに残された二つのコーヒーカップに気持ちが重くなる。

 祭壇の真影が立ち尽くす自分を見ている気がしたライラは夕食も摂らずに寝室へ向かって、シーツに潜るのだった。


 ◆


 新しい週に入ってからの木曜日。

 その日の仕事も午後3時にある程度の目処が付いたので、ライラはコーヒーを用意して一人テーブルの椅子に腰掛けた。


 今日アウリが来たらどんな風に迎えてあげればいいんだろう、と頭を悩ませる。流石に先週は大人気無かったと反省しているのだった。

(もういっそ来ないでって伝えようかな……)

 アウリを迎え入れてあんなに取り乱してしまうのなら、その方がいい。誰も傷つかずに済む。

(でも……)とライラは直視できない祭壇をちらりと視界の端に入れて、

(それだと寂しがるかな……)と思い直した。


 アウリが来たらまずはしっかり謝ろう、と決めてインターホンが鳴るのを待つ。


 窓の外で秋の風と落ち葉が一緒に踊るのを、今日は独りぼっちで聴いている。


 インターホンが鳴ったのは、それから5分くらい経ってからだった。この5分が妙に長く寂しく感じられて、ライラは早足に玄関のドアを開けた。


「あっ……」

 立っていたのは郵便局の配達員だった。配送車を背にして小包を手に抱えた彼は、拍子抜けしたライラの様子にキョトンとしている。

「あっ、どうもお忙しいところ。お届け物です」

「ああ。ご苦労様です」

 お互い変に取り繕いながら、受取のサインをして配達員と挨拶を交わし、森の間に敷かれた道を走り去る配送車を見送った。


 受け取った小包はポップなイラストが印刷された組み立て式のボックスで、差出人記入欄に『キーア・ヴァイサネン』と書いてある。ヘルシンキの実家に住んでいる5つ離れた妹だ。

 ライラはドアの鍵を閉めるとリビングに戻り、テーブルの上でボックスを開いた。

 中には手のひらサイズのラブラドール・レトリーバーの人形と手紙が入っている。

 テーブルの上でお座りをするラブラドール人形の頭を撫でながら手紙を読むと、そこには妹と両親が変わらず元気であること、毎日家族でライラの話をすること、それから実家で飼っている本物のラブラドール・レトリーバーのタピオの誕生日を祝ったことなどが書かれてあった。

 手紙と一緒に何枚かの写真も同封されていた。

 実家の前で優しく包む様な笑顔の両親と妹。誕生日にパーティーハットを被ってケーキを前にニヒルな笑みを浮かべるタピオ。

 ライラも釣られて笑ってしまう。

 冷たく張り詰めていた鼓動が温かくほぐれて、長く冬に覆われていた心に春が訪れた。

 頬を伝う雪解け水を拭いながら、ライラは自分が前を向かねばいけない気がした。


 ◆


 すっかり日も沈んで、夜の帳が下りた頃。この日の仕事を終えていたライラは夕食のロヒケイット(サーモンとジャガイモのクリームスープ)をポットで煮込んでいた。

 テーブルに座って出上がりを待つ間、さっき届いたラブラドール人形を手に指先をそわそわと動かす。アウリが今日は訪ねて来ないのが気になっているのだった。

 よほど傷つけてしまったのだろうと自分を責めたライラに、今日2度目のインターホンが来訪者を(しら)せた。

 ライラは玄関に向かう。もしかしてと思いつつも念の為にチェーンを掛けてそっとドアを開けると、薄く開いた隙間からマフラーで顔の下半分を覆って震えるアウリがいた。もちろん厚手のコートも着ていたが、それでも寒々しい佇まいであった。

 ライラが慌ててチェーンを外してドアを全開にすると、秋の夜の冷たい風が落ち葉を連れて吹き込んで来る。

「あ、あの……」

 それを防ごうとするかの様に立ち尽くしながらアウリが敷居を跨ぐ許可を求めようと震える声を出していた。

「アウリ、いいから!早く入って」

 抱きかかえる様に招き入れてから、風の冷たさに耐えながらドアを閉めた。

『カチャ』というロックの音を聞いて安心したのか、アウリは呼吸を整えながら、

「こんな時間にすみません」と途切れ途切れに言った。

「平気よ。何かあったの?」

「いえ。今日の音響担当から急な欠員が出て、代わりに呼び出されてしまって」

「劇場に?」

「はい」

「そう……」

「本当にすみません」

「いいのよアウリ。お疲れ様」

 どうぞ、といつもより優しい声でリビングに通されたアウリはキッチンで煮えているポットに気づき、ハッと立ち止まった。


「ああ、ごめん。うっかりしてた」

 ライラがクッキングヒーターのもとに駆け寄りスイッチを切るのを見て「やっぱり帰ります」と回れ右するアウリを、

「大丈夫だってば」と引き留めた。

 ピタリと立ち止まった華奢な背中に、「あのさ、この前は……」と言いかけて、

「夕食はお済み?」と修正して訊ねた。


「いえ。まだ……」

 少し迷った様な間を置いてから、アウリは応えた。


 ◆


 マフラーとコートを脱いで椅子に掛けたセーター姿のアウリと再びテーブルを挟んで向かい合う。今度はシチューボウルに注がれたロヒケイットが二人の手元に置かれている。

「お祈りしてもいいかな?」

 窓と祭壇を背にして座ったライラは白く長い指を交互に組んだ。

「はい」

 アウリもそれに倣って手を合わせた。相変わらず不慣れな感じは抜けていないが、聖なる文言が天上に届くようにと心を静めているのが見て取れる。

 最後に「アーメン」と結んで顔を上げたライラが、

「さあ、どうぞ」と穏やかにすすめた。

「いただきます」


 それはとても落ち着いた夕食だった。

「煮込み過ぎたかも。どうかしら?」

「美味しいです。とっても」

「そう……良かった」

 今さっきまで凍えそうになっていたアウリが美味そうにロヒケイットを食べて温まっているのを見て、ライラは心からそう思えた。

「アウリ、あの……」

「はい」

 茶色の瞳にほんの少し緊張が宿る。

「この前はごめんなさい。ずっと気になってたの」

 グリーンの瞳で包み込みながら語りかけると、アウリは緊張から解放された代わりに、

「いえ。何もしてあげられかったのは本当だから」と背中を丸めた。


「ねえアウリ」短い沈黙の後、ライラがそっと口を開いた。

「大学にいた頃、同期で好きな曲を持ち寄ってピアノの発表会をしたのを憶えてる?」

「もちろんです」

「その時にね、アレクシが言ったの。アウリのピアノ……素敵だねって」

 貴方のファンだったのよ、と話す姿が懐かしそうで、寂しそうで、切なくて。アウリは「そうですか……」としか返せなかった。


 ◆


「ライラさん」

「ん?」

「ずっと気になってたんですが、あのピアノって……」


 夕食後のコーヒータイムに、アウリが部屋の片隅に置かれている白いピアノについて遠慮がちに聞いてきた。

「ええ。あれはアレクシの」

「そうですか」

 何故だか心残りでもあるかの様な眼差しで白いピアノを見つめている。

「どうかしたの?」

「……弾いてみてもいいですか」

 アウリは思い切った口調でそう言った。彼の童顔も手伝ってかライラは子供にねだられている様な感覚に陥って、

「ええ。いいわよ」と一緒に椅子を立ってピアノの元へ向かった。


 ピアノ椅子に腰掛けたアウリは目を閉じながらふと一呼吸置いて、鍵盤蓋を丁寧に開いた。

 何を弾くのかな?もしかして……。

 傍らに立ったライラが鍵盤に置かれた指先をそっと覗き込む。ピアノを弾くのに適した細くて長い綺麗な手の指だ。それは痩せた女性の手にも見える。骨張った指がその見た目にそぐわないふんわりとした動きで鍵盤に息を吹き込み、白いピアノが旋律を紡ぎ始めた。

 ああ、やっぱり。ライラの予想は当たった。

 アウリが弾いているのは、彼が大学の発表会で披露した曲だった。


 春の日差しに照らされた雪が儚く溶けゆくのを偲んでこの曲に表したのは、アメリカ南部出身の作曲家ザカリー・オールセン。生まれてすぐに母を亡くし、8歳の頃に父親の仕事の都合でフィンランドに移住して来てから初めての冬を迎えた彼はこの国の厳しい雪の洗礼を受けた。

 それは小さな子供にはあまりに過酷で、押し潰されそうな不安に迫られた。

 そして彼は外出が怖くなり、父親が知り合いから借りた家の中に閉じこもる様になった。

 白銀一色となった外で楽しそうに遊ぶ自分と同い年くらいのフィンランド人の子供たちをカーテンの隙間から眺める毎日に、ザカリー少年は雪を憎んだ。

 ある日のこと。仕事が休みだった彼の父親は外の雪を怖がる息子を何とか宥めて、近くの森を一緒に散策した。

 冬の短い日照時間に目一杯の光を反射させる雪が眩しかったザカリー少年がぎゅっと目を閉じながら父親のコートにしがみついて森を歩いていると、父親は雪の積もった木の根元から彼らの様子を伺うユキウサギを見つけて息子に知らせた。

 びくびくしながら目を開けて見た冬毛のユキウサギはとても暖かな白い毛皮を見に纏っていた。父親は嬉しそうに笑う息子の隣に屈んで小さな肩に両手を添えながら、ユキウサギの冬毛は雪の中で天敵から身を護る為のものであることを話した。つまり白いユキウサギは雪が溶けてしまうと見られなくなってしまうのだと。

 それを聞いたザカリー少年は何故だか寂しくなった気がした。


 そして幼心に気がついた。

 ユキウサギの白い冬毛に暖かみを感じて嬉しくなったのも、今寄り添ってくれている父親の心地よい温もりも、実はザカリーの憎んだこの雪が厳しさを通して与えてくれた一つの幸福であったのだと……。

 この日の気づきは彼が作曲家となった後も、心の土台であり続けた。故にザカリーの遺した曲には真っ白な冬の情景と、いつか溶けゆく雪の儚さに思いを馳せたものが多い。


 そして今ライラの前でアウリが弾いているこの曲は、ザカリーが32歳の頃に父親を亡くした数日後に書かれたものだ。

 彼の父親が息を引き取ったのは、雪解けが季節の変わり目を告げるその時期であった。


 ◆


 白いピアノの旋律と共に、ライラはキャンパスの発表会で演奏するアウリの姿を見ながらアレクシとした会話を思い出す。


『ねえライラ』と、あの時はアレクシの方から話しかけてきた。誰かの演奏中に彼が言葉を発するのは珍しいことであった。

『アウリのピアノってさ、不思議と惹かれる感じがしない?』

『うーん、そうかな。私は安定性に欠けてる気がするけど?』

 と、当時のライラは眉をひそめた。

『うん。確かに音色は不安定に聴こえる。でも彼はそれを自分の持ち味にできていると思うんだ。音程自体は崩れていないしね。それに選曲が素晴らしい』

『この曲?』

『ああ。ザカリー・オールセンは父親の死と雪解けを重ねてこの曲を書いてる。彼は雪を嫌っていたのだけれど、唯一の肉親である父親と過ごした思い出は雪の白さとセットなんだ。嫌いな筈の雪でも解けてしまうとなると哀しい。彼は雪に対して恐れと憎しみと、それから慈しみを持ち合わせていたんだ』

『それは分かるけど……不安定さが持ち味と言うのは?』

 ライラは首を傾げて、アレクシは『ふふふ』と静かに笑った。

『アウリはさ、あまり話すのが得意じゃないだろ?だから逆に心に仕切りがないと言うか、いつも感情の流れを素直に伝えてくれてる気がするんだ。そういう奴に限って実はナイーブで、優し過ぎる性格だったりもする。この曲もそんな風に複雑な気持ちに右往左往してしまうザカリー本人の心を客観的に見ながら作られてる。だから不安定でいいんだ。アウリと相性バッチリの曲なんだよ。アウリもそれを自覚してこの曲を選んだんじゃないかな』

 これはとても良い演奏だよ、とアレクシは言った。


 この曲が発表された後、ザカリー・オールセンは音楽家仲間たちとの語らいでこんな事を話したという。


 ――私は今でも雪が嫌いだ。この地を覆う冬の権威は私の肺と心臓を凍らせて、息を止めようとするから恐ろしい。しかし私はあの白銀に冬毛のユキウサギとコート姿の父を思い出して、愛おしくなってしまう。狂おしいほどに。息をするのも忘れてしまうほどに。だから私はこの地を去らない。去る事が出来ない。


 それはザカリーにとって呪縛であったのか、それとも拠り所であったのか。今となっては誰にも知る術は無い。

 相反する感情に揺れる人の心の旋律を、今は愛でる様に安定させながら奏でているアウリは何を思っているんだろう。

 気づけばライラは彼の肩に手を添えて、演奏を見守っていた。


 ◆


 最後まで弾き切ったアウリは鍵盤から放した手を膝の上に置き、それから少し項垂れて話し始めた。


「実は僕、何度かアレクシのお見舞いに行ってたんです」

「えっ?」とライラは驚いて、

「どうして言ってくれなかったの?」目を見開いた。

「それは僕が……人に好かれる人間ではないから。嫌な思いをさせてしまうから」

 ごめんなさい、と肩を落としたアウリにライラは首を横に振って「いいのよ」と慰めた。

「謝るのは私の方だわ。今まで貴方に冷たくして、あんなに酷いこと言ったりして。でも……」

 ライラは無意識に胸元で両手を重ねて迷ったが、

「どうしていつも会いに来てくれるの?」

 と聞かずにいられなかった。

「アレクシに……」

 アウリは項垂れたままぽつりと答えた。

「あの人に頼まれてくれたの?」

「はい……。自分にその時が来てしまったら、その後はどうかたまに様子を見に行って欲しいと。心配なんだと……」

 それから……、とアウリの声が震えて、途切れた。

「何?アウリ」

 ライラはアウリの足元にしゃがみ込むと、膝を握り締める彼の拳に両手を乗せて、その童顔を見上げた。

「このピアノ……。もしも機会に恵まれたなら、僕にこのオールセンの曲を弾いて欲しいと。そこにアレクシがいなくても、ライラさんを通して聴いているからって」


 ライラは息を呑んだ。あの丁寧な音色の意味が分かって、言葉を失った。

「彼はいつも僕を気に掛けてくれて、助けてくれました。感謝していたのに、僕はそれを伝える事が出来ませんでした……」

 アウリは涙に緩む口元を手で隠しながら窓辺の祭壇に振り向いた。

「遅くなってごめんよ、アレクシ。今ようやく君との約束が最後まで果たせた気がする……」

 嗚咽する声にライラも泣き出してしまった。

 温かな涙と共にアウリを抱き寄せたのは、そこに愛する人の意志が働いたのかも知れなかった。


 ◆


 ひとしきりアレクシへの思いに浸った後、アウリは帰り支度を始めた。

 慣れた様子でコートの上からマフラーを巻いていく。

「あの……ライラさん。今日は本当にありがとうございました」

 潤んだ瞳が清らかに光っている。

 玄関先で彼を見送るライラは、

「キートス(ありがとう)……」と言って彼の頬に触れた。

 アウリは少しびっくりしていたが、すぐに微笑み返してから一礼するとドアを開けて、風が静まった森の道を帰って行った。


 いつも通りに鍵を掛けてリビングに戻ったライラは、あれほど直視するのを避けていた祭壇の、穏やかな表情のアレクシの写真とすんなり向き合えるようになっていた。

 ふと結婚のプロポーズを受けた日の記憶が蘇り、腰に手をやってあの時の照れ臭い気持ちにちらりと視線を泳がせてから、

「アウリに私の面倒を頼むなんて、貴方どうかしてるわ。きっと荷が重かったろうに……」

 と語りかけて笑う。

「それでもやっぱり人を見る目はあるのね。ありがとうアレクシ。愛してる」

 その言葉に呼応した天上のアレクシが言葉に表せない温かさとなって降りてきて、心臓の鼓動が優しくなった。



 次の日からライラは仕事の整理を始め、季節が冬に移り変わったタイミングで子供向けの音楽教室をオンラインで開いた。指揮者やピアニストとして復帰しないかとの誘いもあったが、子供たちに音楽を教えたい気持ちの方が強かった。

 これは途切れていた夫婦の夢でもある。いつか子供の声がピアノに乗って家の中に響くといいね、と二人で語り合った幸せがようやく形となったのだった。


 アウリはと言うと、相変わらず劇場に勤めている。もう毎週来ることは遠慮している様だが、それでも月に何回か明るい内に訪ねて来てはオールセンの曲を弾いて聴かせてくれる。

 オールセンの曲が家に流れた日は3人分のコーヒーを用意してお互いの近況や思い出を話すのであった。


 アウリが帰った後、ライラは窓辺の祭壇の近くに椅子を移動して腰掛けるとアレクシの写真を手に取り、膝の上に支えながら外の景色を見ると、すっかり雪色に染まった森の中を冬毛のユキウサギが日差しを浴びながら楽しそうに跳ねていた。

 ピアノを聴きに来てたのかな?だとしたらオールセンが喜びそう。ふとそんな風に考えて一人でクスクスしてしまった。

 いや、もしかしたらあのウサギはオールセンだったのかも。

 心地良い真冬の白さにいくつもの楽しい想像が浮かぶ。

 同時にいずれこの雪も解けてしまうのを思い出して、なるほどと切なくなった。


 久々に帰ってみようかな。

 明日は祝日。急にヘルシンキの家族に会いたくなったライラはスマートフォンを出して妹のキーアに電話を掛け、顔を出しに行きたい旨を伝えると、

『本当に!?』弾んだ声で喜んでくれた。

「うん。ホントにいきなりで申し訳ないんだけど……そっちの予定はどうかな?」

『大丈夫に決まってんじゃん!お母さんたちにも伝えるね』

「お、おう。ありがと」

『うん!じゃあ明日待ってるからね!約束だよ』

「ん。キーアも風邪ひかないように」

『あたしは平気だよ。……あっ、そうだお姉ちゃん』

「ん?」

『タピオも待ってるから!』

 パーティハットを被ったあの写真を思い出して、思わず吹き出した。

「ははは、ちょっと吹いちゃったよもう。じゃー、よろしく言っといて」

『おう!』

 元気良く返事をしてキーアは電話を切った。

「あっ……」小包のお礼を言いそびれた。

(ちょっと高めのお菓子でも買ってってやるか)

 ライラはそう思い立って、片手で持っていたアレクシの写真にキスをして祭壇に戻すと、外出の支度をして白いダウンコートを羽織った。


 そう。厳しい冬の儚さは人の優しさに気づかせてくれる。

 それは過去を乗り越える勇気と今日を生きる力となって、明日を迎える糧になってくれる。

 ライラはいつも心に寄り添ってくれる温かさに感謝しながら、玄関のドアを開けた。

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