5、オベリスと大地主の令嬢
ランドの一行が城塞都市アベロンに出発した日の前日、オベリスは、アベロンにある、見合い相手の大伯母の屋敷を訪問していた。
中庭を囲んだその屋敷は、石造三階建ての立派な建物だった。玄関ポーチのドアをノックするオベリスの気は重い。大地主の娘ポーラとの結婚を父親に強要されていた。オベリスは父の意志に反抗する決意だ。
お仕着せの執事に案内された玄関広間では、オベリスの父のロドリーが、中庭に面した窓ぎわの応接セットで待っていた。ロドリーが立ちあがった。
「遅かったじゃないか。気が変わったんじゃないだろうな。いいか、結婚は男と女を結びつけるものではない。家と家、財産と財産をつなぐ制度だ。恋愛なんて、絵物語のなかにしか存在しないんだぞ」
「そのくらい、わかっているよ。ぼくはもう17歳なんだから」
「だったら、おまえの返事は決まっているんだろうな」
ぼくは……言いかけたオベリスの言葉を、
「これはこれは夫君のお越しかい」頭上からのしわがれた声がさえぎった。
「大伯母さま、まだ結婚したわけじゃないんですよ」
2階の回廊につづく階段の踊り場で、15歳くらいの少女が、小太りのおばあさんの腕をとっている。その少女がポーラだ。オベリスは彼女を見かけたことがあるだけで、会話をした機会はなかった。
「おお、そうなのか」大伯母が、ポーラの補助で大儀そうに階段をおりてくる。
オベリスと向かいあった大伯母は、プリーツの豊かなドレスに、袖口のゆったりした花柄のガウンをはおっている。ポーラは、額のまんなかでわけた金髪を肩の上でカールさせ、体の線のはっきりした白いコタルディのドレス姿だ。
「おひさしぶりですね」とポーラがあいさつした。「夕食は五時からです。それまでは、屋敷や中庭を執事がご案内しますわ」
しとやかに言うと、大伯母のガウンの腕をとり、階段の踊り場の下をくぐって、屋敷の奥に消えていった。
ポーラの背中から腰にかけてのしなやかな曲線に、オベリスは目がはなせなくなった。美しい女性だと、あらためて感じた。
「オベリスさま、庭園樹をごらんにいれます」
そばにひかえる執事の声に、ハッとわれにかえった。
オベリスは執事の案内で大広間を横ぎり、裏口から中庭に出た。真夏の日差しを反射する緑の葉むらに、赤紫のムクゲの花が咲きほこっている。庭木の景観も、執事の説明も、オベリスの心には伝わってこなかった。
オベリスは、屋敷の2階の客間に案内された。疲労をおぼえる体をベッドになげだした。日暮れ間近になって、はげしい雨が降りだした。ポーラとの縁談をことわる機会をはかりかねていた。
食堂で夕食のテーブルをかこんだのは、オベリスとロドリー、ポーラと彼女の父親のオドリゲス、大伯母のアンジェラだった。テーブルの周囲には、執事と、2人の給仕がひかえている。
オベリスの正面のポーラは、立てえりの胸もとの開いた、フロックのドレスに着替えていた。食卓の燭台の光りに、ポーラの金色の巻き毛がきらめいている。オベリスには、昼間よりいっそう可憐に見えた。
コースはウナギのパテにはじまり、ウサギのシチュー、羊のステーキ、ニシンのソテー、ウエハースのデザートと続く。パンばかりのオベリスには、めったにないご馳走だ。舌になめらかな赤ワインも、きっと高価な銘柄なのだろう。
そんな豪華な食事よりも、オベリスは、ナイフとフォークを使うポーラの様子が気になってしかたなかった。料理の味もなんだかよくわからないほどだ。
「フェリシアさんは残念だったね」
ポーラの隣から、彼女の父親のオドリゲスが話をむけた。彼は30歳半ばで、色白の細面のひげをきれいにあたっている。高い詰襟の、赤茶の地に蔓草模様のダブレットがさまになっていた。飲みほしたワインのコップをテーブルにおき、
「ポーラとの縁組みが決まったとき、きみはフェリシアさんと交際していたそうだね。彼女の腹のなかには、きみの子供までいた。恋人と駆け落ちした気持ちは察するよ。男としての責任を感じたんだろう。いまでは、フェリシアさんはあんな状態になってしまい、もはや結婚もかなうまい」
「フェリシアは眠りつづけているだけです」
「しかし、魔法の力で肉体のおとろえをふせいでいるにすぎないんだろう」
「それは……」明日には、その効果も切れてしまうんだ。
「いいじゃないか」とオドリゲスの隣のアンジェラ大伯母が口をいれた。「こうして夫婦になったんだから、夫君の過去に情人がいたってかまやしないよ」
「大伯母さま、わたしとオベリスさんはまだ結婚式をあげていませんよ」
ポーラが大伯母の手の甲をたたいて、やさしくたしなめた。
「あの、ポーラさんとの縁談なんですけれど……」
ロドリーが食器の音をたてた。その目が、やめろ、と命令している。
「その話はやめましょう」さえぎったのはポーラだった。「大伯母さまは、わたしたちの結婚をよろこんでいらっしゃいます。オベリスさんは、今夜はゆっくりお休みになってください」
「それでは初夜か。新婚夫婦を邪魔してはいかんな」
そんなんじゃありませんよ、とポーラが大伯母をたしなめている。
コースは気まずい雰囲気のまま進んだ。しめのウエハースをたいらげたアンジェラ大伯母だけがご満悦の様子だった。
ディナーが終わると、眠そうな大伯母が執事につきそわれて退出した。ロドリーとオドリゲスが食卓でパイプをふかしている。
ポーラがハープの演奏を聴かせたいとオベリスを誘った。それぞれの父親の視線を意識しながら、オベリスはポーラのあとについて食堂を出た。
案内されたのは1階の大広間の奥にある音楽室だった。ポーラが、テーブルの燭台に火をともした。
樫の羽目板に何種類ものハープとリュートがかかり、板戸の窓際に長椅子が置かれている。ポーラの大伯母は若いころ音楽教師をしていて、この音楽室で生徒の指導をしていたという。
オベリスが長椅子に腰かけると、背後の板戸をうつ雨風が激しくなっているのに気づいた。今夜は荒れそうな予感がした。
ふと、部屋のすみの揺り椅子に、身長60センチほどの人形が足をなげだしているのが目にとまった。フリルのついた白とピンクのドレス、陶器の白い顔に金色の巻き毛をたらし、青いガラスの目でオベリスを見つめている。
「この曲は、おさないころ大伯母さまから習ったものです」
ハープを胸にかかえたポーラがオベリスの前に立っていた。弦の調律を確認したあと、軽やかなメロディーをつまびきだす。
ポーラは、素人のわりにはなかなかの腕前だった。ハープのぬくもりのある透明な音色が響いている。オベリスはどうしても音楽に集中できなかった。部屋の片隅からの視線が気になってしかたないのだ。
「どうかしましたか」
ポーラが演奏を中断した。オベリスの視線をおって、揺り椅子の人形に注意をうばわれているのに気づいたようだ。
「あれは大伯母さまからの結婚祝いの贈り物なの。わたしがまだ、お人形遊びをする子供だと思っているのかしら」
ポーラがハープを小卓に置いて揺り椅子に近づいた。彼女がその人形を両手で持ちあげると、1歳の幼児くらいの大きさがあった。
「わたし、お人形って大嫌いなんです。人間の姿形をしているけれど、魂のぬけがらなんですもの。声をかけても、頬をなでても、髪をすいても、なんの反応もないんですから。どんなに愛情をそそいだって、なにも返してきません。お互いの気持ちを共有するなんて、できっこないんですものね」
オベリスはうなだれた。まるでフェリシアの状態を言っているようだ。
「こんな心のない物体なんて、大嫌い」
ポーラが人形を床に叩きつけた。とたんに雷が落ちた。板戸のすきまから白い光りがさしこむ。戸をたたく雨風はさらに激しさを増したようだ。
オベリスの腕のなかに、やわらかく、あたたかいものがすべりこんできた。ポーラがオベリスの首にすがりついていた。彼女の背中が小刻みに震えている。戸外で雷鳴がとどろきわたった。
「わたし、怖いわ」
ロウソクの明かりのなかに、ほの白いポーラの顔がうかびあがっている。そのうす青い瞳が、じっとオベリスを見つめてくる。
ポーラの言葉が頭によみがえった。
『――人間の姿かたちをしているけれど、魂のぬけがらなんですもの。どんなに愛情をそそいだって、なにも返してきません。お互いの気持ちを共有することなんて、できっこないんですものね』
そうだ。フェリシアは心のない人形なんだ。それより――。
ポーラが、長いまつ毛のまぶたを閉じた。白い肌に赤い唇がきわだっている。オベリスは胸を突きあげる激情をおぼえた。すいよせられるように、彼女の唇に自分の唇を押しつけていた。
ノックの音がした。オベリスはハッとポーラを引きはなした。
ポーラが音楽室のドアを開けると、手燭をもった執事が立っていた。
「お嬢様、だいぶ暗くなりました。もうお休みになったほうがいいと存じます」
「では、おやすみなさい」とポーラが言い、執事とともに去っていった。
音楽室にとりのこされたオベリスの心はみだれていた。フェリシアは魂をうしなっている。その体もほどなくおとろえていくはずだ。そんな彼女に自分の人生をささげる義理なんてないじゃないか。
その夜――オベリスは夢を見た。
体はベッドに押しつけられたように身動きできない。目は閉じているのに、天井の暗がりが視界に映っている。そこに、長い髪をたらした幼女のうしろ姿がうかんでいた。ポーラの人形だろうか。
『オベリス』と人形の声が心にひびく。『あなたがフェリシアと、その双子の子供と暮らしたいと今でも望んでいるなら、明日の正午に、カナヅチ橋まで来てください。あなたの望みはかなえられるでしょう』
いいですね――ゆらりと人形の顔がこちらを向いた。それは流産した双子の片方だった。
「レーミア」声をあげて、オベリスは目覚めた。
天井にはなにも浮かんでいなかった。オベリスはびっしょりかいた顔の脂汗をぬぐった。夢だったとはとても思えなかった。
翌日の午前中、オベリスは気もそぞろに過ごした。昨夜の夢とも現実とも知れない出来事に気持ちをうばわれていた。食卓の話題は、オベリスとポーラの結婚式や披露宴の話でもちきりだった。
正午が近づいてくると、オベリスは、玄関広間でのくつろいだ席を立った。同じテーブルのポーラ、彼女の父親のオドリゲス、オベリスの父親のロドリーが、どうしたんだと視線を向けた。
「昼食の前に、せっかくだからアベロン市内を散歩してきます」
「でしたら、わたしがご案内します」とポーラも立ちあがった。
オベリスは断る理由を思いつけず、ポーラと同伴で玄関に向かった。ポーチの石段をおりる背後から、低く響く声がかかる。
「お嬢さまのお供をいたします。外出のさいには、わしに一声かけてください」
相手は、低い声にそぐわない、灰色のフード付きローブの腰をかがめた、小柄な老人だった。ポーラのお目付け役なのかもしれない。
*
霊能者ジョンが御者をつとめる馬車が城塞都市アベロンに到着したのは、正午の10分前だった。馬車は二頭立てで、天蓋のない、6人乗りの大型のものだ。ランドはジョンの隣に座り、粉ひきのシモン、ゴーラ、チビットは馬車の前の席、フェリアの体は後部座席に横たえてある。
ジョンによれば、フェリシアの霊魂はアベロンのどこかに自縛しているという。そこで、彼女の体のほうをここまで運んできたのだ。
城壁をまわりこんだ馬車が、馬車門からアベロンの都市に入った。壁の内側にそって進み、都市を貫流するカナヅチ川ぞいの通りに出た。
ジョンが馬車を止め、川をのぞむ岩壁に降りたった。その下の船着き場まで水位は上昇し、岸辺にしぶきをあげている。ジョンは、城壁の途切れている場所から都市に流れこむ川の上流のほうをながめている。
「なにを探しているんだ。フェリシアさんの魂はどこに自縛している?」
ランドは御者台から問いかけた。
「この川底に眠っているんです。崖くずれのあった土手から、アベロンまで流れてきちゃったんですよ。ええと、どこだったかなあ」
ジョンが岩壁のふちにしゃがみこみ、あふれかえる水流をのぞきこんでいる。怪しい霊能者に対するランドの不審は強まるいっぽうだ。
「市内をカナヅチ川にそって探してみましょう」
ジョンが御者席に戻ってきて、馬車を走らせだした。川岸の通りをはさんだ向かい側には、赤レンガの倉庫や商館がずらりと並ぶ。対岸の船着き場では、漁船や材木船や交易船が水流にゆれている。
「フェリシアさんの魂はカナヅチ橋の橋げたに引っかかっているんです」
うさんくさいことを言い、ジョンが橋の手前の岩壁に馬車を止めた。
そのとき、ランドは、カナヅチ橋をわたるオベリスと15歳くらいの少女に気づいた。彼女は、オベリスの縁談相手のポーラかもしれない。その2人の背後に、腰の曲がった、灰色のフード付きローブの従者がついている。
「いいぞ。時間どおりだ」
ジョンが席を立ち、シモンとゴーラの前部席を、長い足でまたぎこえた。
「なにをするつもりだ」ランドは御者台から声をはりあげた。
「ぬけがらの体のほうを、霊魂の自縛する川底に放りこむんですよ」
そんなバカな話があるもんか。「やめろ」ランドは立ちあがった。
ジョンが後部座席のフェリシアの上にかがみこんだ。「冗談じゃない」シモンが前部席からジョンを取りおさえにかかる。
「邪魔するな」ジョンがシモンを馬車の外にけりとばした。路面に体を強くうったシモンは身動きがとれなくなったようだ。
「やめるんだな」ゴーラがジョンの頭をつかんだ。ぐいっとひねったとたん、ぽろっと外れた頭部がゴーラの手にのこった。「うへえ」
ジョンが片手でゴーラを突きとばし、その岩の体が御者台に激突した。
ランドはジョンの腕につかみかかった。ジョンはそれをものともせず、ランドを片腕にぶら下げたまま、フェリシアの体を頭上高く持ちあげた。ランドは全力でジョンの腕をおさえようとするが、まったく通じない。
「フェリシア」オベリスの叫び声がした。
カナヅチ橋の欄干に、オベリスが身を乗りだしていた。その背中にすがりつくポーラの表情は、こわばっているように見えた。ポーラの従者は、われ関せずというふうに静観しているようだ。
「さあ、フェリシアとオベリスをそいとげさせてやろう」
フェリシアを川に投げこもうとしたジョンの胴体を、チビットの魔法の矢がつらぬいた。「ぎゃっ」ジョンの頭が悲鳴をあげ、その体が片膝をついた。
ランドはフェリシアを取り返そうとする。そのとたん、一閃した大きな鎌の刃を、ランドはとっさに頭を下げてさけた。首のないジョンのかたわらに浮かんだ大鎌が、ゆらりゆらりとただよっている。
危なくて近づけない。ゆれる刃の前で、ランドは飛びかかる機会をうかがった。せまい馬車の座席では、うまく相手のすきを狙えない。
「おろかな人間よ。死神にはむかうとは身のほど知らずもいいところだ」
御者台にもたれたゴーラの手のなかで、ジョンの首がカラカラと笑った。
「それを川に放りこむんだ」ランドは指示をとばした。
「そうはさせるか」ジョンがフェリアをわきにかかえ、もう一方の手をのばしてきた。その手があやまって自分の頭部をはじきとばした。
「ああっ」悲鳴をあげるジョンの頭が路面で跳ね、岩壁の草むらで止まった。
首をうしなったジョンの長身が、フェリシアを高くかかげながら、うろうろしだした。目が見えないんだとランドは気づいた。
「おーい、川はこっちだ」
雑草のなかから、ジョンの頭部が自分の体に呼びかけている。
「ゴーラ、あの頭をなんとかしてくれ。川にけりこむんだ」
「わかったんだな」
馬車のステップに足をかけたとたん、ゴーラの重さと、車上での争いに耐えきれなくなった前輪の片方の車軸が折れた。ガタンと車体が川に向かってかたむき、2頭の馬車馬がいなないた。外れた車輪が水流に転がりおちる。
「ああっ」バランスをうしない、よろめいたジョンの手から、フェリシアが投げだされた。彼女の体があおむけの姿勢で空中に弧をえがく。
「しまった」ランドは思わず手をのばすが、届くはずもなかった。
*
オベリスはカナヅチ橋の上から異様な光景を目撃した。
首のない化け物がフェリシアを高くかかげ、馬車から川に放りなげようとしている。それを、ランドとゴーラが阻止しようとしていた。
フェリシアを助けに向かおうとしたオベリスをポーラが止めた。
「やめて。あれはフェリシアさんじゃないのよ。ただの彼女の人形よ」
「フェリシアは魂をうしなっているだけなんだ」
「そう、あれは彼女のぬけがらなのよ。あの人形があなたに微笑みかけたり、あなたの肌にふれたり、口づけをかわしたり、あなたを愛したりしてくれる?」
オベリスの腕にすがりついたポーラの瞳から涙があふれだした。
馬のいななきと叫び声があがった。かたむいた馬車に立ちはだかる怪人の腕から、フェリアが放りだされた。荒れた川に落下して、こまかく水が飛びちった。
「フェリシア」オベリスは欄干から身を乗りだそうとする。その腕を引きとめるものがあった。思いつめた表情のポーラだ。
「オベリスがおぼれしまうわ。あのフェリシアさんの体のなかに、彼女の心はないのよ。そんなぬけがらのために、自分の命を犠牲にしないで」
波立つ水流にフェリシアの顔が見え隠れしながら、橋げたの下を通る――。
『オベリス』
フェリシアの声が胸にひびき、オベリスはハッとなった。
「違う。あれは人形でも、ぬけがらでもない」
オベリスはポーラをふりきり、反対側の欄干に急いだ。橋の向こうにフェリシアが流されていく。オベリスは迷わず、あふれかえった水流に飛びこんだ。
*
ランドは、かたむいた馬車のふちから岩壁の下をのぞいた。
増水して荒ぶるカナヅチ川にのまれたフェリシアの体が、浮きつしずみつしながら流されていく。その先の橋の上では、欄干に身をのりだしたオベリスをポーラが引きとめていた。
「オベリス、危険なまねはするな」ランドは大声で呼びかけた。
なんとかしないと――そのとき、カナヅチ川を渡ったときのロープが馬車にあるのを思いだした。先のほうが切れていたが、それでも40メートル近くある。
死神が後部座席でおたおたしている。邪魔なので車外に突きとばした。
「チビット、弓に増強魔法をかけてくれ」
ランドは、ロープの片端を矢柄に結びはじめた。チビットの魔法がかかり、複合弓が金色の光りに包まれた。
オベリスがポーラをふりきり、反対側の欄干から川に飛びこんだ。
いけない――ランドは弓を手に、ロープの束をかついで馬車をおりた。路上では、上半身を起こしたシモンが頭を振っている。負傷している様子はなさそうだ。ランドは全力で走りだした。
カナヅチ川の向こう側では、20メートルほど先でオベリスがフェリシアの体をかかえている。岸に泳ごうとするものの、水流の速さにままならないようだ。
「洪水だ。洪水がカナヅチ橋に迫っているぞ」
警告の声に、走りだしたランドは振りかえった。
かなたの城壁を抜けてアベロン市内に流れこんだ濁流が、両側の岩壁からあふれながら突きすすんでくる。灰色にあわだつ波頭の高さは12メートル以上か。
時間差洪水だ、とランドはジョンの言葉を思いだした。
昨夜の豪雨で、山地の水源近くで氾濫した川の流れが、何時間もかけていま、下流域の都市アベロンに到達したんだ。
続