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宛城の悲恋

作者: うたう

 胡車児(こしゃじ)という男に(かんざし)をもらったとき、私はどんな顔をしていただろうか。

 私を女だと知る者はいなかった。殿も以前の上司であった夏侯惇(かこうとん)殿も、私の直属の部下達でさえも私を男だと思っている。私自身、齢十を過ぎた頃に、女は捨てたつもりでいた。昔から男に交じって遊ぶのが好きだった。相撲を取ったり、手頃な枝を得物にして戦の真似事に興じたりする日々だった。私はどの男児達よりも強かった。傷だらけで帰ってくる私を父母は嘆き、しきりに女の幸せというものを説いたが、私の心にはついぞ響くことはなかった。

 男として生きてく。女としての器量に欠ける私には、そのほうがずっと楽であるように思えた。私よりも強い者は、男であってもそうはいないだろう。切ったり張ったりする世界でこそ、私は幸せになれるのだと信じた。

 初平元年に領主の張邈(ちょうばく)が義挙し、反董卓(とうたく)連合軍に名を連ねたとき、私は募集に応じて兵士となった。その頃には、私の肉体は筋骨隆々としていて、誰にも女だと疑われることはなかった。木っ端な兵士の太腿よりも私の二の腕のほうが太かったのだから、それも道理だったろう。

 この決断は正しかったように思う。それを証明するように、功は勝手についてきた。ひとりでは誰も持ち上げることのできなかった牙門旗(がもんき)を軽々とはためかせたことで、伯長に抜擢された。私のいた部隊は、董卓軍相手の大きな戦に加わることはなかったが、小競り合いでは決して負けることはなかった。董卓の兵は気性が荒く、獰猛であるとの話だったが、私にとっては草木を薙ぐのと同じだった。戟を振るえば、眼前から敵は消えていた。

 その活躍を目にしていたのか、反董卓連合軍が瓦解したとき、曹操軍の将である夏侯惇殿に誘われた。二つ返事だった。張邈軍が居心地悪かったわけではない。董卓軍の主力との交戦を尻込みする諸将が多かった中、曹操軍は実に勇敢だったのだ。風を切り裂いて飛ぶ矢のように、曹操軍は微塵も躊躇することなく董卓軍に向かっていって、そして大敗した。しかし命からがらに帰還した彼らの姿が私には眩しく見えた。潔さや男らしさを私は感じ取ったのだ。この戦闘には、張邈軍からも参戦した部隊があったが、その部隊の者は、誰ひとりとして生きて帰ってこなかった。それでも私は羨ましく思っていた。勇敢な曹操軍と共に戦って死ねたなら、きっとそれは幸せな生涯だろう。だから、私は快諾した。夏侯惇殿の誘いを断る理由などなかった。

 やがて私は殿の親衛隊を取り仕切るようになった。自身の武技と忠義が認められたようで嬉しかった。殿の盾になることに一抹の恐怖すらなかった。私は誇りで満ちていたのだ。

 以前、母が私に女の喜びを諭したことがあった。曰く、愛する夫とともにあり、子らを設けて育むことこそがそうであると。しかしそれは、殿の傍に侍る以上の喜びをもらたしてくれるのだろうか。私には疑問だった。

 殿は不思議な人だ。もう学ぶことなどないだろうというくらいに書物を読み漁っていて、誰よりも博識であるくせに、何も知らぬ童子のようににっこりと微笑むことがある。かと思えば、戦場では血を滾らせて、悪鬼のような形相で敵に切り込む。そして詩歌を詠むときは、穏やかな表情を浮かべながらも、自信満々に滔々と吟じるのだ。

 私は殿に惚れていた。しかし、これは恋ではない。殿に見初められたいと願ったことなどなかった。殿から全幅の信頼を寄せられていると思える今、それ以上を願うべくもない。私はそう思っていた。

 自身の恋心に気づいたのは、(えん)城に入ってからだ。淯水(いくすい)に布陣したところ、対峙していた張繍(ちょうしゅう)が怖気づき、一戦も交えることなく降伏したため、張繍の居城であった宛城が曹操軍の支配下に置かれることになった。先遣した主力部隊を追うように、殿とともに後から入城した。宛の統治体制は、殿がみずから差配して整えるようだった。それで、私はしばらく宛城に留まることになったのだ。

 宛は、許昌(きょしょう)より少し南にあって陽気な土地であるのに、城内はなぜだかひんやりとしていて気味が悪かった。また風が運ぶのか、時折漂ってくる甘い香りが私の神経を逆撫でる。その都度、殿は夜の営みを思い出してか、頬を緩ませた。そんな殿の顔を見ないように、私は警戒を装って、そっと目を逸していた。

 甘い香の匂いは、鄒氏(すうし)の居処が出どころだ。鄒氏は、張繍の叔父である、亡き張済(ちょうさい)の妻であった女だ。そして今は殿の側妾に収まっている。一度だけ、鄒氏の姿を目にしたことがある。彼女は、絹のように光沢のある髪に新雪のような白い肌を持っていた。女らしい膨らみがあって、そのくせ壊れそうなか細さがあった。何からなにまで私とは対極にいるような女だ。鄒氏の口は、男を誑かすように赤くぷっくりとしていて大きかった。その口から、毎夜、嬌声をあげるのだ。しとやかな顔立ちに似合わない、姦しさで。少し離れたところにある、私の詰め控えている部屋にまで、その声は届き、私はいつも歯を食いしばっていた。耳を塞いでしまえれば楽だったのだろうが、殿を護る役目がある以上、聴覚を捨てることはできなかった。

 私は女だったのだ。そして、気づかぬうちに私は恋をしていた。報われることのない恋だ。誰よりも長い時間、殿の傍にあるのは誰か。私だ。それで充分ではないか。触れられたいなど、思いはしない。思ってはならない。

 降伏した張繍に不穏な動きは見られなかった。それでも許昌に戻るには、まだしばらくの日を要しそうだった。居室で部下からの警備報告の書類に目を通しながら、軽食をつまんでいるときに、胡車児は現れた。張繍麾下で随一の剛の者が胡車児であるとの噂は耳にしていた。なるほど、熊のような巨体を見れば、膂力(りょりょく)があるのはわかった。加えて所作に無駄がなく、しなやかだった。武技の力倆は、なんとなく推し量ることができた。

 一度会って話をしたかったのだと胡車児は言った。それで挨拶代わりにと渡されたのが簪だった。珠と飾りのついた華美な簪だ。

 戸惑う私に、胡車児はぶっきらぼうに言ったのだ。

「あんた、俺の女にならないか?」

 私は一瞬、言葉に詰まってしまい、すぐに怒鳴ることができなかった。

「無礼者!」と殊更、声を張り上げたのは、恥ずかしさを消すためだった。

 胡車児は動じることなく、しれっとしていた。

「あんた、女だろう」

 私は肯定も否定もできなかった。女であることをひた隠しにしてきたわけではなかった。それでも女であることは知られなかった。女であることを知られたとき、私はどうすればいいのかわからなかった。

「あんたは気づいちゃいないだろうが、仕草に(しな)があるんだ」

 考えといてくれ、そう言い残して、胡車児は部屋を出ていった。

 それから胡車児はよく私の前に現れた。私が殿の傍にあるときは、弁えてか近づくことはなかったが、ひとりになると必ず胡車児はやってきた。それでも男と女の会話を交わすことはなかった。胡車児は、周囲を気にする私を慮ってか、主に武術の話ばかりをした。鍛錬の方法であったり、槍のさばき方であったり、あくまでも男同士の会話に努めてくれた。胡車児も私も口数の多いほうではなかった。沈黙はすぐに訪れる。しかし、沈黙を息苦しいとは思わなかった。

 あるとき、殿に訊かれた。

「胡車児はどうだ? このところ、よく一緒にいるようだが」

 私が平静を装って、「悪い人ではありません」と答えると、殿は吹き出した。

「人柄ではない。技倆の話だ」

「大刀を使います。ああ見えて、刀さばきは柔軟です。なかなかの腕前かと」

 恥ずかしさに顔を火照らせながら、私はそう答えるのがやっとだった。

 私に似合う男がいるとしたら、胡車児のような男なのだろうと思う。不器用でぶっきらぼう、口下手で、熊のようにむさ苦しい、そんな男こそが私にはお似合いだ。

 女は好いてくれる男と結ばれてこそ幸せになれる。昔、母にそう言われたことがある。私を好きになる男なんているものかとたいして気にも留めていなかったのに、いざそうした男が現れると、澱が舞うように母の言葉を思い出す。私は女だったのだ。

 胡車児とのことは、あと二、三日で宛城を去ることになるだろうというときまで思い悩んだ。が、結局断ることに決めた。許昌に戻れば、私はまた男に戻れる気がしたのだ。鄒氏も許昌に移るだろうが、鼻につく香の匂いも、殿の他の妻妾が焚く香に交じってしまえば、きっと気にならなくなる。許昌に戻りさえすれば、私は女であることを忘れることができると思っていた。

 夜になって胡車児の居室に向かうことにした。私が警護から外れるときはいつも衛兵の数を増やすようにしている。月が厚い雲に覆われていたため、鄒氏の邸宅は普段よりもさらに多くの兵で囲んだ。

 部屋に通された私の顔を見て、胡車児がにんまりと笑った。胡車児の居室には、従者が二人いたので、私は人払いを求めた。

「それには及ばんさ」と、しかし胡車児は取り合わなかった。

 私は浮かれていたのだ。私のことを好きだという男が現れたことに。そして、その男の気持ちに応えられない心苦しさに、どこか私は酔っていたのかもしれない。

 長刀を佩かなかったのは、誠実でありたかったからだ。胡車児の気持ちにきちんと向き合って出した結論であることを示したかった。胡車児に返すために携えた簪が懐で異物であることを主張していた。

「あんたのこと、嫌いじゃなかったぜ。だが、男には私情を捨てにゃならんときがある。あんたならわかるだろう?」

 胡車児がそう言うと、武装した兵が数人、部屋に入ってきた。

 胡車児が従者の一人に命じた。

「張繍殿に、門は開かれたと伝えよ」

 門とは私のことか。私を殿の傍から引き離す。最初からそうした企てであったのだろう。思えば、毎夜、私は鄒氏の邸宅にある部屋のひとつに詰めていた。私ひとりを引き離すために、随分と手間と暇をかけたものだと苦笑した。

 胡車児は、女の私を好きになってなどいなかったのだ。悔しさはなかった。恥ずかしさもなかった。ただほっとしていた。殿を守ることに専心できる。胡車児を殺すことに何の躊躇いもいらない。

 私は簪を胡車児に投げつけ、部屋の出口へ駆け出した。

 胡車児の兵の数人がすかさず槍を突き出し、私を阻もうとしたが、私は槍を腕で払い除け、体当たりをして数人をなぎ倒した。折り重なるように倒れた兵を踏みつけ、外へ飛び出した。殿の元、すなわち、鄒氏の邸宅へ向かおうとしたが、すぐさま応援に駆けつけた兵に囲まれた。構えの甘い兵の槍を掴み、振り回して槍を奪った。そのまま、進行方向に立っていた兵の胸を貫く。息絶えた兵を槍にぶら下げたまま左右に振って、その両隣にいた兵を掻きわけて囲みを突破した。武器としての性能に乏しくなった、兵が刺さったままの槍は逡巡することなく、その場で放り捨てた。

 身軽であったため、武装した兵に追いつかれることはなかった。鄒氏の邸宅の門前で、部下達が戦闘を繰り広げていた。一度は門を破られたようだが、押し返し、今は敷地の外で戦っていた。よく戦っていたが、すでに手負いのものが多かった。私は背後から敵兵に迫り、味方と斬り結んでいた敵兵の背中に拳を打ちつけた。

「よく堪えた。もう心配はいらん!」

 私が鼓舞すると、険しかった部下たちの表情に光が射した。

 部下のひとりが差し出した剣を受け取ったとき、胡車児が手勢を連れてやってきた。五十人はいた。しかし、味方の兵は割かねばならない。

「ここは二十人。いや、十でいい。残りは裏門へまわれ」

 裏門でも同様に苦戦していることが想像できたからだ。増援がどれほど、味方を勇気づけ、奮い立たせるか。正門も裏門も突破されるわけにはいかないのだ。耐えて、凌いで、脱出の機会を窺うしかなかった。

「諦めよ! 曹操の命運はもう尽きている」

 胡車児の言葉を無視して、私は敵兵に斬りかかった。

 一人、二人、三人と斬り伏せる。

 部下達も私に続いた。しかし、すでに傷を負っている者たちだ。複数を相手にするのは難しく、激しく響いていた干戈を交える音は、次第にまばらになっていった。

 胡車児を仕留めなければ、巻き返せないと思った。私は、胡車児の前に立つ兵たちを右の手にある剣で薙ぎ、左の手でまた別の敵兵の襟口を掴んでは投げ飛ばした。

 胡車児と面と向かった瞬間、側面から矢が飛んできた。私は慌てて、剣を払ったが矢のすべてを撃ち落とすことはできなかった。二の腕に一本、太腿に二本の矢が刺さっていた。

 それでも私は立っていた。使い慣れた長刀であったなら不覚はとらなかっただろうに。口惜しさと苦痛に顔を歪ませると、敵兵が三人斬りかかってきた。剣先を躱し、すれ違いざまに刃を打ちつける。三人すべて殺したが、躱しきれずに左肩と右の脇腹を斬られていた。

 私は敵兵を見渡し、睨みつけた。気圧された敵兵たちが少し仰け反る。気迫で牽制し、私はまた胡車児と向き合った。胡車児が大刀を抜き、腰を落として構えた。私は諸手で柄を握り、上段から打ちおろした。刃が火花を散らし、そのまま鍔迫り合いになった。得物の違いか、負傷のせいか、あるいは息があがっているせいか、私は胡車児の圧を押し返すことができなかった。そもそもの膂力に差があったとは思いたくない。飛び退って、今度は片手で構えた。力任せに戦っては勝てないと思ったからだ。剣を片手で持つ以上、胡車児の大刀を受けきれない。大刀をかい潜って、胡車児の懐に飛び込みたかった。

 摺足で半歩間合いを詰めたところで、急に背後が騒がしくなった。

 胡車児は私から目を逸らさずに、「半数は裏門へ向かえ」と指示を出した。

 もう味方は皆、死んでいた。

 敵兵が動き始めたのを見て、私は横に飛んだ。胡車児との間合いを外すと、すかさず裏門へ行こうとする一団の中へ飛び込む。すべて敵だ。我武者羅に剣を振り回した。叩きつけ、撥ねあげ、突き刺す。そこで背後に一撃を喰らった。

 おそらく胡車児の一太刀だ。背中がぱっくりと割れたようだった。剣を地面に突き立て、私は膝から崩れ落ちそうになるのを堪えた。剣を引き抜いて、まだ戦わねばならないのに腕に力が入らなかった。私の呼吸が、情けないことに嗚咽のように響く。

「注進!」

 どこからか駆けてきた兵が叫んでいた。

「曹操が城外へ逃亡! 至急、騎馬にて追撃されたし」

 殿が城外へ脱出した。

 それを聞いた瞬間に私の手が剣から滑り、私は地面に突っ伏してしまった。

 私は護った。愛する人を護ったのだ。もう立てなかった。立ち上がる必要はなかった。

 満足だった。私は幸せな女だ。

 ゆっくりと視界が暗闇に包まれた。

 女にだって、こんな形の幸せがあっても良いではないか。

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