第8話
これぞ、恋愛!
ザック、あなたの顔が見たい。
私は、こっそり一つため息を吐いて視線を外に移す。
ふふ、そう思っているからかしらね。
何とはなしに薔薇の生け垣を眺めていると、一輪の大ぶりの薔薇が、ザックの顔をしているように見えてきたわ。
幻だとしても、口元がほころんでくるのがわかる。
嫌ね。ザックを思うだけで、気持ちが上向くの。
なんだか、悔しいわ。ザックの癖に、生意気なのよ。
それにしても、あの薔薇、まだザックの顔に見えるわ。
私、そんなに、ザックの顔を見たかったのかしら。
なんだか、怒り顔ね。そんな顔しないで。
笑ってちょうだい。いつもの、しまりのない顔で。
ザック……、あなたの幻はまだ消えない。
…………。
……え。
ザックの顔が、生け垣から消えない。
ちょっと待って。あれ、まさか……、幻覚とかじゃなくて、投影なんかでもなくて……。
本物ーー!?
まずい。まずいわ!完全に不審者!
内宮に忍び込んでるのが見つかれば、ザックが罪に問われてしまう。
ザック?ちょっと待って?
それ、何?長細い筒を取り出して……咥え……!?
吹き矢!?
ヒューコフ殿下に向けてるーーー!!
騎士は!護衛騎士は白目中でまだザックに気づいて……待って!そっち向いちゃだめへええええ!!!
私は思わず立ち上がった。
足がテーブルにぶつかり、カップや皿が、ガチャガチャと音をたてる。
こぼれた紅茶を、侍女が慌てて拭き、視線が私に集まる。
私は、ヒューコフ殿下に頭を下げた。
「大変な粗相を致し、申し訳ありません。妙な虫が足元に……」
「そうか。急に立ち上がるので、驚いた。しかし、虫除けはしているはずだが……」
「ええ、見間違いでしたわ。お恥ずかしいことです」
「いや、令嬢なのだ。虫が苦手でも不思議はない」
ヒューコフ殿下が失態を犯した私への理解を示す。
寛容だわ。立派な貴公子っぷりね。
乳母の膝の上で、その乳母の耳をむにむに触りながらでなければ、ね。
私は、紅茶でドレスが汚れたのを理由に、お茶会を早々に切り上げることにした。
カーテシーをして、侍女と護衛騎士に囲まれ、東屋を後にする。
生け垣が気になるけれど、決して振り返ってはいけない。
私の目線で、ザックの存在に気づかれたらいけないもの。
私は、背後に意識を集中させながら、足早に屋内へと戻った。
後ろで特に騒ぎは聞こえなかったから、きっと、ザックは矢を吹かず、その場から去ったのはずだ。
私の心臓は、不安でうるさく音を立てていた。
王宮からの帰り、外宮の使用人控え室でザックの姿を確認するまで、私の心臓は、ずっと嫌な音を立て続けていた。
その夜、侍女を下がらせた私は部屋にこっそりザックを呼んだ。
話の内容が内容だけに、人に聞かれるわけにはいかない。
座って待つ気にもならないまま部屋の中で立ち尽くしていた私は、そのままザックを迎えた。
ザックは、【隠蔽】の魔道具を使って私の部屋に入ると、ムスッとした顔で私を睨んだ。
「どうして、あんな愚かな真似をしたの!」
「本当にあんな奴と結婚するのか!」
私達の声が重なる。
私は、少し息を呑んで、そして手でザックを制してから、話し始めた。
「『隠蔽』の魔道具で内宮まで入り込んだのでしょうけど、あんなものは奇跡なのよ!私は以前の事件があったから『看破』の魔道具を身に付けていたし、内宮はスキルや魔道具が無効になるような場所ばかり。あの場だって、ヒューコフ殿下がいたから、無効化の範囲内だったはず!もし、誰かに見つかっていたら!」
「俺はこれでもA級だ。魔道具無しでも魔物や盗賊に見つからないように動くのは慣れてる。王宮の警備なんて俺にすりゃザルなんだよ!バレても、お嬢様に迷惑かかんねえように、罪は一人で……」
パシンッ!
思わずザックの頬を打つ。
ザックは避けなかった。
「……そうだよな。もし見つかったら、平民の俺だけ処刑じゃ、すまねえか。お嬢様にもこの家にも迷惑がかかるもんな。それは俺が悪かった。すまない」
違う!そうじゃないわよ!私のことなんて、どうでもいいの。
あなたが……、あなたが処刑なんてことになったら、私は……!
ああ、私、何を考えているの。
これじゃあ、私、まるでこの男のことを……。
私は、私は、エイラ・マグナクト伯爵令嬢。そんなこと、あってはならない!
「……そうよ。あなたはマグナクト家の使用人なのよ。あなたが捕まれば、この家に迷惑がかかるの。もう、二度とあんなことしないで!」
「しかし、あの男!あれがお嬢様の結婚相手なんだろ?なんで、お嬢様の前で他の女と……。あんな男と結婚したら、絶対幸せになんかなれないだろ!」
ふざけないで……。ふざけないでよ。
なんで、あなたにそんなことを言われなくてはならないのよ。
「あなたに関係ないでしょう!あなたが殿下と結婚するわけじゃない。あなたは、パン屋の売り子だとかいう娘に結婚を申し込むのでしょう?!愛する人と幸せに?勝手になりなさいよっ。私には関係ない。あなたも、貴族の婚姻に口を出さないで!あなたに、私は関係ないのだから!」
「関係なくなんてねえよっ!」
ドクンッ。
心臓がはね上がる。
どうして。私は、何を期待しているというの?
私は、恐る恐るザックに尋ねる。
「私の、何が、あなたに関係あるというの……?」
「……雇い主、だから」
は?
「俺を拾って雇ってくれた恩人で」
恩人……。
「……俺がいつも、リミルちゃんのことを話すのをなんだかんだで聞いてくれるし……」
聞きたくない。そんな話、本当は聞きたくなかった。
「……俺が、リミルちゃんにもう一度、結婚を考えてもらえるチャンスをくれたのは、お嬢様、だし……」
「ザック……、そうね。私は、あなたの恋の恩人よ……」
「お嬢様……」
ザック、私を愛さないあなたなんて……。
「出ていって。今すぐ、私の前から、消えて」
「なんでだよ、お嬢様!」
「分をわきまえない庶民は大嫌いなのよ。あなたなんて、大嫌い!」
髭に覆われたザックの顔が悲しみの色を帯びる。
嘘よ。
本当はもう、自分でもわかっているの。
この感情が、どこから来ているのか。
「明日一日、あなたに休みをあげるわ。その間、私の前に顔を出すのを禁じます」
「お嬢様!俺はあんたのためを思って……」
「黙りなさい。消えて。今すぐ!」
ザックが、絞り出すように答えを返した。
「……わかったよ」
私はザックに背を向けた。
ザックの足音が遠ざかる。
バタン……。
扉の閉まる音が聞こえた。
パタッ、パタッ……。
カーペットに、次から次から、小さな丸い染みが生まれていく。
明日一日だけ。
一日だけ時間をちょうだい。
どうしても、あなたを切り捨てられない私だけど、それでもせめて、貴族令嬢のエイラ・マグナクトに戻るから。
あなたの馬鹿馬鹿しい惚気を、呆れながら聞いてあげられるいつもの私に。
「愛なんて、大嫌い……。大嫌いよ……」
愛なんて、……もう、消えて。
自分で書いて泣いた。(←アホ)