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ラフライフ! -底辺空手家アイドル下克上‐  作者: 甘土井寿
一章 写真のストーカー編
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第33話 公道デュエル

前回のあらすじ:赤い貴婦人が駆るは白のランエボ! 公道レース開幕!


「係長、お疲れ様でした」

「おう、お疲れさん」

 午後17時過ぎ、彼は居残る同僚たちに挨拶をして帰路についた。


 彼の名前は春野しげみち(36)。京浜工業地帯の自動車部品メーカーで働くごく平凡なサラリーマンだ。職位は営業一部係長。出世は早くも遅くもない。家族は妻一人、子一人で再来月にはもう一人子供が生まれる予定である。


「よし、バスの時間に間に合った」

 彼の会社のある工業地帯から駅に向けて定期バスが通っている。そのバスに10分ほど揺られると、その後は電車を1時間ほど乗り継いで郊外の住宅地にある自宅を目指す。


(この分だと19時前には帰れるな。今日は(りょうこ)息子(あきお)と揃って夕飯が食べられそうだな)


 好きだった自動車関連の仕事について、事故や大病とも無縁。何より家に帰れば暖かく迎えてくれる家族がいる。傍から見ればそれなりに順風満帆の人生と言えるだろう。彼自身今の生活はとても幸福なものだと捉えていた。無論、人並みの不安や悩みが無い訳ではないが、今以上を無理に望む必要などはなくこれ以上を求めるなら周囲に業突く張りと非難されるだろう事も彼は理解していた。実際、彼は不倫やギャンブル、無謀な投機に手を染める事もなく、生活態度は至って模範的である。しかし……


(今の会社に入ってはや10余年。仕事もプライベートも100点満点では無いにせよ、ぼちぼち上手くいっている。今の境遇に不満があるわけじゃない……だが、一体何だっていうんだ、この……この胸にのしかかる重み……言いようのない不安は……)

 

 春野は帰りの電車を待つホームでの時間、時折この様な思いに駆られる。己の人生でもっと別の道があったのだろうか、もっと大きな充足感を得られる生き方があるのではないだろうかと。不毛と分かっていながらも、彼は自問するのを辞められない。

 そんな時、彼の心に去来するのは若い頃地元の悪友たちと車で走り回ったあの日々だ。法定速度を大きく超えて公道を爆走する。スピードを出すために愛車を改造しては、それを仲間たちと見せびらかし合う……より危険な事がステイタスになると思い込み、馬鹿げた事もたくさんやった。そんな過ぎ去りし青春の日々だ。


「ぐ、ぐうっ……」

 電車がホームに到着すると、彼はすし詰めの車内に捻じ込まれ、叩きつけられるように反対側のドアまで一気に押しつけられた。ドアのガラスには地味な色のスーツを着た髪の薄い中年男性が映る。


(しょぼいオッサンになったなあ)


 昔はもっとギラギラしてたのに……と独白で今の自分を卑下する。彼は周囲の者には自分の若い頃のワル自慢はしない。若気の(イキ)り、恥ずべき過去ときちんと理解しているからである。妻も春野の当時の事を多くは知らない。それこそ、子供にかつての自分について話して聞かせれば、悪影響になるばかりだろう。だが、それでも春野の心の中には常にあの頃の記憶があった。セピアに褪せることない輝かしい情景が脳裏にはいつでも浮かんできた。


「若い時にもっと勉強していればよかったよ。お前らも俺のように苦労したくないなら、若いうちに勉強しておけよ」


 彼は周囲の若者にこう語る。それは自分への戒めの意味もあった。もう馬鹿げた事はしない。馬鹿げたことから卒業し、勉強して大人になった。そんな自分がカッコイイのだと。目の前のささやかな幸せを享受する為にはそうなるしかないと、自分自身に言い聞かせるように語るのだ。


 しかし、では彼の感じるこの閉塞感は何であろうか?周囲に語る言葉とは裏腹に、春野の胸中を吹き上がる自由への憧れ。この焦燥は一体なんだと言うのであろうか?


(今、この満員電車の中で全裸にでもなって大暴れしたらさぞスカッとするのだろうな)


 春野は実現できぬ妄想に耽り帰宅までの憂鬱な時間を過ごしていると、ふと電車外の景色に目をやる。京神(けいしん)急行線の走る高架からは、すぐ横を並走する第一京浜道路が見下ろせる。首都圏一帯有数のメイン道路であり、通勤ラッシュのこの時間帯は走る車の数も非常に多い。若い頃の彼も、流石にこの時間帯のこの道で危険な走りをしたことはなかった。


「ん? あれは……」

 何百、何千台と走る無数の車群。その間を縫うように2台の車が突出したスピードを出しているのが見えた。


(なんだアイツら!? 車通りの多いこの時間帯にチェイスするなんて……どこの命知らずの走り屋だ!)


 走り屋とは車やバイクを使って公道でレースを行う者たちを指す俗称である。暴走族とは違い純粋にスピードやドライブテクニックを競う事が目的であり、春野も若い頃はこの走り屋と呼ばれていた。


(京急のネオ快速は国内在来線最速! この区間では150km以上は出ているはず……それを一般道の通勤ラッシュで並走するとは……!)


 春野は電車と並走する2台のマシンを観察する。


(一台は白のランエボ……その相手は……トゥモロー!? 軽自動車だと!?) 


 ランエボことランサー・エッジボンバーは八菱自動車製のスポーツカーであり、ニチサン製のスカイレインと並び走り屋に人気の高い車種である。かたやトゥモローはモトダ製の古い家庭用軽自動車である。性能差は歴然であるが、なんと先行しているのはトゥモローの方であった。


(確かにトゥモローは軽自動車の中では重心が低くスピードも乗りやすいと聞く……だが、そもそものマシンスペックがダンチなんだ! こんな勝負、長続きするはずは……)


 しかし、先行するトゥモローは追走するランエボに前を譲る事はない。僅かなスピードの調節と絶妙なコース取り。他の走行車との車間距離をも利用し、巧みに車線を切る。


「サーキットや高速でのレースがリング上のボクシングなら一般道でのレースは文字通り路上の喧嘩! ルール無用のバーリトゥード! ナデモアリなら……軽の小回りを舐めてもらっちゃ困るぜ!」


 そんなトゥモローを操るドライバーの叫びが聞こえるようだった。


(そうか、通勤ラッシュのこの時間帯……速度がまちまちの走行車をかわしたり、標識や信号、道路工事などへの環境変化に対応しながら走るこの戦いなら、維持できる速度は常時150km程度が限界……! それならスペックの劣る軽にも分はあるって訳か!)

 

 しかし、一度でもスピードを緩めれば軽自動車のパワーではスポーツカーの加速にはついていけない。また、先行車は並走する車や進路の障害物をかわす判断を瞬時に下し、走路(ライン)を決定しなければならない。一歩間違えれば、即クラッシュ。レースは奇跡的なバランスの上で成り立っているが、いつ破滅を迎えてもおかしくはないギリギリの勝負である事は間違いなかった。


(この勝負……勝敗を分けるのはマシンスペックでもドラテクでもない! 精神力が尽きた方が負ける! 果たして、トゥモローのドライバーの精神はどこまで持つか!?)


 スピードを競う競技に身を置いた事があるものは皆、一様に言う。ほんの数秒の出来事が、数十分、数時間にも感じることがあると。日常で生きる数秒と、レースの中での時間の濃さが違うのだと。もちろんこれは科学的にはありえないことだ。

 2台の狂気がしのぎを削る刹那の時──この永遠にも思える数分間を、春野はただ電車から眺めていた。


(かつての俺なら、あんな主婦がスーパーに買い物行くみたいなマシンを……カッコイイ、だなんて……思うことは無かった)


 そしていつしか、トゥモローのドライバーを応援していた。


(がんばれ!! そうだ一つの機能に特化したマシンじゃなくたって……見てくれがどうでも、他の人たちと変わらない中でだって……栄光をつかめるって事を俺に教えてくれッ!!)

 

「鶴見川がゴールだァ!」


 春野は線路と道路の並走区間の終着点である鶴見川を渡る陸橋を勝手にゴールに定めた。しかし、トゥモローは鶴見川の手前の交差点でいきなり右折。ランエボもそれを追った。対向車の間を縫いながら、二車は春野の視界から一瞬で消えていった。


『まもなく川崎ー、川崎に止まります』


 停車駅が近いことを車内アナウンスが伝えると、電車は少しずつ速度を緩めていった。


(……あのトゥモローは、ランエボに勝ったのだろうか?)


 電車がホームに止まり、扉が開くと春野は乗り替えの為に電車を降りた。


「いや、勝ち負けなんてどうでもいいか……」


 この数分間の狂気を目撃したことで彼の人生の何かが変わったわけではない。天啓のようなアイデアや大きな決断のきっかけにもならない。時に楽しく時に辛い、あたりまえの日常が、いつもと変わらずどこまでも続いているだけなのだ。


 しかし、彼の足取りは軽い。春野しげみちはいつもよりほんの少し広い歩幅で、妻子の待つ家を目指すのであった。


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