コックリさんをしましょう
人間が狐に憑り憑かれる瞬間を見たことがある。
あの時俺は中学三年生で、夏休みの直前で、授業中だった。暑くてクラス中みんな汗だくだった。まだ中学校に空調機など設置されていないのが当たり前の時代だった。あまりに強い日差しのため窓の外は眩しく、そのせいで蛍光灯が点いているはずなのに教室内がなんだかボンヤリと薄暗く感じた。そういう日だった。多分セミもうるさいくらいに鳴いていた。
昼休み、教室の後ろのほうで何人かの女子がコックリさんをやっていた。
コックリさんを知らない人はいないだろう。平仮名の50音と「はい」「いいえ」と鳥居の印を書いた紙に10円玉を置き、参加者全員がその10円玉の上に指を置く。「コックリさんこっくりさん、御出でください」と呼びかけると、10円玉が勝手に動き出し参加者の質問に何でも答えてくれる。一種の占いというか降霊術というか、そういう遊びだ。
ちなみにうちのクラスでは10円玉より100円玉、100円玉より500円玉と値段の大きい硬貨を使用するほど、コックリさんがもたらすお告げが正確になると言われていた。ただし5円玉と50円玉は使うと呪われるそうだ。理由は知らない。
さて。話を戻そう。
その日、数人の女子がコックリさんに興じていた。
明日の天気のこと、次の期末テストのこと、クラスの誰が誰を好きで誰を嫌いかという人間関係にまつわること。コックリさんがひとつ答えるたび、いちいちきゃーきゃーと甲高い声をあげて、やかましいこと、このうえなかった。
といっても昼休みの教室なんて、他にも箒でちゃんばらする者やどたばたと追いかけっこをする者、でかい声で冗談を言い合い机をバンバン叩く者など、やかましい連中はいくらでもいるものだ。だから俺はコックリさんをしている連中を特段気にするわけでもなく、ただ他にやることもないという理由で頬杖をつきながらぼんやりと彼女らを眺めていた。
しかし鈴木利子にとってはそうではなかった。
そう。
ちょうど、そのコックリさんをやっている連中の前の席に座っていたのが鈴木利子だった。
鈴木は長身細面で顎のラインがとても鋭角的であり、端に角度がついたシャープな銀縁メガネをかけていることもあいまって一見して繊細、というか神経質そうな印象を与える女子だった。そして実際その外見的印象どおりの性格だった。
「ちょっと貴方たち、さっきからうるさいんだけど。気が散って午後の授業の予習に集中できないじゃない」
「は? 休み時間なんだから別にいいじゃん。あたしらの声が気になるんなら自分が図書室でも行けば?」
即座に言い返したのは屋澤ゆりか。コックリさんをやっていた女子グループのボス格の女だ。屋澤と鈴木は我が強い女同士なので前から折り合いが悪かった。だからまあ、この衝突は必然だった。
「なんで私が図書室行かなきゃいけないわけ。屋澤、あんたの席あっちでしょ。取り巻きつれて自分の席に戻んなさいよ」
「そんなのできるわけないじゃん。コックリさんは一度始めたら、最後まで10円玉から絶対指を離しちゃいけないの。そんなことも知らないの?」
「コックリさんなんて本気で信じてるわけ? ホントあんた達の頭って幼稚だよね」
そこで屋澤ゆりかの取り巻きの一人である村上瑞穂が口を開く。
「鈴木、あんたそんなこと言うとマジで呪われるよ。ゆりかちゃんには霊感があるんだから」
ちなみにこの村上、オカルトとか心霊の類がかなり好きらしく、このときのコックリさんの台紙を用意したのもこの女だった。数学の授業中に先生に隠れて一生懸命つくっていたのを俺は目撃している。他力本願な性質の女で、教室では屋澤の威を借りてでかい態度をとっており、オカルトに傾倒しているのも、そういう普通とは違う超自然の力に頼っていい思いをしたいという願望が心の底にあるからではないかと俺は推測している。
「霊感とか馬鹿じゃないの。呪えるもんなら呪ってみなよ」
屋澤がニヤァっと口元を歪めた。
そのときには教室内のほとんどの者がこの騒ぎに気付いており、皆遠巻きに様子を伺っていた。
「言ったね鈴木。そんなに言うなら今からコックリさんにお願いしてあんたのこと呪ってもらうから。いいんだね?」
「別に。私はコックリさんなんて信じてないから」
「あっそ。じゃあ本当にやるから。後でどうなっても知らないからね」
「お好きにどうぞ」
ふーん、と馬鹿にした感じで嗤うと屋澤は視線をコックリさんのほうに戻した。
あれだけ騒がしかった教室が、今は静まり返っていた。
ごおおおおと音が響き、その音につられて窓の外を見ると、遠くの空を飛行機が飛んでいた。
「コックリさん、コックリさん。鈴木利子を呪ってください。鈴木利子はコックリさんのことを馬鹿にしました。どうかどうか、呪ってください」
捲くし立てるように一息に、抑揚の無い低い声で、屋澤が言った。
10円玉を押さえる指に力がこもっているのがわかった。
二秒経ち、七秒経ち、三十秒経つ。
動かなかった。
10円玉はぴくりとも動かない。
「コックリさん、コックリさん。鈴木利子を呪ってください。コックリさんのことを馬鹿にする鈴木利子に呪いをお与えください」
やはり動かなかった。
今度は鈴木のほうがニヤリと笑った。
「なに? 呪うんじゃなかったの?」
「うるさい黙ってろよ」
屋澤の声に焦っている感じがあった。教室中の誰も声を発さなかった。ただ、何処からともなく嘆息が漏れた。
「コックリさん、コックリさん」
今度こそ、という感じで屋澤がもう一度言う。
「鈴木利子を呪ってください。どうかどうか呪ってください」
生ぬるい風が吹いたような気がした。
予感があって、ごくりと息を飲んだ。
10円玉が動いた。
「いいえ」の文字のところまで動いた。
「なにこれ。なんで? なんで言うこときかないの? コックリさん、コックリさん。鈴木利子を呪ってください」
ぐるぐると、紙の上を10円玉が不規則にさ迷い、最終的にもう一度「いいえ」の文字のところに戻った。屋澤の顔が歪んでいた。思い通りにならない悔しさか、怒りか。しかし鈴木の顔も歪んでいた。コックリさんなど信じていない。自分を呪うことなどできるはずもない。そうは思っていても、屋澤のあまりに真剣な様子に何か異様なものを感じているようだった。端的にいえば気味が悪い。
「コックリさん、コックリさん。鈴木利子を呪ってください」
また動く。紙の上を10円玉がくるくる回る。
くるくる回って、今度は「いいえ」の位置に戻るのではなく、こんどは別の文字を指した。
ぜ。
ん。
い。
ん。
ぜんいん。
全員?
「どういう意味?」
村上が言う。声が震えている。
「全員ってなに。鈴木だけじゃなくてあたしら全員呪うってこと?」
誰もその問いには答えなかった。答えられなかった。
昼休みの終わりのチャイムがその時鳴った。
一瞬その場にいた皆の体が硬直したが「コックリさんコックリさんお帰りください」と屋澤が唱えると、10円玉は鳥居の印の場所にスーッと滑って戻っていった。
5時間目の授業は英語だった。英語を担当する二宮先生は大学を出たばかりで20代前半の若い女の先生であり、気さくな物腰のため生徒から人気があった。
先生が教室に入ってきた瞬間、クラスの全員が「あれ?」と思った。
様子がおかしかった。
いつもは教室に入ると「ハロー、エブリワン」とニコニコ笑いながら挨拶するのだが、そのときはそれが無かった。表情もなんだか固く、教卓に向かう足元がぎこちなかった。どうしたのか、と問いかける間もなく先生はバタンと倒れ、そのまま起き上がらず両手両足で這うように歩き始めた。
目つきがおかしかった。
いつも柔和な笑みを湛えていたその瞳が、ギラギラと鈍く輝いていた。
四つん這いで歩きながら「ふーふー」と息を荒げていた。
コックリさんだ、と全員が思った。コックリさんが二宮先生に憑り衝いた、と。
どうしていいかわからずポカンとしている俺達の前で先生は教卓に飛び乗り、髪を振り乱して口を上に突き出しながら「ケケケケ」と笑った。地面の底から響いてくるようなくぐもった気味悪い声だった。とてもあの二宮先生の口からでた声とは思えなかった。それから先生はギラギラと脂ぎった瞳をクラス全体に向けて
「全員だぞ。全員だからな」
と喚いた。
廊下を挟んだ向こう側の音楽室から、ポーンポーンとピアノの音が聞こえてきた。どこかのクラスが授業で合唱を始めたのだ。大地讃頌の伴奏だった。
二宮先生の顔が元に戻っていた。
いつもどおりの優しい表情に戻って「あれ。あれ。私なんでこんなことしてるんだろう」と呟くと、教卓の上でボロボロと泣き出した。まだ中学生の俺は、大人がこんな風に人前で大泣きするところなんてみたことがなくて、それにさっきまでの異様な雰囲気の二宮先生を思い出して、全身が総毛立つような感覚に襲われた。
俺だけじゃない。
クラスのあちこちで、何人もの生徒が二宮先生につられて泣き出した。
二宮先生は、そのまま学校を辞めて二度と俺達の前には姿を見せなかった。
あの日誰かが言っていた。
「全員って、俺達全員か。クラス全員か」
他の誰かが言った。
「もう一度コックリさんをやろう。コックリさんを呼んで許してもらうしかない」
馬鹿なことだと、そのとき俺は思った。
放課後にクラス全員でもう一回コックリさんをやろうと、皆はそう決めた。
鈴木も、屋澤も、村上も。それに他の奴らも全員で。
馬鹿なことだと、そんなの意味がないと、そう言って俺はそれに参加しなかった。口では「そんなことしても無駄に決まってるだろ」と言っていたが、今ならわかる。本当はあの時俺は、ただ怖くて逃げ出しただけだった。要するに俺はクラスで一番の臆病者だったわけだ。
あの日の放課後、確かにコックリさんは行われたらしい。
俺以外のクラス全員でコックリさんをやったらしい。
そこで何が起こったのかは、知らない。
ただ翌日、朝一番に教室に入った俺は、教室中が獣くさい臭いで充満していると感じた。
誰もいない静かな教室に、つい先ほどまで獣がのしのしと歩き回っていたような気配があった。程なくしてクラスの他の連中がまばらに登校してきたが、だれもその臭いを気にする素振りは見せなかった。
放課後のコックリさんがどうなったのかは、わからない。クラスの誰もそのとき起こったことを口に出そうとはしなかった。
でも雰囲気でわかった。
失敗した、と。
あまりにも獣の臭いが酷すぎて、しかも何日経っても一向にその臭いは消える気配すらなく、担任の指示で俺達3年C組は教室を移動した。2階にある空き教室を新しい3年C組の教室とし、それまで使っていた場所はドアに鍵がかけられ、さらに赤いビニルテープで隙間が目張りされ、完全に密閉されて臭いが漏れ出ることはなくなった。
十年以上経った今でも、その教室は封鎖されたままらしい。
きっと俺達は今でも呪われている。
コックリさんに呪われている。
別に何か不幸な出来事が起こったわけではないが、今でも体に染み付いた獣の臭いがうっすらと残ってとれないのだ。臭いは教室からだけ出ているのではなかった。俺達自身の体からも湧き出していた。
そういえば不思議なことにあの日以来、鈴木利子の雰囲気が変わった。
険のある感じではなくなり、穏やかで人当たりの良い人間になったのだ。まるで別の誰かと入れ替わってしまったようだった。そしてなんとなくクラスの連中からは腫れ物に触れるような扱いをされているというか、皆うっすらと彼女を避けるような雰囲気があった。
クラスメイトの一人にそのことを密かに尋ねてみると「ああ。お前はあの日、コックリさんやらずに帰っちゃったんだっけ。あいつな、もう鈴木利子じゃないんだよ」と言っていた。俺はもっと詳しくその話を聞きたかったが、そいつはそれ以上何も答えてくれなかった。
中学を卒業し、俺は近所の私立高校に進学した。鈴木も同じ高校に進学していた。
在学中、俺は一度も鈴木と口をきくことは無かった。ただ、放課後の教室であいつが他の女子たちとコックリさんをしているのを見たことがある。その光景は何度も目撃したが、鈴木以外の参加メンバはいつも違っていた。2年の半ばごろに、学校内でコックリさんをすることを教師から禁じられたが、鈴木たちはその後も放課後に学校近くのファミレスなどでこっそりとやっていたようだった。
高校を卒業してからは、鈴木とも、その他の中学時代の同級生とも一度も会っていない。