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「それもよくわかりませんでした。さっきもいったけど、暗かったし、木がいっぱい生えていたし。怖くなってすぐに逃げちゃったし。あの女の人に、目玉だけ残していなくなってしまったあの女の人に、何も言わずに逃げちゃったし……。でも、でも、でかいのは間違いないんです。僕が見たのは、多分あれの一部だと思います。それでも、一部だけでも、熊よりもでかかったんです」
「一部だけでも、熊よりもでかかったんだね」
「そうです。でかいんです。だから危険なんです。ものすごく危険なんです。それで熊じゃなかったと何度も何度も言ったのに。いつの間にかみんな熊に襲われたことになって。僕が見たのも、熊を見たと言うことにされてしまって。おまけにお母さんからも、そのことは誰にも言うんじゃないと、きつく言われてしまって……」
「あれは熊じゃないということを、誰にも言うんじゃないとお母さんに言われたんだね」
「はい。言われました」
「でも、私には言っているね」
「ええ。木藤さんは、愛犬が襲われたんでしょう。僕も一匹犬を飼っています。だから、なんというか……」
「犬を飼う人の気持ちが分かると、言いたいんだね」
「そうです。それなんです」
木藤が笑った。
その顔から、そんな笑顔を作り出すことが出来るとはとても思えないほどに、さわやかな笑顔だった。
「お母さんの言いたいことは、おじさんにはよくわかるよ。その一部でさえ熊よりもでかい化け物が近所の山の中にいる。そんなことを自分の子供が言い出したら、とても平常心ではいられないだろう。私も子供が二人いるからね。同じ親として、それくらいのことは簡単に想像がつくよ。お母さんは君の事を思って言っているんだから。君の事が心配で言っているんだから。だからお母さんの言うことは、ちゃんと聞いたほうがいいよ。お母さんのためにも、君のためにもね。山の中の化け物のことを言うのは、この私で最後にしなさい」
「……」
「わかったね」
「わかりました」
「そう。それでいい。それでいいんだ」
木藤は振り返り、歩き出した。
が、すぐにその歩みを止めて、背中のままで言った。
「あれは化け物だと、君は言ったね」
「はい、言いました」
「その言葉、私は信じるよ」
「えっ、本当ですか」
「信じるも何も。そんなことは私には最初からわかっていからね。私はあの秋田犬、金剛の飼い主だ。十年近く、あれを毎日見てきた。金剛のことなら誰よりもよく知っている。その金剛に何もさせずに、鳴き声の一つもあげさせずに……」




