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「そりゃそうでしょう。人や大きな動物を襲えるやつなんて、このあたりでは熊ぐらいしかいないわよ」
「でも、あれは絶対に熊なんかじゃないよ。間違いないよ」
「恵一!」
母親の口調がさらにきつくなった。
「なっ、なんだよ母さん」
「恵一、よく聞きなさい。それ、警察はもちろんのこと、学校の先生やお友達にも、近所やの人や親戚のおじさんやおばさんにも、つまり誰にも言っちゃだめよ。誰にもねえ」
「なんで?」
「恵一の頭がおかしいと思われるからよ」
「そんなあ」
「恵一。お母さんはあなたのためを思って、言っているのよ。学校でもご近所でも「あいるの頭、おかしいぞ」なんて噂が広まったら、あなたがどれだけつらい思いをすることか。考えただけで、ぞっとするわ」
「……」
「だからこれからは、そんなことは誰にも言っちゃだめよ。わかった」
「……」
「恵一、返事は?」
「わかったよ」
「そう、それでいいの。それでいいのよ」
そう言うと母親は、恵一の顔を覗き込んでから立ち上がり、台所へと足を向けた。
恵一は一人残った居間で、小さく呟いた。
「誰がなんと言おうと、あれは絶対に熊なんかじゃない。熊なんかじゃないんだ」
と。
ある日、岩崎が仕事から帰り、夕食の支度をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
出てみると、知った顔の老人がそこにいた。
顔は知っているが、名前が出てこない。
新興住宅地の住人には、よくあることである。
岩崎が何を言うべきか考えていると、幸いにも相手が先に名乗ってくれた。




