その3
きちんと状況が飲みこめないままラキシスはクロードと一緒に生活することになった。
どうしてこうなったのだろうと冷静に考えれば、あの日、獲物を狙うような血走った目で追いかけて来たクロードとのやり取りで答えは導き出される。結婚して欲しいとの言葉を貰い、ラキシスはきちんと理解する前に恐ろしさのあまり何でもすると返事をしてしまっていたのだ。
自分とクロードでは身分も住む世界も違い過ぎる。アトロボスもそれに苛立ち注意を受けたと思っていたのだが、時折姿を見せるアトロボスはクロードの傍らに治まったラキシスに対して、これまでの様に見せかけの微笑みで嫌味や探るような視線を向けたりはしない。それ所か好意的に接してくれ、それとなく世話を焼き助言をくれることもある。その点に関してラキシスはほっと胸を撫で下ろしていた。
どうしてクロードが自分を選んだのかはわからないが、きっときちんとした身寄りのあるお嬢さんが相手ではいけない理由があるのだろう。ラキシスは己の保身の為にもパンドラの箱を開けるような真似はしなかった。
実際にはクロードが望むのは幸せで穏やかな結婚生活であり、思惑や身分に釣り合う女性を嫁にできない理由など何もないのだが、そうでなければ身寄りのない自分を何の利益も得られないのに妻にするなど有り得ないとラキシスは心の底から思い込んでいたのだ。
世の中の恋人たちがたどる様な付き合いがあったわけでもない、ある日突然の恐怖しか感じることのできない告白で今がある。だからこそ余計にラキシスはこの結婚生活に怯えを抱いた。いったい何時、豹変したクロードから酷い目にあわされるのだろう、いつ何時追い出されてしまうのだろうかと。小さな体を更に小さくして夫となったクロードと住まう立派なお屋敷を掃除し、料理を作り、懸命に夫が怒ってしまわぬよう気を使う。クロードが望んだ温かい家庭を演出するために必死になっていた。
「なんか脅えられている気がするんだよなぁ。」
ぼやくクロードをモイライが「何を今更」と一瞥してから手元の宝石に視線を戻す。大粒のそれは彼の魔力をより大きく引き立ててくれる金剛石だ。
「今更?」
「彼女は自分を絞め殺そうとした相手を夫にしたんだよ。怖くない訳がないじゃないか。」
騎士団の女たちと一緒にするのが間違いだと諭す友人にクロードは驚き目を瞬かせる。
「俺はそんなッ!」
「つもりがなくても彼女からすると事実はそれだ。せっかく僕が忠告してやったってのに失敗……はしてないけど、これじゃあ幸せな温かい結婚生活を得るのは難しいんじゃない? ちゃんと話し合った方がいいよ。でないと僕がわざわざ手を貸した意味がない。」
情は後からでも遅くないと助言してやりはしたが、ラキシスの脅え具合はモイライの目から見ても明らかだ。これでは上手く行く前にアトロボスが手を出しかねないと、新婚夫婦の館に足気に通う節操なしの姿を脳裏に浮かべる。あれはあれで可哀想な男だと思うが、だからって今更どうしようもないのだし手を貸すつもりは毛頭ない。そのうち女に刺されて痛い目見ろと割と本気で思っていた。
ちゃんと話し合えと助言を受けたクロードは、仕事が終わると真っ直ぐに我が家を目指す。貧乏育ちのラキシスが驚かないように、所有する屋敷でも一番小さな家を選んで同居を始め、ラキシスが何でも自由にできるよう特に人を雇うようなこともしていない。望むなら通いの手伝いを雇うのもいいと提案したが、頑張りますと目に涙を浮かべていじらしく宣言される。初めの頃は二人だけの世界が良いのだろうなと桃色に染まった頭でしか物事を見ていないクロードであったのだが。近頃は何かが違うと気付いている。
「お帰りなさいませ。」
「変わりはないか?」
「はい、ありません。」
帰宅しての会話はいつも同じだ。汚れた体を流す為に風呂の準備も整えられており、ラキシス自ら背中を流してくれる。そんな事はしなくていいと言ったが役目と押し切られ、小さな体で意外にも上手にこなされると気持ちよさも手伝い日課となっていた。
「俺はお前を脅えさせているのだろうか?」
単刀直入に問えば背中を洗う手が止まる。石鹸の泡がタイルに零れると作業が再開された。
「今夜は床に参ります。」
「―――え、あ……そうか。」
背中を洗い終えたラキシスが湯を流して風呂場から出て行き、クロードは瞳を瞬かせ暫く固まっていた。
入籍だけの婚姻を済ませしばらく経つが寝室は別にしてある。ラキシスの心がしっかりこちらを向くまで床は急がなくてもいいと、懐の深さを見せはしたが直ぐに後悔した。その後で怯えられていると感じて言い出せないままでいるので、夫婦の契りも先送りにしたままになっていたのだ。質問の仕方が不味くて強要しているように受け取られただろうかと首を捻りつつも、ラキシスからの申し出に気鬱であったかと期待に胸が躍る。
一方ラキシスは心が読まれていると感じて鼓動が速くなっていた。クロードが優しい人であるのは解っているが、あの日に感じた恐怖が拭いきれないのも事実なのだ。いつ何時豹変するやも知れないと怯えつつ過ごしている。『脅えさせているだろうか』と優しく問われたが、心を覗かれてしまった気になって一気に申し訳なさを感じてしまった。生活の安定をもたらしてくれるクロードにラキシスは対価を払わねばならない。妻として夫を迎え家を守ると同時に、夫婦となった男女にとってはとても重要視される問題。床に無理矢理引き込まれずに日々を過ごせたのは単にクロードの優しさからで、ラキシスがそれに甘えていたせいだ。けれど求めているのだと匂わされ、こうなっては応じない訳にはいかなかった。ラキシスばかりが良い所取りではいけない。
この日の夕食は互いに無言で、何か言いたげなクロードの視線にラキシスはあえて気付かない振りをする。自分だけが得をしている事実を会話から匂わされるのが怖かったのもあるし、床へ行く宣言をして緊張してしまっていたのもある。すべての仕事を終えいつも以上に体を綺麗にしたラキシスは、疲れて眠ってくれているのを少しだけ期待してクロードの寝室を訪れたが、期待空しく彼は起きてラキシスを待っていた。
*****
夫婦の契りは交わせなかった。自分と異なり体の小さなラキシスをクロードは気遣いながら抱いてくれたが、何も解らないラキシスは何をどうされても文句は延べず耐えるだけだった。
下女として城に勤めていたせいで厩の隅や人気のない場所や物陰で睦み合う男女を目撃することは時折あったが、甘い声を漏らす彼女らと異なり、クロードに触れられても自分の口から漏れたのは苦痛だけ。それを察してくれたクロードが今日はやめておこうと言ってくれたおかげで、ラキシスは心の底からほっとしてしまったのだ。
だが一夜明け、クロードに申し訳ないことをした、気を悪くして捨てられてしまうのではないかと不安になった。けれど仕事に出かけるクロードは最後までラキシスを案じて優しい言葉をかけてくれたのだ。そのせいで上手く出来なかった我が身に申し訳なさが募り、今夜こそはもっとましに対応しようと意気込んだ矢先。帰宅したクロードは出兵することになったと緊張を隠した作り笑いをラキシスに向けた。
「無事に帰って来るつもりだが何事にも絶対はない。もし俺に万一があればモイライを頼ってくれ。」
「でもっ、クロード様は必ず幸せにすると!」
急な言葉にラキシスは慌てて声を上げてしまう。
アトロボスはクロードと共に出兵する。国一番の魔法使いが出る幕はなくモイライは居残り組と聞かされるが、思わぬ言葉に不安になったラキシスにクロードは偽りのない微笑みを向けてくれた。
「安心しろ。俺の財産は全てお前に行くよう手続きは済ませてあるから。」
「―――え?」
固まり瞳を瞬かせるラキシスの頭を優しくひと撫でして、クロードは大きな体に小さなラキシスをすっぽりと包み込んだ。
「侮り挑んではならないが勝ちは見えた戦だ、安心してくれ。」
驚き戸惑うラキシスの様を、自分を心配してのこととクロードは機嫌を良くする。昨夜は体を繋げようとしたが、言葉とは裏腹にラキシスは全身でクロードを拒絶していた。やはり怖がられていると落ち込んでいたのだが、今夜は触れても抱きしめてもラキシスには身構える感じがない。このまま昨夜の続きをと男が疼いたが、ラキシスにはもう少し時間が必要なのではと感じてすぐに戦の準備に出る。縋る様な視線を向けられかなりの葛藤があったが、ここで始めてしまえば戦になど行ってられなくなるというのもあって断腸の思いで手を離した。
驚きと戸惑いを過ぎた後でラキシスに残ったのは不安と後悔だ。自分は一体何を恐れていたのだろうと、急遽戦に挑むことになり家を空ける夫の背を不安に押し潰されそうになりながら見送った。
「どうしてあの人は―――」
万一の死を見据え、ラキシスが困らぬようにと整えてくれているのだという。実の両親ですらそうではなかった。実際には財産を残してくれていたのかも知れないが、幼いラキシスではその有無すら解らず、冷たい世間に晒されたのだ。だがクロードはラキシスの夫という理由一つでラキシスの生活を保障してくれている。幸せにすると言った言葉は生活の保障だったのだと、自分が求めていたものを的確に捉えていたクロードに対して今は後ろめたさしか感じない。いったい自分は彼の何を恐れていたのだろう、何を見ていたのだろうと深い後悔に陥った。
長くはならないと出兵したクロードだったが、一月、二月と日々は過ぎ、戦況が悪化し兵士騎士だけでなく魔法使いたちまでが出兵するに至ると知るや否や、ラキシスはいてもたってもいられずモイライを訪ねた。
「クロード様のお側に行きたい、その力が欲しいんです!」
訴えるラキシスにモイライはふぅと面倒臭そうに息を吐き出す。
「飯炊きくらいはあるけど、実際にあんな危険な場所に一般人を連れて行けないよ。特に君みたいなお嬢さんには無理。」
良家の子女でもないが、ラキシスは見た目が良く愛らしいのが一般的な印象だ。こんな小娘が男ばかりの軍で働けば乱暴されてとんでもない事になる。一応クロードから頼まれているだけに、聞けない願いをモイライは面倒そうに跳ね除けた。
「子供の頃に魔力があるっていわれました。教えていただければきっとわたしにも魔法が使えます。どうかお願いします!」
土下座して頼み込もうとするラキシスをモイライは嫌そうな顔をして腕を引き立たせた。クロードの妻を地面に平伏せさせたなんて世間に知れたら国一番の魔法使いの名が穢れるからだ。
「そりゃあ国一番の魔法使いである僕が指導すれば出来損ないも結構いけるだろうけど。でもさぁ、君。本気でこの僕に指導を仰ぐ気なの? その程度の魔力で国一番の魔法使いであるこの僕に弟子入りしようなんてずうずうしいことを本気で思っているの?」
「本気です、お願いです。お願いします!」
半泣きで必死に訴えるラキシスを前にモイライは腕を組んで眉間の皺を深くする。ラキシスの過去と深層を読んだ時点で魔力があるのは解っていたが、国に仕える魔法使いとなれるような素質はない。あったとしたらモイライでなくとも城仕えの魔法使いの誰かしらが気付いて引き上げていた筈だ。所詮はその程度なのだ。
「え~っ、面倒だなぁ。なんであんな場所に行きたいかなぁ。大人しく待ってられないの?」
「クロード様の心に応えたくてっ。どうしても聞きたいこととお伝えしていない言葉があって。このままでは心配でどうしようもないんです。」
どうやらこの娘はあのクロードが死ぬのではないかと本気で心配しているらしい。クロードの強さを知るモイライはあんな男と対峙する敵の方が可哀想だと言ってやりたかったが、眉間の皺を消してふぅと息を吐き出した。
「ふぅ~ん。まぁいいや。僕はできた人間だからね。しょうがないから君のお願い聞いてあげるよ。」
ラキシスはクロードが死んでしまうのではないかと案じているようだが、実際にそんな事になる様な男じゃないのだとはあえて教えずにいた。国一番の魔法使い、その希少性から滅多に戦場には立たせてもらえず暇を持て余している。日常に変化を持たせるのも悪くないとモイライは、大した魔力もないラキシスを相手に重い腰を上げたのだった。
*****
魔力はあっても何の知識もなくど素人のラキシスが、国一番の魔法使いに教えを乞うなんて図々しいにもほどがある。下女からクロードの妻となり、アトロボスに言い寄られるラキシスを、更にモイライまでを手玉に取ってと女たちは厭い噂した。だがラキシスは妬み嫉みなど全く気にすることなく目標に向かって突き進む。必死に前に進むのは性格だが、悲壮感漂わせる様は周囲の男たちからの同情を誘い、そのせいでさらに同性の敵を作っていたのだが、嫌がらせを受けても反応すら示さないラキシスにやがてそれも収束していくことになる。
ど素人のラキシスを相手にモイライは意外にも親切だった。モイライを知っている人間が見たら気持ち悪いと震え出す程に優しく親切だ。
「落ち込む必要ないよ、出来なくて当然。逆に味噌っかすみたいな魔力でそれだけ出来てるんだからすごいと褒められていいくらいだよ。僕の指導がなければ無理だったろうけどね。」
これが知識と大きな魔力を兼ね備えた輩であったなら容赦なくこき下ろしていただろうが、何しろラキシスは魔法使いになれたとしても末端の力しか秘めていない。それを最大限に引き出して実力以上の力を身につけさせる。それは全て国一番の魔法使いたる自分だから出来るのだと、モイライは自画自賛し己に陶酔していた。ラキシスはモイライの言葉を信じ、従い、手取り足取り優しく励ましながら指導してくれる師に感謝の念を抱く。これをアトロボス辺りが目撃していたなら勘違いされ、下世話な嫌味の一つでも言われただろうが、あいにくアトロボスもクロードと共に戦場だ。モイライは心置きなくラキシスを通して自分を褒めまくった。
付け焼刃の指導ながらラキシスの成長は凄まじかった。魔法に関する細かな学はないが、必要な知識は一度で吸収する。物覚えがとても良かったのもモイライを苛立たせない要因となっただろう。スカートを脱いで魔法使い特有の黒いローブを身に纏い、魔法を補助する小道具や薬をローブの裏にいくつも仕込んでいる。それらをモイライの教えに忠実に使いこなせるようになったラキシスを、国一番の魔法使いは満足げに送り出そうとしたのだが……
「馬に乗れない?」
「申し訳ありません。」
冗談だろうと美しい顔を顰めるモイライに頭を下げたラキシスは、辻馬車や徒歩で行くつもりだと伝える。するとモイライの機嫌が一気に悪くなった。
「冗談だろ。もたもたしてる間に戦争が終わったら僕の苦労が水の泡じゃないか。しょうがないな。送って行ってやるからちょっと待ってて。」
「え、あのっ、モイライ様?!」
塵みたいな状態を磨き上げ、丹精込めて作り上げた作品が役に立たないのは腹立たしい。そんな我儘一つでモイライは休みを申請し、ラキシスと共に騎乗して勝手に戦場に向かう事にしたのだ。
すっかり師弟関係が出来上がった二人の間なだけあって、ラキシスは師であるモイライの手を煩わせることに恐縮するが、自己中心的な魔法使いは聞く耳持たない。魔法で強化された馬が駆け驚く速さで辿り着いた先は国境を越えた先で、モイライは何の配慮もせずに戦場に突っ込んだ。その場で敵味方の判別がつかない遺体が転がるのを目にしたラキシスは、馬上で息を飲んだ後に泣きだしクロードの名を呼ぶ。
「そんなっ、嫌ですクロード様っ!」
「死んでないから。クロードが進んだ後はだいたいこんな感じだからまだまだ続くよ。煩いんで泣かないでくれる?」
クロードが戦に出て半年近く、戻って来るどころか便りの一つもなかった。モイライに弟子入りして魔法使いの技を身に着け戦場に飛び込めば、地面には血を流す屍が転がるだけ。ラキシスの脳裏には初めて出会った時の優しいクロードの眼差しが思い出されるが、それをどろりとした流れる血が覆い隠す。
「クロード様っ、クロード様が死んでしまうっ!」
「煩いから泣くなといってるだろ。うわっ、鼻水付けないでくれるっ?!」
クロードの身を案じるラキシスと、彼女の鼻水が服について汚れると騒ぐモイライは、いつの間にか戦場の真っただ中に辿り着いていた。




