台風一過
高校二年生の夏休みに、試行錯誤を重ねながら書いたお話です。ちょっと懐かしい。
何気無く付けたラジオの気象情報で、県内全域が強風域に入ったことを知った。天井付近の通気孔からは音楽の授業に退屈した子どもが吹き散らす笛のような音が聞こえ、窓には時折雨粒が打ちつけられて小太鼓のような音を添えている。勉強は一行にはかどらなかった。「浮」と「沈」を書き間違えたところで、腐れ縁の木製シャーペンを投げ出して、残り少ないアイスコーヒーを飲み干した。
ふいにスマートフォンが電子音を立てた。渋々手だけを伸ばして内容を確認し、今夜の夏祭りが中止になったことを知った。どうでもいいことだった。外では一際強い風が吹いたようで、笛の音に猛獣の唸り声が交じった。このまま座っていても埒があかないと思い、空にしてしまったグラスを手に部屋を出た。
リビングには父さんと母さんがいた。
「どう、勉強ははかどってる?」
いつもの質問に「あんまり。」と素っ気なく答えて台所に向かおうとすると、「ちょっと」と呼び止められた。
「今日、お盆なんだけど。」
すっかり忘れていた。父さんが提灯を掲げるが、ただでさえ時間が無いのにこの上墓参りだなんてとんでもない。
「無理ってあんた、まさか手伝わないつもり? ばあちゃんにあれだけ可愛がってもらってたくせに。」
母は少し声を荒らげた。
「忙しいのは分かるけどな、今日はお祖母さんの初盆だ。巡がちゃんと迎えてあげないと、お祖母さんも悲しむぞ。」
「私はお盆に霊が帰ってくるなんて、信じてないから。」
おどけていた父さんが顔をしかめた。
「巡、いい加減にしなさい。受験生だからって……」
「うるさい!私は絶対やらないからね!」
二人が苛立っているのが分かると、私はカッとなってしまった。逆に怒鳴りつけて、グラスを叩きつけるように置いてリビングを出た。
部屋の鍵をかけると、急に静かになった気がした。しかし雨風はさっきよりも強くなっているようで、猛獣が唸り声を上げながら雨戸を何度も何度も殴りつけているのではないかと思ってしまうほど騒がしかった。机に戻る気にもなれずに、敷きっぱなしの布団の上に寝転んだ。しばらくして心拍が元に戻り、上気がおさまると、全身が急に冷たくなったようだった。今更ながら短気を起こしてしまったことを後悔した。私が本格的に受験勉強を始めた頃、同じような理由でおばあちゃんに怒鳴ったことがあった。梅雨の季節、おばあちゃんが脳卒中で倒れる少し前。
『おばあちゃんは受験の何たるかを全く分かってない!分かってないよ!』
その時のことを思い出して目を閉じると、おばあちゃんは瞼の裏で悲しげに微笑んだ。あの時、私どうして怒鳴ったんだっけ。思い出そうとして、荒涼とした記憶の中を歩き回る。目的のものを見つける前に、足を踏み外して深いまどろみの沼の中に落ちた。ゆっくりゆっくり沈んでゆく自分が見えた。
幽体離脱でも起こしたかと思うほど、すっと目が覚めた。自室のベッドの上で、橙色の光を受けてぼやける床や壁を眺めていた。辺りはしんと静まり返っていた。軽い耳鳴りがちょうどいい具合に空白を埋めて、心を落ち着かせた。立ち上がって部屋を出て、誰も居ないリビングを通り過ぎた。玄関先にはおばあちゃんが、きちんと浴衣を着こなして待っていた。
「巡。一緒に祭りにでも行かんか?」
「うん、行く。」
サンダルを履いて外に出た。おばあちゃんはそのまま家の前の緩やかな坂道を歩き始めた。
「おばあちゃん。歩いて行くの?」
「そうだよ。」
私はおばあちゃんの後を歩き始めた。ちょっと遠いと思ったが、何とかなると思った。見上げると、それは見事な夕焼けの空が広がっていた。私たちはその空を目指して歩いているようでもあった。歩いて歩いて、ふと周囲を仰いだとき、テントの群れとたくさんの人が見えていた。空は依然として赤く燃えていた。あっという間に、私たちは人混みの一部になった。
「巡。何が欲しい?」
取り立てて食べたいものは無かった。折角だから夏祭りらしいものを、と思った。
「欲しいものがあれば、勝手に買ってき。私はあの小高い丘の上に行くから。花火がよく見えそうだ。」
「おばあちゃん。私、お金持ってない。」
「大丈夫、何とかなる。」
私も何とかなると思った。だからおばあちゃんに背を向けて、一番近くの屋台のイカを焼いている人に声をかけた。
「リンゴアメ、二つ下さい。」
その人は、さも当然のようにリンゴアメを取り出して「あいよ。」と私に手渡した。
おばあちゃんは、丘の上で待っていた。
「どうや、何とかなったろう。」
私の差し出すリンゴアメを受け取って、おばあちゃんは言った。
「何とかなったよ。」
私はおばあちゃんに言いたいことがあった。言うべきか言わないべきか、リンゴアメを舐めながら迷った。リンゴアメはいやに甘ったるくて、ちょっと気分が悪くなった。
「そうやろう、そうやろう。大抵のことは何とかなるように出来てるからね。」
おばあちゃんは一人で頷いて続けた。
「だからきっと、巡の……」
目の前がちらついて、軽い目眩に襲われる。この先は言って欲しくないと思った。声だけが迷いから脱したようにおばあちゃんの言葉を遮った。
「何とかなったけど!」
「うん?」
大声で言ってしまうと、おばあちゃんから紫陽花園に行こうと誘われた日のことがちらついて、後頭部がキリキリと痛んだ気がした。私は一度大きく息を吸って吐き出した。
「これは『夢』でしょ? 夢だからどんなことでも『何とかなってる』だけで。」
「うん。」
「だけど、現実は、もっと厳しいから!」
「何とかなるとは限らないって?」
おばあちゃんは私の目を覗き込むように見つめた。肩で息をする私と、穏やかな表情のおばあちゃん。そんな私たちを、唐突にまばゆい光が照らした。おばあちゃんが空を仰いで何事か呟いたが、澄んだ爆音にかき消された。花火が始まったのだ。簡単な物理の知識が、無意識のうちに打ち上げ場所からの距離を割り出した。ここは最高のビューポイントだ。
「綺麗だねぇ……。」
視界の下の方で放たれた花火玉たちは一つ残らずまっすぐに尾を引いて天高く上り、ふっと消えたかと思うと、一瞬のちには思い思いの場所に見事な大輪を咲かせていた。目が乾くのも忘れて見上げていると、おばあちゃんに肩を叩かれた。ついつい不機嫌な声を出してしまった私の前に、黄色い果実が差し出された。
「今のあんたには、その飴よりこっちのがいいかもしれん。」
これは何と聞くと、野の杏だと言われた。すすめられるままに杏を一口齧ってみると、こみ上げるような強い酸味に涙が滲んだ。
「何これ、酸っぱい。」
言い終わるのと同時に光が弱くなった。私はまた空を見上げた。花火の様子が変わっていた。放たれた花火玉たちは加速したり止まったり曲がったりしながら高い空を目指して進み、一部は諦めたように消え失せ、また一部は満足したかのように小さな輪をひらいて終わった。あるものは素晴らしい極大輪をつくったかと思うと、その刹那崩れて消えた。 破れかぶれの花火たちの中で、不思議と心を引く花火があった。それは冴えない花火だった。空に溶け込むような薄い赤色で、目立たなくて、他の花火よりもゆっくりゆっくりと進んだ。しかし、その花火は真っ直ぐだった。他の花火たちがバラバラに動き回る中で、けして曲がろうとはしなかった。その花火は着実に雲の上を目指した。少しずつ、少しずつ。いつの間にか私の目には、渇きを潤すのに十分過ぎるほどの涙が溢れていた。
「どうや、何とかなりそうでしょう。」
降ってきたおばあちゃんの声に、今度は頷くことができた。ふと意識が遠のいて、ああ、目が覚めるんだな、と思った。
最後に残った杏の後味は意外にも優しい甘味で、バラバラでもやっぱり綺麗な花火の光と一緒に今日の素晴らしい夢を印象付けた。
底なしの沼に沈むような、長い眠りが終わった。辺りは静かだった。台風はどうなったのだろう。昨晩のうちに去ってしまったのだろうか。リビングの方で、母さんが私を呼ぶ声が聞こえた。机の上では愛用のシャープペンが待ちくたびれたように転がっている。するべきことはたくさんあるが、もう心は急かなかった。迷わずに押し入れから提灯とローソクを取り出して、リビングへ向かった。
「私、おばあちゃんを迎えに行ってくる。」
「……ええ? どういう風の吹き回し?」
いってきます、とだけ答えて玄関に立った。
ドアを思い切り横に引っ張ると、ブワッと心地よい風が流れ込んできて、滞った空気を完全に吹き飛ばしてくれた。あちこちから跳ねるような鳥のさえずりが聞こえる。
台風一過、上り坂も空も提灯も、全てが透き通るような青色をしていた。