女の子に助けられました!!
──〈トラパネーゼ〉屋敷 アルテージの自室 夕方──
男は心底驚いていた。つい先程まではいつもの調子で、歯に衣着せぬ物言いと迫力を持って二回り以上歳の離れた大人に啖呵をきっていた少女は、今や借りてきた猫の様に淑やかであり、その様な彼女は見た試しが無い。少女には15年近く支えて来た自分だが、未だかつてこんな彼女は見た事が無いのだ。
(あぁ、私は何か悪い夢でも見てるんでしょうかねぇ。あのお嬢が、有り得ませんよこれは……)
アルテージはトスカーノに火を付けて吹かす。紫煙で覆われた視界の先には、お嬢が──アルテージにとっては、寒気がしてしまう様な――猫撫で声でジェスに話し掛けている。彼女の双眸は大きく開き、星があればその中に映っていただろう。アルテージの良く知る少女のそれは半眼で、その中に映っているのは星以外の何かだろう。
「それでですねっ。私達〈トラパネーゼ〉は、ナガグツ国に幾つもあるマフィアの1つなのですっ」
「はぁ…… そうなんですね。マフィアなんですね」
対照的にジェスの表情は、空から星が降って来ていよいよ絶望的と云う状況に陥っている様に暗い。それもその筈、今まで平和なジャポンで生きて来た彼が、突然マフィアとの抗争に巻き込まれたのだ。アルテージも彼の拉致に関わっている為、多少なりとも彼を助けてやりたいと思っていたし、同時にジャポンへ返すと云う選択肢が許されない事を申し訳無く思う。
また、彼は先程の会話を扉の外で聞いていたと云う。ベルコーレが通訳をしたと云っていたが、何がどこまで正しく翻訳されたかどうかは定かでは無い。
説明した所で、ジェスの気が晴れる事は無いだろうが、アルテージはジェスにナガグツのマフィア勢力について説明する。
「ナガグツのマフィアってのには、それぞれポリシーってモンがあります。お互いが自分達の信念こそが正義と信じ、それをナガグツ全土に広める為に縄張り争いをしてるんですよ。マフィアにはそれぞれ支配している街がありますが、その街の雰囲気もマフィアが作ってるって事ですね」
ジェスはそれを聞いて顔を青ざめると「本当に勘弁して」と云う様な表情で話す。
「僕はマフィア同士の縄張り争いなんて、絶対に役に立ちませんよ?」
「まぁ、そこは我々が若の代わりに前線出ますんで、ご安心くださって結構ですよ」
それを聞くとジェスは益々顔を青くした。安心してくださいと云う言葉も彼には届か無いのだろう。元より、平和な国から来た少年である。アルテージは彼の共感を得られる等と期待して居ないし、理解を得られるとも思っていないのだが……
しかし、ジェスは隣で心配そうに彼を見上げているエムエルと目が合うと、助けてあげたい等とヒーロー染みた稚拙な思いが込み上げて来たのか、ぼそりと云う。
「……その人達がどう云う人達か見る事は出来るんですか?」
(あのお嬢の目は、何なんでしょうかねぇ。あんな顔出来るんですねぇ)
背中に寒気を感じる。視界に映るベルコーレは楽しそうに頬を緩ませていた。どうもベルコーレとお嬢は結託している様だ。そう考えるとジェスには本当に申し訳ないと同情する。
「そりゃあまぁ。縄張りの外から眺めてる分には、奴等にも仁義ってモンがありますんで、いきなりドンパチって事にはならんと思いますよ。場所にもよりますがね。しかし、これからやり合おうって奴等を深く知っても、何も良い事なんざありませんぜ」
アルテージはそれぞれのマフィアは信念があり、その信念を貫く為に縄張り争いと、敵対勢力の駆逐を行っている事について説明する。まず〈トラパネーゼ〉の周辺の6つのマフィアについて話すことにした。
「まず、我々〈トラパネーゼ〉ですが、健全な市民との共存と、法が解決できない案件をマフィアが受け持つと云うモンです。実際、この街じゃあ裁判所に行く前に地獄に行っちまう奴が山程います。そん時に謝礼金が結構な額入る事が多いんで、資金は潤沢ですねぇ」
「それって健全って云うんですか?」
「健全に市民と共存する訳じゃあありません。我々は健全な関係を持とうとしている訳じゃあ無いんですよ。健全な市民との良好な関係を大事にしているんですね。だから健全じゃ無い市民ってのは興味が無いんですわ」
ジェスは何か云いたそうにしているが、アルテージは紫煙を吐き出しながら説明を続ける。
「次に〈カチャトーラ〉と云うマフィアについてです。こいつらは争いを極力避けて、市民の影に隠れて暮らしてる感じですね。表向きはマフィアらしい信念も聞いた事ありませんし、業界ではヘタレなんて呼ばれてます。只、話によると先代までは勢いがあったらしいですね。まぁ今は全然ですがね」
「私達〈トラパネーゼ〉とは不可侵条約を結んでおりますのよ。どう云う訳か」
こちらの説明に対してエムエルが付け加える。アルテージはさらに「一種の同盟の様なモンですね」と付け加えたが、その時のエムエルの表情と云えば汚物を見るような酷い顔である。勿論、ジェスの視界の外の話だ。
アルテージはひと呼吸を置いて説明を続ける。
「次からが中々厄介な連中ですね。まず〈アラビアータ〉ですが、奴等は独自の宗教観念があるらしく、その宗教の教えが絶対だと主張しています。まぁ、それだけなら好きにしろって云って終わりなんですがね。奴等は自分達の神を信じ無い連中は処罰しても良いと云うクレイジーな感じでして、近寄る事すら危険なイカれた連中です。その宗教自体は人気があるらしく、市民からの信頼も厚いと聞きます。マフィアがその教えを曲解してると云った所でしょうか」
宗教戦争は、この世界の歴史でも何度も行われている、もっとも理由付けの容易な戦争だ。ナガグツ国内でもそう云った宗教関連の衝突は起こっていた。トスカーノの灰を落とし、次のマフィアの説明に入る。
「次の〈ペスカトーレ〉は、他に比べると随分とシンプルですね。力こそ全てだと主張している連中です。故に弱者に権利は無く、法もありません。市民の格差が1番激しい支配地域でしょうね。弱いと見られたらマフィアだろうと食われます。マフィアが市民に襲われてもお咎め無しって話です。
5つ目は〈ボスカイオーラ〉、簡単に云えば現代科学を否定していて、自然を第1に考える連中です。自然破壊をする奴等は殺して善しって感じでしょうか。色んな場所でゲリラをやるフットワークの軽さが特徴ですね。我々のシマにも攻めて来る事がありますんで、面はその内拝めるかと思います。コイツらは、ピストル等も使わないんですが、毒矢やナイフの扱いに長けているんで、舐めてると死にます」
アルテージはそこまで云うとジェスを見る。アルテージとしては、脅すつもりも無く、淡々と説明しただけなのだが、目の前の少年は酷く憂鬱に見えた。彼を慰めるつもりで付け加える。
「まぁ今の代になってからは、マフィア間の抗争も余りありません。ですんで、若が厄介な連中といきなりドンパチする様な機会もまず無いでしょう。……そして最後に〈ボロネーゼ〉と云うマフィアですね。この連中は市民に率先して金を上納させ、その金を使って法への関与を精力的に行っています。この為、金持ち達からはえらく指示されてる奴らです。金持ちが絶対的な権力を持っちまっているせいで、やりたい放題になっちまって、1番街の治安は悪いですね」
アルテージとしては、大体似たような町でしか無いが、平和なジャポンから来た少年からすれば、治安の優劣は大事な事だろうと思ったので説明しておく。こちらの説明に付け加える様にして声が上がる。
「そして今回、若に潰してもらうマフィアが〈ボロネーゼ〉になります。戦闘力はそれ程驚異的ではありませんので、前哨戦には最適かと存じます」
ベルコーレはそう云うと、ジェスにサムズアップを見せる。「鳩野郎でも安心安全」と添えて。
「潰すって、具体的には何をすんですか……」
ジェスは「嫌な予感しかしないので、云わなくても良いですけど」と云った表情でベルコーレに問う。それに対して彼女はさも当然と云った様子で答える。
「壊滅的な被害を与え、再起への希望を挫き、御家断絶すれば良いかと」
ベルコーレは「とても単純明快」と、ジェスにサムズアップを見せる。
アルテージはトスカーナの火を消し「まぁ後1ヶ月ありますから、明日、敵情視察にでも行きましょうか」と、ジャケットのポケットから車のキーを取り出して見せる。
「〈ボロネーゼ〉の街はウチから北上すれば車で1時間程で着きます。若にこの国の実情やウチのシマの内情を見て貰うのに良い機会ですしね」
その言葉にベルコーレは頷き、ジェスも苦笑いを伴い頷いた。ジェスの顔にはもう好きにしてくれと描いてある様だ。そして、エムエルは「まぁ! それは名案てますわ、アルテージ!」と、芝居掛かった台詞を芝居掛かった仕草で云う。アルテージは背筋に寒気を感じつつ、部屋に集まった仲間たちに解散を促した。
◆
──〈ボロネーゼ〉のショッピング街 とある店舗の前 朝方──
──相変わらず糞みてぇな格差社会だな
エムエルは〈ボロネーゼ〉のショッピング街を1人歩き、そんな感想を抱いた。
ショーウィンドウ越しに見ているのは道行く人々の姿だ。
有名ブランドに身を包んだ人々が偉そうに街路を練り歩き、それを避ける様に肩を落として歩く人々の姿だ。肩を落として歩く人々の身なりは決して汚いと形容される物では無かったし、〈トラパネーゼ〉では一般的な服装である。
この〈ボロネーゼ〉では、金持ちと、貧乏人の2種類に層が分かれている。中間層など存在させず、完全に2分化されていた。肩を落として歩いているのは貧乏人の烙印を押された人々だろう。彼らから目を離し、ショーウィンドウに映る自身の姿を見る。
エムエルの服装はスーツでは無く、対婿殿用決戦装備のーーベルコーレがそう呼んでいたーー高級ブランド〈ヘルムス〉のオーダーメイドである薄手のコートを着ている。
コートの下にはいざと云う時の機能性を考慮して、レギンスの上にホットパンツ、上着にはチュニックを着ていた。
〈ヘルムス〉のコートは純白で、自身のブロンドヘアに良く映えた。今日は〈レイバン〉の代わりに、これもまた高級ブランド〈チャンネル〉のサングラスをしている。
ショーウィンドウの映り込みから、1人のいけ好かない、見るからにナンパな男が近付いて来るのが見えた。着ている服のブランドから、男が金持ち側の人間である事が判る。男はエムエルの近くまで寄り声を掛けて来た。
『やぁ。そこの君、中々良い物を着ているね』
『……』
『ふむ……つれないなぁ。返事位したらどうなんだい?』
エムエルは煩わしいと思いつつ振り返る。男はこちらの顔を見て、息を飲んだ様に見えた。そして、上機嫌な様子で馴れ馴れしく話を始める。
『そのコート、〈ヘルムス〉の新作に見えるけど少し違うね。オーダーメイドなのかな? ボクのこのアウターも〈ヘルムス〉なんだ。奇遇だね。どうだい? この後ショッピングでもご一緒に』
(何なんだ? このタコ野郎は。でも、敵のシマで揉め事を起こす訳には行かねぇよな…… 今直ぐにでも、このナンパ野郎をぶん殴りてぇが)
エムエルはそう思う気持ちを鎮め、ニコリと笑顔を作る。そして、可能な限り棘の無い様に注意して話す。
『すみません。私には既に恋人がおりますので、そう云った困ってしまいますわ』
(この話し方はジェス用だから、他の野郎に使うとなると気が乗らねえな。あぁ畜生、苛々するねぇ)
男は『そうでしたか、いやいやこれは失礼』と云って頭を下げる。釣ろうとしていた魚に餌を取られた釣り人の様な顔だ。肩をわざとらしく肩を竦めて見せ、男は続ける。
『さぞ裕福なナガグツ紳士なのでしょうなぁ』
『いえいえ、彼はジャポン人ですのよ。それでは失礼しますわね』
エムエルは男の顔を一瞥し、その場を離れる為に歩き出す。
ああ云った、ナンパで軟弱そうな男は苦手である。苦手と云うよりは嫌悪と云った方が適切かも知れない。
むしゃくしゃする気分を切り替えようとコートの内ポケットからシガーケースを取り出し、半分にカットされたトスカーノ・バニラを1つ摘まみ、火を付けて吹かしショッピングモールを歩く。エムエルは周りを歩く人々がこちらを避けて歩いている事に気付き、金持ちの視点と云う物を実感した。そしてこの滑稽な状況に笑いが込み上げてくる。
『この街の腐った成金野郎共は、こんなちっぽけな優越感に浸って満足してるってか? 全く以てダサい奴等だ。全く以てクールじゃあ無いね』
誰かに対する問いでも無ければ、答えを求めている訳でも無かった。只の独り言だ。紫煙を空に向かって吐き出し思う事はとてもシンプルで、内に秘めた暴力的な思想の現れだった。
(……こんな街、とっとと更地にしてやった方がナガグツの為になるだろうよ)
──〈ボロネーゼ〉のショッピング街 街路 夕方──
日も傾き始めた頃、ショッピング街を歩くエムエルの視界には楽しそうに歩いて行く富裕層の母子、そして彼女達の目に付かない様に路地へ入って行く貧困層の家族連れが映る。
この街では既に見慣れた光景であったし、それを不憫だとも思わない。これがこの街のルールだと云うのであれば、そこの市民はそれに従う他無い。それを部外者の自分が何か意見をする等と云う事も筋違いだ。
富裕層の母子とすれ違うと、6歳位の少女が声を掛けて来る。急に掛けられた声に驚き身を翻すが、バランスを崩してしまいそのまま尻餅を突いてしまった。
(痛っ、何だってんだよこのガキは……)
『あっ! お姉ちゃん、大丈夫?』
『ちょっとメリーニっ! ……すみません。うちの子が急に声を掛けてしまったから』
『うう。だって凄く素敵なお洋服だったから……ごめんなさい』
母親が慌ててこちらに向かい頭を下げる。
メリーニと呼ばれた少女もまた、それに倣い頭を下げる。エムエルは『いえ、大丈夫ですわ』と彼女達に返事を返す。そして尻に付いた汚れを手で叩く。それを見てだろう、メリーニの母親は申し訳無さそうな表情で云う。
『そのコート、もしかしてオーダーメイドでしょうか? 汚してしまって、本当に申し訳ありません』
傲慢さが無い母親の物言いは、他の金持ち達のそれと違って好印象だ。彼女は『そうだ』と、何か思い付いたのだろう。
『今からショッピングに向かう所でして、良かったら何かお詫びをさせてください』
その提案は正直面倒だ。それに、馴れ合う必要も感じない。エムエルは表彰はあくまでも微笑んだまま、母親の提案を断ろうとする。しかし、それより早くメリーニの声が上がった。
『お姉ちゃん一緒に行こうよっ!』
『いや……でも』
『ねぇねぇ、お願いっ!』
何度はぐらかしても、メリーニには意図が伝わら無いらしい。同じ内容で行う会話のラリーは、決して長く無いエムエルの気に限界を告げる。
(これ以上この無意味な問答を繰り返してると脳ミソがバターになっちまうっ! 畜生っ)
結局、メリーニの熱意に負ける形で彼女達に付き合う事にした。気落ちしているこちらとは裏腹に、メリーニの表情は輝いていた。何がそんなに嬉しいのか知りたい気持ちになる。彼女は人見知りをしない子の様で、警戒する事も無くこちらの手を握ってくる。
(人の手を握るなんて、ジャポンでの一件以来だな……ジェス達は大丈夫なのかね)
横目で見るメリーニはとても可愛らしく、見ているこちらの頬も緩くなってしまっていた。その事を自覚し、エムエルは驚いた。こう云う気持ちは無くなってしまったとばかり思っていたからだ。暖かい雰囲気とは疎遠の生活ばかり送って来た事で、すっかり心は荒んでいたと思っていた。たまにはこう云うのも良いかも知れない。今度ジェスを誘って散歩してみよう。きっと彼となら、今よりも素敵な気持ちで歩けるだろう。
エムエル達はショッピングモールの1店舗に来ていた。その店は宝飾品を取り扱っており、値段も貧困層では決して買う事が出来ない額である。メリーニは値段などお構い無しと云った様子で、次から次へと宝飾品を手に取っている。彼女はその内の1つをこちらに見せて云う。
『お姉ちゃん、これ可愛いよっ』
『メリーニはセンスが良いですね。でもちょっと、大人ぽいからまだ早いかも知れないね』
エムエルはどうやらこの少女を気に入ってしまった事実を認識する。〈トラパネーゼ〉ファミリーには自分より年下の人間は居なかったし、独りっ子だったエムエルにとっては妹が出来た様に感じたのだ。
『メリーニね、お姉ちゃんとお揃いにするんだ。だから、ちょっと位背伸びしたいの』
宝石など似合わない歳の女の子であるメリーニは、お揃いの物を買う事に躍起になっている。しかし、年上の好みやその人に何が合うのかと云った事を考えるには随分と時期尚早な様子だ。エムエルは手元のショーケースから、無難なデザインのネックレスを取り出し、少女へ助け船を出す。
『じゃあ、これなんてどうですか?』
『凄いっ、宝石一杯でキラキラしてるっ!』
ネックレスは大きな台座に宝石が散りばめられていて、メリーニには少し長めだった。
『ちょっと長さを調整してもらいましょうか?』
『いいの! 大きくなっても使えるようにするんだぁ』
そんなメリーニを見つめていると、街に来て直ぐの苛立ちも消えて行く。自分もマフィアじゃなくて、只の市民であればこんな風に誰かに癒しを与えられるのだろうか。
エムエルの考えは、携帯電話の着信で急停止する。メリーニ達に少し電話に出て来ると告げて店の外にでる。
着信の相手はアルテージである。
『お嬢、下調べは粗方終わりました。今日の所はそろそろ……』
『ああ、ご苦労。他の連中にも連絡入れな』
先程までの優しい気持ちが波に流される砂文字の様に消えて行く。それはエムエルにとって、決して小さな消失では無かったが、エムエルはマフィアなのだ、この街に来た理由を考えろ、と自身を諫める。
そして店の中に戻り、メリーニ達へ挨拶を済ませると、仲間の元へと向かう。その手に持ったメリーニとお揃いのペンダントを持って。
◆
──〈ボロネーゼ〉のショッピング街 カフェテリア 昼前──
──相変わらず街の雰囲気は悪過ぎるわね。どうにか出来無いものかしら。
シルバーヘアのショートカットに、ジャポンで人気のブランド〈にゃんとっと〉のワンピースを着た少女は、生まれ育った街〈ボロネーゼ〉について、その様に考えていた。小さい頃は特に街の様子が変わっているとは思わなかった。
けれども、10代も終わり掛けた頃から隔月で観光に行っているジャポンの街を見ると、生まれ故郷の雰囲気は良くないと思う様になった。
ジャポンでは街中で堂々と富豪が貧困層の人間に対して理不尽な振る舞いをするのを見た事が無かった。たまたま運が良かったからと云われてしまえば、そうかも知れないけれども。
自身はかなりのジャポンフリークであると自覚している少女は、ジャポンの町を思いだしながら頬杖を付く。
少女はカフェテリアの2階から、階下でのやり取りを見ながらジャポンでの雰囲気と比較していた。
階下でやり合っているのは3人の男女だ。2人男の内1人は〈ボロネーゼ〉でも指折りの富豪であり、良く見る顔だ。もう1人は見た事が無く外国人の様だった。
外国人であろうが観光客であろうと、この〈ボロネーゼ〉では金持ちに逆らう事は愚かな選択である。それは街の常識ではあったけれど、所謂ローカルルールと云う物であり、外国人達が知っている筈は無い。
女は外国人の連れだろう。彼の傍らに立ち、彼に向かって話続けている。
(あれはガイドか通訳かしら? 男性が話しているのはクイーン語ね)
少女は外国人の男がナガグツの第2公用語であるクイーン語で話している事に気付く。対する〈ボロネーゼ〉の富豪もクイーン語で何か云っている。
そんな様子を横目で見ながら、カップに注がれたアールグレイを口に含む。
これで街の雰囲気がもっと良ければ最高なのだけれど、それは無い物ねだりだろう。彼女が育ったこの街は、きっといつまでも変わらない。それは諦めであったし、同時に悲しみでもあった。
その時、少女の耳に悲鳴が届く、何だろうと思い階下を覗き込む。どうやらやり合いにはもう1人、登場人物がいた様だ。外国人達の背後で小さい少女が震えていた。先程の悲鳴はあの子の物だろう。悲鳴を上げた理由を探す為に視線を動かすと、富豪の手に拳銃が見えた。
(いい加減面倒だから殺すと云ったところかしら?)
少女は改めてこの街を憂い、腹が立つ。そしてその怒りをどこかにぶつけようと、2階のテラスから階下へ飛び降りる。こうなる事が当たり前だとしても、どうにか出来るならどうにかしたい。それは子供の考えだろうし、父に云ったところで相手にすらされないだろう。
街の雰囲気は最悪で、結局自分は何も出来ないだろうけど、それでも何かしてやりたい。それは少女が今よりもずっと幼い頃から感じている気持ちだった。
少女は富豪と外国人の間に降り立ち、そんな事を考えていた。
◆
──〈ボロネーゼ〉のショッピング街 街路 昼前──
──何か想像していたより普通だな。マフィアの街って云うのも。
ジェスは、そんな感想を抱きながらベルコーレと2人で〈ボロネーゼ〉の街を回っていた。と云うのも、ジェス自身はナガグツ語を話せない為で、無用なトラブルには巻き込まれないようにと、エムエルが気を使ってくれたのである。
エムエルと云う少女はジェスを誘拐した本人であり、マフィアを潰すなどと云う無茶な要求を突き付けた人物なのだが、嫌悪の感情は無かった。それは彼女がただ綺麗だったからだけでは無いと思う。なら何故かと云われると、それは彼女が無理をしている様に見えたからだ。今回の件もきっと彼女にとって深い理由がある筈だ。
「若、何をお考えで?」
「い、いや。何でも無いよ」
「その台詞は何かある人間が、もっと聞いてくれと云う時に云う台詞では無いでしょうか? つまり若は構ってちゃんであると? 1人で街を歩く事もままならない赤ちゃんであると? そう仰るのですね」
詰問を始めるベルコーレは、初めて会った時からそうなのだが、どうにもこちらに対する風当たりが強い。それはジェスが余所者だからなのか、単純にそう云う人間なのかは判らない。聞くと今以上のショックを受けそうなので止めておく。ただし、構ってちゃんと思われるのも癪と感じたのでベルコーレに答える。
「ちょっとエムエルさんについて考えてただけですよ」
それを聞いたベルコーレは「ほう」と感心した様子だ。その後も「ふむ」と云って何かを考えてる。ベルコーレと云う女性はよくこんな風に考え事をしてから話すきらいがある。一頻り考えが纏まったのだろう。彼女は話始めた。
「お嬢様は現在、大変な無理を強いられております」
(……やっぱり!)
「只、それは試練であり、修行なのです。お嬢様が自ら望まれた事でもあります。ですので、心配なさらすに頂くのが良いかと存じます」
「だからって無理してまで、そう云う事を続ける必要は無いじゃないか」
納得がいかない、そんな気持ちになって云うと、ベルコーレは「ふふ」と満足そうに微笑む。その表情はいつもこちらに向けられいる冷めた物では無く、幼い子を見る親の様に優しい。
「しかし、効果はあるのでしょう。ですからお嬢様は頑張っておいでです」
「そうなんですか?」
「ええ。他にも苦労はされています。そちらの方がお嬢様にとっては負担かも知れませんね」
ベルコーレは町行く人を眺めながら落ち着いた声で云う。
「お嬢様はマフィアのボスの娘です。それは云ってしまえば巨大な力を持っていると云う事です。その力を求めて、数多の有象無象がお嬢様へ取り入ろうと近付いて来ました。勿論、お嬢様はその全てを拒絶して来ました」
「僕は只の高校生で、そんな権力とかは縁も所縁も無い人生を送ってきたけど、エムエルさんが大変な事を強いられてるってのは何となく判るよ」
「そうなのです。さらにお嬢様はあの通りお淑やかな方ですので、私は心配で心配で……」
ベルコーレは目に涙を浮かべながら云う。
「出来る事だけでも良いのです。若、どうかお嬢様のお力になってあげてください」
「人殺しとかは出来ないけど、話し相手とかそう云うのなら任せてよ」
『殺しをしないマフィアなどと甘い事を仰られて』
ベルコーレはナガグツ語で何かを呟いたが、小声だったのもあって全く聞き取る事が出来なかった。
こちらを見て「喉が渇きましたよね?」と、彼女は二階建てのカフェテリアを指差す。ジェスに聞いているとは思えない、問答無用の強制力を伴った質問だ。彼女は返事を待たずにカフェテリアへ向かう。
カフェテリアは地元のグローバルファーストフードチェーン、エッグナルドより広い敷地面積を持っていた。1階は主に厨房で占められている為、席数は多くない。同じ広さであろう2階席は厨房が無い分、席数も多そうだ。
ジェスは1階席の外側、テラス席に座ってベルコーレを待つ。まだ昼も来てない時間、店には大勢の客がいる。テラス席に座っているのは単純に席が空いていないと云う事だった。ベルコーレ曰く、2階も満員だったとの事だ。彼女は今2人分の注文に行っている。
『ねぇねぇお兄ちゃん、外国の人なの?』
ジェスは話掛けられていると思い、声のした方を向いた。視線の先には小学校低学年位の歳の女の子が居た。ジェスは取り敢えず、ナガグツ語が出来ない事をクイーン語で伝える事にした。
「ごめんね。僕、ナガグツ語は判らないんだ」
『……?』
女の子はどうやらクイーン語を話せないらしく、こちらの言葉に首を傾げている。
どうしたものかと考えていた時、背後からドスの利いた声が聞こえる。
「流石です若、手当たり次第ですね」
あらぬ疑いを掛けられそうになっているだろうに違いない。「ちょっと待ってくださいよ」と抗議の声を上げる。
「ベルコーレさん、貴女は今、とても勘違いをしているよ」
振り返ると、気持ち悪い虫を見つけた時に作りそうな表情でこちらを見るベルコーレが居た。ジェスは慌てて否定するが、彼女は聞きもしない。そんなベルコーレの説得を諦め、少女がクイーン語を話せないので困っていると云うと、彼女は「お任せあれ」と起伏の無い胸を叩く。
『何かこの人にされなかった? 大丈夫?』
ジェスには何を話しているのか判らなかったが、執拗にこちらを指差すベルコーレを見て不安になる。
『うん。お兄ちゃんは外国の人?』
『そうですね』
『やっぱり! メリーニね、まだクイーン語判らないから外国の人とお話出来ないの』
『このベルコーレが、それを叶えて差し上げましょう。因みにこちらの方はジェス様であります』
『わぁい! ありがとうお姉ちゃんっ!』
ベルコーレがこちらを向き「若、準備万端です。彼女の名前はメリーニだそうです」と告げる。取り敢えず何から話そうかと考え、そう云えばと始める。
「君は1人なの?」
「見たら判る事を聞いて何を企んでいるのですか、若」
ベルコーレは兎に角、ジェスを何か卑猥な事を企む男におきたいらしい。どうせわざと云っているのだろうけど「いや親とかはどうしたのって事ですよ」と返事をする。
「今しがたメリーニに聞いた所です。タッチの差と云う奴です」
(つまりさっきのはわざとと云う事ね……)
ひょっとすると自分の額には、青筋が立っているかも知れない。ベルコーレの話によるとメリーニと名乗る少女は母親と2人で買い物に来ていて、ちょっとの間ここで待っている様にと云われたとの事だった。
『お兄ちゃんはどこの国の人なの?』
『ジャポンですね』
『知らない国だぁ。どうしてナガグツに来たのかな?』
『花婿修行ですね』
『しゅぎょう? よく判らないけど、お仕事みたいなものなのかな』
「メリーニはジャポンについて知らない様です。それと何しにナガグツに来たのか聞かれましたので、仕事と伝えておきました」
「ベルコーレさんが答えてたら通訳にならない様な……」
「主の手間を煩わせない事も、メイドの重要な仕事ですので」
メイドの仕事がどう云う物かは判らなかったので、野暮な事を云ってしまったと反省する。
「メリーニはこの街の人なのかな?」
ジェスの質問をベルコーレがメリーニに伝えると、メリーニは首を縦に振る。言葉は判らなくてもその仕草で、そうなのだど判る。
『ねぇねぇお兄ちゃん、ジャポンの国の事、教えて欲しいなっ』
メリーニの質問は、その後も雨霰の様に降って来て、ジェスは彼女と楽しい時間を過ごした。
暫く他愛も無い会話を続けていると、背後からクイーン語で話し掛けられた。
「何でジャポンの鳩野郎がこの街に居るんだよ。ここは観光名所でも何でも無いんだぞ」
友好的では無い、侮蔑を含んだ男の言葉に振り返ると、ブランド物に身を包んだ男が見下ろしていた。ジェスは男のジャケットが高級ブランド〈ヘルムス〉の物だった事から、彼が金持ちだろうと想像する。こちらの視線に対し、男は傲慢さを隠さずに話す。
「何だ、この服が珍しいのか? ガイドは付けられてもこう云う服は買えない貧乏人か何かかな? それにしても、そのジャケットは何だ。貧乏人のビジネスマンが着るスーツですら、それより良い生地を使うぞ」
そう云うと男こちらの学生服を指差して笑う。彼の笑い声は、ジェスにとって心地好い物では無かった。そしてそれはガイドと呼ばれたベルコーレも同じだった様だ。
『失礼ですが貴方はどなたでしょうか。それと、私はガイドでは無くメイドです』
ベルコーレが不機嫌な表情で何かを男に云う。すると男は益々可笑しいと云った様子で笑う。
「メイドだと? そんなものを雇う前に身なりをキチンとする方が大事じゃ無いのか、ジャポン人?」
どうやらベルコーレは、ガイドでは無いと云ったのだろう。それにしても執拗に絡んでくる男だ。辟易して投げ遣りに云う。
「あなたには関係無いじゃないですか。ほっといてくださいよ」
男は尚も絡んでくる。どうもジャポン人と云う事と、中途半端に金持ちと思われている事が彼の感情を逆撫でしている様に感じた。そうだとしても、ジェスにとっては謂れ無い言い掛かりでしか無い。
「いいや、関係あるね。このカフェテリアは、金持ちしか使わない場所だ。お前の様な、金を使う順番も間違える人間に居られるだけで迷惑なんだよ。さっさと貧困区域に消えてくれないか?」
「金を持ってる事がそんなに偉いんですか。人って云うのは、もっと平等であるべきじゃないですか」
男は声を上げて笑う。彼の下卑た笑いは心が舌で舐められた様な不快感を喚起する。
「平等! こいつは面白い。流石、平和ボケの鳩野郎の発想だ。いいかガキ、俺たち金持ちは街の為に多額の税金を納めている。対して、貧困層の奴等はカスみたいな額しか納めていない。そんな奴等と平等? そんな寝言は母国で云ってろよ」
男はこちらを見下して、更には店の前を肩を落として歩く人々を指差して云う。恐らく、指を指された彼らは、金持ちでは無いのだろう。
ジェスはこの男との会話を一刻も早く止めたいと思った。何故ならば、自分達の横にはメリーニがいて、言葉の意味は判らずとも雰囲気は伝わるのだろう。メリーニは心配そうにこちらを見ていた。
「もう何でも良いです。僕たちの事は放って置いてください。直に消えますから」
『今直ぐ消えろよ貧乏人が』
『少々横暴が過ぎるのでは無いでしょうか? 先にこのカフェテリアに居たのは私達であり、貴方が立ち去るべきかと思います』
男がナガグツ語で話すと、ベルコーレが同じくナガグツ語で言い返す。彼女は怯える様子も無く、淡々と男と云い争う。
『五月蝿い、ぶち殺すぞ。今直ぐ消えろ』
『ほう? そうですか、やれるものならどうぞ。この、鳩野郎以下の糞蟲野郎』
『何だと! 舐めやがって!』
男はベルコーレの発言に激怒し、懐から拳銃を取り出し構える。
(ちょっとお姉さん、何云ったんですか! 凶器取り出しましたよ、この人もマフィアだったって事ですか)
そして、ジェスにも聞こえる様にわざとらしくクイーン語で云う。
「この街では金持ちが正義なんだよ。だからやれるんだよ。金さえ〈ボロネーゼ〉ファミリーに渡せば俺は痛くも痒くもねぇ!」
取り出した拳銃を見て、メリーニが悲鳴を上げる。男はそれを楽しむ様に笑う。ベルコーレもまた、スカートのポケットに手を入れ、何かをするつもりだ。ジェスはどうすれば良いのか、緊張して考えが纏まらない。
その時、突然視界に入る人影があった。
『そこまでです!』
目の前に現れた少女は男に云い放つ。言葉の内容こそ理解出来ないが、それが制止の言葉だろうと予測は出来た。少女は男に向かって言葉を続ける。
『上から見ていましたが、今回の件は貴方の情緒の無さが原因では無いかしら?』
少女を見る男の目は驚愕に見開かれており、何か云いたいが云えず、言葉に詰まっている様に見えた。少女は2階席部分を指さしていた。あの高さからここまで飛んだと云う事だろう。決して大怪我をする様な高さでは無いし、ジェス自身も飛べと云われれば飛べる高さだと思う。足が痺れると云った様子も見せずに、彼女は男に向かって云う。
『その物騒な物を今直ぐ仕舞いなさい。それとも私にそう云った真似をしても、金持ちであれば問題無いとでも思っているのかしら?』
『い、いえっ……』
『判ったなら今直ぐ消えなさい』
男は手にした銃を慌てて懐に戻すと、踵を返して一目散に駆け出して行った。その一部始終に混乱を覚え、少女が何を云ったのかをベルコーレに聞こうと彼女を見る。ベルコーレは少女から目を離さない。ベルコーレは、少女を見つめたままジャポン語で云った。
「若、私達も直ぐにこの場を離れましょう」
ジェスが返事をするより速くこちらの手を握ったベルコーレは、男が去って行った方とは逆方向へ走る。ジェスは抵抗を考える間も無くベルコーレに引きずられて走る。振り返った視線は、驚いた様子のメリーニと仲介に入った少女の後ろ姿を映していた。
◆
──〈ボロネーゼ〉の街外れ 路地 昼前──
アルテージは1人〈ボロネーゼ〉の情報を漁っていた。
お嬢も、ベルコーレも目立ち過ぎる上に破天荒であったし、もう1人の同行者である少年は外国人。彼らに務まる仕事で無いと判断しての事だ。
アルテージは今、貧困区域にいた。ここではマフィアの恩恵を受ける事が出来ない連中が多く、マフィアに対する不満や愚痴を聞き出した所で怪しまれる事も無いだろうと考えた為だ。そして情報は、そう云った不満や愚痴から拾う事も出来るのだ。
貧困区域の治安は前評判よりも悪く無かった。荒んだ連中による窃盗などで溢れているかと思っていただけに拍子抜けした。
道行く市民に聞くと彼らは共通の仇敵である富裕層でも無い限り、仲間同士で争いはしないとの事だった。また、彼らはこうも云っていた。貧困区域よりも、商店街などがある区域の方が余程治安が悪いと。
その場所では貧困層の人間は虐げられると云う、それならば近寄らなければ良いじゃないかと思うがそうも行かないらしい。と云うのも、物を販売・流通しているのはその地域が中心である。貧困層の伝だけでは中々商売は出来ないらしい。
彼らはこの都市のやり方に不満を持っていた。しかし、新天地を求める資産も見通しも無く、悪循環は解決の目処が立っていない。結果、富裕層と衝突してしまう様だ。勿論、衝突と云っても一方的にやられてしまう事が多いのだろうが。
ここに来る道中、ショッピングモールを通った時の事を思い出す。道を堂々と歩く人々と、彼らを避ける様に路地に隠れたり、立ち止まったりした人々に判れていた。この貧困区域ではそんな光景は見え無い。
アルテージは昼間から営業していた大衆酒場へ入る。
店は平屋の簡素な作りであり、大きな窓から陽光が入る為、電灯は点いていない。繁盛していて、客層は老若男女様々である。家族連れも多い印象だ。
昼から飲んだくれると云うよりは人々の憩いの場なのだろう。アルテージは店のカウンターに腰掛けると店の中を眺める。
『いらっしゃいませ。酒類は夜からの提供になります。昼から酒を出してしまうと買い出しの回数が増えてしまいますからね』
カウンターの中にいる男がそう云って、メニューを渡してくる。アルテージはメニューから珈琲を見つけるとそれを注文した。
目の前のサイフォンから落ちる珈琲を見ていると、男が聞いてくる。
『お客さんは見掛けない顔ですけど、この街の方なんですか?』
『いや、他所者ですよ』
男は『そうですか』と云って不思議そうな表情で云う。
『観光するにはお勧め出来ない街ですけどね。何でまた?』
『そうですね、仕入れとでも云いましょうかね。まぁそんな所です』
男は同情する様な顔で『仕入れですか』と呟き、『大変じゃないですか』と続ける。
『この街で仕入れる物は大抵、富裕層の連中が居る場所でしょう。何かトラブルに巻き込まれたりしませんか?』
『仕入れにはこの後取り掛かるのですが、トラブルと云うのは?』
男は店の中を一頻り見渡した後に、周りに聞こえ無い程度の小声で話す。目の前のアルテージでさえ、前のめりにならなければ聞き取れ無い。
『富裕層の奴等は、自分達より貧しいと決めた人間には何をしても良いって思っている連中ですからね。目を付けられたら最後ですよ』
『警官は居ないんですかね?』
『あんなのは信用出来ません。マフィアと癒着してますからね。そしてマフィアに金さえ渡せば、捕まる事なんて無いんですよ。だから富裕層の連中は法なんて気にしません』
『それで貴方達は只云いなりになるしか無いと?』
『……反抗する者も昔は居ましたよ。でも殆どがマフィアに殺されてしまって、それ以来反抗する者なんて見なくなりました』
『なるほど、そんな事があったんですか』
只の市民がマフィア相手に反抗した所で意味は無いだろう。録な戦果も挙げられずに死んでいったに違いない。彼らは愚か者だったが、逃げ出す様な軟弱者では無かった。そう云う市民が多ければ、今後の施政もやり易いと云う物だ。
『市民の内、富裕層の割合はどれ位なんですかね?』
『2割も居ませんよ。この街の殆どが私達の様な立場です』
(2割位なら黙らせる事も出来そうですかね。気に入らない奴等は街から出て行くか……金に不自由も無い訳ですしねぇ)
『マフィアについて何かご存じですか?』
『〈ボロネーゼ〉ファミリーですか……余り市民の前に出て来ないものですから。ああでも、1人だけ居ますね』
『その1人とは?』
『〈ボロネーゼ〉ファミリーのボスの1人娘が居ましてね。この娘だけは昔から、私達貧困層の人間にも良くしてくれるんです。そのせいで金持ちにやっかまれてますが、マフィアの娘って事で金持ち達も強く出れないんですよ。この街の警官の代わりの様な人ですよ。だけど、そんな彼女の行動でさえもマフィアがこの街の求心力を得る為の策略じゃ無いかって噂もありますけど』
『ほう……マフィアの1人娘ですか』
アルテージは同じくボスの1人娘であるエムエルを思い浮かべる。
(マフィアの娘は内部を荒らすのが趣味な人が多いんでしょうかね……)
『すみませんね。大した事は私達も知らないもので、この街でマフィアと繋がりがあるのは大抵金持ちの連中ですので』
『いやいや、おきになさらず。十分に仕入れられましたよ』
アルテージはそう云うと、お代をカウンターに置き席を立つ。店の男は『お客さん、お釣り!』と声を上げるが、それを手で制して店を出る。
大衆酒場を後に、次の情報を探して〈ボロネーゼ〉の街を歩く。街の雰囲気が少しずつ変化して行くのをアルテージは感じる。擦れ違う人々の着ている服は生地の良い、手入れのされている物を纏っている事が多くなり、宝飾品等で着飾った女性も多い。貧困区域は抜けたと云う事だろう。アルテージは道行く人々の内、一人の女性に声を掛ける。
『失礼、隣街から今日越してきた者ですがお聞きしたい事がありまして少々お時間を頂いても宜しいですかね?』
『はい? すみませんが今から銀行へ向かう途中でして、娘を待たせているので生憎と……』
アルテージは懐から紙幣の束を取り出し、女性へ次げる。
『勿論、お時間を頂くお礼はありますよ。これだけあれば銀行へ向かう事も無いでしょう?』
『そんな、受け取れません』
『直ぐに済みますので、どうかお願い出来ませんかね』
『……どう云ったご用で?』
『いえ、簡単な事でして街に越してきた際に目通りして置かないといけない方のいらっしゃる場所を教えて頂きたいのですよ』
『と云いますと』
『〈ボロネーゼ〉ファミリーのお屋敷の場所ですね』
女性は親切に場所を教えてくれる。アルテージは礼を云うと、紙幣を渡し女性と別れる。この街では金持ちが一番偉い。つまり、外様と云えど金を持っているアルテージもまた、動きを制限される事も無い。直に崩壊する施政ではあったが、今は有効利用させてもらう事にした。
──〈ボロネーゼ〉の街 マフィアの屋敷前 昼過ぎ──
教わった場所には、〈トラパネーゼ〉ファミリーの物より大きな屋敷があった。金持ち達からの上納金で肥えた建物は威圧感すら覚える。
アルテージは不自然に見えぬ様に屋敷の回りを散歩でもしている風に歩く。
(大きな正門ですねぇ…… こんなに大きいと、出入り口は沢山ありそうですね)
正門から堂々と攻めた所で地の利は相手にある。攻めるなら強襲するのがベストだろう。近頃はマフィア間の抗争も落ち着いている為、警備の構成員がいる気配は無かった。街に蔓延る反乱分子も戦力的に問題が無いと思っているのだろう。アルテージはその隙を突こうと考えていた。
屋敷には3つの入り口があった。1つは正門、2つ目は物資の搬入口であり、トラックが出入りをしていた。3つ目は一番小さい物で、住み込みでは無い使用人達の通用口と云った所だろう。
屋敷の周りを調査し終わると日も傾き始めていた。アルテージは携帯を取り出し、仲間達へ合流を促す為に電話を掛ける。
『お嬢、下調べは粗方終わりました。今日の所はそろそろ……』
アルテージは屋敷を見つめながらエムエルへ伝える。そして、遠く無い内にまた来るだろう、この街を出る為の準備を始める。
10万文字で一つのストーリーを完結させようとするのは中々難しいものです。