語りあい パート5 小さな駆け落ち編
列車のスピードは以前の様に早くなり、車窓の景色が流れ始めた。
「亮子・・あの煙の出ている山は何て言うの・・」
「あれは・・樽前山・・噴火する山だけど・・今は休止しているの・・」
信一は北海道が未開の地に思えているのだった・・恐竜が今でも生息していて原始人が住んでいる、そんな空想を始めているのだった。
「北海道って火山が多いんだ・・原始林の風景ばかりだし・・恐竜って住んでる?・・」
「穂別町には恐竜の博物館が在るけど・・これでも倭人が北海道で暮らし始めてから100年以上の年月が流れているのですわ・・その間に絶滅してしまった狼やこの辺りでは見かけなくなったシマ梟とか・・そう北海道で一番大きな生き物のヒグマも殆ど見かけなくなったわ・・」
信一は亮子の言う処の動物の想像がつかなかった。
「狼・・ヒグマ・・シマ梟・・おとぎ話に出てきそうな・・動物・・」
「狼は狩をする動物だから家畜を襲うの、だから倭人は一番に根絶やしにしたのよ・・ヒグマは森に入る倭人を襲うから、その都度に駆除されて減っちゃったの・・シマ梟は巨木の穴に巣を作るから、その巨木が倭人の手で商品に変わって行ったから居なくなったの・・」
「へー・・知らない間に倭人はひどい事をしているんだ・・」
亮子は頷いた。
「そうよ・・だからアイヌは元の生活には戻れないの・・」
信一は空想家だ、色んな書物を読んでは空想の世界に身を委ねる。しかし、亮子の話を聞いて空想の世界に引き込まれる事は無かった。
「ヒグマって・・よく店なんかで見かける剥製の事・・」
「そうよ・・」
「じゃ・・梟は・・」
「羽を広げれば3メートル近くにもなる大きな梟なの・・普通に木に留まっていても背丈は1メートルはあるわ・・」
「え・・お化け鳥・・まさに恐竜じゃないの・・」
「違う・・梟はコタンコルカムイ・・アイヌにとっては村を守ってくれる最高の神様なのよ・・」
信一の目は輝きを増していた。
「やっぱり、アイヌって凄いや・・アイヌの暮らしがしてみたい・・」
信一は心の底から、アイヌの本来の姿が羨ましく思えた。
「そうね・・」
亮子は軽く頷くだけだった。
列車は海岸線に入って山の反対側に海が見え隠れし始めた。
「なんか・・変な匂いがするけど・・」
「今度停車する苫小牧の工場の匂いです。苫小牧は北海道で始めて製紙工場が作られた場所で、ここで倭人は北海道の木から紙を作って本州や外国に売っているのです。」
直に大きな工場の煙突が目に入った。苫小牧の製紙工場は巨大だった、明治27年に操業して次第に大きくなって行き現在では北海道のシンボル的な存在になっている殖産工業的な民間工場だった。この製紙工場は支笏湖畔の天皇御料地を借りて発電所を建設し自前で電力を供給する特別な工場だった。
「大きいなーー・・でっかい工場で紙を作っているのか・・じゃ・・学校で使うノートや本なんかも、ここから生まれてくるのか・・」
「信ちゃんたら・・何も判ってないのね・・」
信一は不意打ちを食らったようにキョトンとしていた。
「あの紙の原料は梟の棲家だったり、ヒグマの棲家だったりするの・・あれが北海道の生き物を住めなくさせているのよ・・」
信一は不意打ちを2度食らって動き出すにも動けない状態だった。
「あの・・あの・・でもさ・・森を切り開かないと畑が出来ないよね・・切り開かないと街も作れないし・・倭人が目指している暮らしは出来ないんだ。」
信一はやっとの事で動き出して亮子の返事を待っていた。
「アイヌは紙を使わないわ、頭の中に記憶できる範囲の事しか生活には用いないの、それが人間としての生き方を守る事に繋がるのよ・・欲張って知識を貯めようとするから次から次えと欲望が芽生えてくるの・・」
亮子の意見は正当だった、アイヌを知らない信一にも簡単に理解の出来る話だった。
「身も蓋もない・・」
信一はうな垂れて亮子の機嫌を伺う仕草をして見せた。
「欲望は欲望を生み、いずれ絶望に変わる日が来るのよ・・それだけ人間は長い時間を生きているのだから・・私の祖先は何万人もいる筈よ・・」
「身も蓋もない・・」
信一は亮子の顔を見られなくなっていた。
空想する事が生きがいの様に未来予想図を描いては飛び跳ねていた自分が何処かに追いやられてしまっていた。現実に近代化を目指し邁進する日本国を誰がアイヌの世界に引き戻そうとするであろうか、否、世界中の神々は進歩の無い人間をお許しにはならない事は誰もが承知している筈だった。
そして、信一は亮子の失った物に対する考えに反論する気力を失っていた。
「倭人は愚かなんだ・・未来も、夢も、空想でしか無いのかも・・」
亮子はアイヌの心を捨てる事は出来なかったが、信一の為に倭人の心を理解する努力は惜しまなかった。
「倭人が愚かな訳では無いと思うわ・・信ちゃんの先祖も私と同じだけ存在しているのだから・・」
「そうだね・・じゃ・・誰も悪くは無いのかもね・・」
二人は妥協点を見つけようと努力していた。互いに尊重しあう心が芽生え始めていたのかも知れない。
列車は苫小牧で少し停車した後は登別に向けて走り出した。苫小牧を出発すれば登別までは20分ほどの距離しか無かった。二人は自然と旅行気分が高まってゆくのだった。
「いや・・海が近いね・・」
登別までは海岸の直ぐ傍を列車は走って行くのだった。
「亮子はこの景色をを見て育って来たんだ・・・」
信一は亮子の顔を覗き込む様にして返事を待った。
「珍しい・・お姫様じゃ無いのよ・・あっちを向いて・・」
亮子は顔をそらして海辺の鳥達に挨拶をしているようだった。
「海鳥は何処へでも行って暮らせるから良いわね・・私達の様に人が作った掟の中でしか暮らせないのとは違うものね・・」
信一は物憂げに風景を眺める亮子が悲しく思えた。アイヌの宿命を背負って生きるしかない亮子の肩が悲しそうに見えたのだった。
「そうだね・・鳥になって・・自分の好きな所へ飛んで行けたら・・」
二人は車窓に映る広い世界に夢を馳せていたのであった。
「もう直ぐ登別に到着いたします・・お降りの方は御準備願います。」
車掌の声が聞こえた。
わざわざ到着の案内をするのは登別が温泉地であり、そこに避暑に出かけるのが北海道民のステータスに成っているからだった。
「沢山の人が降りるんだね・・」
「みんな温泉に行くのよ・・ほら温泉の迎えの車がいっぱい来ているでしょ・・」
「本当だ・・で・・僕らは?・・」
「叔母さんの御家は車が無いから・・歩いて行くの」
信一は重い荷物を背負い上げながら近くである事を祈った。
「どの位・・」
「10キロぐらいかな・・」
「げ・・・げ・・・げ・・」
「僕の荷物・・重いんだ・・」
信一は何から何まで詰め込みすぎたリュックを恨めしそうに揺さぶった。
「男の子でしょ・・」
亮子は手伝う事はなさそうだった。
信一は覚悟を決めて歩くしかなかった、夏の日差しの中で海辺の太陽は容赦なく照りつけた。
「亮・・待ってよ・・」
亮子は何時もの様に足は速かった。
「一本道だから・・迷わないから・・」
辺りには家は多くはなかったし、見通しの良い道路は何処までも直線だった。
その為に亮子と信一の距離はどんどんと離れて行くのであった。
「亮・・これ以上・・離れたら・・嫌いになるからな・・」
信一は限界を覚えていた。
それでも亮子は信一の事を待たなかった。それは、親戚の家に行く事は伝えてあったのだが倭人の子供が一緒だとは伝えていなかった事が気がかりだった為なのであった。やがて、亮子は信一の視界から完全に消えてしまった。
「亮子のやつ・・いったい何を考えてるんだ・・少し休憩しよう・・」
容赦なく照りつける太陽は北海道とは言え体力を奪うものだった。それに加えて重い荷物は信一の軟弱な体には負担となっていた。
「さすがに日陰は涼しいや・・しばらく休んで行こう・・」
信一は次の瞬間には眠りに落ちていた。
辺りには車の気配もなく静かさだけが信一の眠りを見守っていた。
「信ちゃん・・信ちゃん・・」
信一は妖精の声を夢の中で聞いた様に感じた。
「僕の亮子・・一緒に遊ぼ・・」
寝言に亮子は返事をしていた。
「はいはい・・じゃ早く目を覚まして・・」
「わかった・・」
信一はようやく寝ぼけ眼をこすって亮子の姿を確認した。
「亮子・・もう着いたのかな・・」
「いいえ・・私が先に親戚の家に行って・・信ちゃんが一緒に来ている事を伝えに行ったの・・」
「え・・言って無かったの・・」
「急な事だったから・・でも叔母さんは快く迎えてくれる筈だわ・・」
「それは良かった・・」
信一と亮子は一緒に歩き出した、今度は荷物を二人で持ち合って仲良く歩いていた。
「あれが叔母さんの家だから・・」
亮子が指差す方には小さな家が見えた。それは小高い丘の様な所にひっそりと一軒だけが建っていた。
「なんか・・人が住んでいる様には感じないんだけど・・」
信一は家の周りに木も無く、ぽつんと小屋の様な家が建っている事に違和感を覚えた。何時もの中佐の敷地内の隠れ屋が立派な家に思えるのだった。
「仕方ないの・・アイヌは大きな家を持つ事は赦されないのですから・・」
「そんな事が・・初めから住んでいる人達なのに・・」
二人が家に近づいて来ると、家の小ささが際立って感じられた。
「叔母さん・・着いたわ・・・」