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愛し合う 10年目の再会『最終話』

 女将は嘘をついていた、あまりの突然な話に理性を失っていたのだった。本当はハウカセから預かった下働きをしている娘が亮子と言う名前であるのだった。しかし、女将はハウカセから、その娘を倭人で身寄りが無いと言う事で預かったのである。だから、アイヌである事も知らず、自分が生んだ娘である事も知らされていなかったのである。

「お部屋まで御案内いたします。」

 女将は信一を部屋へ案内して行くのだった。民宿月子は部屋数10の小さな宿屋だった、だから信一が泊まる部屋には直ぐに到着した。

「女将さん一人で切り盛りされているのですか?」

「一人、下働きが居りますが・・」

「そうですか・・」

「亮子は今22歳です。とても綺麗な人なんです。本当に知らないですか?」

「知りませんから・・」

「そうですか・・」

「昼食は如何なさいます。」

「出かけるので・・結構です。」

「ご夕食は6時から頂けますから・・お戻りになられましたら、お伺いします。それでは・・」

 女将は下働きの女性の話をせずに部屋を後にするのだった。

「亮子の事を知らないなら・・何故にハウカセさんは月子さんに会ってくれと言うんだろ?」

 信一も月子が亮子の本当の母親であるとは思いも拠らないのである。

「女将さん・・今日のお客さん山本 信一って言うのですか?」

 離れの調理場に遣って来た月子に下働きの亮子が質問をするのだった。亮子と月子は本当の親子の様に何でも言い合う関係になっているのだった。月子にとっては亮子の歳が自分の生んだ娘と同じであり、聡明な亮子が自分の娘であると思えるからだった。

「あんたは客の対応をしなくて良いんだよ・・」

「ええ・・東京の方ですか?」

「いいや・・札幌から来ているそうだ。」

「そうですか?」

 女将は亮子にも信一の話をする事を拒んでいた。あの男性が亮子を探しているなら亮子も、あの男性の事を知らない筈が無いと思ったからだった。そして、詳しい事を知らない月子は真実を伏せるべきだと考えたのだった。そして、亮子も深く詮索をしなかったのである。まさか・・こんなに早く北海道の外れに当たる知床半島の民宿に信一が訪ねて来るとは亮子も考えていなかったのである。知床半島とは昭和30年まで殆ど人が入らない前人未到の地であったのである。それは厳しい自然環境と切り立った半島の岸壁が人を寄せ付けなかったのであった。そして、明治の開拓以来、最後に残った本当のアイヌの土地を見る事が出来る場所と成ったのである。

「リョウちゃんは家の用事を済ませておいてくれる・・わたしゃ、お客の食事の準備とかあるからさ・・お願いね・・」

「はい・・女将さん・・」

 今日の客は信一だけだったが、明日からは漁協の関係者が3名宿泊する予定になっているのだった。

「山本 信一だなんて・・信ちゃんと同姓同名の人が居るのね。」

 亮子は、それが本当の信一であると知らずに調理場の二階にある女将と自分の住まいに戻って行くのだった。亮子は、この民宿に来てから2年の月日が流れているのだが民宿の仕事は殆どしていなかった。民宿の仕事で忙しい女将に変わって家の仕事に専念をしているのであった。それは、亮子がハウカセから月子の民宿を紹介された時の約束事でもあった。亮子は身元を知られたくない、ハウカセは月子に亮子が本当の娘である事を知られたくなかった、それで二人に約束をさせたのである。亮子にはアイヌである事を月子に知らせない、月子には亮子を探す人から身を隠せる様に民宿の仕事をさせない事、と言う約束をハウカセが取り決めたのであった。それ故に、二人が出会う機会は閉ざされているのであった。

「女将さん・・出かけてきますから・・」

「いってらっしゃいませ・・」

返事が返って来たのは女将さんではなかった、声が若かったのである。

「あ・・ごめんなさい・・女将さんに似てらしたから・・てっきり・・」

「いいえ・・よく間違われますから・・何故か遠目で見ると似ている様なんです・・本当の親子かとも言われるのですから・・」

「ひょうっとして・・下働きが一人いらっしゃるとかと言うのは貴方の・・」

「そうです・・でも民宿の仕事はしていないのです。」

 これだけ話しても、二人とも互いの存在に気付かなかった。それは亮子はアイヌである事を隠す為に髪を短くして女将さんの御下がりの着物を着ていた。そして、信一は思春期を過ぎて背は30㎝以上大きくなり身なりに気を使わない信一は大学を卒業して間もない青年とはとても思えない様に老けて見えていた。つまり、二人を隔てた10年という歳月は余りにも大きな障壁と成っているのだった。

「そうですか・・よろしければ町を案内して頂けないでしょうか?」

「私は女将さんから、お客さんの相手をしないようにと言われていますから・・」

「そうですか・・残念です御綺麗ですから・・」

「ごめんなさい・・」

 信一は、そのまま街の散策に出かけて行くのであった。そして、亮子も後を追うように町の郵便局へ向かうのであった。変わっていなかったのは亮子の歩く速さだった、幼い頃から母や叔母から狩りを教えられた亮子の歩く速度は人並み外れたスピードだった。だから、出かける時には姿も見えなかった信一に直ぐに追いついてしまうのだった。しかし、追いついても信一に話し掛ける事も出来ない亮子は、ある程度の距離を保って歩くしかなかった。つまり、亮子は信一の後姿を見続ける事になったのである。

「あそこに橋が架かっているな・・川が流れているのか・・そう言えば初めて亮子に出会った時も寒い日だったな・・」

 ウトロの町にはペケレット川と言う川が流れていて民宿月子からは、その川を渡らなければ町には行けなかった。そして、信一は亮子の事を思い出して橋の袂で立ち尽くすのだった。

「向こう岸で亮子は川の魚と話していたんだった・・」

 じっと川面を見つめる信一の脳裏には走馬灯の様に、あの日の記憶が蘇って来るのであった。長い冬の季節が終わり雪を解かす強い春の日差しに包まれた亮子の姿が思い出されるのであった。

「本当に妖精のようだった・・」

 ずっと付かず離れず歩いていた亮子も信一の姿を、ただ見守るしかなかった。その一部始終を見守っていた良子の目に思わぬ光景が飛び込んで来たのである。それは、信一が手を広げて深呼吸しようとした仕草だった、その仕草が亮子の記憶をも引き出すのであった。

「あの姿は・・信ちゃん・・」

 亮子の瞳からは止めど無く涙が溢れていた。信一と通った小学校に何時も待ち合わせをしていた橋の袂で信一は深呼吸の動作をするのが癖になっていた。そう、亮子は信一の深呼吸する姿を何時も目にしていたのである。しかし、亮子は自分の中で起こっている現象を冷静に受け止める事が出来なかった。込み上げて来る感情をコントロールするには余りにも強く確かな物だったのである。

「何時も橋の袂で私を待っていてくれた・・信ちゃんだわ・・」

 亮子は声を上げる事も、歩き出す事も出来なかった。そう息をするだけで、やっと、その場所に留まって居る事が出来たのだった。晴れ渡った空は眩しいほどだったが、まだ明けきらない冬の空気が肌に冷たかった。亮子は空を見上げてカムイに御祈りを捧げるのだった。この最後のアイヌの地である知床には今でもコタンコルカムイであるシマフクロウが棲んでいる事を亮子は知っていた。

「信ちゃんにどうやって伝えるの・・」

 亮子は郵便局の用事を済ませると直に民宿月子の自宅に戻ってきていた。信一は町を歩き回っていたが亮子の消息などつかめる筈も無かった。亮子は月子以外の町の人々には静香と言う偽名を使っているからだった。亮子も簡単に信一の元に向かう訳にもいかないと言う事が判っていた。信一に自分の存在を明かせば他の人たちにも自分の存在を明かす事になるからだった。

「亮ちゃん・・・頼んであった郵便・・出して来てくれたかい?」

「はい・・女将さん・・」

「ありがとね・・手が空いてたら客間のお布団の点検して来てくれないかね・・明日から漁協の関係の人が3人泊まる事になっているから・・」

「はい女将さん・・」

 亮子は、その頼み事を聞いて手紙を書く事を思いついたのであった。そして、その手紙を信一が泊まっている部屋に置いて来れば信一に伝える事が可能であると思ったのであった。亮子は何年ぶりに信一宛ての手紙を書くのだろうと考えながら筆を走らせるのであった。しかし、その手紙で自分が亮子であると言う事を明かす事も出来ないと思うのであった。

「まだ・・信ちゃんは部屋に戻ってないようだわ・・今のうちに、この手紙を置いてこなければ・・」

 亮子は急いで民宿の部屋の方へ向かうのであった。

「これで良し・・」

 亮子は仕事を済ませると直ぐに自宅の方へ戻って行った。使われていなかった布団は湿っていたりするので部屋に広げて乾燥させるのである。

「信ちゃん気づいてくれるかな?・・信ちゃんは鈍感だから・・」

 その日、信一は夕食の時間である6時頃まで帰ってこなかった。そう、歩き回っては疲れ果てるまで帰る気持ちにはなれなかったのである。信一の足取りは非常に重かった、何人もの人たちに亮子の事を聞いて見たが何一つとして収穫が無かったからである。

「夕食、運びますから・・・」

 女将は信一が帰って来るのを見つけて、タイミングよく信一に伝えるのだった。

「お願いします・・」

 信一が部屋に入って浴衣に着替え終わった頃に女将は夕食を運んで来た。

「たいした料理は出来ないですが・・お口に合いますか?」

「なんでも美味しく頂きますから・・」

「どうでしたウトロの町は・・何も無い所でしょ・・」

「静かな港ですね・・今度、家の会社が港の改修工事をするんですよ・・」

「そうでしたか・・・」

「本当は社長の渋谷と一緒に来る予定だったのですが・・私の私的な事で自分だけ早くに来てしまいました。」

「ハウカセとは何処で会われたのですか?」

「摩周湖の見渡せる丘の上です。」

 月子はハウカセの本当の住まいの場所も知っているのだった。その為に信一が嘘を言っていない事は間違い無いと言う事を理解したのであった。

「ハウカセとは親しいのですか?」

「初めて会うのです・・ハウカセさんの使いの人が摩周湖に行ってくれと・・」

「そうですか・・亮子さんとは、どんな関係なんですか?」

「小学校の時の同級生で、その時に結婚の約束をしたのです。」

 女将は自分の所に居る亮子が、その本人であるとは思ってはいなかった。亮子は和人であると女将は思っているからだった。ハウカセからも亮子は和人の娘で身寄りを亡くしたと言われて引き取ったのであるから仕方がなかった。

「見つかると・・良いですね・・」

 女将は信一の本意を聞く事が出来たので安心する事が出来たのだった。

「ごゆっくり・・」

 女将は笑みを浮かべて部屋を後にするのだった。

 信一は一日歩き回ったせいもあり目の前に置かれた食事を見て空腹感が込み上げてくるのだった。

「先ずは食事と・・いただきまーす・・」

 亮子は手紙を窓際の机の上に置いておいたのだが信一は気づかなかった。食事が済むとお風呂へ行き部屋に戻ってくると布団が敷かれていたから直ぐに寝床に潜り込んでしまう信一だった。結局、手紙を見つけたのは翌日の朝に成ってからだった。

「よく寝たな・・今日はどうしよう・・?」

 信一は翌日の亮子の捜索の事を思い出して頭を抱えるのだった。ハウカセだけが頼みだったのにウトロに来ても何の情報も得られないとは思ってもいなかったのであった。

「今日も天気は良いな・・山の方にでも行って見るか・・おや・・こんな所に手紙が・・」

 信一は窓際のテーブルの上に自分が置いた筈のない手紙を見つけたのだ。

「昨日、届いたのか?・・いや宛名が無い・・女将さんが置いたのか?・・確か僕がこの部屋に案内された時には、こんな手紙は無かった・・誰かが置いた事は間違いない・・」

 信一は宛名も書かれていない封筒を不審に思いながらも手紙を取り出して内容を確かめるのであった。

 

・・・・・・手紙・・・・・・・・

 貴方は、この手紙が誰からの物か知りたいでしょう。しかし、私が誰なのかは教える訳にはいかないのです。そして、この手紙の内容は一切他言してはならないのです。

 

 では次の指示に従って下さい。

 貴方が亮子を探しているなら、夜に人気が無くなった頃を見計らって町に行く途中のペケレット川を上流に向って歩いて行くのです。暫くすると、街から離れて森の中に入って行きます。森の中に入ってから10分ほどで大きな一本のミズナラの木が有るでしょう。その木の所へ来て欲しいのです、誰にも見つからない様に密かに来て欲しいのです。くれぐれも、ヒグマには注意してください。冬眠から覚めたばかりのヒグマは凶暴ですから、ヒグマには絶対に近づかないで下さい。今夜、来られる事を信じています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・


「なんだ・・名前も何も書いてないじゃないか・・・女将さんが置いたのか?・・他言してはならないか・・聞いてみる事も出来ない・・手紙に従うしか無いようだな・・・夜か・・それまで待つしかない・・」

 信一は手紙の主が誰なのか気になって仕方がなかった。この部屋に部外者が入る事は余り考えにくに事だった。民宿の立地を考えても民宿に忍び込んで手紙を置くには開け放たれた民宿の周りの空き地を通らなければならなかった。人目に付かずに手紙を置いて行けるとは考えにくかった。だとすれば、手紙はこの民宿の人が置いた筈だった。

「誰かに手紙を置いてくれと頼まれたのだろうか?」

 信一はハウカセの事を考えるのだった。ハウカセは釧路に伝言を託す人を送っている、ハウカセなら自分の部屋に手紙を置く事は容易いだろうと考えるのだった。

「お客さん・・朝食の準備出来ましたから・・・」

 女将の声が信一の部屋に届くのだった。朝食は玄関の隣にある広間で食べる方式になっていた、と言っても客は信一の他には居なかった。

「今日から漁協の関係の人たちが3人泊まりなさるからよろしくお願いします。」

「では賑やかに成りますね・・」

「漁協の人たちは声が大きいから・・部屋移りますか?」

「大丈夫です。」

 信一はハウカセに会ったか?と女将に聞いて見たかったが止める事にした。万が一にでも手紙の存在が漏れる可能性が無いとも限らないと思ったからだった。

「いただきます。・・」

 信一は食事をしながら手紙の事を考えていた。夜中に人知れず森の中に一人で行くのか・・・と・・考えた。北海道の夜の気温が如何に冷たいかを信一は少ない経験からも知っていた。この時期であれば殆ど0度近くまで気温が下がる筈だった。北国の気温は水が氷るか氷らないかで暖かいか、寒いかを考えるのである。だから、寒くなるとシバレルと言う言葉で表現するのである。それは屋外に長時間いると凍傷になったりする危険性が有るか無いかと言う判断にも繋がっている。夜中に森に行く事は危険な事でもあったのである。

「ごちそうさま・・」

 信一は食事を済ませると再び町に出かけるのであった。渋谷社長と連絡も取りたかったし、森に行く為に懐中電灯や長靴が欲しかったからであった。

「女将さん・・出かけてきますから・・」

「はい・・行ってらっしゃいませ・・」

「3時頃に戻ります。」

「はい・・判りました。」

 信一は夜になってからの行動がスムーズに運ぶように森に通じる道の確認や人に見られない様に方法を考えながら町に向かって歩いた。

「民宿の近くは民家も無いからな・・この道を行けば良いだろう。」

 北海道の町では夜の9時以降には殆ど出歩く人は見られない事は信一も知っているのだった。夜は仕事をする人も殆ど無く、普通の人は家で酒盛りをしているか飲み屋で騒いでいるかであった。だから、9時以降であれば人に見られる心配は殆ど無かったのである。信一は町に入る橋の袂で上流へ行く道の確認をした。

「この道が森に通じているんだ。」

 道は野道ではあったが判り易く広々していた。

「これなら・・道に迷う事はないだろうな・・そう言えば放課後、亮子と森に遊びに行った時もこんな風だったな・・・」

 信一は森への道を確認すると町の商店街へと向って行った。昨日、町を隈なく歩き回ったおかげで既に信一はウトロの町を詳しく知っていた。言い換えれば一日で全て歩ける位に小さな街である裏返しでもあった。そして、商店街には漁業者が必要な雑貨を取り扱う店が有る事を知っていたのである。

「こんにちは・・昨日は有難う御座いました。今日は懐中電灯を買おうと思いましてお願いできますか・・・」

「あんたも変わった人だね・・昨日はアイヌの娘を探して、今日は懐中電灯かい・・森の奥にでも探しに行くのかい・・熊に襲われるぞ・・」

 店主は昨日は話した奥さんの方であった、亭主は漁師と店の仕事を両方していると言うのだが、どうも奥さんが全て取り仕切っていると言う感じだった。

「そうですね・・夜に港に着てみたくて・・」

 信一は適当な話を作って店主に伝えたのである。

「そりゃー・・海に落ちて死ぬね・・」

「明るいのを宜しく・・」

「あんたが・・海に落ちない様に一番明るいのをあげるよ・・はら・・」

 店主は店の奥から自分の家で使っているのかと思われる物を無造作に差し出した。

「あれ・・もう使ってあるのですか?」

「これは家の必需品でな・・父さんが目を悪くしているもんで暗いと見えないのさ・・これが家にある一番明るい懐中電灯さ・・持ってきな・・」

「そえでは親父さんが困るのでは?」

「壊れた時の為に何個か予備を買ってあるから大丈夫だ・・」

「おいくらです・・」

「金なんぞいらね・・わざわざ遠くまで一人の娘を探しに来たんだろ?・・わしからの餞別じゃ・・」

「長靴も必要なんですが・・」

「長靴も持ってきな、あんたの文数に合ったの選んでな・・」

 信一は無料で必要な物を手にする事が出来たのだった。それは、昨日から必死に亮子の事を聞いて歩いている事を町の人たちが知っているからに他ならなかった。

「ありがとう・・」

 信一は店を出ると港の方角へ歩き出した。朝の港は活気がある、日が開け切らぬうちから漁に出た漁船が獲物を積んで帰って来ているからだ。信一は港の改良工事の参考に見て置きたかったし、亮子を探す為の情報が得られるかもと思っていたのである。そして、もう一つに東京の大学の調査船が港に停泊している事だった。昨日、信一は町の人から、その話を聞いていたのである。信一がその船の乗組員と間違えられた事が知る事の切っ掛けだった。

「東京からの調査船は何処に停泊してるのだろう?・・」

 仕事に精を出す漁師達を尻目に調査船を探していた。

「あんたアイヌの娘を探している人かね・・」

 突然、漁船の中から大きな声が聞こえて来るのであった。

「は・・はい・・僕です。」

「こんな所に来ても見つからないぞ・・」

「探す当ても無くてです・・・」

「あんた・・昨日、一日中、町を歩いていたそうだな・・おら達もな・・情報が有れば教えてやっぺ・・でも何にも判らんのだから・・勘弁してくれ・・」

 漁師は自分達が力になれない事を悔やんでいるのである。しかし、そんなに簡単に見つかる筈が無い事は信一も承知しているのだった。亮子の聡明さを知っているからこそ、自ら身を隠している物を見つけ出すのは容易くは無い筈だった。

「ありがとうございます・・所で・・東京の調査船は何処に停泊しているのですか・・」

「向こうの外れだ・・1キロほど離れた岬の入り江に停泊している。」

 信一は教えられた入り江の方向に歩き出した。人工のウトロの漁港の他に自然に出来た入り江が有るらしかった。調査船は自然の入り江の中で身を潜める様に調査しているのだった。

「1キロとは町からも離れているのか・・」

 信一は人気の無い道をひたすらに海岸線に沿って歩くのだった。さすがに地の果てと言われる知床は野生に満ちている気がする信一だった。そして、突然その事態は発生した。

「あら・・あの黒い物体は・・一度見た経験が・・そうだ亮子のペットだったやつ・・こんな所に・・いる筈が無いだろ・・と言う事は本当の野生のヒグマ?」

 そうだった。

 知床のヒグマの生息密度は開拓以前のそれと全く同じなのである。つまり、ヒグマと遭遇する確率が非常に高いのである。

「あまり刺激を与えない様に向こうが去って行ってくれると・・」

 ヒグマは餌を求めて通りかかっただけだった。信一の存在には気も呉れずに目的の餌場に消えて行くのであった。

「無視か・・ヒグマに無視されるのか?・・興味を持たれるより良いじゃない・・って・・ヒグマって・・大丈夫かも・・」

 信一は一時の安堵感から取り留めの無い考えに浸るのであった。

「あなた誰です・・」

 若い女性の声が信一を呼び止めた。

「ヒグマの対処法を良く御存知で・・」

「え・・怖かっただけです。・・でも昔の彼女がペットとして飼っていましたから・・」

「私をからかうのですか?」

「いえ・・本との事です。」

「あなたは・・」

 若い女性は小柄で勝気な性格だった。

「調査船に用事が有りまして・・」

「何の・・」

「若い女性を探しているのです。」

「私たちは野生動物の調査をしているのですよ・・」

「それが僕の彼女は野生動物と仲が良いもので・・ついでに見かけなかったかと思いまして・・」

 若い女性は不本意な顔つきで怒りを露に答えを返した。

「そんな女性がいる筈が無いでしょ・・馬鹿にしないで下さい。」

 その女性は自分の事を言われているのかと勘違いしたようだった。しかし、亮子の姿を見ているなら怒ったりはしない筈であった。

「すいません・・僕の彼女が変わっているので・・」

 若い女性は今度は返事もしないで街の方角へ歩き出した。以外にも簡単に目的を果たした信一は調査船に向かう必要が無くなり、信一もまた街へ向かうのだった。

「あの・・さっきは失礼しました。」

 しばらく歩いた信一は後ろから声を掛けるのだった。しかし、女性はかなり怒っている様子で一口も返事しないのであった。

「お詫びに・・美味しいお昼ご飯をご馳走しますから・・」

 若い女性は立ち止まって信一の方に向き直った。

「あら・・本当ですか?」

 若い女性は研究者と言うより学生の様だった、つまり、町に使いに出されたのだろうと想像がついた。

「魚場の食堂で良ければ・・」

「わたしうに丼が好きなんです・・」

「色気より食い気とは・・」

「え・・」

「独り言です・・」

 彼女はうに丼に夢中になっているようで少々の陰口には動じなくなっていた。この辺りのうに丼は馬糞ウニと言って普通のウニより味が濃く甘みが強いので拠り高級品として扱われていたのであった。

「さっきの話ですが・・野生動物と仲が良い彼女ですが・・本当ですか?」

「ええ・・ヒグマ、鳥、狐、エゾ鹿・・どんな生き物でも仲が良いです。」

「その彼女も調査員なんですか?」

「いいえ・・僕の奥さんになる人なんですが・・まだ見つからなくて・・」

 調査船の女性は再び不機嫌な顔つきになって信一に攻撃的な返事を返すのだった。

「あなた・・学生だと思って、からかうのですか?」

 本当の事を言っている信一には説明のしようが無かったのである。嘘の様な、おとぎ話の様な、奇妙な小説の様な、東京の見知らぬ人に信じてもらうには無理があるのだった。

「本当に、その女性を探しているのです。・・小学校の幼馴染で結婚の約束をしたのです。」

「はぁ・・・」

 真剣に訴えかける信一に、やはり調査船の女性は嘘つきだと思われる以外には無い様だった。

「判りましたから・・別の話にしましょう・・」

「はぁ・・・」

 既に信一の信用度は失墜しているのかも知れなかった。

「はい・・着きましたよ・・」

「ここ初めて・・」

 信一は昨日の捜索で紹介された食堂に再び訪れていた。

「ここは、町の人だけが食べる所らしいから・・他の人には内緒で・・」

「そうなんだ・・特別って事ですか?ひょっとして・・おじさん私に興味あったりして・・」

「だから言ってるでしょ・・奥さんに成る女性を探していると・・」

「・・・・・」

 調査船の女性はじっと信一を見つめるが何も話さなかった。

「うに丼、二つお願いします。」

「はい・・」

 信一と調査船の女性はテーブルに向かい合って席に着いた。相変わらず調査船の女性は物珍しそうに信一の顔を見つめるのだった。

「あんた・・本当は私と同じ位の歳だね・・」

「大学を卒業したばかりだ・・」

「私より一つ年上なだけ・・」

「そうだね・・」

 調査船の女性は態度が変わった。

「小学校の同級生って言ったわよね・・それって何歳の時、」

「12才になる年だ・・小学校の6年生で一年だけ転校した学校で知り合った人なんだ・・」

「それってチョーレアだよね・・で獣と仲良しってのは・・」

「彼女はアイヌなんだ・・狩が得意でね・・」

「またまた・・ドッキリ・・そんな話って有るんだ・・」

 調査船の女性は目を輝かせて質問して来るのであった。

「アイヌってやっぱり日本人と違う?」

「あのね・・君の様な人が居るから身を隠さなければならなくなるんだ・・」

 彼女の執拗な問い掛けにたまらなくなった信一だった。しかし、直ぐに気を取り直して冷静になっていた。声を荒げれば亮子の存在までもが汚されるからだった。そして、亮子が自分の前にも姿を現してくれないかも知れないと思ったからだった。

「ごめん・・君があまり質問攻めにするからつい・・」

「ごめんなさいは・・私の方だわ・・だって結婚を約束した女性なんですものね・・もし私が彼女ならもっと起こっていると思う・・」

「良いんだ・・気にしないで・・」

「早く見つかると良いわね・・あぁ・・調査の時には女性の姿は見てないですから・・もし野性の中で一人の女性が居れば誰もが驚くでしょ・・」

「それは、僕の話を信じてもらえなかった事で察していたよ・・」

「あらぁ・・そうだった?」

 調査船の少女は信一に好意を示し始めている様だった。自分もシンデレラに成った気持ちを味わってみたいのである。しかし、そんな事は叶わぬ夢であり、信一の心が揺らぐ事は有り得ない話なのである。

「そうだ、調査船に来ると良いわ・・私が招待する・・何時も知床半島を回遊しているから、貴方も乗って探せばいいのよ・・」

「ああ・・機会が有れば、そうするよ・・・」

二人は食事を済ませると簡単な挨拶で別れた。信一は今日の目的は果たしたのだが再び港へ向かって歩いた。お昼を過ぎた港には既に人影は殆ど見受けられなかった。

「日本の最果ての港か・・この海がオホーツク海でロシアとの国境が存在しているんだ・・カムチャッカ半島・・この厳寒の海が世界一に豊かな海だとは・・母なる海とは良く言った物だ・・」

 信一は亮子の捜索で殆ど見つめなかった海を真剣に見つめるのだった。そして、ハウカセが言った事の意味を今になって、もう一度考えてみるのだった。

「どうして、摩周湖なんて辺鄙な所へ呼び出して、そして月子と言う女性に会う様に言ったのだろう?そんな簡単な言葉なら人伝でも良いだろうし、わざわざ片道3時間の道のりを歩く事も無いだろうに・・」

 信一は心の中に小さくではあるが、ハウカセの心が感じられる気持ちが起こったのである。

「そうか・・ハウカセは全てを知っているんだ・・僕を試したかった・・亮子に会わせてよい人物か確かめたかった・・つまり、あの手紙の主は亮子に違いない・・間違いない。」

 信一は、その希望を胸に夜の行動の準備をするべく民宿月子へ帰る道を辿り始めるのだった。信一が民宿へ着いたのは、女将に告げた時刻である3時頃だった。その為に女将は民宿の玄関の所で待っているのだった。

「お帰りなさいませ・・」

「ああ・・女将さん・・夕食は6時で良いです。」

「はい・・」

「所で女将さん・・下働きの女性が良く女将さんと似ているのですが、本当の娘さんじゃ・・」

「いいえ・・私はハウカセから倭人の娘だと預かっただけですから・・?」

「ハウカセが僕に言った言葉を考えると何か有る様なんですが・・考えすぎでしょうか?」

「そうですとも・・」

 女将はハウカセとの約束を守る事は絶対的な事柄であるのだった。ハウカセと月子の関係はそれほど深く結びついているのであった。

「じゃ・・食事の時に・・」

 信一は自分の部屋に戻って行くのであった。

「今夜か・・人目に着かなくなるのは10時頃かな・・漁協の関係者も夜は宴会だろうし・・僕が早く寝た事にすれば10時が最適だろう・・それ以上遅くなれば寒さが強くなるからな・・明け方なら氷点下の気温だろう・・」

 この時期は日没と共に気温は急激に下がるのだった。しかし、海に近い関係も有り氷点下の気温に成るには強い寒気が必要なのだった。信一は普通どうり夕食を済ませると民宿を誰にも知られず抜け出すタイミングを計るのだった。あんのじょう、漁協の関係者たちは一階の広間で6時から宴会が始まっているのだった。街の飲み屋からかホステスらしき女性が2名ほど主張してきているのが解った。

「女将さんが、飲み物を運んで来た頃合で抜け出すとするか・・」

 9時頃に成り宴会がたけなわで漁協の一人が飲み物の追加を大きな声で注文したのを見計らって、信一は部屋を後にするのだった。もちろん、しかれた寝床には如何にも信一が寝ている様に見える工夫を凝らしての事だった。

「よし・・・女将さんが飲み物を持ってきたな・・」

 信一は急いで民宿の外へ走り出て広い空き地に植わった一本の大木の影に隠れるのであった。信一は大木の影で少し民宿が静かになるのを待つ事にするのだった。それは民宿を離れた場所で人に見られる可能性が有るからだった。30分位の時間が流れ宴会は終了し、民宿からは人の話し声は聞こえて来なくなった。その時、民宿の調理場から白い影が走り出るのを信一は確認するのだった。

「なんだ・・誰か潜んでいたのか?」

 信一は少し不安になったが気を取り直して森に出発するのであった。

 信一が川の脇の道路に到着したのは既に10時になっていた。街の方角には殆ど明かりが無かった、既に街の人々は眠りについたか家で酒盛りをしてるのである。

「これなら・・誰も居ないだろう・・」

 信一は雑貨屋の店主に貰った懐中電灯をしっかりと手に持って川沿いの道を歩き始めるのだった。川沿いの道は明かりが無く、次第に足元が暗くなって歩きづらくなった。

「懐中電灯を点けるか・・」

 信一が懐中電灯を照らすと道は踏み固められた雪の上である事が解った。

「あれ・・僕のすぐ前を誰かが歩いたのか?・・足跡が有るぞ・・」

 解けかけた残雪には深い踏み跡が残るのである。そして、凍り始めると道には痕跡が残らなくなる。つまり、何時ここを人が通ったかを推測する事が出来るのである。

「この踏み跡なら・・1時間も経ってないな・・誰だろう・・僕を呼んだ人物か?」

 その踏み跡こそが亮子で有るのであった。そして、その踏み跡は森の中の大きなミズナラの木の所まで続いているのであった。

「あの木が手紙にあったミズナラの木だ・・」

 信一が木を見つけて懐中電灯で、その方角を照らし出すと幹の根元に白い人影が見えたのだった。

「あれって・・女性じゃないか?・・それに服を着ていない様だ・・」

 信一は漆黒の闇の中に浮かび上がる女性の裸体を確認すると、脳裏に隠れ屋で亮子が初めて見せた自分の裸体の事が浮かび上がるのだった。

「亮子・・・」

 信一は声に成らない声で亮子の名前を呼んだ・・

「亮子・・亮子・・亮子・・」

 何度も何度も繰り返した。

「信ちゃん・・」

 亮子も信一の名前を呼ぶのであった。

 そして、もう何も疑う事も無く二人は見詰め合っている。

「リョウ・・」

 信一は走り出した、そして全裸の亮子を抱きしめるのであった。亮子の体は森の冷気で冷えきっていて氷を抱く様に冷たかった。亮子は信一が見つけてくれるまで、裸のままでじっと待っていたのだった。しかし、長い月日を待ち続けた亮子にとって、その時間は本当に充実した時間だったのである。亮子には信一が自分であるとい気付いてくれる確信が有ったのだった。だから体を刺す様な冷たい大気も暖かく感じていたのである。

「君は・・」

 冷たくなった亮子の体に信一は自分の防寒の上着を掛けてやるのだった。信一の防寒着はちょうど亮子のひざ下にまで掛かり亮子の体は見えなくなるのだった。

「信ちゃん・・こそ・・」

 亮子は幹の根元に置いてあった自分が着ていた綿入りの羽織に着替えて、信一に防寒着を返した。

「やはり・・アイヌの血を受け継ぐだけあって寒さには強いのですね・・」

 信一の言葉に亮子は頷くだけだった。じっと寄り添って居ることだけで幸せだったのである。殆ど衣服を身に着けていない亮子には信一の体の温もりが伝わるのを感じる事が出来るのだった。10年間の長い間、この温もりの為に悲しみや苦しみを乗り越えて来た亮子なのである。森には三日月の月明かりだけが仄かな光を伝えているだけだったが、亮子の白い肌はその微弱な光の中でも輝いているのだった。

「そろそろ、民宿に戻りましょう・・」

 亮子が信一に告げた。

「もっと長く、こうしていたかった・・」

 しかし、信一は亮子の云うなりであった。あの幼い頃の記憶の中でも、そうであった様に信一の心は変わってはいなかった。二人は初めは一緒に歩いていたのだが、しばらくすると亮子は走り出すのだった。

「先に戻るから・・」

 亮子は見る見る姿が小さくなって見えなくなってしまった。歩くだけでも早い亮子は走る事も得意でありマラソン選手以上の速さで走り続けるのだった。

「あいかわらず・・亮子には逆らえないな・・」

 信一は喜びを隠せなかった、しかし、亮子の本当の姿は伏せる事が必要だと思っているのだった。


 次の日の朝が来た・・信一は何時もどおりの時間に起きて身支度を整えて玄関横の広間に朝食を食べに行くのだった。

「おはよう御座います・・女将さん・・」

「信一さんかね・・何時も早いね・・」

 昨日の漁協の関係者は宴会の後も遊んでいたらしく、誰も起きて来る気配は無かった。

「ところで・・お客さん・・夕べね・・下働きが夜遅くに外出した様で・・私が寝てる間に帰った様なんだ・・知らないかね・・」

「私は何も・・」

「そうだよね・・信一さんは早くに寝られたもの・・」

「ええ・・」

 何故か女将は信一が早く休んだ事を知っているのだった。

「僕の部屋に来たのですか?」

「ええ・・宴会のお客さんが煩くないかと伺ったのです。」

「そうですか・・」

 それは丁度、信一が民宿から飛び出したときだったのだろう。部屋の扉を開けて静かに寝入っている様だったから声も掛けなかったに違いなかった。

「ところで・・その下働きの娘の事なんですが・・ハウカセさんは本当に倭人だと言ったのですか?」

「ええ・・アイヌらしい所は何も無いですから・・」

 それは間違い無かった、亮子は倭人以上の学歴があり立居振る舞いからしても気品を感じられるのである。

「でもね・・彼女はとても育ちが良い様なんです・・色んな所に感じるのですが・・身寄りも無いと言うのは本当では無い様に思うのです。」

 女将さんの推理は間違っては居なかった、亮子は天野中佐から身を隠す為に、この辺境の民宿に身を潜めているのであるのだから。

「僕も会って見たいです。実は一昨日に女将さんと間違えて挨拶をしたのです。それはとても美人でした・・あんなに女将さんに似ているなんて・・」

「町の知り合いにも、よく言われるのですが私の娘はアイヌなのです。」

 信一は女将の言葉に愕然とした、娘がアイヌであると言う言葉は間違い無く亮子を指していると言う事が信一には判ったからだった。しかし、信一はその事を女将に告げ様とは思わなかった、なぜなら、亮子が望んでいる事では無かったからだった。

「じゃ・・違うのですね・・僕の探している亮子もアイヌなのですが・・」

「そうね・・貴方もアイヌを探しておられるのでしたね。」

 女将は仕事を続けながら話していた。そして、調理場の方角へ去って行くのだった。

「亮子は何を考えているのか?」

 信一は亮子の存在が判ったにもかかわらず、亮子に会う事が出来ないもどかしさが付いて回るのだった。信一は食事を終えると再び町へ足を運ぶのだった。

「今日こそ・・渋谷社長に電話をして・・亮子が見つかった事を伝えなければ・・」

 信一は郵便局を目指していた、郵便局には皆が使える電話が設置されているのだ。その頃の電話は普及はしているものの全ての家庭にある物ではなかったのである。

「すみません・・電話を使わせて欲しいのですが・・」

「はい・・貴方は3番目ですね・・空きましたら、お呼びします。」

 信一は名前を告げると郵便局に有る椅子に腰掛けて静かに順番が来るのを待った。

「山本 信一様・・」

 以外にも早く順番は回って来るのだった。

「もしもし、十勝川温泉の古川と言う旅館で泊り客の渋谷と言う人に電話をしたいのですが・・」

「お繋ぎして見ますが・・だめでしたら旅館の方でも宜しいですね・・」

「はい・・」

 電話交換師は職務的な話し方だった。

「お繋ぎしました。」

「旅館古川の者ですが・・今、渋谷様は外出中でして・・お急ぎでしたら・・伝言でも、お伝えしますが・・」

「では・・亮子が見つかった・・とだけお伝え願えますか?」

「亮子が見つかった・・ですね・・かしこまりました。」

 車が修理できるまでじっと旅館に留まっている人では無かった。きっと車を借りて仕事の関係先を回っているのだろうと信一は思うのだった。この連絡が終わると信一は民宿へ引き返すのだった。民宿に居た方が亮子に会う可能性が高いのであるから間違いの無い選択だった。

「あら・・信一さん、お出かけでしたか・・」

「郵便局に・・」

「そうですか?下働きに会いたいと言ってらしたから・・町でも案内させようかと思っていたのですよ・・」

「えぇ・・」

 信一は後者の選択が自分の思いに近かった事を後悔していた。

「今からでも・・」

「夕方に成ると忙しいもので・・今からだと無理です。」

「はぁ・・」

「明日では・・」

「明日の朝からでしたら・・宜しいです。」

「じゃ・・楽しみにしております。」

 信一は亮子と女将さん公認で時間を過ごせる機会を逃した事に後悔をしながら部屋に戻って行くのだった。部屋へ戻った信一は寝っ転がりながら夕べの亮子との再会の場面を思い出していた。

「美しかった・・やはり、この世の物とは思えない位だ・・変わっていない・・でも何故・・初めて会った時は気づかなかったか?・・」

 信一はあれこれと思い出したり考えたりしたが、行き着く先は無かったのである。その中でもハウカセの存在だけが何か重要な理由を秘めているのではと思うのだった。

「山本様・・お電話です・・」

 どれぐらいの時間が流れたのだろうか、窓の外は薄暗く夕暮れの時間帯を示しているのだった。

「はい・・」

 電話の主は渋谷社長に違いなかった。

「もしもし・・見つかったのか?良かったな・・」

「ありがとう御座います。」

「で・・どうする・・こっちに来るか?」

「いえ・・まだ彼女の状況が判らないので・・何も決めてないのです。」

「そうか・・でも会えて良かったな・・車の修理は4日後には完了するらしいから・・出来上がり次第にそちらに向かうよ・・」

「お待ちしております・・」

「それじゃ・・頑張れよ・・」

「はい・・ありがとう御座います・・」

 久しぶりの渋谷社長の声に勇気を貰う信一だった。

 手短な電話であったが、何よりも心強い電話であった。

「女将さん・・どうも・・・」

 信一は自分の部屋に戻るのであった。明日の亮子とのデートの事を考える必要があった。部屋に戻ると信一は窓際に置かれたテーブルの椅子に腰を下ろして窓から亮子が現れる事を祈っていた。しかし、全く亮子は姿すら見せなかった。信一の頭の中では様々な情景が渦巻いているのだった。過去の亮子との触れ合いが明日のデートの予測を生んでいたのである。

「亮子と話す必要が有るのに、昔の記憶ばかり頭に浮かんでくる・・明日にならなければ無理だな・・」

 信一は、ただ漠然と明日の日が来る事を待っているのだった。

「夕食・・お持ちしました・・」

 月子が信一の部屋に夕食を運んで来るのだった。しかし、扉を開けたのは亮子だったのである。

「えぇ・・」

「どうぞ・・今日は、お手伝いなの、お客さんが多いから・・」

「あっそっ・・」

 何を言って良いか解らぬ信一はつっけんどうな返事しか返さなかった。

「明日、何時に出かけます?」

「何時でも・・」

「7時で如何です・・」

「じゃ・・7時ね・・」

「お待ちしております・・」

「あぁ・・」

 信一は表面上はつっけんどうではあったが内心では表現が出来ないほどに喜びを感じているのであった。明日、まぎれもなく亮子と10年と言う月日を乗り越えて初めて二人の時間が訪れるのであるのだから。信一は食事の後、何時もより念入りに風呂に入り髭を剃って身だしなみを整えるのだった。しかし、信一が持ち歩いている服装にはお洒落な物は何も無かった。着古した背広の替えと、昨夜の無骨な防寒着だけなのだった。それでも、明日の服装を考えて替えの背広を鴨居に吊るして点検をする信一であった。

 次の日の朝、信一は6時に起床して食堂に向かった。まだ女将が到着したばかりで食事の用意は出来てはいない様だった。

「お客さん・・今朝はずいぶんと早いのですね・・」

「下働きの娘と7時に約束したもので・・」

「あら・・亮子は何も言って無かったわ・・どうしてかしら?」

「僕が言うと思ったからでしょう・・」

「そうね・・あなたが私に言わない筈が無いものね・・そんな事まで亮子は気が回るのね・・」

「たまたまですよ・・」

 亮子が信一の事を良く知っている事が女将に感づかれる事を恐れる信一であった。

「そうよね・・信一さんの事は何も知らない筈ですもの・・」

「そうです・・」

 女将は話をしながらでも食事の準備は直実に進めているのだった。

「今日はお魚です・・」

「いただきます・・」

 信一が食事を済ませて部屋へ戻り、昨夜準備してあった服装に着替えて玄関の所へやって来ると既に亮子は玄関の外で待っているのだった。

「おはようございます・・山本様・・良くお眠りになられましたか?」

「ええ・・ゆっくり・・今日はお願いします。」

 何とも他人行儀な挨拶だった。

「では・・町に出かけると致しますか・・」

「はい・・」

 亮子が前を歩いて信一は後ろから着いて行くのだった。しかし、直ぐに信一は亮子の隣に並んで歩きだすのだった。

「お話をしながら行きましょう・・」

「そうですね・・」

 ・・・・・・・・

 話は途切れがちだった。どちら側も何を話すべきなのか迷っているのだ。

「もう長いのですか?この民宿は・・」

「女学校を卒業して直ぐですから2年です。」

「そうですか?」

「あの・・なぜ私が此処に居る事が解かったのです?」

「ハウカセさんです・・ここへ行って月子さんに逢うようにと・・」

「そうですか・・ハウカセの事は誰から・・」

「襟裳のジンジと言うアイヌからです・・きっとハウカセさんは君が僕を見つけるだろうと君の事を話さなかったのでしょう・・」

「そうですか・・」

「でも・・どうして僕だと解かったのですか?」

「深呼吸したでしょ・・」

「えぇ・・」

「橋の袂で・・川を見つめながら・・あの仕草は私、毎日、見ていたから」

「はぁ・・僕ってそんな事、してるんですね・・」

「無意識だから解かったのかもね・・こんなに背が伸びて髪が茫々で古い背広を着ていれば信ちゃんだなんて気づく筈が無いものね・・」

「そりゃ・・そうだけど・・亮子も髪を短くして、そんな恰好なら僕にも解らないよ・・」

「お互い様ね・・」

 二人は次第に打ち解けた話し方に成って行くのであった。そして、目の輝きが、あの日の二人へと変わって行く様子が、二人の頭上に有る雲には解かっていたかもしれなかった。二人は行く先など関係なく、話す事が幸せであるのだった。何時ぞや、二人は町を通り過ぎて調査船のある岬の湾までやって来ていた。

「こっちは森の中だよ・・熊に出会ったんだ・・」

「こんな所へ何をしに来たの?」

「大学の調査船に用事が有って・・」

「ふん・・」

「女学生と出会ってね君の姿を見かけなかったかって聞いたんだ・・」

「どうして・・」

「だって・・亮子は何時も森に狩りに行くだろ・・」

「ここでは倭人と言う事になっているから行かないけどね・・」

 二人は方向転換をして再び町の方へ歩き出していた。

「そう言えば女将さんはアイヌの娘が居ると言っていたな・・」

「えぇ・・女将さんにアイヌの娘ですか?・・聞いた事が無いです。」

「僕が亮子の事を女将さんに聞いた時にそう言っていた・・下働きが居るけど倭人の娘だって・・そして、自分にアイヌの娘が居るとも言っていたよ・・」

「私の母って生みの親では無いのです・・父さんが小さい私を連れて登別に来た時に結婚した人なんです。」

「じゃ・・月子さんが本当の母親って事に・・どうりで似ていると思った・・どう見ても親子だよね・・女将さんは否定するけど・・」

「でもハウカセさんが私に何も言わなかったのは何故なのかしら?」

「そうだ・・僕にも何も言わなかった・・逢って見るか?」

 二人は顔を見合わせて黙ってしまった。その光景を見ていた港の人が居たのだ。忘れ物を自宅に取りに戻って船に帰る漁師だった。

「月子ん所の静ちゃんかい・・静ちゃんに彼氏が居る事は聞いてなかった。」

 漁師は二人の様子を見て恋人同士だと思ったのだった。それもその筈である、如何にも親しげで蟠りの無い表情で話す二人を恋人以上の付き合いである事は誰にでも想像がつくのだった。しかし、二人にとっては不味い事態が起こってしまったのである。

「あぁ・・急いでいるので・・」

 二人は何食わぬ顔で走り出した。

「不味いな・・」

「ほんと・・」

「きっと女将さんの耳にも直ぐに入るね・・」

「女将さんには、ほんとの事を話すべきだよ・・」

「そうね・・」

 二人は町で食事もせず民宿へ帰るのであった。

「旭川の女学校なんだけど・・天野中佐が亮子を連れに来たらしいね・・」

「そうなの・・私を傍に置きたかったのね・・3社ほどの人事担当と一緒だったの・・私はどうしても信ちゃんとの約束を守りたかったし・・逃げるしか無かったのね・・」

「で・・ハウカセさんとは・・」

「私が斜里に来た時、斜里で私の噂が広まってハウカセさんが助けてくれたのです。月子の民宿に住む事に成ったのもハウカセさんのお蔭なの・・」

 二人は9時頃には民宿に戻っていた。既に民宿の仕事に一段落がついた月子は食堂で休憩をしているのだった。

「おかえり・・早かったのね・・」

「女将さん・・話が・・」

 亮子は帰宅するなり話を切り出すのだった。

「どうしたの・・」

「落ち着いて聞いて欲しいんだけど・・私・・女将さんの娘なんです。」

「えぇ・・だって、あんた和人なんだろ?」

「いいえ、アイヌです。信ちゃんが探している亮子は私の事です。」

「そうだろうね・・ハウカセがあんな約束をさせるんだから・・あの時から薄々は感じていたんだ・・でもハウカセが言うもんだから従わない訳にいかないからね・・」

「でも・・」

 亮子は不思議だった、女将さんが一度もそぶりを見せなかった事もそうなのだが、ハウカセと女将が余りにも近しい関係である事を感じ取ったからだった。

「あんたは知らないからね・・あんたの父さんウツクブとハウカセは幼友達さ・・私がウツクブと恋に落ちて、この町に住もうとした時に町の人たちに大きな反発を食らってね・・暮らせなくなったのさ・・その時、ハウカセの提案で私が民宿をして何時でもウツクブを迎える事が出来る様にしてくれたのさ・・でも風の噂でウツクブが戦死したと聞いたんだがね・・」

「母さん・・」

 亮子は病気の母が亡くなる前に一度だけ本当の母の話を聞いた事が有った。『お前には・・お前を生んでくれた本当の母が居るんだよ・・私が居なくなったら、その母を探すと良いわ・・和人の人だそうよ・・お父さんから聞いているの・・・』亡くなった母の言葉が亮子の頭の中に浮かび上がった。

「私の母さん・・・・」

 月子は震える我が子を抱きしめる事も出来ずに立ち尽くしていた。

「ハウカセも罪な人だね私に伝えないまま2年もの月日を過ごさせるんだから」

「母さん・・」

 月子の瞳には涙が溢れて亮子の顔が滲んで見えていた。

「亮子・・悪かった母さんが悪かった・・」

 亮子は立ち尽くしている月子に抱きつくのだった。

「母さんが悪いなんて・・私が・・こんなに幸せなのに・・」

 亮子の瞳にも涙が溢れていた。信一は二人の傍で見守る事しか出来なかった、亮子の心が溶けて行く音が聞える様な幻覚を見るのであった。

「私、長い悲しみの中に住んでいたのです、信ちゃんが連れ出してくれました。そして、母さんとも再会する事が出来たのです。これ以上の幸せが何処に有ると言うのですか・・・」

「亮子・・」

 月子の喜びは言葉に出来ないほど大きかった。我が子と生き別れになって22年もの長い間、再び再会できる日を夢見て暮らしていたのであった。

「私の亮子・・」

 亮子は母の肩を抱いたまま住まいの有る調理場の方角に歩き出した。

「母さん・・これから私が民宿の仕事をするからね・・」

「だって・・貴方は身を隠しているのではなかったの?」

「いいの・・もう隠す必要は無くなったから・・だから母さんも私を娘の様に呼んで欲しいの・・」

「わかったよ亮子・・で信一さんとは・・」

「信ちゃんは、もう私から離れないわ・・信ちゃんが最初に見つけてくれたんですもの・・」

 亮子の顔には幸せの色が光って見えていた。亮子の心の中が二人、いや沢山の人々の愛情で満たされて溢れだしているのが見えるようだった。

「亮・・・よかったな・・・君を思ってくれる人が、こんなにも居ることが解かって・・・」

 信一は亮子の一番の理解者でありたかった。10年の長い月日を離れて過ごしていたとは言え一日たりとも亮子の事を忘れた事の無かった信一だからだった。

「ありがとう信ちゃん・・私を見つけてくれて・・本当の私を探し出してくれるのは信ちゃんだけだと思っていたのよ・・」

 亮子は実母と抱き合いながら信一に向ける心を伝えてるのだった。全てが明らかになった三人には時間の経つのを忘れるほど幸せな時間が流れるのであったが、すでに漁協の関係者たちの夕食の準備をする時間になっている事に亮子が気づくのだった。

「母さん・・街に夕食のお魚を仕入れに行ってくるから・・」

「あぁ・・そんな時間かね・・頼んだよ・・」

 信一は亮子と一緒に街に魚を仕入れに行くのだった。

「りょう・・これからの事なんだけど・・どうするの・・」

「街の人には・・私がアイヌである事は内緒でね・・私は静子だから・・それから信ちゃんは恋人じゃなくて、お客さん・・」

「僕の事も隠す必要が?・・」

「だって、おかしいでしょ・・身寄りが無い娘に実は恋人が居たなんて・・」

「それは・・そうですが・・じゃ・・これからは恋人に成ってもいい訳ですか?」

「それは・・そうね・・でも直ぐじゃ駄目よ・・私が軽い女だと思われるから・・」

「はい・・」

 信一はじれったかった、やっと念願の亮子に会う事が叶ったのに、どうどうと公言する事ができないのであるから・・ストレスが大きかった。そんな二人は直に街の市場に到着するのだった。

「今日は何がお勧めかしら・・」

 亮子は都会の言葉で店の人に問いかけるのである。

「今日はなんてったってホッケだ・・いいのが揚がったべ・・」

「じゃ・・サクラマス・・下さい・・」

 この時期ではサクラマスは未だ早く漁獲は殆ど無い筈なのだが、隠し財産が有るのが慣わしであるのである。

「静ちゃんには勝てないね・・そうだと思って2匹確保してあるから・・」

 亮子の仕入れの才覚が民宿月子の評判を高いものにしていて釣り客が進んで予約を取るのである。

「ところで後ろの男性は誰かね・・」

「うちの、お客さん・・市場が見たいって・・」

「でもさ・・その人、アイヌのフィアンセを探してるって言う人だべ・・」

 信一はあわてて言い訳をするのであった。

「もう・・探していないのです・・別の所を探しますから・・」

「そうかね・・見つかると良いな・・」

 街の人々との会話で信一は亮子との恋が芽生える事は叶わぬ夢だと思うのであった。もし、二人が深い中に落ちれば信一は六でない人になり、亮子もあざけられる事は間違いなかった。

「だから言ったでしょ・・こんな小さな街なんだから・・みんなが知っている事なんです・・」

「はぁ・・」

 亮子が信一を叱る様な口調で話すのは何時もの事だったが、それが10年ぶりであれば信一に届く言葉は天使の如く聞こえている筈だった。信一は亮子の半歩後ろを着いて歩くのだった。

「ね・・僕が探しに来る事って解かってた?」

「のろまな信ちゃんだから・・もう少し遅いと思ってた・・」

「のろまですか?」

「だって信ちゃんって決断も遅いし、歩くのも遅いし・・鈍感だし・・」

「それって僕に言ってるのですか?」

「ごめん・・うれしくて・・昔の信ちゃんを思い出してたの・・」

「確かに鈍間だったか?・・・」

 信一も昔の自分を知っていてくれる亮子に愛情を感じるのである。

「女将さん・・ただいま・・・」

 民宿に着いた二人だが、信一は自分の部屋には戻らず亮子が暮らす調理場の二階に在る自宅に招かれた。唯一、二人が本来の関係で居られる場所は秘密を知り合う三人が共有する場所であるからだった。

「ここで、2年間、暮らしていたんだ・・静子として・・」

「そう倭人の娘としてね・・」

「でもハウカセさんが親切にしてくれる事に疑問は無かったの?」

「少しはね・・でも同じアイヌの人ですもの信じない筈が無いですから・・」

「そうだよね・・」

「じゃ・・信ちゃんは、どうやって此処まで辿り着いたの?」

 信一はこの不思議な縁を亮子に話す時が来たのだった。

「大学を卒業する前に北海道で君を探しに来たんだ・・でも登別の叔母さんの所で・・君はたぶん仲居の仕事をしているだろうから心配ない・・それよりも札幌に仕事を見つけて待つ方が良いだろうと言われて・・・札幌で就職活動をしていたら渋谷土建と言う会社の社長がアイヌの人に世話になったお返しに君のフィアンセ探しを手伝わせて欲しいと言われて・・就職が決まって・・初めての仕事がウトロ漁港の改修工事だったんだ・・それで渋谷社長と二人で十勝の温泉まで来たんだけれど・・・車が故障して・・僕一人で・・・あ・・そう・・ハウカセさんの事は襟裳のジンジさんから聞いたんだけど・・それより先にハウカセさんが僕の事を知っていたようです。」

 信一も亮子もアイヌの絆の強さを実感するのであった。

「あぁ・・渋谷社長は明日・・来るかも・・」

 そう渋谷社長の愛車であるパブリカは今日で修理が終わる筈だった。そして、亮子が見つかった事を知らせてあったから渋谷社長は間違い無く真っ直ぐウトロに向う筈だったのである。

「その社長さんって私の事を知っているの・・」

「いや・・見つかった事しか伝えてないから・・」

「黙っているの?」

「いや社長の御蔭で君に会えた様な物だから・・・」

「私も会って見たいわ・・」

 そして、渋谷社長が来る日がやってきた。

 渋谷社長の到着は意外にも早かった、朝の8時頃だったのである。

「おはようございます。」

 渋谷社長のどすの利いた声が民宿の玄関に響いた。朝食の配膳に来ていた亮子が渋谷の迎えに出るのであった。

「いらっしゃいませ・・えっと・・どちら様でしたでしょうか?」

「渋谷土建の者なんですが・・」

「初めまして、天野亮子と申します。信一が何時もお世話になって本当に有り難うございます。」

「そんなに、あらたまられると・・こっちが気恥ずかしいです。それにしても噂に違わぬ美貌の持ち主ですな・・」

 亮子は仕事着の和服とモンペ姿だったが、その美貌を隠す事はできなかった。亮子が放つ雰囲気自体が既に現世を逸脱している事に気づかぬ者は居ないと思われるほどであった。だから、食堂は既に亮子の話で持ち切りになっているのだった。

「信ちゃんを呼んでまいります。」

 亮子は食堂へ舞い戻って信一を呼び出した。

「社長・・早く到着されたのですね・・」

「君のフィアンセが見つかったと聞いて一刻も早く着きたかったからな・・」

 渋谷社長と信一は民宿の部屋へ向かうのだった。

「何か食べますか?」

「途中で食べて来たから・・港でな・・」

 渋谷は港へ行けば漁師の料理がある事を知っていた。

「で・・綺麗じゃないか・・君のフィアンセ・・」

「でしょ・・小学校6年生の時に一目ぼれしたんですから・・」

 亮子は信一の部屋に小さな饅頭とお茶を用意して運んだ、民宿の従業員として当然の行為であるように慎ましやかに部屋を後にするのだった。

「ごゆっくり・・」

 亮子が部屋から出て行ってから渋谷は姿勢を大きく崩して座りなおした。

「君の様にむさ苦しい男にはもったいないな・・」

「ごもっともです・・」

 渋谷は信一の方に大きく乗り出してから話を始めた。

「それでこれからどうするつもりだ・・」

 信一は当然来るであろう問い掛けに返答は出来なかった。これから先の事など考える余裕も手立ても無いのであるから当然と言えば当然であった。

「・・・・はい・・」

「そうだろうな・・北海道の事も何も知らない君の事だから当然だ・・」

「・・・・はい・・」

「で・・亮子さんはどう言っているんだ・・」

「何も・・・」

「そか・・」

 渋谷社長と信一はそのまま街の遊技場に出かけて行くのであった。

「お出かけですか?」

「遊びに行って来ますから・・」

「おきおつけて」

 見送ったのは月子であった。亮子は既に住まいの方で家の仕事をしているのであった。こんな小さな街の遊技場と言っても飲み屋が昼から営業している様な物で暇を持て余している連中の溜り場的な存在であった。

「しばらくは亮子と一緒にこの民宿に居たいのです。」

「どうして・・」

「民宿の女将さん「月子」さんが亮子の本当のお母さんなんです。」

「え・・そんな事が有るのか?」

「ハウカセさんの考えた事だそうです。」

「私もハウカセとは会った事が無いが・・アイヌの間では実力者である事は知っていた・・」

 強烈な印象だけが強く残っているハウカセを信一は思い出していた。

「ハウカセさんは摩周湖の畔の人が寄り付かない場所で暮らしているんです・・」

「そうか・・月子さんと亮子さんを引き離す訳にも行かないか・・」

「そうなんです・・せっかく亮子の本当の身内が見つかったのに・・その人を置いて他所の場所で暮らす訳には・・」

「じゃー決まりだな・・3人で民宿を営んで見るしかないだろうな・・」

「ですよね・・でも・・一つの問題が有りまして・・」

 信一は申し訳なさそうに小さな声で切り出すのだった。

「亮子はここでは倭人と言う事に成ってまして倭人名は静子なんです。で・・僕はアイヌの娘を探しに来た人になってまして・・亮子と暮らす為には亮子の本当の姿を打ち明けなければならないのです。」

 渋谷は首をかしげて考え込んで返答するのだった。

「複雑な事情を作ったものだ・・そうだな君が民宿に住み着けば噂にも成るだろうな・・どうする・・」

 信一は考えた。

「渋谷社長の知り合いの会社に勤めさせて貰えないですか?・・この民宿からウトロ漁港の工事が始まる日まで・・」

「そうだな・・そうするか・・その内に今後の事を考えれば良い訳だからな・・・早速・・連絡しておく・・きっと大丈夫だ・・私も半年後には来るから・・」

 渋谷社長は自分で納得したように頷いていた。いや自分自身を納得させようと努力する為だったのかも知れなかった。


 そして、その日から計画道理に信一の生活は始まったのだった。信一は民宿の泊まり客のまま民宿で生活をするのだった。この生活が始まって1ヶ月ぐらいは順調な日々が続いたのだが、ある日を境に生活は一変するのだった。それは亮子が民宿の仕事を始めた時に泊り客だった漁協の関係者が広めた噂が原因だったのである。あの3人組みは東京の築地市場の関係者でウトロ漁港の民宿には絶世の美女が居ると噂したのであった。その噂を聞きつけた若者たちが自分の妻にしたいと連日の様に泊り客が殺到したのであった。



 

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