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愛し合う 10年目の再会(第5部)

 十勝川温泉に到着したのは、日が落ちて月明かりが美しい夜の時間に成ってからだった。十勝平野の真ん中で開け放たれた夜空は広く、遮る物が無い星空は不気味なほどに迫り来る様に感じられた。それでも無事に十勝川温泉に到着できたのは、あのアクシデントの後と言う事を考えればラッキーな事だった。渋谷は安堵した心を信一と共有しようと握手を求めたのだが、当の信一は何が有ったのか理解できずに戸惑うばかりだった。

「今日の幸運に感謝しなければ・・そうだろ信一・・」

「はい・・」

 信一は十勝川温泉の旅館の門構えが立派だったので、つい見とれてしまっているのだった。そして、その後に美人の仲居が迎えに出て来た時にも、その姿に見とれていたのである。

「亮子が仲居をしていれば、もっと美しく優雅だったに違いないんですが・・」

「それほどに美人なんだ、信一の婚約者って・・」

「そりゃー・・この世の者とは思えないぐらいですから・・・」

 そんな二人の会話も関係なく出迎えた仲居は、ただ旅の挨拶をして二人を案内するのであった。

「お疲れでしょう・・ごゆっくり休んでください。」

 出迎えた仲居は二人の手荷物を一つづつ手に持って部屋へ案内するのであった。

 旅館の几帳と挨拶を済ませると二人は備え付けの浴衣に着替えて風呂に入る準備をした。

「この温泉の仲居さんは美人が多いのでしょうか?」

「気になるのかね・・」

「さっきすれ違った仲居さんも美人でしたから・・ひょうとすると亮子が勤めているかも?」

「それは無いね、この温泉地の性格上、アイヌの人を雇う様な事が無いからだ。」

 信一は断言した渋谷社長に驚いたが、北海道に精通している事を考えれば当然かも知れなかった。

「つまり、ここいらの倭人はアイヌを嫌っていると言うんですね。」

「そうだ、この辺りは近代農業を主体とした地域でな、まさしく未来の人の暮らしを実現すべく・・」

「社長・・少し自分に酔ってませんか?」

「あぁ・・すまん・・と言う事でアイヌは排除された所なんだよ・・ま、倭人は有益な土地は自分の物にしたいと言う心が有るから・・必然的にアイヌは辺鄙な所へ追い遣られているのだけれど・・」

「じゃ・・斜里は辺鄙なんですか?」

「オホーツクの海は冷たいぞ・・夏が無い様に感じられるから・・だけれど海産物は非常においしいんだ世界一豊かな海と言われるぐらいだからな・・そして、斜里って言う街は今回の目的地であるウトロと言う街の拠点に成っている所でな・・知床半島の付け根に当るんだよ・・真冬には大きな流氷が海を埋め尽くして厳寒の地、地の果て・・になってゆくんだぞ・・住みたいか?」

 信一は札幌と登別でしか北海道の冬を体験した事が無かったから、地の果てと言う渋谷社長の言葉から連想される北海道の景色はあまり強く感じられなかったのである。

「亮子が住んでいるなら何処でも構わないです。」

「信一は一種の病気だな・・恋の病はって言うやつ・・死んでも直らないらしい。」

 その日は十勝川温泉で、ゆっくりと寛いだ二人だった。

 次の日の朝は遅かった。

「どうだ・・よく眠れたか?」

 眠そうな眼差しを社長に向けて、信一は気怠い声で挨拶をするのだった。

「おはようございます。」

「今日は・・斜里町まで一気に行ってしまうとするか・・」

 突然に雷に打たれたが如く直立不動の姿勢になった信一だった。

「はい・・・」

「出発するぞ・・」

「はい・・・・」

 朝食を済ませると殆ど休憩もせず、パブリカが走り出したのである。今日もパブリカは快調にエンジン音を響かせて走り続けていたのだが・・急に視界が可笑しくなるのを感じた二人だった。そう走り出して20分程過ぎた辺りで路肩が陥没している所が有ったのであった。渋谷も余りに突然であったので何が起こったのか理解するのに時間が掛かったのである。幸いにもスピードが遅かった事もあり二人に怪我は無かったもののパブリカのサスペンションは折れてしまっているのだった。つまり、自動車を引き上げたとしても走り出す事は不可能だと言う事で、ましてや自動車を修理せずに十勝管内から移動する事も難しい事だった。渋谷社長にとって愛車のパブリカは一心同体の物だったのである。

「困ったぞ・・・どうする・・」

「どうするって言われても・・僕にはどうする事も」

「大事なパブリカが走行不能に成るなんて・・僕のパブリカが・・修理しなくては・・次の町は池田町か・・そこまで歩いて行くしか無いな・・信一急げ・・」

 渋谷社長の愛車に対する愛情は普通では無い様だった・・そう渋谷は無類の車好きな性格であった。それだから、信一の婚約者の事も忘れてしまっているに違いないのであった。しかし、信一はここまで導いてくれた恩人である渋谷社長をただの車好きにする事は出来ないのであった。

「池田町に修理が出来る工場が在れば良いですね・・急ぎましょう・・」

 必要最小限の荷物だけを持って出発する二人だった。この後、信一が一人で亮子を探す旅に出る事になるとは二人とも思ってもいない事だった。池田町に到着して直ぐに修理工場は見つかったのだが、修理の為の部品を取寄せる為に1週間以上必要であると言われたのである。この辺りの物資は釧路港から到着するのだが注文して船便に乗るまでに3~4日を必要として実際に届くには最低7日が必要だと言うのであった。道東方面は人口密度が低い為にフェリーの便も毎日は運行されていないのである。

「困ったな・・私は十勝川温泉で休養する事にしても、信一はどうするかな・・やはり亮子さんを探しに行くだろうね・・」

「間違いなく・・はい・・」

「一人で大丈夫かね・・」

「お気遣いなく・・はい・・」

「何を言っても行くだろうね・・」

「間違いなく・・はい・・」

「釧路に私の協力会社が有って、そこの社長は気のいい奴で・・連絡しておくよ寄って行ってくれ・」

「ありがとうございます・・はい・・」

 信一はこれから一人で行動しなければならない不安と、早く亮子に会いたいと言う願望が重なって、硬直した体と頭脳を必死で動かそうともがいている状態なのだった。

「先は長いから・・ゆったりとし心持ちでな・・」

「お構いなく・・はい・・」

 と言う事で信一は午後から汽車で釧路へ向かう事になったのであった。信一は車から自分の荷物を残らず持ち出してリュックに詰め込んだ。そして、渋谷社長に、お礼の挨拶を丁寧に済ませると池田駅を目指して歩き出したのである。修理工場から池田駅までは可なりの道のりだったが一度も後ろを振り返らない信一には距離など意味の無い物に成っているのだった。

「釧路まで大人一人・・」

「次の釧路行きは急行おおぞら5号3時発ですね・・」

 信一の瞳の中には亮子の姿しかなった、十勝平野の雄大な景色も信一の心には無意味なものとしてしか届いていなった。汽車の時間までは30分ぐらいだったが信一は、ただ一点を見つめたまま微動だにしなかった。信一の心は無表情のまま、すべて、時間が過ぎて行く現象だけが彼を包み込むのだった。

 釧路に汽車が到着したのは既に日が暮れ漆黒の闇が空を多い尽くす時間に成ってからだった。釧路の夜は寒かった、信一はコートの襟を立てて渋谷社長から聞いた建設会社へ向かって歩くだけだった。既に会社は営業時間を過ぎているだろう事は間違いの無い事だったのだが、亮子への一筋の希望だけが信一を動かしているのだった。街には殆ど人影が無かった、8時を過ぎると殆どの店は閉店し営業しているのは多くは無い飲み屋とすし屋ぐらいだった。その店は殆どが港に集中している為に駅の商店街には明かりも無かったのである。渋谷社長が教えてくれた会社は街の中心部に在ると言う事だったが、信一にしてみれば何処が中心部なのかわかる筈も無いのである。それでも教えられた様に歩いているのであるが、目的地に到着するかどうか確信は殆ど無い状態だった。

「山本 信一君かね・・」

 そんな状態の信一に一人の男が話し掛けて来たのである。

「はい・・そうですが・・誰ですか?」

 信一に訪れた事の無い釧路の街に知り合いなど居る筈が無いのであった。

「ハウカセと言う名前を知っているでしょう・・」

「はい・・」

 信一は襟裳のジンジと言うアイヌが教えてくれたハウカセと言う男の名前を忘れてはいなかった。

「私は彼の使いで来た者なのです。信じていただけますか?」

「信じるも何も・・今の僕には行く先さえ危ういのです・・確かなハウカセと言う名前を聞いて信じない筈が無いでしょう。」

「ハウカセが申しますには、明日の朝一番の斜里行きの汽車に乗って弟子屈と言う駅で下車して欲しいそうです。そして、ひたすら摩周湖に向かって歩いて欲しいと言う事です。」

「摩周湖って・・」

「弟子屈町に有る湖で駅の人に尋ねれば快く行き方を教えてくれる筈です。信一さんが話を信じてもらえるかは判りませんがハウカセが申すには信一さんなら必ず来るだろうって言ってました。」

 信一は心を露にして叫びたい衝動を押し殺して、冷静に返事を返した。

「必ず伺います。」

 街は静まりかえっていた、ハウカセの伝言を伝えに来た男は間も無く闇の中へ消えて行った。信一は思い直しへ引き返してから、もう一度、初めから考え直す事にしたのだった。暗闇の中を無闇に社長の知り合いを探してみても見つかる筈も無い事にようやく気付いたのである。釧路駅へ付いた時は最終の帯広行きの列車が、その出発を舞っている様であった。駅には、その出発を待つ人が沢山の荷物を抱えて歩いている光景が有った。

「この辺りで泊まれる宿を探したいのですが?」

 信一は駅員に一夜の宿を尋ねて見るのであった。

「500mほど港に向った所に小さな宿が有るけど連絡しみっか・・」

「お願いします。」

 駅員は机の電話に歩いて行った。

「失礼だけんど・・君・・信一君かい?」

 またもや知らない男が声を掛けて来るのだった。

「はい・・そうですが・・」

「渋谷から電話を受けて待っていたんだが・・あの時、君を見つけられなくてね・・」

「釧路の社長さん・・お会い出来ないと思っていました。」

「渋谷の頼みなのに・・蔑ろには出来ないさ・・事情も聞いている事だし家に泊まりな・・」

 その社長は渋谷の言う様に気さくで優しい物言いだった。

 信一は駅員の親切を丁寧に労って、社長の言う様に一夜の宿を相伴にあずかる事にするのだった。社長は車で釧路駅までやって来ていた、社長の車は渋谷社長と同じパブリカだったが古いピックアップ型だった。そう、初期のパブリカは空冷で暖房が使えないのである。不気味なエンジン音と夜の冷たい冷気に包まれた車内が信一を不安にさせたが社長の話がそれを打ち消していた。

「婚約者のアイヌの女性を探しているんだって・・応援したいが・・アイヌに知り合いが居ないからな・・力にはなれんな・・その代わり腹いっぱい食わしてやるから安心しろ・・そして、明日一番の斜里行きの汽車に間に合う様に送ってやるから・・」

「ありがとうございます。」

 信一には、それ以上の言葉が頭に浮かんで来ないのだった。渋谷社長の心遣い、そして、釧路での心遣いが信一には痛いほど判っているからだった。ここまで導いてくれた人々への感謝が今は信一の心の中で広がって思いつく言葉が無かったのである。

「寒かったろ・・家でゆっくり暖まってから飯にするべ・・」

「ありがとうございます。」

 4月の下旬の釧路では夜になれば氷点下の気温まで下がる事は珍しくなかった。ヒーターの利かない車で長時間の運転をするには防寒の対策が必要だった。部屋に入った信一はストーブが焚かれている居間に通された。居間は常夏ぐらいに暖かで、シャツ一枚でも良いほどであった。

「さ・・・暖まったら・・飯だろ・・母さん飯・・」

 その日は親切に甘えて、お風呂まで頂いて、早々に寝床に着く信一だった。一人で釧路と言う知らない街で思いもよらない安らぎを貰えるとは信一も考えてはいなかった。ぐっすりと休息を取って朝ごはんを食べた信一は社長が言う様に始発の斜里行きに乗るべく早くに家を出るのであった。

「本当にありがとうございました。」

「早く、見つかると良いな・・影ながら祈っているから頑張ってな・・」

「なんと言ってお礼を・・」

「いいさ・・君の様な若者の役に立てる事が幸せなんだ・・いつか又会える日が来るさ・・」

「・・・」

「頑張って・・」

 釧路の社長は振り返らずパブリカの音を響かせて去っていった。

 斜里行きの始発列車は直ぐに出発する時間だった。急いで切符を買って乗り込む信一だった。

「なんだか亮子の事を思っているのが僕だけでは無い様に思えてくるな・・」

 信一は走り出した汽車の窓の景色を見ながら心で呟くのであった。

 そして、夕べのアイヌの男が言った弟子屈と言う地名を思い出すのである。弟子屈と言う街は摩周湖や屈斜路湖で有名な街ではあるが開拓地としては遅くまで開けず、アイヌが本来の暮らしを遅くまで続けて来られた土地でもあった。しかし、北海道の知識が殆ど無い信一にとっては見知らぬ未知の土地以外の何者でも無かったのである。走り出した列車は殆ど民家も無い草原の中を進んで行く様に信一には思えるのであった。信一が乗った列車は釧網線と言う路線だったのだ、その路線は広大な釧路湿原を通って弟子屈の山間に入って行くのである。これはオホーツク地方の開拓の為に切り出された木材を運ぶ為でもあり、逆に開拓民に物資を届ける役目も果たしているのである。北海道の鉄道の殆どが人を運ぶ為に作られた物ではなく物資の輸送を主な目的として作られた事を知っておかなければならない。元々、列車で移動できる人々は裕福な人々だけだった、つまり列車の運賃が非常に高かったのである。だから、下働きや、日雇いの様な仕事に就いている人々は、もっぱら歩きや、馬車が殆どで一生の内に何度か列車を利用するに過ぎないのであった。

「本当に何時も同じような風景ばかりが流れる様に感じるのは気のせいだろうか?」

 信一は湿原の景色をずっと見続けているのだった。時折、姿を見せるタンチョウの姿だけが優雅さを醸し出しているのだが、遠目で見る湿原は全く変化が無かった。

「次は弟子屈・・弟子屈に停車いたします。」

 車掌の案内が車内に聞こえたのだ。

「車掌さん・・」

「なんでしょう・・」

「僕は弟子屈で降りて用事が有るのですが・・今日中に斜里に就くには何時までに駅に戻れば良いでしょう?」

「最終の網走行きは午後6時発じゃから・・それまでって言う事じゃ・・」

「じゃ・・7時間は弟子屈に居られる訳ですね・・」

「弟子屈が10時30分着だから大よそは、そうなりますか・・・・」

「ありがとうございます。」

 信一はハウカセの使いが言った様に、弟子屈で降りる必要が有った。今の所、亮子と繋がっているのはアイヌのハウカセと言う人物だけだからだった。列車は定時に弟子屈に到着したのだった。

「すみません・・摩周湖までは遠いですか?」

「足の速い人で3時間ぐらいか・・摩周湖に行かれるのかね・・」

「はい・・行かなければならないのです。」

「行っても何も無いけどね・・ご苦労な事です。」

 駅長が言う事は間違いでは無かった、この頃の摩周湖は未だ観光地化されては居なかったのである。だから、地質学者や自然科学の分野などの学者のみが遠くから訪れるだけだったのである。そして、運が良ければ野生のヒグマに遭遇して生死の境を彷徨うと言う貴重な体験が出来るだけなのであった。だから無理をして摩周湖に近づこうと考える人など居ないのは当然の事だったが、林業関係者だけは違っていた。元々、釧網線が引かれるには訳があった、この辺りの開拓である。開拓すると言う事は木材を切り出すと言う事であり、その頃では木材の需要は逼迫していた事は言うまでもなかった。それは戦争で焼け野原になった街を作り直さねばならなかったのだから仕方が無いと言えばそれまでだった。現代の日本の林業は衰退して殆どが外材に頼って居るのだが、明治時代からの林業関係者らは大変な利益を上げる産業の一つであったのである。

「3時間も掛かれば、今日の最終に間に合うか?・・・それでも行かねばならないな・・」

 信一は迷う事無く摩周湖への道のりを歩き始めるのであった。そう、もしも時間までに摩周湖に到着して帰ってこれなかった場合は、森の冷気で死んでしまうか、熊に食われるか、暗闇に足を取られて転落するか、命の保証は無いのであった。

「摩周湖でハウカセと言うアイヌが待っているのだろうか?何故、そんな所で会う必要が有るのだろうか?弟子屈の駅で待って居てくれれば助かるのに??????」

 信一はあれこれと考えて見てはみるものの、信一の知識では何の答えも導き出せないのであった。摩周湖への道のりは迷う事が無い様に道標が立っていた、しかし、歩くに連れて道は狭くなり民家と言う気配は全くしなくなって行くのであった。

「これじゃ・・登山をしている様な物だな・・道標が在るから安心して居られるが・・無ければ何処へ向かっているのかも不安でしょうがないだろう。」

 信一は知らぬ間に森林の深部に入って来ているのであった。もう獣の声しか聞こえない、風の音しか聞こえない場所に踏み込んでいるのであった。そう亮子と森に狩りに出かけた時、以来の体験であった。信一は森の住人達と話を交わす能力は全く無かったのである。時折、聞こえる鳥の声や、狐の鳴き声が逆に信一を不安の底へと追いやるのだった。

「湖に着くまでに獣に食われるかもしれないな・・亮子・・僕を守ってくれよ・・」

 それでも、信一の足取りは衰える事は無かった。そして、予定よりも早く湖に到着したのだった。

「あ・・突然に視界が開けたぞ・・これが摩周湖か・・・なんて美しい・・亮子が一緒なら・・」

 摩周湖の湖面は遠く下方にしか見えなかったが、水色に輝く湖面が周りの木々の緑を映し出して、素晴らしい情景を作り上げて居るのであった。

「信一君かね・・」

 突然、男の声が近づいて来るのだった。

「ハウカセさんですか?・・」

「よく来てくれた、私の家はこの奥に有るんだよ・・」

「こんな山の奥に住んで居るのですか?」

「わたしは未だにアイヌの暮らしを捨て去る事が出来なくてね・・今でも自分だけで生きているんだ。」

 ハウカセの身なりはアイヌの服装でまとめられて、とても凛々しく感じられるのだった。そう本来のアイヌの暮らしは豊かであり、誇り高い人々だったのである。その中でハウカセは最後のアイヌと呼ばれアイヌ民族の誇りとしてアイヌの心の中に在る人物であるのだった。

「亮子の居場所を知っていらっしゃるのですか?」

「私は知らない・・だけれど・・信一君に行って欲しい所があるんだ・・」

 この時、ハウカセは亮子の事を知らないと言った、それは信一について何も知らなかったからだった。この見知らぬ倭人に大事なアイヌの娘を託す事が出来るのか確信が持てなかったからなのであった。

「そこへ行けば亮子の事が判るのですか?」

「そうとは限らないが、君にとっては大事な場所である事は確かだと思う。」

「そこは・・」

 ハウカセは信一の事を殆ど信じている様だった、それは他の情報網から亮子を探している和人の青年が居ると聞いていたからだった。

「斜里町にウトロと言う漁港が有る、そこに民宿月子と言う宿が在るんだ。そこの女将である月子に会って欲しいんだ。」

「ウトロですか?」

 ウトロとは社長が港の改築工事を請け負って、仕事の打ち合わせに行く所だった。そして、民宿月子は渋谷社長が予約していた民宿であり信一は初めて聞く名前ではなかった。

「何故・・民宿月子の名前を知っているのですか?」

 ハウカセは少し驚いていた。信一がウトロや民宿の事を知っているとは、ハウカセも予想していなかったからだった。

「信一君こそ・・どうして民宿の事まで知って居るのです。」

「初めから行く予定に成っていた所なんですが・・連れの渋谷社長の仕事で・・」

「君は札幌の渋谷土建の社員なんだ・・」

 ハウカセは渋谷土建の事も知っていた。渋谷土建で働くアイヌの中にハウカセの知り合いが含まれていたからだった。

「ハウカセさんこそ渋谷土建を知って居るなんて・・驚きです。」

「ま・・偶然と言う物もあるのだろう・・月子の女将に亮子の事を聞くといい。」

 そう言うとハウカセは別れの言葉も無く、静かに背を向けて森の中に消えて行くのだった。それを見送ると直ぐに信一も弟子屈の駅を目指して歩き出すのだった。そう道にさえ迷わなければ余裕で弟子屈の斜里行き最終便に間に合う事が信一の心の中には有ったのである。

「ハウカセと言う人物はいったい何者なのか・・どうして僕の事を知って居て・・渋谷社長の事も・・本当は亮子の事も知って居るに違いないよな・・でも話せない理由が有るんだ・・早く斜里まで行きたいな・・」

 信一は殆ど他の考えを持たず、ひたすら弟子屈の駅を目指して歩き続けた。道標にも気を使っていた会もあって弟子屈の駅が見えて来るまで一つも迷う事もなかった。そして、弟子屈の駅舎が遠くに見え始めた事が信一の足を速める事になるのだった。

「もう直ぐだ・・亮子・・もう直ぐだから・・」

 信一が弟子屈の駅舎に着いたのは最終便の時間の1時間も前だった。だからと言って一つ前に列車が有る訳でもなく、信一は駅舎で斜里行きの最終便のひたすら待つだけだった。

「もう摩周湖まで行って来なさったのか?」

 出発前に尋ねた駅員が信一に話し掛けるのであった。 

「ええ・・ハウカセと言うアイヌの人に会って来ました。」

 ハウカセの名前を聞いた駅員は驚いたように信一に返して来るのだった。

「今、ハウカセとおっしゃたか?」

「ええ・・・」

「ここいらでハウカセの名前を知らない者は居ないが、会った事のある奴は一人もいね・・奴は倭人を嫌っておるから人前には姿を見せないんだ。」

「とても良い方でしたよ・・」

「ハウカセと知り合いなんで・・」

「いいえ・・聞きたい事が有っただけですから・」

「ぶったまげた・・だからってハウカセが良く会ってくれましたね・・」

 駅員はまるで幽霊にでも会ったかの様に青ざめた顔色になって姿を消すのだった。そして、暫くして再び信一の元に戻って来るのだった。

「どうだ・・若いの飯でも食わんか?」

 駅員は何故か信一に食事の用意をして持って来たのだった。それは手の込んだものではなかった、お結びと味噌汁、それに漬物が少々と有り合わせの料理だった。

「すみません・・でも親切にして頂いても・・お返しできる物が有りません。」

 駅員は少し考えた上で話し出した。

「あんたさんが・・誰もあった事のないハウカセと話して来なさったって事は・・あんたさんが只者では無いと言う事です。そんな御方に何もしないで返す事が出来る筈が無いでしょう。少しでも、私の事を記憶に留めておいて欲しいだけです。さ食べてくだされ・・・」

「僕は只の東京の学生をしていただけの男ですから・・」

「いいや・・あんたさんは運命の持ち主に違いない・・」

「そうしておきましょうか・・頂きます。」

 信一が食べ始めると駅員は姿を再び消すのであった。

「僕が運命を背負っている・・か・・そうかもしれないな・・小学校の恋人を求めて此処まで来たのだから・・僕は運命に突き動かされているのかも・・・」

駅には誰も人影が見えなかった。信一は静かな弟子屈の街を感じる余裕も持ち合わせていなかったが、その静けさが信一の心を落ち着かせるのに役立っていた。時折、聞こえてくる風の音と小鳥の鳴き声だけが時間の経過を伝えているのであった。

「斜里行き最終列車の到着は定刻通りです・・お待ちの、お客様は、ご乗車の準備を願います。」

 先ほどの駅員が信一の乗る列車の案内をした。他には、待っている乗客など居ない事は駅員も承知している筈だった。信一は斜里行きのホームに向かって歩き出すのだった。

「かすかだが、蒸気機関の音が聞こえるな・・弟子屈の街は静かな所なんだ。」

 信一は蒸気機関の音を聞いて、初めて弟子屈の街の静けさを知るのであった。蒸気機関の音は直ぐに大きくなり始めた。そして、はっきりと、その姿を現すと黒い威圧感が迫って来るのが感じられるのだった。やがて、蒸気機関は静かな空気を破る様に弟子屈の駅に停車した。

「斜里に着いても夜だから・・何処へも行けないだろうな・・」

 信一は既に斜里に到着した時の事を考えているのだった。弟子屈で訳有りの乗客一人を乗せた蒸気機関は再び大きな音と共に走り出すのであった。弟子屈から斜里までは殆どが森の中であり、蒸気機関の明かりと、劈く様な蒸気機関が発する音だけが響いているのである。

「日が落ちると何処を走っているのか・・真っ暗で何も分からないな・・」

 信一は少し睡魔に襲われながら列車は揺り篭の如く走り続けるのであった。斜里駅に到着したのは定時の8時20分だった。斜里の町は弟子屈と違って明かりが多く見つけら、家屋が多い事を物語っているのであった。信一は、すぐさま駅員に今夜の宿を相談するのであった。

「この街に宿は有りますか?」

「温泉かね?・・」

「いいえ・・寝られれば良いのですが・・それと食事が出来れば有りがたいのです。」

「それなら・・100メートル先に宿屋が有るから・・少し古いが寝るだけなら十分だな・・」

 さすがにオホーツクの玄関口に当たるだけあって宿屋は多い様だった。信一が勧められた宿屋はビジネスで遣って来る人達が使う宿屋の様であった。

「こんばんわ・・」

「おばんで御座います。今日はお泊りですか?」

「ええ・・」

「お食事は、どう致しますか?」

「直ぐにでも頂きたいのですが・・」

「直ぐに準備させますので・・」

 旅館の女中は信一を部屋まで案内して、お風呂の場所や明日の朝の予定などを聞くと直ぐに姿を消すのだった。さすがにビジネス客が多いだけの事はあり簡潔明瞭な対応だけが心地よく伝わって来るのだった。

「食事の準備が出来るまでに明日のウトロ行きの方法を聞いて置かなければ・・」

 信一は宿に備え付けられた部屋着に着替えて外へ出ようとしたのだが、その時、女中は食事の卓を運んで来るのであった。

「あら・・どちらか、お出かけですか?」

「明日、ウトロに行くので方法を考えないと・・」

「釣りが、お好きですか・・」

「いえ行かねばならない事情が有りまして・・」

「へーー・・・ウトロに行かれる人で釣りをしない人なんて珍しいですね・・あそこは知床の漁港ですから釣りマニアには人気があるようですから・・」

 女中は長年この宿屋に勤めている様だった。

「それなら・・女中さんが良く知っているでしょう・・ウトロに行くにはどうすれば・・」

「駅前からバスが出ています。朝一は6時ですから、ウトロには7時に到着する筈です。」

「けっこう早いんですね。」

「途中に止まる所も有りませんから・・」

 信一は話のついでに民宿月子の事も聞いて見る事にするのだった。

「ところで、ウトロに民宿月子って知ってますか?」

「・・・」

 女中は無言のまま信一の顔を暫く凝視するのだった。

「釣りをしない、お方が月子の宿に泊まるのですか?」

「だめですか・・」

「お客さん・・ウトロに何の用事が有るのです?」

 どうやら月子と言う民宿には何か話が有るのだと信一は感じ取っていた。

「民宿月子について何か知っているのですか?」

「昔の話だけんど・・ん・・」

 女中は話し始めたが言葉を詰まらせて、それ以上は何も話してはくれなかった。そして、ねぎらいの言葉と共に姿を消すのであった。

「なんだ・・・」

 信一は女中の態度に月子と言う民宿に何かを感じずには居られなかった。どんな事が亮子の周りで起きているのかも不安に駆られる心配事と成って来るのだった。

「なんだ・・・教えてくれれば良いのに・・言いかけて逃げて行かれては気になって眠れないじゃないか・・・」

 それでも信一は風呂を頂いた後は直ぐに寝床に着くのであった。そう、信一には明日の朝のバスに乗ってウトロに向かう以外に何も無いのであるのだった。信一は、なかなか寝付けなかったが、それでも明け方には少眠りに着く事が出来たのだった。そして、5時に起床してウトロに向かう準備を始めるのであった。

「女中さん・・お結び頼めますか?」

「作っておいたから、もって行きな・・」

 女中は既に信一の為にお弁当の準備をしているのだった。その事に、女中が深く事情を知っている事を物語っていると信一は感ぜずには居られないのだった。

「ありがとう・・?」

 戸惑いを隠せない信一だったが、それ以上は詮索する事をしなかった。

 バスの時間は直ぐにやって来た。信一が大きなリュックと女中が作ってくれた、お弁当を持って待っているとボンネットバスが大きな排気音を響かせてやって来るのだった。

「ウトロ行きですか?」

「あんた一人かい・・」

「そうです・・」

 休日で旅行客が居ない時は殆ど乗客は居なかった。だから便数も、この便の他には夕方の1便以外に無いのであった。

「誰も乗せないよりましってもんだ・・出発するぞ・・」

 バスの運転手は殆ど地元の客しか運んでいない様であった。

「あんたさ・・ウトロに一人で何しに行くの・・ここいらの街では有名人になっているんだけれど・・」

「僕が有名人ですか?」

「こったら所に若い男性が釣りをするでもなく・・一人で来るのだから・・噂にもなるべ・・」

「そうなんですか?」

「おらに・・事情を話してみっか・・」

 運転手は初対面の信一に対して遠慮なくまくし立てるのであった。この運転手が信一について誰かに話を聞いたに違いない事は直ぐに察しが着いた。しかし、噂が広がる事を避ける方法は見つからず、状況に委ねるしか信一には方法が無いのであった。

「結構です・・」

「あんた・・冷てえ人だな・・教えってくれてもよかっぺ・・」

「結構です・・」

 運転手は無表情に答える信一を見て、それ以上は詮索しなかった。

「今日は休日だから・・ウトロに仕事に行く人も居ないのさ・・こんな辺鄙な所だから・・よっぽどの釣り好きの人が偶に来るぐれいだから・・あんたは目立つのさ・・」

「そうでしょう・・昨日から少し判っていましたから・・」

「よほどの事が無いと、よそ者は来ないから・・」

「今は仕事の事では無いですが・・本来はウトロ漁港の改良工事件で伺う事になっていたのです。」

「あ・・町が発注した港の工事の人かね・・」

「僕は従業員ですが、社長は後から来る事になっているのです。」

 運転手は納得した様に頷いて上機嫌で運転を続けていた。

「でも・・決定権の無い人が先に現地に入っても・・意味が無いんじゃ・・」

「そうですね・・」

「あんた渋谷社長と親しいのか?」

「あれ・・どうして渋谷土建だと判ったのです?」

 運転手が渋谷社長を知っていた事に驚く信一だった。

「おりゃー現地の土建会社の社員で社長とも親しいからな・・」

「それは失礼しました。・・僕は今年入社した山本信一です。・・渋谷社長は車の故障で足止めを食らって1週間は身動きできないらしいです。」

「社長の車好きは知っているからな・・愛車を置いて来れないだろうな・・」

「そんな事まで知っているのですか?」

「なんせ渋谷土建の社長と家の社長とはマブダチだから当然だべさ・・」

 信一は心細かった心が一変して心強くなる事を感じづには居られなかった。そして、民宿月子の女将の事も聞いて見る事にするのであった。

「民宿月子の女将さんって、どんな方なんですか?」

「あ・・そうだった・・月子の所に泊まるんだったな・・だから根掘り葉掘り尋ねたのさ・・あいつは東京者でな・・・ハウカセと言うアイヌのお陰で民宿をやっているんだ。」

「今、ハウカセって言いました?」

 信一はハウカセの名前が出た事に少し驚きを隠せなかった。

「あんたもハウカセを知っているのか?」

「ええ・・」

「なぜ知っているのか聞かないが、アイヌに深入りするもんじゃない・・」

 運転手の返答からアイヌの事を嫌っている事が判った信一は、それ以上に話を聞く事を諦めるのだった。

「はい・・それで・・・」

「月子って女将は昔にアイヌの男と恋に落ちてな、一人の娘を授かったんだが、どうしても結ばれる事が許されなくてウツクブと言う相手の男性が子供を引き取って育てる事になったんだが・・それが悲しい話でな・・どうしても娘の傍を離れられないと月子さんが言うもんだから・・ハウカセと言うアイヌの男が金を出して民宿を持たせたのさ・・その後、ウツクブは登別の親戚を頼って移り住んだとか・・後は判らない・・」

「登別ですか?」

「あんた登別も知っているのかね・・」

「ええ・・・」

「あんた・・月子さんの隠し子か?」

「いいえ・・」

「それならいいだ・・」

 バスは、そんな話をしている間にウトロ漁港に到着した。漁港のバス停には何も無かった、ただカモメの群れが騒がしく鳴いているだけだった。

「民宿月子は真っ直ぐだから・・すぐ判るよ・・」

「ありがとうございます。」

 信一はバスを降りて民宿月子に向かって歩き出した。ウトロ漁港は本当に静かだった、まだ漁が最盛期に入っていないからでもあるのだが本当に小さな漁村と言う雰囲気であった。民宿月子には10分ほどで到着するのだった。

「こんにちは・・札幌から来た者なんですが・・」

「あら・・聞いてますから・・どうぞ・・」

 出迎えたのは月子本人であった。

「あなたが月子さんですか?」

「はい・・何か・・」

「ハウカセさんに会ってくれと頼まれたので・・」

 女将は驚きの表情を隠せず、そわそわと落ちすき無い態度になっていた。

「ハウカセ・・」

「女将さんはハウカセさんの口利きで、この民宿をやる様になったのですね・・」

「あなたは・・」

「僕は亮子と言うアイヌの娘を探しているのです。」

「亮子・・アイヌの名前では無いようですけれど・・」

「ええ・・登別で倭人の名前を頂いたそうです。」

「知りませんけど・・」

 


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