愛し合う 10年目の再開(第4部)
静内に着くと社長は またもや食堂へ向かった。静内の町は日高地方の公共施設が全て集まっている街であり、たいていの物は揃っているのだった。しかし、社長の向かった食堂と言うのは村はずれに小さく営業している今にも崩れそうな建物の店であったのである。
「社長、こんな店・・営業しているんですか?」
「ここがアイヌの知り合いが営業している店なんだよ・・」
信一は少し社長を神のように崇めていた事に失望感を覚えるのだった。
「ほんとに人が住んでいるのですか?」
「失礼だぞ・・」
社長の方が信一の態度に憤慨したようだった。
「長老・・居るかね・・」
「なんじゃ・・渋谷・・何の様じゃ・・」
店の奥から現れたのは年老いた老人であった。白髪は伸び放題で背は低く結わいた紙が腰の所まで達していた、それでも身なりはきちんとしたアッシを身にまとって一目でアイヌの人である事が確認できるのであった。
「ちょっと聞きたい事が有ってな・・教えてくれるかね・・」
「渋谷の頼みじゃから聞かない訳にもいかんのう・・それで・・」
「この青年の婚約者を探しているんだが、アイヌの娘なんだ何でも登別で育ったとかで・・旭川の女学校を卒業してから姿を隠したそうなんだ・・話に聞いてないかね・・」
アイヌの老人は考え込んでは少し身動きもしないで黙っていた。
「1年ぐらい前じゃったか・・旭川から来た少女を見たのが居たな・・」
「それは何処でですか・・」
「それは・・・・知床の方じゃったと思うたがな・・年を取ると物覚えが悪くなるで・・」
「誰から聞いたか覚えてますか?」
情報主が判れば、直接に会って話を聞けば詳しい事が掴める事は間違い無かった。
「あれは・・そうじゃ・・襟裳のジンジじゃった・・ジンジが釧路へ行った時に話を聞いたと言っておった・・」
「で・・そのジンジって言うアイヌに会う事は可能ですか?」
「そうさ・・彼は襟裳の魚場で仕事をしとるから・・行けば会えるじゃろ」
「有難う、長老・・助かったよ・・」
「渋谷の頼みじゃからな・・気を付けてな・・」
社長は情報を聞き終えると直に出発をした。そして、信一の心には希望の光が芽ばえていたのであった。
「あの老人は いったい何者なんですか?」
「あの老人は この辺りのアイヌの総大将と言って一番権威のある老人なんだ・・あの老人は100年に一人と言われる程に知識と知恵の持ち主でな遠くのアイヌもあの老人を頼ってやって来るんだ。」
社長の話に信一は今までの希望が確信に近くなる様に感じるのであった。
「じゃぁ・・旭川の少女の話は まさしく亮子であると言えるのですね?」
「いいや・・もしその少女が君の婚約者であったとしても、知床の何処に居るかまでは掴めないと思うよ・・・あの辺りにはアイヌの部落も無いし、有るとすれば弟子屈ぐらいだろ・・しかし、アイヌの部落に住んでいるとは考えにくいからな・・そして、阿寒湖畔には温泉旅館が沢山有るんだが・・知床周辺では釣り客用の民宿の様な宿しか今のところ無いからな・・とりあえず襟裳のジンジと言うアイヌに会いに行こう。」
渋谷社長の協力会社の一つがえりも町に有った。社長は取り敢えず協力会社の社長に会いに行くつもりであった。その方がジンジと言う人物にもめぐり合う事が容易い筈だった。
社長のパブリカは快調に走り続けた。景色は単調な海の景色以外は殆どが変わり映えしなかった。だから時間の移り変わりが不透明でどの位の時間が流れたのか掴めない信一であった。
「もうすぐえりも町だな・・疲れたろ・・さっきの干した魚をかじろうか?・・」
「あの裂きイカの様な魚ですか?」
「けっこう いけるんだぞ・・」
信一は鵡川の漁労長から貰った袋を取り上げて中身の肴を取り出した。
「本当ですね・・これは酒の肴にうってつけの様な・・」
二人で干物の魚に舌鼓を打っている間に、車はえりも町の山西建設と言う会社の前に到着していた。社長は車を建物の前に止めると信一を待たせて会社の中に入って行くのだった。
「信一、やはり社長は自宅の様だ・・自宅に回って見よう。」
山西社長は会社に居る事は殆ど無く、ゴルフか自宅で盆栽の手入れをするのが日課の様になっているのだった。社長の自宅は会社から幾らも離れていない事も直ぐに社長を自宅に引き戻す口実になっているのだった。渋谷社長はパブリカを山西社長宅へ付けて信一と一緒に自宅のベルを鳴らすのであった。
「山西・・居ないのか?」
裏庭の方から甲高い声が返ってきた。
「おー誰じゃ・・」
「渋谷だ・・」
同業者である二人は掛け値無しに物を言い合う中だった。
「ちょっと飯を食わせてくれないか?」
「おー・・・ちょうど、わしも昼にする所だったのさ・・」
「いや・・泊めて欲しいんだ・・」
「ま・・上がれや・・」
渋谷社長と信一は家に入って休む事になった。山西社長の家は質素だった、社長宅と言う威厳は微塵も感じられなかったが、通された部屋から見える裏庭は一流の庭園を思わせる様に管理されていて広々としていた。
「すばらしい庭園ですね・・」
「若いの・・良さが分かるのかな?」
「ええ・・大学で勉強しましたから・・色んな家の庭園を拝見しましたが、この様な美しく調和の取れた庭園は初めてです。」
「うれしい事言ってくれるね・・この庭園には わしの命が吹き込んであるんじゃ・・」
「信一、庭園を褒めると社長の話は終わらなくなるから辞めておけ・・」
「渋谷・・まぁ・・久しぶりだからな・・それで今日は何の用じゃ・・」
「これと言って用は無いんだが、ちょっと聞きたい事が有って・・ジンジと言うアイヌの事知ってるかな・・」
「襟裳漁港で働いているジンジか?」
「ちょっと話がしたくてね・・」
「お安い御用だとも・・電話して見るから・・」
山西社長は携帯電話で漁港に電話を掛けて、ジンジの所在を聞いてくれた。すると、既に仕事を終えて自宅に居るとの事だったので、渋谷社長は自宅の場所を聞いて行ってみる事にするのだった。ジンジの家は町から遠く離れている場所だった。
「社長・・やけに山の中ですね・・こんな所に家が・・有りました。」
街から離れた林道を暫く行くと、小さな小屋の様な家が見えてくるのだった。
「行ってみよう・・」
渋谷社長と信一は車から降りて山道を歩き出したのだった。
「ここまで辺鄙な所に住む必要が有るんでしょうか?」
「それは、会って見ないと何とも言えないな・・」
車を降りてから10分位は歩いただろうか、小さな家の全貌が見えて来るのだった。それは、信一には見覚えが有る造りの家屋だったのである。そう、亮子が天野中佐の家で隠れ屋だった思い出のあの家なのであった。
「懐かしい、家です。」
「信一はアイヌの本当の家を知っているのかね・・」
「亮子が居た家の事だけですが・・」
「ジンジさん・・」
信一は懐かしさのあまり、自ら進んでジンジの名前を呼んでいたのであった。アイヌの家からは、アイヌの着物を纏った男が現れるのであった。背丈はあまり大きくないが、がっしりとした腕がアッシの袖から見て取れた。
「倭人が、こんな所まで何の用なんだ・・おらは倭人を好かないから帰ってけろ・・」
無愛想に突っ返す言葉が本当に倭人を嫌っている事を物語っていた。
「鵡川の長老に君の事を聞いて少しだけ話を聞きたいのだよ。」
鵡川の長老の話が出たとたんにジンジの態度は一変したのである。
「長老の知り合いとは知らないで失礼しました・・中に入って下さいな・・」
社長と信一は導かれるままに、アイヌの家屋の中に入って行った。その中は、やはり亮子の隠れ屋と同じような造りに成っていて初めに囲炉裏の有る土間の広間が招き入れるのであった。
「家のおっかです。子供は遊びに出かけてますんで・・座ってけろ・・」
囲炉裏の奥には一人の女性が座って、お辞儀をしているのが判った。
「それで、ジンジさん。1年ほど前に釧路で旭川から来たアイヌの女性の話を聞いたとか・・」
「ああ・・長老に話をしておいたさ・・アイヌの事は全て長老に報告せねば なんねいから・・」
「それで、どんな話なんですか?」
「あれは5月ぐれえだったか、釧路で遠洋漁船の募集があって、行ったんだ・・それで、その時に知床の方から来ているアイヌと一緒になったんだけんど、そいつの話では斜里町で旭川から来た美しい若いアイヌの少女を見たのが居てよ・・よく聴いて見ると仕事を探しているらしかったのさ・・でも斜里で仕事が見つかったかは定かではねえ・・・」
「向こうで、その事を知っているアイヌは知らないのかね」
「おらが話を聞いたアイヌの名前はシロって言うおっさんだ・・住んでる所は聞いた事が無いから斜里の何処に住んでいるやら・・あの辺りならハウカセと言う長老に聞くと良い・・斜里に行ってハウカセの名前を知らない奴は誰も居ないぐらいだから、直ぐに判るさ・・・」
信一は突然の朗報に驚かずに居られなかった。そして、話が終わっても正気に戻る事は出来ないで居るのだった。
「おい・・信一・・大丈夫か?」
「あぁ・・社長・・こんな事が在るんですか?・・数人に亮子の事を聞いただけで直ぐに情報が判るなんて・・神がかり的な・・・・・・」
「信一・・君は北海道の事を知らな過ぎるんだ・・アイヌの人口は既に2万人位に減少していて・・その中の権威のある長老たちは100人ぐらいだろうか・・そのネットワークの中でアイヌ世界を把握するシステムが作られているんだ・・彼らも自分たちの文化と血筋を守る事に精一杯の努力をしているのさ・・それでも私が世話になったアイヌの青年は見つからないのだが・・」
「そーなんですか?」
信一は改めて亮子が置かれている立場の微妙さを知る事になるのだった。
「ここから斜里までは2泊ぐらいは必要な距離なんだぞ・・喜ぶのは斜里に着いてからにした方が良いんじゃないか?」
信一は社長の話や全ての事に一喜一憂する事しか出来ない自分を腹立たしく感じるのであった。それでも亮子に少しでも近くなった事に喜びを覚えずには居られないのであった。社長と信一は有力な情報を携えて今夜の宿泊先である山西建設の社長宅へ引き返すのであった。
「次の宿泊先が知りたいんですが・・」
信一は情報を聞いて居ても立っても居られなくなっている様子で、社長の次の行動が気になって仕方が無かったのである。しかし、冷静な渋谷社長は慌てる事が大事なものを逃す事に繋がると言う実践的な教訓を守っているのだった。
「信一の気持ちは痛いほど分かるが・・落ち着く事も大事なんだぞ・・急いては事を仕損じるって・・」
盲目的な愛の儚さを知らない信一は 燃え上がる感情を抑える事の難しさを知る以外に教訓を得られないのであった。そんな二人を乗せた社長のパブリカは早々に山西社長宅に到着を果たさせていた。
「今夜はゆっくりと休んで明日考えよう・・」
結論づけた社長の言葉は信一の耳には殆ど届いていない様子だった。
その後、二人は山西社長の接待で食事から風呂、そして寝室まで居心地の良い、もてなしに心を和ませていた。庭園を愛する社長の関心事は仏教の教えであり、長い年月に培われた人間の知恵を庭園に生かす事であるのだった。それだからこそ社長の人格は誰からも尊敬を集める人徳に満ち溢れているのであった。しかし、亮子の情報を得た信一には山西社長の人徳になど目が向く筈がなったのであった。長年の付合いである渋谷社長には山西社長の心根ははっきりと感じている事は間違いがないのである。渋谷社長は若い信一の一途な思いが果たされる事を願っている山西社長の姿がはっきりと見えているのであった。
「渋谷・・頼んだぞ・・」
次の日の朝早く、信一と渋谷社長は出発した。山西社長の言葉は信一を思っての事であるのだが、信一の耳には届いてはいないのであった。少し車が郊外の所まで達し辺りに家影が見えなくなった頃、渋谷社長は信一に話しかけた。
「婚約者が心配な事は判るが、その事だけを思って回りが見えなくなっていては、とても彼女の力にはなれないんだぞ・・判っているのか?」
信一は直ぐに返事が出来なかった。社長が自分の事を指摘している部分までもが見えないでいるからでった。
「あの・・次の目的地なんですが・・」
渋谷社長の話の内容とは全く一致しない返答しか出来ないでいる信一が其処には居たのである。
「次の目的地は帯広だ・・十勝川温泉に泊まって・・次の日が・・斜里町だ・・信一は斜里に行きたいんだったな・・・」
社長は信一の心は判ってたし、無理にその心を変える必要も感じていなかったのである。斜里町の話が出て来た所で信一は少し我に帰って冷静な考えが出来るようになっていた。
「今日は無理なんですね・・明日なんですね・・斜里って言う町はどんな街なんですか?」
「おいおい・・信一の心は既に斜里町に行っている様だな・・」
「だって・・それ以外に他の情報が無いのですから・・」
「君の婚約者は亮子って言ったな・・」
「はい・・」
「お父さんは どんな人なんだね・・」
「亮子が天野中佐の家に引き取られる前は・・登別に住んでいたそうですが戦争で天野中佐の身代わりになり死んだとしか聞いていないのです。」
「そうか・・・父親の方からは手繰れそうも無いのか?」
「母親は」
信一は少し恥ずかしかった、亮子の手がかりが少し見つかっただけで有頂天になって亮子の父や母親の事も殆ど知らない自分が恨めしかったのである。
「何処かの村長の娘と言う事だけで、詳しい事は知らないです。」
「村長の娘・・だって・・早く言ってくれれば・・そっちの方からも探ってみたのに・・」
「そんなに重要な事なんですか?」
「鵡川の長老に会った時に何も感じなかったのかね・・ジンジ君があれ程に恐縮した態度だっただろ・・鵡川の長老なら亮子さんの母親の事を知っている筈だ・・」
「え・・・」
その瞬間に信一の希望は地獄絵図の中に落ち込んで行くように転げ落ちるのであった。
「そんなに自分を責めるんじゃない・・」
渋谷社長は青ざめた顔を車外に向けた信一に掛ける言葉を失っていた。しかし、そんな信一の方から渋谷社長に一つの意思が告げられたのである。
「僕は未熟者です・・ですが亮子を思う気持ちは誰にも負けませんし、彼女が居ない人生なんて僕には有り得ないんです・・・ですから・・渋谷社長の下で学ばせて下さい・・亮子の伴侶として恥ずかしくない男になる為に・・」
真剣な口調に渋谷社長は少し戸惑っているのであった。
「おいおい・・俺は人生相談の番組を担当しているわけじゃないし、人生の悩みを聞く坊さんでもないんだ・・ただ少し信一より長く生きて人生の事を知っているだけなんだぞ・・」
「すみません・・つい自分が情けなくて・・」
「若い頃は皆そんなもんさ・・」
社長のパブリカは昨日と同じ様な海岸線を走り続けていた。日高地方は日高山脈を挟んで細く半島の様に延びているのだった。その半島の付け根の街である広尾町に近づいている事に渋谷は感じているのだった。
「もう直ぐ広尾町だ・・広尾を過ぎると内陸部に入って十勝平野を突き進む事になる。」
「はい・・」
パブリカは快調だった、パンク一つしないで走り続けているのであった。しかし、その幸運も尽きたのか大きな音と共に車の揺れが酷くなったのだ、そう始めてのパンクだった。自動車が誕生してから長らくの間、タイヤは進化を遂げる事が無かった。車のタイヤはコストを考えられて、それほど丈夫では無かったのである。分厚いゴムの中にタイヤチューブと言う空気が入るゴムの袋が内蔵されて、それで路面の振動を吸収して走っていたのである。そのゴムのチューブと外のゴムが摺れる事でパンクは発生しそれを逃れられる様になるには多くの年月が必要だったのである。
「信一・・パンクだ・・スペアに変えてパンクしたタイヤを修理しなければ・・」
渋谷社長はタイヤ交換に熟練している様にてきぱきと仕事を片付けた。おかげで30分ほどで再スタートが可能になったのである。
「修理工場かガススタンドに寄らなければ・・パンクしたタイヤを修理して次のパンクに備えなければならない。」
信一はまだ車の免許も無く、父親もあまり自動車を運転しなかったので状況を把握するほど理解はしていなかった。
「よくパンクするのですか?」
「こんな道路じゃ・・仕方ないさ・・」
運よく、直ぐにガススタンドに辿り着いたのであった。
「悪いが・・早急にパンク修理を頼みたいんだが・・」
渋谷社長は修理の依頼をしたのだが、返事は良くは無かったのだった。
「あのね・・いきなりで直ぐ直せと言われても・・人も居ないし・・無理だね・・」
「急いでいるんだ・・」
「ああ・・急いでいるのは十分に承知しているが・・わしは治せないから・・修理するのはお休みだ・・」
運悪く、修理の担当者が何かの理由で休んでいるらしかったのだった。
「他には、治せる場所は無いのかね・・」
「ここが広尾では一番大きなスタンドで修理工場を持っているのは家だけだ・・後は燃料を売っているだけさ・・」
「休んでいるのは、何時出勤するかね?」
「昼過ぎかな?」
「来たら一番に治してもらえるかね?」
「無理だね・・仕事が立て込んでいるんだ、それを済ませないと・・」
どうやら広尾と言う街に釘付けになった様だった。もし、修理をしないで出発すれば次にパンクをした時にはお手上げなのだ。自分でパンクを修理するには多くの時間と経験が必要だったのだ、それを渋谷社長は一度だけ体験をしているから良く知っているのだった。しかし、スタンドの修理担当はいとも簡単にパンク修理をする事は間違いの無い事だった。
「預けておくから・・できるだけ早くに頼む・・」
「悪いな・・お急ぎだろうに・・」
「夕方に来て見るから・・」
信一と渋谷社長は必要な荷物を持ち出すと、街の中に向けて歩き出すのだった。広尾町はひっそりとした港町であって喫茶店や食堂の様な場所も無かった。渋谷社長は広尾町の知り合いの家を訪ねる事にするのだった。知り合いと言っても随分昔に少しだけ一緒に仕事をした経験が有る程度で連絡を取り合う仲でもなかったのである。
「ここら辺で・・今西浩二って言う人の家知らないですか?」
渋谷社長は通りすがりの小さな雑貨屋の奥さんに尋ねるのだった。
「今西じいちゃん所の息子さんね・・そう言えば今は実家に戻ってるて言ってたけどね・・」
渋谷社長は家の場所を聞いて直に向かうのであった。聞く所によると北の方へ向かって、その家までは2キロ位の道のりの様だった。とりあえずは北に向かって歩いて行けば見つかるだろうと渋谷社長は考えているのであった。
「ありがとうございます・・」
「その人の所に行くのですか?」
「まぁ・・行って見てだめなら、引き返せば良いだけさ・・」
渋谷も自分の事を覚えていて助けてくれると言う確証は何も無いのであった。
「何としても十勝に行きたいからな・・さもないと野宿する羽目に成る・・未だ寒いからな・・それだけは避けたいよな・・」
「パンクって自分で治せないですか?」
「一応は道具を持ってるが・・最後の手段としてだけなんだ・・それを使ってしまえば最後の手段が無くなるからな・・」
パブリカに乗っている人はまだまだ少なかった。北海道では仕事の車であるトラックが多かったのである。それも小型のトラックだった、漁師や農家が荷物を運ぶ為、商店が配達をする為などの車だった。その為に、車自体の保有台数も非常に未だ少なく整備の店も多くなかったのである。
「早く治ると良いですね・・」
「斜里に早く着きたいだろうが・・・あそこまでは未だ500キロぐらいあるからな・・パンクが再び襲う可能性が高いんだ。」
「えぇ・・」
信一は北海道が東北6県と群馬県を合わせた面積である事を知らなかった。それ故に信一の驚きは誰にも測り知る事は出来なかったし、信一の心の中でも驚きが無知から来ている事だと痛感しているのだった。
「このただひたすらに続く単調な道を500キロも移動するのですか?」
「ああ・・それが北海道さ・・本州とは違うだろ・・明治時代に成るまでアイヌの土地だったのだから・・戦国大名なんか存在しないのだから・・富と権力が支配するだけでは、この土地は語れないんだ・・開拓の人々の希望と勇気が無ければ、この土地は抜け殻になってしまう。」
信一にとって渋谷社長の北海道観は眩しく感じられた、自分の中の北海道観は亮子と言うアイヌの女性だけの姿でしかないからだった。
「一筋の亮子への思いだけで、ここまで来たのは間違いだったのかも?」
「いいや・・その一筋の思いこそが北海道を作り上げている原動力なんだ。これからも北海道の原動力は変わらないで欲しいものだね・・・」
「なんとなく判る様な気がします。」
いいや、北海道の事を殆ど知らない信一に一筋の思いなど判る筈は無いのであった。北海道開拓を決めたのは戊辰戦争に勝った薩長連合の新政府では有ったが、この厳冬の地に開拓に来た人々の思いは様々であったのである。足尾銅山の鉱毒で田畑を失った人、村全体が洪水に見舞われた十津川村の人、敗戦し強制的に屯田兵として送られた人々、炭鉱で出稼ぎとしてやってきた人々、様々な人々の一筋の思いがこの土地を形づくっているのである。そして、最後に忘れてはならないのがアイヌ民族である、強制的に送られた開拓民はアイヌの人々の助けも大きかった事を忘れてはならないのである。北海道の厳冬期に順応して来たアイヌであるからこそ、この北海道が楽園であったである。内地の感覚で掘建て小屋に住まわされた屯田兵の暮らしは正に地獄であった筈なのである。冬には氷点下20℃にまで下がる北海道では寒さに対する知恵が必要であり、アイヌの住まいであるチセは厳冬の北海道に順応した住まいだった事は言うまでもなく、その他にも鮭の皮で覆った藁の靴、行者ニンニクに代表される山菜の食べ方など、草の根ではアイヌの知恵を巧みに利用して交流していた事は間違いなかったのである。
「この辺りに今西さんって言う家は無いですか?」
「今西さんかい・・すぐそこ曲がった所だ・・」
渋谷社長は早々に今西宅を訪れて知り合いが居るか尋ねるのだった。
「こちらに浩二さんて言う名前の人居ますか?」
「家の息子だが・・何の御用かね・・」
「昔、広尾漁港の増設の時に一緒に働いていた渋谷と言う者なんですが?」
「おや・・渋谷君かい・・あれは20年前だったか・・覚えちょる、家の浩二と仲良しだった、渋谷君・・それでどうしたんか・・」
「この近くで車がパンクしてしまって修理工場に行ったんですが、担当者が居ないから何時になるか解らないと言うので・・浩二の所へ行けば力に成ってもらえるかと思いまして・・」
「あの修理工場が、そったら事、言っとるんか・・わしが電話して言ってやるから早く戻りな・・」
「えぇ・・」
「あの修理工場の修理担当者は浩二の同級生で親戚の様な物じゃから・・任しとけ・・」
「ありがたいです。」
渋谷社長は自分の車が修理される事を確信したようだった。何故なら、こう言った小さな街では人の繋がりが一番の強力な武器であるからだった。渋谷社長と信一は直に来た道を引き返すのだった。そして、修理工場に着いたのは午後の1時頃だった。
「すいません・・」
渋谷社長が声を掛けると中から、先ほどとは違った人が出てくるのだった。
「はい・・もしかして渋谷様でしょうか?」
「そうなんだけどね・・車・・修理頼めるかね・・」
「この街で新型のパブリカが見られるとは思って居ませんでしたから・・光栄です。直に取り掛かって20分で済ませますから・・で・・一つお願いがあるんですが?・・パブリカ運転させて貰えないですか?」
「助かるよ・・少しなら乗ってみてくれないか・・今度のパブリカは使い勝手が良いんだ。」
「ありがとう御座います。修理代は私が持ちますから・・」
「ああ・・助かるよ・・」
浩二の同級生は東京で自動車整備の資格を取ったらしく、新型車の情報には目が無い様だった。職業柄か新型の構造の変化などを知りたかったのである。試乗した後、ボンネットを開けたり足回りやボディーの造りなど熱心に見ているのだった。
「さすがに整備士さんですね・・私なんか車の下を覗き込むなんて事が無いですよ・・」
「見ておくと参考になるんですね・・いや・・好きだからです。」
「早くして貰って助かったよ・・今日は十勝川温泉で宿泊の予定だから・・今からなら間に合うよ・・」
渋谷社長と信一は挨拶を終えると直に出発をするのだった。この先は帯広市街まで街らしい所が無かったのである、その為にできるだけ早く到着しないと闇の中を進んで大きなハプニングに出くわす可能性が高いのだった。渋谷社長と信一は時間をロスしたとは言え1時には再出発できたのである。次第に日が長くなっている事も相まって日が落ちるまでに帯広に到着する事が出来るのであった。
「それにしても単調な景色ですね・・僕なんかいつも同じ所を走っているとしか思えないです。」
「そうだろう・・十勝平野は広いからな・・その上に人口密度も非常に小さいから訳も無い事だ・・」
「あそこの街並みはなんて言う街ですか?」
「帯広と言う街さ・・この辺りでは一番大きな街さ近くに十勝川温泉が在るんだ・・」
パブリカは何時に無く快調だった、あの車好きの整備士が手を掛けてくれたからなのだろうと渋谷は思うのだった。この広い大地をたった1000ccのエンジンで走りきろうと言うのであるから、神頼み的な幸運が必要である事は間違いが無いのであった。しかし、そんなサバイバル的な旅が渋谷には生甲斐を感じさせる部分でもあるのだった。渋谷はガススタンドで燃料を満タンにして十勝川温泉に向かったのである。
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