justice #1
正義なんて滑稽ものだ。一筋の川で限界づけられるのだから。
ピレネー山脈のこちら側では真実でも、向こう側では誤りなのだ。
――ブレーズ・パスカル
地下の風は、いつでも冷たい。
細い首筋をなぞるように流れる空気は、過剰なまでの乾きと無機質さを感じさせた。気味の悪い感触に軽く肩をすくめて、黒に浮かぶ月に視線を向ける。
手のひらに、ささやかな息を吹きかけた。暖かい。
――ああ、なんて素敵な場所なんだろう。
腕を精一杯左右に広げて、涼しいそよ風を体全体で受け止めた。何物にも侵されていない、夜の匂いが鼻先をかすめる。
そのまま少しも動かずに、自分の全てで夜を感じとる。目、口、耳、肌、髪。刺激は血液を伝い、心臓へと流れていった。溢れ出る快感が、脳に高揚を告げている。
すばらしい。私は今、夜に生きている……。
――そのとき、静寂のさなかを、一つの振動が颯爽と貫いていった。
来た。
ついに、『彼女』がきたようだ。
「…………」
自虐するように口元を歪ませる。言葉にならない感情は、どこにも跳ね返らないまま空気に消えていった。
待っているのは、吉か凶か。
舞っているのは、善か悪か。
――楽しみだ。
声に出さずに、そう呟く。
準備なら、すでに万端だ。
「――では、はじめよう」
誰かの笑う声が、後ろの方で反響した。聞こえないふりをして、また、あの月を見上げる。
――私の愛する者よ。私はこの地で、君を――。
◇◇◇◇◇
……その光景を見かけたのは、ただの偶然だった。なにか特別な意味があって出会ったわけでもなければ、なにか理由があって向こうから会いにきたわけでもない。ごくありふれた日常の中で、僕はただそこに居合わせただけだったのである。
僕がいつもどおり一日労働を終えて、つかれきった体をなんとか動かして寝床へと帰る途中。ふと、目の端にそれがうっすらと見えた。
――人間。
まだほんの小さな背丈の女の子が、道の端につもるゴミの山に身をひそめて眠っていた。
それに気づいたときにはさすがに驚いたが、僕はすぐに思い直した。
こんなに小さいのに、大変なんだなぁ――と。
まるで他人事のように、その少女を遠くから見ているだけだった。
……さて、これだけ言うと、もしかしたら僕が血も涙もない非道な人間だと思われるかもしれないが、そんなことはない。というのも、この場所に住んでいる人は――<庶民>たちはみんな、そのくらいのことは覚悟した上で過ごしているから。
道すがら誰かに殴られることも、ナイフで刺されたりすることだって――ここでは、ごく当たり前のことだった。恨みなんて、どこで買われるか知れたものじゃない。
『零れ落ちた楽園』。
地上に住む人たちは、この場所のことをこう呼んでいるらしい。
……楽園、か。おそらく、度の過ぎた皮肉のようなものだろうと思う。
たしかに、ここでは「犯罪」が起きることはほとんどない。――ただし、それは平和だという意味じゃなく、本当なら睨み合っていなければならない二つの存在のうち、片方がどこにもないから――という、言うなれば相対的な意味しか含んでいないからである。
つまり――『零れ落ちた楽園』には、法律がない。
警察もいなければ、裁判所なんて隣町まで探してみても、きっとないはずだ。
ここにはただ、増えすぎた悪がそこら中に広がっているだけ。
そして、増えすぎた悪は、僕たち<庶民>を好き勝手に利用する。
薬物や武器の受け渡し、誰かの暗殺、囮……。毎日毎日、飽きることもなく僕らは使われ続ける。仕事のリスクの度合いに対して、もらえるお金なんてせいぜい雀の涙程度のものだ。二日三日、なにも食べられないことなんて、日常的なことである。
――でも。
それでも<庶民>は、働かないといけない。
そうでもしないと、生きていけないから。
たとえ、僕らが死のうが殺されようが、悪にとっては駒が少し減っただけに過ぎない。彼らにとって、<庶民>なんてその程度の存在だ。
それがどんなに悔しくても――言うことを聞くしか、成す術はない。悪を倒そうにも、武器も正義感もない、無理に心を汚された非力な道具ごときに――一体、なにが出来るというのだろう。
結局はあきらめるしかない。ここは、そういう世界だ。
そういう世界のまま回っているのだから、もうどうしようもない。
止めようにも、僕らが見ているのは足元だけ。
世界を動かす歯車なんて、どんなに顔をあげたって、いまさら見えるわけがないのである――。
だから、僕が見かけたその少女も、きっとそんな道具の一人なのだろうと思った。
乱暴にあつかわれて、適当に道端に捨てられる。賃金は、投げつけられた少しの小銭だけ。ありふれた、いつもの光景。そう、本当にそれだけだ。
――きっとそうなのだと、思っていたのに。
なぜだか現実は、変な方向に僕を裏切った。
「おい! 見つけたぞッ!」
背後から大声が飛んできて、一瞬だけ体が反応した。
振り向くと、息を荒げた黒ずくめの男が二、三人、小道の向こうからこちらを指差していた。
「あそこだ! あそこにいる! 速く捕まえるんだっ!」
指差しながら声を出しているので、もしかすると僕が命令されているのでは、とも思った。でも実際は違っていて、「へい!」と元気の返事をした若い男が、足元に気をつけながら走ってきたのが遠くに見えた。
よく状況がわからず、ぼーっと近づいてくる男を見ていたが、ここに突っ立ったままだときっと邪魔になると思って、体を横にずらそうとした。邪魔だと言われたときにはもう遅い。ささいなきっかけでも、彼らは容赦なく撃ってくる人たちだから――
――そのとき、僕の背中になにかがしがみついているのが、わかった。
「……えっ?」
奇妙な感触に、思わず声が漏れた。
「――たすけて……ください」
小刻みに振動しながら聞こえてくる、掠れきった声。
背中に隠れるようにつかまりながら喋るそれは――さっきまで倒れていた、あの少女のようだった。
「……おねがいっ……たすけ、てっ……! おねがい、します……」
細い音が、控えめに耳まで届く。僕は正直、とまどった。
何度も見慣れたこの状況を――どうしてか、上手くつかめないでいた。
「おいっ、そこのガキッ! さっさとそこをどけぇっ! お前も死にてぇのかぁっ!?」
迷っている間にも、男はこっちに向かってくる。怒声を受けて、少女が縮こまるのが伝わってきた。
……ああ、もう。
なんだって、こんな場所に来ちゃったんだよ、僕はっ!
男の手が、上着の内ポケットに伸びる。もしかしたら拳銃を取り出そうとしているのかもしれない。そう思うと急に怖くなって、すぐに少女を振り払って逃げようと思った。
瞬間――。
背骨にそっと当てられた、硬い金属の冷たさが全身を伝う。
……はい?
「――たすけて、ください……。断ったら、う、撃ちます……!」
…………。
……ん?
……えーと。
――はぁっ!?
「ち、ちょっと、待っ――」
「うおらぁああああああああああああっ!」
揺れていた視界がもとに戻る。
いつの間にか目前に迫っていた男が、渾身の力で刃物を振り下ろしてきた――!
「うわっぷ!」
ぎりぎりのところで、上半身をねじって避ける。しがみついていた少女も一緒についてきて、二人で同時に転んだ。頭の横側を地面にぶつけたせいで頭が混乱したけど、すぐに持ち直して男の方を見た。
……まさか避けられるとは思っていなかったのか、男も仲良く地面の上に転んでいた。しかも、打ちどころが悪かったのか、気絶しているように見えた。なんだかおかしい体勢で倒れているので、さっきまで刺されそうになっていたにもかかわらず笑みがこぼれそうになった。
……ばっかでー。
「いそいでっ!」
ごりっ、という音がして、また背骨が人質にとられた。嫌な音と緊張が、心臓の動きを速くする。口からなにかが出そうになった。
聞こえるのは、小道の向こう側から追ってくる男たちの声と足音。
急き立てられる、矮小で無関係な僕。
なんだこの現実。
……えー、もう……。
どうして、わざわざ僕を選んだんだろ……運命とやらは。
そんなことを思いながら、一息に後ろを振り向いた。青ざめた顔をした少女が体を強張らせながら、泣きそうな目で見つめてきた。……人に銃まで向けといて、なんという覚悟のなさ。
「――自業自得だからね。どうなっても知らないよっ」
え、という少女の言葉をさえぎって、怖いあまりその場から動けずにいた少女の体を、両手で抱える。
お姫様だっこ、ともいう。
「あ、え、あの――」
「準備はいいねっ!」
頭の中で、すばやいカウントがはじまる。五、四、三、二、一。はい、タイムアップ。
――こうなりゃ、行くとこまで行っちゃえ。
明日なんて、きっとどうにでもなる。
……そんな気がしないでも、ない。
「――出来てなくても、出発するけどっ!」
心が興奮で麻痺したまま、僕は一気に夜の街へと駆け出した――。




