大愚の主人公が長編の屋台骨になる
暇庭宅男は自他ともに認める短編書きだ。
読むときには様々なものを、長くても読むことができるというのに、書くとなると五千字前後で文章も展開もダレてきてしまい、八千字も書くと書くのがかったるくて読み返すのも苦痛になってしまい投げ出してしまったりする。
投げ出したものは後々削りに削って作品として仕上げることもあるが、残る字数の少なさに二度目のガッカリをすることも少なくない。だって三千字以上の長さに着地する物語は本当に少ないからだ。
なんでこんなにもちゃんと長編を書けないのか。長編を書きたい気持ちがなくはないのだが、それは技量の無さなのか、今まで原因が分からぬまま来てしまった。
さて少し話は変わるが、暇庭宅男には物書き趣味の先輩がいる……いや、いた。
その先輩は五万字超えの作品をスイスイと難なく書ける人で、それが自然であるかのように趣味から卒業して、プロになり、今もさかんに活動している。性格はすこぶる悪く、他人の欠点をすぐ見抜きグサリと刺しに来る酷い人なのだが、その文句のひとつひとつは確かに的を射たものであることが多い。私はその先輩が苦手で、けれど、その先輩のことを尊敬もしている。
その人が暇庭宅男のここの活動を見つけたらしい。リアルで連絡が来て、相変わらずこざかしい話が好きだねと言われた。悔しかったが、反論できなかった。私は商売にするつもりがないからとはなから言い訳の盾を構えて、ぐずりぐずりとべそをかくような作品を書くのが、どうやら悪いクセのようなのだ。
先輩は言った。「大いなる馬鹿を書けないと面白いものは書けないぞ」と。
ああ。たぶんそれは、その通りなのだ。痛いところを突かれて憤りながらも、それが事実であることを認めないわけにはいかなかった。私の作品に出てくる登場人物というのは、みんなどこかこざかしい。
思い切った馬鹿をやれないのだ。それが海賊王になることでもいいし、強敵を求めてさまようことでもいいし、あるいはあてどの無い旅をすることが目的の変人でもいいのだが、そういう生活臭から離れた、大いなる馬鹿を私は書けない。
だから話が続かない。これは事実だ。先輩は正しい。仏教用語では「大愚」という。一見自分のためにもならなさそうな、非合理の所業を迷いなく行う登場人物が物語には必要だ。こざかしい主人公がみみっちい自意識を抱きしめて終わり、とする物語には、続くべき物語が何もないのだ。おそらくそれゆえに、私は短編書きなのだ。
心を揺るがす作品には少なからず、とてつもない夢を抱き、周囲を震撼させる「大愚」の行いが不可欠になる。何でもいい。
好きな作品を思い浮かべてもらって構わない。その作品の主人公は、多分小賢しく何かを得ようとはしない。バカバカしいくらいに突飛な目標に向かって、苦行とも呼べる道のりを歩いているはずだ。生死不明の父親を探してもいい。くそったれの作中世界の中で世界平和を実現しようとしてみるのだって素敵だ。そして、それこそは物語の原動力だ。小賢しさは誰のことも巻き込まないが、大愚はみんなを巻き込んでいく。登場人物だけでなくて、それを読む読者のことも。
大愚、大愚。自分でもその言葉の手ざわりを確かめるように、これを書きながらつぶやいてみる。
一見、自分のためにはならなさそうな、非合理の行い。しかしその愚直さは、たくさんの人の心を掴み、作中人物も我々読者もその大愚に見惚れるような……。
なんだかんだいっても、長編を死ぬまでにはひとタイトルくらい書いてみたい暇庭は、今も、意地悪な先輩から言われた内容を反芻している。




