01 断罪された悪役令嬢は、目を覚ます
「――リディア・アルフェン公爵令嬢。お前との婚約を、ここに破棄する」
目を開けた瞬間、見覚えのない青年にそう告げられた。
知らない、というのは正しくないのかもしれない。
金の髪。青い瞳。白を基調とした礼装。胸元に輝く王家の紋章。
周囲の貴族たちは、彼の一言に息を殺している。
ただの貴族ではない。
王家に連なる人物なのだろう。
けれど私は、その男の名前を思い出せなかった。
「さらに、お前が聖女エミリアに行った数々の嫌がらせも、すべて明らかになっている」
大広間は静まり返っていた。
シャンデリアの光。
磨き上げられた床。
壁際に並ぶ貴族たち。
その場にある視線のほとんどが、私に向けられていた。
私は深紅のドレスを着ていた。
手袋に包まれた指先が、かすかに震えている。
喉が渇いて、うまく息が吸えない。
けれど、膝を折るわけにはいかなかった。
ここで崩れたら、終わる。
なぜか、それだけは分かった。
王家の紋章をつけた青年の背後には、栗色の髪の少女が立っていた。
白いドレス。
潤んだ瞳。
細い肩を震わせながら、彼女は青年の袖をそっと掴んでいる。
その仕草だけで、周囲の同情が彼女へ傾いていくのが分かった。
「リディア。何か言うことはないのか」
青年が冷たく私を見下ろす。
私はゆっくり瞬きをした。
リディア。
それが私の名前らしい。
「……失礼ですが」
自分の声が、思ったよりも静かに響いた。
「あなたは、どなたですか?」
その瞬間、大広間がざわめいた。
誰かが小さく笑い、誰かが息を呑む。
青年の顔が、信じられないものを見るように歪んだ。
「リディア。ふざけるな」
「ふざけてはいません」
「俺が誰かも分からないと言うのか」
「はい」
青年の背後で、栗色の髪の少女が震える声を上げた。
「リディア様……そんな……今度は記憶喪失のふりをなさるのですか?」
彼女の声は弱々しかった。
けれどその一言で、周囲の空気が変わった。
“見苦しい”
“悪あがきだ”
“さすがアルフェン公爵令嬢”
声にならない悪意が、肌に刺さる。
私は手袋の中で指を握りしめた。
記憶がない。
この場にいる誰の顔も知らない。
自分が何をしたのかも分からない。
怖くないわけがない。
今すぐ逃げ出したい。
けれど、逃げたらきっと、私の罪は確定する。
「私が何をしたのか、説明していただけますか」
青年の眉がぴくりと動いた。
「今さら聞くのか」
「覚えていないので」
「都合のいい記憶喪失だな」
「そうかもしれません」
私は彼を見返した。
「ですが、私が本当に罪を犯したのなら、証拠があるはずです」
大広間のざわめきが少しだけ大きくなる。
青年は低い声で言った。
「お前はエミリアの教科書を破り、階段から突き落とし、舞踏会の招待状を隠した」
「証拠は?」
「何?」
「証拠です。私は覚えていないので、確認したいだけです」
青年の顔に怒りが浮かぶ。
「被害者であるエミリアが、そう証言している」
私は彼の背後にいる少女を見た。
エミリア。
聖女。
彼女は怯えたように目を伏せる。
「私……リディア様が怖くて……ずっと言えませんでした」
小さなすすり泣きが響く。
何人かの令嬢が同情するようにエミリアを見た。
何人かの青年貴族は、私を責めるように睨んでいる。
なるほど。
少なくとも、この場で私の言葉を待っている者はいないらしい。
「証言だけですか?」
私がそう言うと、青年の声が荒くなった。
「リディア!」
その声に、背筋が冷えた。
けれど、私は顔を伏せなかった。
「記憶のない人間に、証言だけで罪を認めろとおっしゃるのですか」
「お前はどこまで醜いんだ」
青年が一歩近づく。
反射的に後ずさりそうになった。
そのときだった。
「そこまでにしていただこうか、殿下」
低い声が、大広間に落ちた。
人垣が自然に割れる。
黒い軍服を着た男が、こちらへ歩いてきた。
銀灰色の髪。
鋭い赤い瞳。
腰には剣。
その姿を見た途端、周囲の貴族たちが一斉に口をつぐんだ。
この人も、私は知らない。
けれど分かる。
ただの貴族ではない。
男は私の前に立ち、白い礼装の青年を見据えた。
「記憶を失った令嬢を大勢の前で追い詰める。それが王太子殿下のなさる裁きですか」
王太子。
やはり、この青年は王太子だったらしい。
王太子は黒い軍服の男を睨んだ。
「カイル卿。これは俺とリディアの問題だ」
カイル。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。
知らない名前のはずなのに。
指先の震えが少しだけ強くなる。
「いいえ」
カイル卿は静かに言った。
「彼女を裁く権利は、殿下にはありません」
「どういう意味だ」
王太子の声が低くなる。
カイル卿は少しも動じなかった。
「リディア・アルフェンは、すでに私と婚姻契約を結んでいる」
大広間の空気が、完全に凍った。
王太子の顔から血の気が引く。
エミリアも目を見開いた。
私は、カイル卿の背中を見つめた。
婚姻契約。
それは、婚約よりも重い言葉だ。
なのに私は、何も思い出せない。
「……私は」
声がかすれた。
カイル卿が振り返る。
赤い瞳が、私を映す。
「あなたと、婚姻契約を結んでいたのですか?」
彼は一瞬だけ、苦しそうに目を細めた。
「そうだ」
王太子が声を荒げる。
「ふざけるな! リディアは俺の婚約者だ!」
「先ほど破棄するとおっしゃったばかりでは?」
カイル卿の返答は淡々としていた。
王太子は言葉を詰まらせる。
「それは……っ」
「殿下が彼女との婚約を破棄すると宣言した以上、彼女をこの場に留める理由はありません」
「破棄したからといって、お前に連れていく権利があると思うな」
「連れていくのではありません」
カイル卿は少しだけ私を振り返った。
「彼女を、この場の見世物にしないだけです」
その言葉に、大広間の空気がわずかに揺れた。
婚約破棄。
聖女への嫌がらせ。
記憶喪失。
そして、騎士団長との婚姻契約。
情報が多すぎて、誰も次の言葉を見つけられずにいる。
私自身もそうだった。
私は本当に悪女なのだろうか。
それとも、誰かに利用されるための駒なのだろうか。
「リディア」
カイル卿が私に手を差し出した。
「ここにいる必要はない。私が出口まで送る」
その手は大きかった。
剣を握る人の手だ。
怖いはずなのに、不思議と嫌ではない。
けれど私は、その手をすぐには取れなかった。
王太子が言う。
「リディア。お前が本当に記憶を失ったと言うなら、俺のそばで証明しろ」
エミリアが震える声で続ける。
「私も……リディア様ときちんとお話ししたいです。誤解があるなら、解きたいんです」
その言葉に、周囲から小さな同情の声が漏れた。
カイル卿の目が冷たくなる。
「聖女殿。誤解を解く場にしては、ずいぶん人が多いようだ」
エミリアの肩が跳ねた。
「そんなつもりでは……」
「ならば今夜は終わりです」
カイル卿がそう言い切ると、王太子が一歩前に出た。
「勝手に決めるな」
「勝手に彼女を断罪しようとしたのは、殿下です」
二人の間に、見えない刃のようなものが走る。
私はその間で、息苦しくなった。
誰も私に聞いていない。
王太子も。
聖女も。
カイル卿でさえ。
みんな、自分の正しさで私の行き先を決めようとしている。
私は、ゆっくり息を吸った。
震える指先を、もう一度握りしめる。
「申し訳ありません」
声を出すと、全員の視線が私に向いた。
私はカイル卿の手を見た。
それから、王太子を見た。
最後に、エミリアを見る。
「私は誰のものでもありません」
大広間が静まり返った。
「記憶が戻るまで、私の行き先は私が決めます」
王太子が目を見開く。
カイル卿の赤い瞳が、わずかに揺れた。
エミリアは、泣きそうな顔のまま私を見ている。
その唇が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったようにも、泣きそうになったようにも見えた。
その瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
白い階段。
破れた招待状。
血のついた手袋。
誰かの声。
――思い出しては駄目。
私はふらついた。
床が傾いたように見える。
次の瞬間、カイル卿の腕が私の肩を支えていた。
近い。
彼の軍服から、濡れた外套と革手袋の匂いがした。
「リディア」
低い声が耳元で響く。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
私は彼の袖口を見た。
黒い布の内側に、赤い糸で小さな刺繍がある。
“L”
リディアのL。
なぜか、それを見た瞬間、泣きそうになった。
「大丈夫だ」
カイル卿は、私にだけ聞こえる声で言った。
「今度は、誰にも差し出させない」
今度は。
誰にも。
差し出させない。
その言葉に、王太子の表情が変わった。
エミリアが、王太子の袖を握る手に力を込めた。
私はカイル卿の腕の中で、かすれた声を出した。
「……私は以前にも、誰かに差し出されたことがあるのですか?」
誰も答えなかった。
それが、答えだった。




