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 大きな暗闇から急に浮上したように宙ぶらりんな気分になり、「もしかして」と思った。そして次の瞬間には「やっぱりな」となる。意識が覚醒してきた。

 昨日(さくじつ)から続く蒸し暑さのせいで熟睡できなかったようだ。枕元の携帯電話を手探りで掴み、ディスプレイの明るさに目をしかめた。薄目のままのろのろとベッドから這い出ていると階下から父の声が飛んできた。

 前言撤回。目が覚めたのは暑さのせいだけではないのかもしれない。

 ぼんやりとした頭には何を言っているのか理解できない。ただ、名前を呼ばれていることだけは分かった。何度も何度も。 近所付き合いはなかなか上手くやってる家庭だと思うが、隣の立山(たてやま)のおばさんは音に敏感だ。早朝や夜九時以降の物音、騒ぎ声には口うるさい。一度怒らせると面倒なのだがそれを分かっていて父は大声を張り上げているのだろうか。

 なんとかベッドに腰掛けたものの、良質な睡眠ではなかったせいか睡魔に襲われる。あと少し、というよくある欲求に逆らわず再び横になるが、階段をうるさく駆け上がってくる音に意を決して目を大きく見開く。室内は薄明かりに照らされていた。いくら真夏とはいえ、こんな早朝では日の光が部屋の中まで届かないのだ。


「翔! 翔! 起きろって」


 ドアが乱暴に叩かれ、洋一のがなり声が頭にガンガンと響いてくる。

 残る眠気がほんのりと心地よかったのに台無しだ。ムッとする気持ちを抑えながら起き上り首を回す。ポキっと体にはよくなさそうな音が鳴る。俺はそうやって音を鳴らすのがこの上なく好きだ。癖と言っていいだろう。今度は逆方向に回しながら、待ち合わせまで五時間以上あることを考える。無視を決め込み、目を閉じる。


「朝からうるさいんだよ、家から出てけ、勝手に上がり込むな」


 ベッドの下に置いたはずの丸めた靴下を携帯電話と同様に手探りで引っ掴み、ドアに向かって投げた。ドアに命中。しかし当たった音はなんとも迫力に欠けていた。


「おいおい、入れてやれよ」


 ドアの向こうから父の呆れたような苦笑が返ってきた。


「おっちゃん。翔入れてくんねえよ。俺だっていうのにさ。それになんで寝てんだよ」

「いや、まだ四時半だからな、ははは……」


 あまりに失礼なこの態度も洋一だから許されてしまうのだろう。しかしここまで馴れ馴れしくなった一番の要因は父が普段から誰に対しても温厚なことにある。何をしても怒らないのを洋一は見てきた。限界点も自分で解析して、うまく懐に入り込んでいるのだ。こうなればよっぽどのことがなければ父は洋一を無下にできない。

 父や母がそうでも、俺は違う。いくら幼少期から我が子同然で俺の両親に可愛がられてきたとはいってもここは篠沢(しのざわ)家で、大郷(おおさと)家とプライベートは別々だ。高校入学から洋一の態度が少し横柄になり過ぎているような気がしてならない。


「おっちゃん! 頼むから翔起こして。この鍵さえ開けさせればこっちのモンだし」

「わかったわかった」

「できるだけ怒らせないように」


 ね、と上目遣いで言われれば断れなくて当然だろう。どうせまた自分の可愛いところを引き立たせて父をうまく使うのだ。

 すぐに小さくノック音が三回。そろりとベッドから降り、忍び足でドアに近付く。


「翔、こんな朝早くに洋一が来てんだぞ。なんか急用じゃないか? 鍵だけでも開けて――」

「はい。分かったから」


 半ば投げやりに鍵を開けてドア越しに「洋一の相手ありがとう」と言うと、父は階段を下りていく音を返事にした。ふてくされている顔が容易く浮かぶ。

 小さくため息をつきながらベッドに戻って腰掛ける。丁度そのときドアが開いた。


「お、おはよう。オレ全然寝れなくて、ひとりで居ると怖いんだよな」


 汗で湿ったシャツが体にまとわりついて気持ちが悪い。扇風機の電源を入れて、無意識に暑いと呟いていた。シャツを脱ぎ、クローゼットへ向かう。クローゼットの中から一番手前にあったシャツを取り出した。


「いや、あの、あれだ……おやすみの時間に申し訳ない!」


 ふざけた謝罪に眉を寄せる。

 着替える前に汗を拭いたほうがよさそうだ。シャツを戻してタオルを探す。引き出しの中に仕舞ったのを思い出し体を屈めた。


「あれ? 今何時か分かってたんだ。時計読めないのかと思ってた」引き出しの真ん中の段を開ける。

「えへへ」


 気味の悪い笑い方に、こちらは乾いた笑いすら出ない。

 少し首をひねって後ろを見れば勝手にベッドに座った洋一が目に入る。手を合わせて「ごめん」と言う

洋一を無視してタオルを手に取る。


「洋一のことだからどうせ寝られないんじゃないかとは思ってたけど、いくらなんでも早いって」


 タオルで体の汗を拭ってから、先ほど戻した薄手のシャツを着た。背後で「マジごめん」と手を合わせている音がした。

 こんなに早起きしたのはいつ振りだろうと考え、中学の修学旅行以来だと思い出した。そのときは興奮して眠れなかった洋一に朝一番起こされたのだ。さすがに今日ほど早朝ではなかった。過去を思い出すと今も昔も洋一はそんなに変わっていないんじゃないかと感じる。


「なんか懐かしい」聞こえないだろう音量で呟いた。

「は? なんて?」

「俺、下で顔洗ってくるから。ちょっと寝とけよ。俺のベッドで」

「おお、サンキュ」


 小さな嫌味は洋一に効かないのだ。

 ドアを閉める直前、それとなくベッドの上に目をやると、まるで自分の家であるかのように大の字に寝転がって寝息をたて始めている洋一を見てしまった。暑いのか腹を出している。夏風邪にかかると毎回のように重症になるのに懲りない奴だ。




×××




「それじゃ行ってきます」

「早いな、ご飯いらないのか? て言っても食パンしかないけどなあ。マーガリンも何もないから素だ。素」


 リビングに入ると、ソファに座った父がテレビから視線を外すことなくそう言った。何杯目か分からないコーヒーを飲んでいるようだ。「飲みすぎるなよ」と言いかけて飲み込む。

 父は休日になると浴びるほどコーヒーを飲む。が、数か月に一度はコーヒーが原因で胃を傷めている。それでも毎週末のインスタントコーヒーは少しも減らさない。「どれだけコーヒーが好きか」と熱弁を聞かされたこともあったが、そのわりには高いコーヒー豆に手を出すこともなく、本格的な物は一切飲まない。断固としてインスタント派なのだ。粉末のコーヒーを二グラム、お気に入りのコーヒーカップに入れてお湯を注ぐ。それをがぶ飲み。一日に一杯だけ、コーヒー用に買った蜂蜜を少し垂らして飲む。

 そんな父の楽しみを奪うことができるだろうか?


「ファミレスで食べるよ」

「そうか」

「ワリカンだからご心配なく!」


 ひとりで大声をあげて笑う洋一に、振り向いた父もどことなく嬉しそうにしている。早朝の自由時間を潰されたことなど何の問題もないらしい。


「適当な物頼むなよ。朝ごはんはなあ――」

「おっちゃん安心して。朝ごはんは無理矢理でも食べさせるからさ。一日の大事な栄養は欠かすな、だろ?」

「おお? 分かってるじゃないか」


 そう言って父はカップの中身を飲み干すとソファを立った。そのままキッチンへ入っていく背中を見ながら洋一の腕を叩いて促すと足早に玄関へ向かった。


 靴に右足を押し込んだとき、父のこもった声が聞こえた。それは今夜も遅くなるなら電話しろ、という旨のことを言っていたが適当に返事をして家を出た。これからしなければならないことを考えると気が進まない。しかしあの小学生と待ち合わせの約束をしてしまったのだから、いまさら行きたくないとは言えない。

 隣で自転車を押して歩く洋一の顔も見るからに気乗りしていない。




×××




 夏休みも半ば、真夏、朝の十時になれば既に太陽も天高く昇っていて、少し歩いただけで汗が流れ出る。


 家を出た俺たちはファミレスに入り、モーニングセットを頼んだ。それから待ち合わせまで涼しい店内で無駄話をして時間をつぶした。こんなときに話が弾むわけもなく、無言でいるほうが多かった。


 待ち合わせ場所であるめい子の通う小学校前に来たときはちょうど午前十時だった。校門前で直立不動の女の子が立っているのを見るや洋一は悲鳴こそあげなかったものの自転車のハンドルを握る手を震わせていた。

 俺たちに気付いためい子は一瞬で笑顔になり、手を振りながらこちらに走り寄ってくる。

 その後ろから不審に思って鋭い視線を向ける人物がいた。つい同じように目を細めてしまう。何か言いたそうにこちらを窺っているその女性は俺と目が合うと軽く頭を下げた。表情は固い。


「おはようございます! 翔さん、洋一さん」

「お、おはよう……」

「おはよう。ちょっと訊きたいんだけど、あの人は誰かな」校門前で手を後ろに組んで立っている女性を指差す。


 めい子は振り向き、一言「せんせぇー」と呼んだ。女性は待っていましたと言わんばかりの前傾姿勢で

近付いてきた。


「はじめまして。わたし、めい子ちゃんの担任をしてるんです。お二人は……高校生ですか?」


 彼女は俺と洋一を交互に見、俺たちと美少女小学生との関係が分からないからか明らかに怪しんでいる。洋一はそんな目を向けられたのがしゃくに触ったらしく唇を尖らせ、そしてそれが彼女の不信感に輪をかけた。


「あのー失礼ですが、めい子ちゃんとはどういう関係で? いや、あのね、ご両親のお話だと年の離れたお姉さんはいても男の兄弟はいないはずなんで、気になったんです」


 そう思う気持ちは非常に理解できる。

 しかも夏休みである。浮かれた小中学生を狙って奇行に走る変質者も出てくるだろう。現に8月に入ってから都内では児童誘拐未遂の事件が多発しているのだ。その犯人がいずれも捕まっていないことも相まって小学校の教師が神経質になるのは仕方がない。逆にこの状況を見て、何も心配しないことのほうが問題だ。


「翔さんはねー、みい子お姉ちゃんのお友達で、洋一さんは翔さんと仲良しなの」


 怪しい者ではないことをどうやって証明しようかと悩んでいると、めい子がそれぞれ指で示しながら説明してくれた。その嘘に適当な相槌をうって担任を安心させるように笑顔を浮かべる。


「たしか……みい子ちゃんは二番目のお姉さんよね。海外の高校に通ってるんでしょ?」

「イギリスにいるよ、とってもかしこいの」


 海外にいる姉の友達、そのうえ男、素直に納得できないのだろう。笑顔ではあるが目は笑っていないとはまさにこのことだ。


「みい子とは小学生のころからよく遊んでました。それが突然イギリスに行ってしまってほとんど関わりがなくなって、でもこの前めい子ちゃんとばったり会ったんです。その日は夕方まで遊んで、それでもめい子ちゃん遊び足りなかったみたいで、僕たちも夏休みで暇だし朝から遊ぼうかってなって。だから今日はここで待ち合わせを」

「遊ぶって、小学生と?」


 怪訝そうな担任の顔に心拍数が上がる。心なしか体が熱を帯びている。何も悪いことなどしていないのに嘘をついているという事実が俺の心を焦らせる。しかしその緊張感漂う空気を破ったのは隣にいたホラ吹きの天才だった。


「小学生って言ってもめい子ちゃんしっかりしてるし、そこらのガキとは遊びの種類が違いますよ」

「ガキ?」

「でもやっぱり小学生は小学生です。元気よすぎてあっちこっち振り回されるんですけど。まあ暇な夏休みくらい子守りもいいかなあ、なんて」


 さすが洋一、演技しているとは思えない自然な口ぶりだった。人当たりのいい洋一の笑顔にほだされてきた人間は数知れず。たった今この担任もその中にカウントされた。


「そうなの。ごめんなさいね、なんだか」

「みきこ先生、わかってくれたの?」

「うん、そうだね」


 しかしそう簡単にこの場を立ち去ることは許されなかった。めい子に向けていた優しい顔を上げて俺たち――いや、俺を見る目は変わらず冷たいままだった。


「申し訳ないんだけど、やっぱり最近は物騒だからその話を信じるわけにはいかないんです」


 その言葉を聞いためい子が不安そうにこちらを見る。

 俺はポケットの中に手を入れて携帯電話を握る。すかさずそれに注目する担任。素早く取り出すと、担任がびくりと体を震わせた。ナイフか何か出すとでも思ったのだろうか。


「そんなに心配なら僕の携帯の番号教えておきますよ。怪しい者じゃありませんから、その証明に」

「はあ」


 曖昧にうなずいた担任に携帯の背を向ける。


「送ります。赤外線、できますか?」

「あ、はい、赤外線……」あたふたとポケットをまさぐって取り出した携帯の操作をする。「あっ、やだ! 送信にしちゃった、あ、どうしよ」

「大丈夫ですよ。僕が受信にしましょうか」笑いをこらえて設定を変える。

「ごめんなさい。お願いします――」


 ピコンと音が鳴り、画面に『データの受信が完了しました』と出た。

 ご丁寧に生年月日から住所まで個人情報が送られてきている。それを電話帳に保存し、彼女の携帯番号にかけた。彼女の手に握られた携帯電話が振動する。間をおくことなくボタンを押し、耳にあてた。


「もしもし!」

「これで大丈夫ですね。その番号ちゃんと登録してください」


 すぐに通話を切り、携帯をポケットに仕舞う。


「あの、お名前は、カケルさんでしたっけ?」携帯を握りしめている。

篠沢(しのざわ)翔です。飛翔の翔でカケル。こっちは大郷(おおさと)洋一」

「ひしょう……ああ飛ぶ、ですね。分かりました。引きとめてしまってごめんなさい」


 深々と頭を下げられ苦笑いを返す。


「まだ疑ってますよね?」

「そういうわけでは……」

「心配しないでください。何かあったら先生に連絡しますから」

「ええ、分かりました」

「それじゃあ、失礼します。――あ」


 背を向けようとしたところで、ふと思いついて立ち止まる。


「何か?」

「いや、夏休みも学校に来て大変そうだなと思って」

「いつ子供たちが来ても大丈夫なようにね。他の先生方は職員室にいることが多いんだけど、わたしはここに立って子供たちに危険がないように見てるのよ。じっとしてるより自分に合ってるから」

「そうですか。熱中症には気をつけてくださいね神木(かみき)先生」


 神木先生が眉をしかめる。なぜ名前を知っているのか、という顔だ。視界にギリギリ入っている洋一まで同じ顔をしている。


「携帯のプロフィールに名前入れてますよね」


 そう言うと「ああ」とうなずいて、数秒して照れくさそうに笑った。ついさっきまであった警戒心が薄れているのが分かった。



×××

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