2
「ちょ、ちょっと……翔、何してんだよ」
素性のわからない少女の手を握るなんてことは、この廃墟に来てから終始ビクついていた洋一には恐ろしいことだった。まだめい子を幽霊か何かだと思っているようだ。
翔は洋一の声が聞こえていないのか、手を握ったままジッとめい子の目を見つめている。
「あの……」
「めい子ちゃん。さっきの話さ、冗談とか作り話なんだろって俺バカにしてるよ。でも本当に嘘じゃないんだとしたら」
「翔!」
力任せに翔の肩を掴む。
振り返り洋一の手を払った翔の顔は、――小学生のころからこの表情だけは変わらない。瞳は真剣そのものだった。こうなれば翔の決意は誰にも曲げられない。翔はそういう男だ。
「洋一。ちょっと静かにしてて」
洋一はわかったよ、と投げやりに呟いて腕を組んだかと思えばふたりに背を向けた。
翔はその姿を見て顔を綻ばせるが、めい子に向き直ったその口元は固く閉じられていた。
「話を整理したい。いい?」
「はい」
「まず、めい子ちゃんがしたいのは、死んだ人の供養。そうだね」
「そうです。ぼろぼろの血だらけでとても怖い顔をした男の人」
「うん。それから一番大事なことだけど、めい子ちゃんには霊感がある」
「……はい。お二人にはありませんよね?」
めい子は洋一が肩を震わせるのをちらりと見た。すぐに視線を戻したが、自分が洋一を怖がらせていると思うとすごく悲しかった。
「俺たちは何も感じない」
な? と後ろに居る洋一に問うと素っ気なく返事が返ってきた。
「それで、その男の人に助けてって言われたの?」
首を振るめい子。少し考えるそぶりを見せ、もう一度首を横に振った。
「……何かされて怖くなったから供養しようと思った?」
「そうじゃないの」
めい子の話ではこうだ。
その男に会うようになったのは、もう半年も前のことだった。いつから居たのか、気付いたときには今日もまた居る、と思うようになり、それが始まりと言っていいだろう。毎日通る通学路の中ほどにある三叉路の中央で不定期に姿を見せる男に、いくら人外のモノに慣れているとはいえ、血だらけの男に無言で追い回されては嫌な気分しかしなかった。
しかし追い回すと言ってもストーカーのように後ろをついてくるだけで、そのうえ次の曲がり角が来るとそこから一歩も進もうとせず、――数か月してから進めないのだと気付いたが――とにかく変なのだ。
それから少し経つと、曲がり角で見つめてくるだけだった男がある方向を指差すようになった。
不気味に思いながらもその男のことが気になっていた。
毎日注意深く観察しても男が一体何を訴えているのかめい子には分からなかった。
ある日ふと男の怖い顔が、悲しそうな顔に見えた。自分で勝手に怖いと思い込んでいただけで、悲しみの表情なのではないかと思ったのだ。
その日からどうにかして男と会話をしようと試みた。
とは言うものの男が三ヶ月も無言だったのにはそれなりの理由があったのだ。曲がり角と同じで、喋らないのではなくて喋れないのである。
悩んだ挙句、めい子は自分より年上で頭のいい霊感のある人を捜し、その人の力を借りて男の人を助けようと考えだすのだが、それはことごとく失敗、それでも数を打てば当たるもので、一気に解決に近付いたのだ。
めい子が声をかけて、ついて来てくれた三人目の男子中学生。
残念ながら霊感はめい子より低いものだったが、幽霊の指差す方向に行ってみたらどうかという提案があった。そう言うと男子中学生は男の見た目に耐えられなかったのかそれ以上何も言わず走り去ってしまった。
めい子は指差す方向に歩いた。
なるほどそういうことか。
あるところまで歩くと背後に気配を感じた。振り向くと毎日見慣れた男がそこに立っていた。
そこでようやく口を開いた男から頼まれたのだ。
「刀をこのわたしに返してほしい」と。
「――そう。刀を」
「その人はとっても昔の人なのね。だって今の日本人は自分の刀なんて持ってないでしょう?」
「そうだな」
侍が存在してそこら辺を刀を持ってうろうろしていたのは一体いつの時代だ。そんな数百年も昔の厄介な幽霊に関わるなんて、そう言いたかった。
「血まみれ、なんだったな? ほかは?」
「そうですね……ぼろぼろの変な格好で、テレビで見たことのあるちょんまげをしていましたよ。それから――大きな銃を持っていました」
大きな銃。
「どんな?」
「どんな、ええっと。鉄五郎さんに一度聞いたことがあります。そのとき確か、紐に火をつけて撃つんだと言っていました。なんて名前だったのかしら。古い銃だから嫌いだってむくれていました」
「それは火縄銃だな。時代は――江戸末期か」
火縄銃が使われていて、それを古いという。それならば最新の銃がそれ以外にあるということだろう。
「江戸!?」
素っ頓狂な声を上げたのは洋一だ。
「そんな侍が刀を返せってことは、下手に関わったら恨まれたり……オレそんなの嫌だぞ」
「洋一……あとちょっとだから黙っててもらえるかな」
おかしな話をする美少女と男前な見た目に反してビビりの美男子に挟まれて頭が痛かった。
「めい子ちゃん、鉄五郎さんって誰?」
「その幽霊さんです」
幽霊という単語に洋一の顔がこわばる。落ち着きなく髪を撫でつけ、めい子から数歩離れた位置に移動した。どうにも不気味さがぬぐえないのだ。
「鉄五郎さんね……で、その鉄五郎さんの刀がここにあるんだ」
「そういうことです」
うん、とひとり納得した様子の翔は立ち上がり、膝の砂を払った。暗闇に目を向ける。
「あの崩れかけた家の中に刀が?」
後ろに首をひねってめい子を見る。疑いのまなざしだった。
「はい。あの中にあります。確認しました。わたしの勘違いでなければあの刀が鉄五郎さんの物です」
「――分かった。その刀の場所に連れてってくれる?」
「おいおいおいおい……翔マジかよ」
めい子と手をつないだ翔は、後ろで閉口している洋一に見向きもせず、不気味に佇む廃墟へと近づいていく。めい子の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。二つの背中は洋一からどんどん遠ざかり、闇の中にふたりが紛れる一歩手前ではじかれたように地を蹴った。
ほんの数秒で翔の背中にぶつかった。
「……いい加減にしろよ」
「ご、ごめん」
「あのう……申し訳ございませんが、ランドセルの中に懐中電灯を入れておいたはずなんです。探してもらえますか?」
申し訳なさそうなめい子の頭を撫でて翔はランドセルを開けた。
暗すぎて何がなんだかわからない。何も見えないのだ。いくら住宅地から外れたところとはいえあまりに暗い。目の届くところには一本だけ街灯がある。さっきまではその光が届いていた。
仕方なくポケットから携帯電話を取り出し、そのディスプレイの明かりでランドセルの中を照らす。
きっちりと整頓された中身である。翔自身もランドセルの中を綺麗にしていた子どもだったからか妙な親近感がわく。洋一なんかは見なかったことにしたいくらいの散らかりようだった。
「このふでばこの横の……小さいやつかな」
「あ。それです! それです!」
はい、とめい子に手渡す。
「これ、小さいのにとてもお利口さんなんですよ」
少し声を弾ませためい子はカチリと手元の懐中電灯を鳴らした。同時に光が伸びる。
めい子の手に収まるほどしかない小さな物でここまで明るいとは驚きである。
洋一が感嘆の声をあげる。
「これは母がフランスにいる知り合いからサンプルとしていただいた物らしくて。きっとまだ売られていない物なんですね」
「はあー……非売品ってことか。これ発売されれば超売れるよ」
口をあんぐりさせた洋一はいつの間にかめい子の左横に立っていた。その反対側には翔が居る。
「これで誰かにぶつかられることもないな。行こうか」
めい子の手を握り直し、めい子は左手に持った明るすぎる懐中電灯で目の前を照らした。
廃墟は、さっきまでよりも不気味に思えた。
そこが玄関だとかろうじて分かる程度で、柱や何かがぼろぼろに腐っているのが一目瞭然だ。木造建築で小さな一軒家。壁を雑草が走っている。
「この家の中の、ちょうど中心だと思うんですけど……その崩れた床の下に置かれていました」
「この中に入るのか――ってめい子は入ったのか?」
「はい」
「ひとりで?」
「そうです」
思わずため息が出る。呆れるほどに行動力のある小学生だった。これまでのめい子を見る限り好奇心で動いているわけではないのだから、なかなかのものである。
気合を入れ、翔が戸に手をかけたとき横から声が飛んできた。
「ちょっと待った!」
「なんだよ。今更やっぱり嫌だとか言うんじゃないだろうな」
「違うって。オレ腹くくったつもりだぜ。でも、でもさ」
次は別の意味で怖くなったのか洋一が堪らず言った。
「こんな暗い中、崩れそうな得体の知れない家に入るのだけはやめようよ……ほんとう勘弁して……」
沈黙。
気付くとうるさかったセミの声もしない。
「うん。そうかもな」
「……ということは?」
声をひそめためい子が懐中電灯を翔の方へ向ける。目に向けられたわけではないが光が強すぎて反射的に目をつむる。めい子がはっとしたように懐中電灯を地面に向けた。
「洋一の言うとおり今日はやめて、明日の朝もう一度来よう。もしかして学校あるかな?」
「いいえ、今日はたまたま登校日で。明日ですね。わたし自分勝手に……」
ごめんなさい。と頭を下げられて翔は目を細めた。
「さあ帰ろう。送ってくよ」
「はい」
洋一が暗がりの中で密かにガッツポーズをした。
数分後、廃墟から離れ、三人は街灯の並ぶ住宅地に戻ってきた。めい子は言葉には出さなかったものの、しょげた様子で後からとぼとぼついてくる。
夕方めい子に頭を下げられた場所に戻り、そこでめい子と少々の押し問答をした末、最終的に小学校まで送るということでまとまった。
そこからはいつもの通学路だから心配しないでくれというめい子の強い主張だった。
いくらなんでも日が落ちた夕飯時に小学生を一人で帰すのは翔も洋一も心配だったが、頑として意見を曲げなかったため二人が折れたのだ。
校門前で、三人は『明日の朝十時にこの場所に集合』と決め、二人はめい子を見送り、そのあと仲良く徒歩で家路についた。
二人がやっと腰を落ち着かせたときには午後九時を回っていた。