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 石造りの窓枠を叩く柔らかな陽光が、男の重い目蓋をゆっくりと押し上げた。

 六十という歳月を重ねた体には、朝の光も少々眩しすぎる。


 男は使い込まれた革のように節くれ立った手で目を擦り、ゆっくりと上体を起こした。

 寝室には、階下で焼かれるパンの香ばしい匂いと、暖炉で薪がはぜる乾いた音が満ちている。


 隣では、長年連れ添った妻が、穏やかな寝息を立てていた。

 その白髪が混じった髪に一瞬目を細め、男は寝床を抜け出して白い聖職衣に袖を通す。


 男は窓を開け、塔の上から眼下に広がる街を見下ろした。

 庭先では、名もなき小鳥たちが露に濡れた枝で喉を震わせ、遠くの牧場からは家畜ののどかな鳴き声が響いてくる。


「おじいちゃん、起きてる?」


 五歳になる孫が、パジャマ姿で寝室に飛び込んできた。

 男は枯れ木のような腕を広げ、まだ小さなその温かい体を、愛おしそうに抱き上げる。

 孫はキャッキャと声を上げ、男の白く整えられた顎髭を、面白がって小さな指でなぞった。


 朝食のテーブルには、信徒たちが捧げた新鮮なミルクと、黄金色の蜂蜜、そして今朝焼き上がったばかりの白いパンが並んだ。


 男は深く感謝の祈りを捧げてから、家族と共に食卓を囲む。

 孫がミルクをこぼして嫁に窘められ、男がそれを優しくなだめる。

 老境に入り、人生の果実を味わうようなこの安らぎこそが、彼にとっては世界のすべてだった。


 朝食を終えると、男は杖を突きながら広場へと向かう。

 そこには、朝の礼拝を終えて大声で笑い合い、今日一日の活力を分かち合う人々がいた。


 昼下がり、男は市場の喧騒を歩き、妻への土産に小さな琥珀の髪飾りを買い求めた。

 それを聖職衣の隠しポケットに入れ、指先で感触を確かめるたびに、老いた胸の奥に密かな満足感が灯った。


 夕食の時間になれば、家々から煙突の煙が立ち昇り、人々は家族の待つ温かい家へと帰る。

 夕食の席では、孫が将来は自分のような立派な神官になりたいと胸を張った。


 男は目尻を下げてそれを聞きながら、心の底から満たされていた。家族の笑い声、温かいスープ、そして静かに更けていく夜。


 そして、明日もまた今日と同じ日が来ると信じて、深く、心地よい眠りについた。




 深夜、男はふとした拍子に目を覚ました。


 隣では妻が規則正しい寝息を立て、寝室の空気はいつも通り、春の夜特有の湿り気を帯びている。

 遠くで飼い犬が一度だけ短く吠え、また元の静寂に戻った。


 コン、コン。


 窓を叩く音がした。

 風で庭の枝が当たったのかと思い、男は老いた体を揺すって窓際へ向かう。

 大理石の床が、歩くたびに冷たく足裏を刺激した。


 閂を外して窓を開けると、そこに一羽の大きな鴉が止まっていた。

 じっと男を見つめている。


 その細い脚には、羊皮紙の筒が結わえられていた。

 男が手を伸ばすと、鴉は大人しく筒を渡し、羽音を立てて夜の闇へと飛び去った。


 筒は冷たかった。

 男は灯りをつけず、窓から差し込む月明かりを頼りにその封を解いた。



―――



  拝啓、皆様におかれましては、相変わらずの平穏な日々をお過ごしのことと存じます。


  本日は皆様に大切なご報告がございます。


 私はこの度、悪魔と新たな契約を交わしました。

 これをもって私はあなた方との契約を破棄し、二百年に及ぶ守護の任を解く決断をいたしました。


 その取引の対価として、私はすでに大樹の結界を繋ぎ止めていたすべての封印を解除しております。

 現在、かの結界は内側から崩壊を始めており、来る新月の夜、完全に消失する事となるでしょう。


 同時に、悪魔の軍勢がそちらへ向けて進軍を開始いたします。


 事後の報告となりましたこと、深くお詫び申し上げます。

 この手紙を送るべきか思案したのですが、やはり知っておいていただいた方が良いと思い、筆を執りました。


 私はこれから、私の同族を探すため、外の世界へと旅に出ます。

 皆様の行く末に、幸多からんことをお祈り申し上げます。



―――



「如何いたしましょう」


 一人の若き神官が、震える声で沈黙を破った。


 大聖堂の本堂。

 祭壇を照らす蝋燭の炎が不規則に揺れ、神像の無機質な影を床に長く引きずっている。


 一人の神官が、震える手で羊皮紙を掲げ、そこに記された裏切りの宣告をすべて読み上げた直後のことだった。


 精霊が人間を見放して、あろうことか魔の者と通じたこと。

 すでに結界の封印を解き終えたこと。

 そして新月の夜、この場所が異形の軍勢に蹂躙されること。


 男――大神官は無言で、その手紙を受け取った。


「あの精霊、我らを売ったのだ! 二百年の誓約を一方的に破り、大樹を枯らすなど……何たる不遜か!」


 一人が吐き捨てるように叫ぶと、堂内に醜い怒号が渦巻いた。


「贖罪のために北へ向かった以上、あの方は我らのためにその力を振るい続ける義務があったはずだ! それを途中で投げ出すなど、精霊にあるまじき裏切りではないか!」

「その通りだ! 日々欠かさず祈りを捧げ、精霊の望むままに供物も揃えてやったではないか! なぜ、なぜ我らがこのような目に遭わねばならんのだ!」


 詰め寄るような焦燥感の中、典礼を司る神官が、震える指で防衛図をなぞった。


「もはや猶予はない。地下へ逃れ、古の紋章に縋るしか……」

「正気か! 加護を失った閉鎖空間など、数日で腐れと狂気が満ちる。外は魔、内は地獄。我らに逃げ場などないのだ!」


 議論を重ねるほどに、彼らが享受してきた平穏の正体が暴かれていく。

 平和な世を謳いながら、その実は、一人の精霊に北の果てを任せ切りにして成り立たせただけの作り物。


 大神官は、震える手で祭壇の縁を強く掴んだ。その顔は蒼白く、脂汗が皴に深く刻まれている。


「……各々方、言葉を慎め。これ以上、虚しい嘆きは無用だ」


 発せられた大神官の声には、もはやかつての威厳や力強さは微塵もなかった。

 ただ、死を待つ者のように掠れ、震えている。


「あの方を都合のよい防壁と見なし、その献身を当然の如く使い続けてきたのは、他ならぬ我らだ。己が手を汚すことを厭い、あの方の慈悲にすべてを委ねて安寧を貪り続けてきた……その報いが、今、目の前に迫っているのだ」


 彼は、絶望に身を震わせる同僚たちを、濁った瞳で見据えた。


「もはや、あの方に縋る資格など、我らにはひとかけらも残されてはおらん。あれほど頼り切っていた存在に見限られた以上、地を這ってでも生き延びる道を探すしかない。この街を繋ぎ止めるため、我ら全員で罪を背負うのだ」


 大神官は、消え入りそうな声で言葉を継いだ。


「たとえそれが、天への裏切りを承知で、我らもまた魔の者と契りを交わすという道であろうともな……」


 彼が手にした羊皮紙を祭壇の炎にかざすと、淡い光が消え、どす黒い煙だけが堂内に淀んだ。

 誰一人言葉を発する者はなく、鼻を突く焦げた臭いだけがいつまでもそこに留まっていた。



―――



 北の果て。

 一人の女が、雪の上に立っていた。


 彼女が意識を逸らすと、その身を包んでいた白銀の鎧は、霧が晴れるように音もなく消え去った。

 それは彼女の魔力が作り上げていた幻影であり、役割を終えた魔法が元の理へと還っていったに過ぎない。

 足元には、折れ曲がった剣だけが、捨てられた鉄屑のように雪原へ突き刺さっていた。


 彼女は一度も、南の空を振り返らなかった。

 自分が守ってきた街も、そこに住まう人々の営みも、今の彼女とったは小さなことだった。

 執着もなければ、恨みもない。

 ただ、新たな契約によって自由になった。

 それだけのことだった。


 女は、煤けた灰色の旅装束のフードを深く被った。

 聖騎士という肩書きも、ここに置いていく。

 彼女はただ、一人の旅人として、自分の足で凍てついた大地を踏みしめた。

 誰の期待を背負うこともなく、ただ自らの同族を探すため、彼女はその境界線の向こう側へと踏み出していった。


 その背中は、すぐに夜の闇と雪原の白さに溶け込み、二度と誰の目にも触れることはなかった。

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