四
胸の痛みで目が覚めた。
視界が明滅する。
雪に顔を埋めたまま、私は荒い呼吸を繰り返す。
胸元の聖紋が、鎧の隙間で光り、脈打っている。
指先をわずかに動かすだけで、焼けた鉄を通されたような不快な衝撃に貫かれた。
あの男の顔が浮かぶ。
慈悲深げに目を細め、この聖紋を刻んだ大神官。
真実は私たち精霊を大樹の根元にその身を固定するための杭。
彼は、それを私に打ち込んだのだ。
人々を背負い、剣を振り続けた年月。
それはただ、精霊を成熟させ、より上質な魔力を吸い取れるようになるための準備期間に過ぎなかった。
洞穴で、根に四肢を貫かれ、無惨に晒されていた同族。
彼女もかつては、誰かに感謝され、希望を抱いてここへ来たのだろうか。
腹の底から、粘りつくような熱いものがせり上がってくる。
「…………ふざけるな」
私は氷を掴み、無理やり体を起こした。
聖紋が咎めるように熱を増し、胸を内側からじりじりと焼き焦がす。
その痛みを力ずくでねじ伏せ、私は立ち上がった。
朽ちかけた大樹の、巨大な裂け目。
外の世界へと、私はふらつく足取りで一歩を踏み出した。
そして踏み越える。
境界を越えた瞬間、耳をつんざくような咆哮が氷原を震わせた。
形を成さない影、腐肉を継ぎ接ぎしたような獣、無数の眼球が蠢く異形。
彼らが一斉にこちらを向く。
「こい……」
剣を抜き放った。
正面から飛びかかってくる多脚の悪魔。
以前の私なら隙を伺って最小限の動きで仕留めた。
だが今は違う。
私は魔力を無理やり剣に叩きつけ、力任せに横一閃に薙ぎ払った。
悪魔の胴が弾け飛び、生温かい液体が私の頬を濡らす。
返す刀で、上空から急降下してきた巨鳥の首を掴み、そのまま氷の地面へと叩きつけた。
バキり、と骨の砕ける感触が手に伝わる。
息つく暇もなく、影のような悪魔が足元から這い上がってくる。
私はそれを足で踏みちぎり、零れ出た核を剣の柄で粉砕した。
三匹、四匹と肉塊に変えていく。
だが、剣筋は確実に精度を失っていた。
斬ったはずの感触が、一瞬遅れて激痛に変わる。
背後から迫った悪魔の鉤爪が、私の肩を抉り、背中を大きく切り裂いた。
視界が火花を散らす。
それでも構わず剣を振り、目の前で口を開けた獣の顎を叩き割る。
だが、闇の奥から次々と這い出してくる数は、私の消耗を嘲笑うかのようだった。
不意に、脇腹に熱い衝撃が走った。
多脚の悪魔の脚が、私の体を深く貫通している。
「が、はっ…………!」
内臓を掻き回される生々しい衝撃。
そのまま振り回され、氷の床へと叩きつけられた。
鎧が砕け、肉が裂ける音が響く。
雪崩のように群がってきた悪魔たちが、私の腕を食いちぎり、喉笛を潰し、溢れ出す魔力を啜り上げた。
肺に冷たい空気が入らなくなる。
視界が真っ赤に染まり、やがて完全な、静かな闇へと沈んでいった。
――カチリ、と。
頭の中で、何かが噛み合うような音がした。
次に目を開けた時、私はまた氷の上に立っていた。
周囲に漂うエネルギーが渦を巻き、私の肉体を強制的に繋ぎ合わせていく。
先ほど食いちぎられたはずの腕も、貫かれた腹も、今は元通りに塞がっている。
私は、自分の手のひらを眺めた。
つい数分前まで私を食い散らかしていた悪魔たちが、死んだはずの獲物が立ち上がったことに戸惑い、咆哮を止めてこちらを凝視している。
「…………あはは」
喉から、乾いた笑いが漏れた。
おかしくて、たまらなかった。
死ぬことすら、自分の意思ではさせてもらえない。
杭を打たれて生贄にされ、外に出ればこうして無理やり引き戻される。
その徹底した不自由さが、あまりにも滑稽で、たまらなく愉快に感じられた。
「あはははは! はは、はははははッ!!」
私は笑いながら、足元に落ちていた剣を拾い上げた。
守るべき民も、果たすべき義務も、信じるべき神官も、もうどこにもいない。
悪魔の群れに向かって走りだす。
―――
足が軽い。
再構成された筋繊維が、外の魔力を直接吸い上げる。
聖騎士としての型も、魔力の効率も、すべて投げ捨てた。
一度肉体が壊れた瞬間に、枷は消え失せていた。
正面から四脚の獣が跳ねる。
私は回避を選ばない。
左腕を盾にして鉤爪を強引に受け流し、生じた隙に右拳をねじ込んだ。
外殻が砕ける嫌な感触が手首に響く。
構わず指を肉の奥へ食い込ませ、その核を力任せに引き抜いた。
絶命した獣が氷の上に転がる。
その音さえ、今の私には心地よい。
誰のための剣でもない。
守るべき民の背後も、大神官の冷徹な顔色もここにはいない。
ただ目の前の動くものを引き裂き、踏み潰し、その残骸を積み上げる。
それだけのことが、これほどまでに満たされるものだとは思わなかった。
これが自由だ。
生まれて初めて、私自身の衝動で選び取った意思そのものだった。
「……ぁ、ぁあッ!!」
背後の気配に向け、足元から魔力を暴発させる。
姿勢を崩した影のような異形へ一気に肉薄した。
手に残った折れた剣の破片。
それを逆手に持ち替え、異形の喉笛へと深く突き立てる。
噴き出す返り血が顔を汚し、視界を赤く染め上げた。
それを拭う暇があるなら、次の一匹の首を撥ねたい。
胸の聖紋は相変わらず内側から私を焼き続け、血管を焼けた鉄が走り抜けるような激痛を放っている。
だが、その痛みが生きている証だった。
狂乱を加速させるための、これ以上ない燃料だった。
「…………ッ、はは」
しかし、その殺戮の渦が、唐突に静まり返った。
周囲に群れていた悪魔たちが、何かに怯えるように一斉に動きを止め、潮が引くように道を空けたのだ。
霧の奥から、周囲の空間そのものを圧し潰すような巨大な魔圧が漂ってくる。
現れたのは、山のような巨躯を持つ漆黒の巨人だった。
六本の屈強な腕に、それぞれ歪な形状の大剣を携えている。
立つだけで氷床に無数の亀裂を走らせるその姿は、これまでに出会ったどの個体とも次元が違っていた。
さらに、地獄の本質が牙を剥く。
私が今まで屠り、氷原に転がしていたはずの死骸が、ぶすぶすと黒い煙を上げながら再び蠢き始めたのだ。
千切れた肢体が不自然な角度で繋ぎ合わさり、潰したはずの頭部がまた持ち上がる。
他の悪魔たちに回復されてしまった。
「…………っ」
巨人が六本の大剣を同時に鎌首をもたげた。
それらが一斉に、私の頭上へと振り下ろされようとする。
周囲の空気がその質量に押し潰され、逃げ場を失って悲鳴を上げた。
私は、砕けた腕に無理やり魔力を流し込み、折れた剣を強く握り直した。
あの大樹に根を張られ、家畜のように命を吸われて終わる。
あの大神官たちの思惑通りに、綺麗な生贄として死んでいく。
それに比べれば、この逃げ場のない泥沼の戦場の方が、よほどマシだ。




