三
出立から約一年後。
私は北果ての大地に到達した。
見渡す限りの地面が凍っている。
氷原だ。
進むと、やがて黒い岩肌の谷が現れた。
植物は一切生えておらず、谷間を縫うように氷河が流れている。
私は慎重に歩みを進めて行った。
ここまで遠くに来たのは初めてだったが、
襲い来る悪魔に対する緊張の他に、
どこか……見られているような感覚を感じていた。
そして、私は谷の出口に差し掛かった。
濃い霧が出ていて視界が悪く、体力も消耗していたので、
その日は早く休息を取り、翌日に備えることにした。
目的地は近いという確信があった。
翌日。
万全の準備をして、私は谷を抜けた。
―――
霧は晴れない。
谷の先は氷床だった。
分厚い氷を踏み締めながら前進する。
すぐに違和感を覚えた。悪魔の数が少ないのだ。
ここにきて、奴らの巣に近づいているという実感がない。
谷に入る前まで執拗に私を攻撃してきた悪魔たちは鳴りをひそめ、
私は小物を片手間に処理するだけで良かった。
これはまるで、嵐の前の静けさのような……。
果たして、その予想は正しかった。
氷河を渡り終えた瞬間、全身が総毛立った。
これは私が出会った中で、5本の指に入る。
この旅で言えば、間違いなく随一。
今までの個体とはレベルの違う悪魔の気配だった。
私は彼の棲家に足を踏み入れたらしい。
どうりで、他の悪魔が寄りつかないわけだ。
霧の奥から姿を現したのは、小柄な剣士だった。
一振りの剣を携え、こちらを睥睨している。
一見女性にも見えるが、恐らく小人族の男性。
悪魔はしばしば亜人の体を模すことがある。
きっと体質が人間より近しいのだろう。
特に、本物に似せている悪魔ほど強い。
それだけ精密な魔力操作ができるということ、あるいはそれだけ多くの亜人の戦士と関わったことを示すからだ。
「お前を倒せば……この霧は晴れるのか」
剣士は何も言わず、ただ剣を抜いて構えた。
答えを求めた訳でもない、私も盾と剣を持ち上げる。
同時に踏み込み、数合打ち合って、また下がった。
互いに様子を伺う。
私は内心安堵していた。
相手の剣技は素早く鋭いが、付いていけぬ程ではない。
何より、軽い。
仮に一撃もらっても、私が本気で強化した鎧を貫通する威力はない。
この後魔法も織り交ぜた戦いになるだろうが、相手が白兵戦を望む以上、肉体的に分がある私の優勢は必至。
少なくとも五分以上の戦いができる。
そう踏んだ私の考えはしかし、粉々に打ち砕かれた。
彼は"変身"した。
体は大きく膨れ上がり、顔は鬼のように恐ろしく。
鬼人族だ。
剣は投げ捨てられ、新たに棍棒が召喚される。
「なるほど……」
となると話は変わる。
私は大人しく意識を改めた。
戦闘能力では格上だ。命を賭けなければ勝てない。
それに、泰然自若のこの感じ。
奴は恐らく、まだ奥の手を残している。
もう一つの変身か、あるいは別の何かか。
何でもいい。
倒さなければここを通らないなら、倒すしかない。
コイツがいるなら、魔城はすぐそこだろう。
さっさと片付けて主を叩く。
私が雷の魔法を放ち、鬼人がそれを打ち返す。
氷床が砕け、霧が舞い上がる。
戦いが始まった。
―――
勝ったのは私だった。
肩で息をしながら、呻く悪魔の胸に剣を突き立てる。
悪魔はジタバタともがいたがすぐに静かになった。
強かった。
二、三度死にかけた。
しかし倒した甲斐はあったらしい。
霧が晴れる。
日が差し込み、氷床を照らしていく。
そして、その先に。
「……な」
そこにあったのは城ではなかった。
大樹であった。
―――
視界を遮っていた白銀の幕がゆっくりと上がっていく。
その先に現れた光景に、私は思わず息を呑んだ。
氷原のただ中に、それはそびえ立っていた。
天を突くほどに巨大な樹。
しかし様子がおかしい。
明らかに生命力が弱まっている。
樹皮は岩のように硬質化し、深く走ったひび割れからは、樹液とは思えない黒い液体が滴り落ちる。
風が吹くたび枝が擦れ合い、カサカサと乾いた音が響く。
根元に歩み寄るにつれ、肉が腐ったような異臭が鼻をついた。
その時、幹が大きく裂けた。
這い出たのは、虫を巨きくしたような悪魔だ。
だが、随分と弱っているように見える。
私は無言で接近し剣を振り下ろす。
抵抗もなく首が断たれ、悪魔は何も言わぬ骸となった。
静寂が戻る。
私は、その悪魔が通り抜けてきたばかりの隙間に顔を寄せ、向こう側を覗き込んだ。
「……」
そこには暗闇があった。
光の一切を拒絶するような真の暗闇。
何も見えない。
だが、百や二百ではきかない「何か」の視線が、闇の向こう側から私を射抜いているのが分かった。
私は悟った。
これが外の世界だ。
この朽ちかけた大樹が、唯一の結界なのだ。
もしこの樹が完全に朽ち果てれば、あの夥しい数の悪魔たちが内側へ流れ込み、すべてを飲み干すだろう。
いや、すでに影響は出ている。
さっき倒した悪魔は、あちら側ではもっと強い力を持っていたはずだ。
無理やり大樹の結界を突破した直後で、弱っていたのだろう。
放置すれば傷を癒し、いずれは私が道中で倒してきたような凶悪な個体になる。
腐朽が進めば、結界を通れる悪魔が増えてしまう。
私は戦慄を覚えた。
一刻も早く帰還して、この事を伝えなければならない。
『……ムダ……ヨ』
不意に、足元の地面から、地を這うような低い呼気が漏れた。
「誰だ」
『ワタシノ、カワリ……。マタ……送ラレテ、キタ……』
「……代わりだと? 私は大神官様から、この地の悪魔を討つよう命じられて来たのだ」
そうだ。
この過酷な使命さえ果たせば、私を縛るすべての契約は解除され、自由になれる。
その約束だけを支えに、私はここまで歩いてきたのだ。
真実はより絶望的だったが、かと言って何もしないわけにはいかない。
『……アハ……。シンジテル……ノ? ソノ、男……』
グラリと。
不気味な笑い声に呼応するように、足元の凍土が揺れ、音を立てて崩れ落ちた。
小さな空洞が口を開ける。
「オイデ……オイデ……」
声が誘う。
ここまで来て無視する選択肢はない。
その正体を確かめるため、私は暗闇へと一歩を踏み出した。
洞穴はそれほど長くなかった。
壁面に脈打つ血管のような根の隙間から、青白い光が断続的に漏れている。
「まさか」
その光の中心に、私はそれを見つけてしまった。
無数の根に四肢を貫かれ、大樹の一部と化した、生きた肉塊のような女を。
彼女からは私と全く同じ、精霊の魔力が微かに放たれている。
大樹の根に啜り取られ、この巨木の命を繋ぎ止めていた。
「精霊、なのか……? なぜ、こんな……」
『……コレガ……壁ノ、正体……。アノ子タチ……私ヲ……生ケ贄ニ、シタ……。寿命ガ……キタカラ……。次ハ……お前……』
「は……?」
生け贄。
その言葉の意味を理解することを、私の脳が激しく拒絶する。
そんなはずはない。
私は大神官から、この地の悪魔を浄化せよと正式な命を受けてここへ来たのだ。
任務を全うすれば、自由になれるはずなのだ。
200年だ。
私が守護者として人間たちを救い続けてきた時間が、生け贄としての準備期間だったなどと、どうして受け入れられようか。
視界の端では、脈打つ根が精霊の体を締め上げ、魔力を吸い上げている。
その光景は、私が自由を求めて捧げてきた忠義を、無慈悲に突き放していた。
私は裏切られたのか。
ずっと騙されていたのか。
しかしそれを認めれば、私の生きてきた意味が消えてしまう。
「……あ、……ぁ…………っ」
指先の震えが止まらない。
心臓が早鐘を打ち、自分の血の音が耳元でうるさく鳴り響く。
「うあああああああ!」
それは叫びというより、耐えがたい現実に対する拒絶の悲鳴だった。
逃げなければ。
ここから、この光景から、この残酷な真実から。
私は逃げ出した。
その場には居られなかった。
もはや精霊としての矜持も、騎士としての気高さも欠片もない。
暗い洞穴の壁に肩をぶつけ、転がるようにして光の差す地上へと這い出た。
肺が焼けるような冷たい空気を吸い込んでも、胸の内の虚しさと怒りは消えない。
「……嘘だ、嘘だ! あいつら……大神官……ッ!」
荒い吐息を吐きながら、雪原を駆けようとした。
だがその直後、息苦しさに襲われ、地面に倒れる。
「が……っ、あ、げ……ッ!?」
氷を掻きむしってのたうち回る私の胸元で、大神官に刻まれた聖紋が光を放っていた。
あまりの苦しみに意識が急速に遠のいていく。
彼は最初から全部わかっていたらしい。
あの時彼が施したのは契約を解除するための聖紋ではなかった。
私をこの地に縛り付け、決して逃げ出せぬよう生贄として固定するための聖紋だったのだ。
自由を奪われたまま、私は暗闇へと沈んでいった。




