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 出立から約一年後。

 私は北果ての大地に到達した。

 見渡す限りの地面が凍っている。

 氷原だ。


 進むと、やがて黒い岩肌の谷が現れた。

 植物は一切生えておらず、谷間を縫うように氷河が流れている。


 私は慎重に歩みを進めて行った。

 ここまで遠くに来たのは初めてだったが、

 襲い来る悪魔に対する緊張の他に、

 どこか……見られているような感覚を感じていた。


 そして、私は谷の出口に差し掛かった。

 濃い霧が出ていて視界が悪く、体力も消耗していたので、

 その日は早く休息を取り、翌日に備えることにした。

 目的地は近いという確信があった。



 翌日。

 万全の準備をして、私は谷を抜けた。



―――



 霧は晴れない。

 谷の先は氷床だった。

 分厚い氷を踏み締めながら前進する。


 すぐに違和感を覚えた。悪魔の数が少ないのだ。

 ここにきて、奴らの巣に近づいているという実感がない。

 谷に入る前まで執拗に私を攻撃してきた悪魔たちは鳴りをひそめ、

 私は小物を片手間に処理するだけで良かった。

 これはまるで、嵐の前の静けさのような……。

 果たして、その予想は正しかった。


 氷河を渡り終えた瞬間、全身が総毛立った。


 これは私が出会った中で、5本の指に入る。

 この旅で言えば、間違いなく随一。

 今までの個体とはレベルの違う悪魔の気配だった。

 私は彼の棲家に足を踏み入れたらしい。

 どうりで、他の悪魔が寄りつかないわけだ。


 霧の奥から姿を現したのは、小柄な剣士だった。

 一振りの剣を携え、こちらを睥睨している。

 一見女性にも見えるが、恐らく小人族の男性。

 悪魔はしばしば亜人の体を模すことがある。

 きっと体質が人間より近しいのだろう。


 特に、本物に似せている悪魔ほど強い。

 それだけ精密な魔力操作ができるということ、あるいはそれだけ多くの亜人の戦士と関わったことを示すからだ。


「お前を倒せば……この霧は晴れるのか」


 剣士は何も言わず、ただ剣を抜いて構えた。

 答えを求めた訳でもない、私も盾と剣を持ち上げる。

 同時に踏み込み、数合打ち合って、また下がった。

 互いに様子を伺う。


 私は内心安堵していた。

 相手の剣技は素早く鋭いが、付いていけぬ程ではない。


 何より、軽い。

 仮に一撃もらっても、私が本気で強化した鎧を貫通する威力はない。

 この後魔法も織り交ぜた戦いになるだろうが、相手が白兵戦を望む以上、肉体的に分がある私の優勢は必至。


 少なくとも五分以上の戦いができる。

 そう踏んだ私の考えはしかし、粉々に打ち砕かれた。


 彼は"変身"した。

 体は大きく膨れ上がり、顔は鬼のように恐ろしく。

 鬼人族(オーガ)だ。

 剣は投げ捨てられ、新たに棍棒が召喚される。


「なるほど……」


 となると話は変わる。

 私は大人しく意識を改めた。

 戦闘能力では格上だ。命を賭けなければ勝てない。

 それに、泰然自若のこの感じ。

 奴は恐らく、まだ奥の手を残している。

 もう一つの変身か、あるいは別の何かか。


 何でもいい。

 倒さなければここを通らないなら、倒すしかない。

 コイツがいるなら、魔城はすぐそこだろう。

 さっさと片付けて主を叩く。


 私が雷の魔法を放ち、鬼人がそれを打ち返す。

 氷床が砕け、霧が舞い上がる。

 戦いが始まった。



―――



 勝ったのは私だった。

 肩で息をしながら、呻く悪魔の胸に剣を突き立てる。

 悪魔はジタバタともがいたがすぐに静かになった。


 強かった。

 二、三度死にかけた。

 しかし倒した甲斐はあったらしい。


 霧が晴れる。

 日が差し込み、氷床を照らしていく。

 そして、その先に。

 

「……な」


 そこにあったのは城ではなかった。

 大樹であった。



―――



 視界を遮っていた白銀の幕がゆっくりと上がっていく。

 その先に現れた光景に、私は思わず息を呑んだ。

 氷原のただ中に、それはそびえ立っていた。


 天を突くほどに巨大な樹。

 しかし様子がおかしい。

 明らかに生命力が弱まっている。


 樹皮は岩のように硬質化し、深く走ったひび割れからは、樹液とは思えない黒い液体が滴り落ちる。

 風が吹くたび枝が擦れ合い、カサカサと乾いた音が響く。

 根元に歩み寄るにつれ、肉が腐ったような異臭が鼻をついた。


 その時、幹が大きく裂けた。

 這い出たのは、虫を巨きくしたような悪魔だ。

 だが、随分と弱っているように見える。


 私は無言で接近し剣を振り下ろす。

 抵抗もなく首が断たれ、悪魔は何も言わぬ骸となった。

 静寂が戻る。


 私は、その悪魔が通り抜けてきたばかりの隙間に顔を寄せ、向こう側を覗き込んだ。


「……」


 そこには暗闇があった。

 光の一切を拒絶するような真の暗闇。

 何も見えない。

 だが、百や二百ではきかない「何か」の視線が、闇の向こう側から私を射抜いているのが分かった。


 私は悟った。

 これが外の世界だ。

 この朽ちかけた大樹が、唯一の結界なのだ。

 もしこの樹が完全に朽ち果てれば、あの夥しい数の悪魔たちが内側へ流れ込み、すべてを飲み干すだろう。


 いや、すでに影響は出ている。

 さっき倒した悪魔は、あちら側ではもっと強い力を持っていたはずだ。

 無理やり大樹の結界を突破した直後で、弱っていたのだろう。

 放置すれば傷を癒し、いずれは私が道中で倒してきたような凶悪な個体になる。

 腐朽が進めば、結界を通れる悪魔が増えてしまう。


 私は戦慄を覚えた。

 一刻も早く帰還して、この事を伝えなければならない。


『……ムダ……ヨ』


 不意に、足元の地面から、地を這うような低い呼気が漏れた。


「誰だ」

『ワタシノ、カワリ……。マタ……送ラレテ、キタ……』

「……代わりだと? 私は大神官様から、この地の悪魔を討つよう命じられて来たのだ」


 そうだ。

 この過酷な使命さえ果たせば、私を縛るすべての契約は解除され、自由になれる。

 その約束だけを支えに、私はここまで歩いてきたのだ。

 真実はより絶望的だったが、かと言って何もしないわけにはいかない。


『……アハ……。シンジテル……ノ? ソノ、男……』


 グラリと。

 不気味な笑い声に呼応するように、足元の凍土が揺れ、音を立てて崩れ落ちた。

 小さな空洞が口を開ける。


「オイデ……オイデ……」


 声が誘う。

 ここまで来て無視する選択肢はない。

 その正体を確かめるため、私は暗闇へと一歩を踏み出した。


 洞穴はそれほど長くなかった。

 壁面に脈打つ血管のような根の隙間から、青白い光が断続的に漏れている。


「まさか」


 その光の中心に、私はそれを見つけてしまった。

 無数の根に四肢を貫かれ、大樹の一部と化した、生きた肉塊のような女を。

 彼女からは私と全く同じ、精霊の魔力が微かに放たれている。

 大樹の根に啜り取られ、この巨木の命を繋ぎ止めていた。


「精霊、なのか……? なぜ、こんな……」

『……コレガ……壁ノ、正体……。アノ子タチ……私ヲ……生ケ贄ニ、シタ……。寿命ガ……キタカラ……。次ハ……お前……』

「は……?」


 生け贄。

 その言葉の意味を理解することを、私の脳が激しく拒絶する。


 そんなはずはない。

 私は大神官から、この地の悪魔を浄化せよと正式な命を受けてここへ来たのだ。

 任務を全うすれば、自由になれるはずなのだ。


 200年だ。

 私が守護者として人間たちを救い続けてきた時間が、生け贄としての準備期間だったなどと、どうして受け入れられようか。


 視界の端では、脈打つ根が精霊の体を締め上げ、魔力を吸い上げている。

 その光景は、私が自由を求めて捧げてきた忠義を、無慈悲に突き放していた。


 私は裏切られたのか。

 ずっと騙されていたのか。

 しかしそれを認めれば、私の生きてきた意味が消えてしまう。

 

「……あ、……ぁ…………っ」


 指先の震えが止まらない。

 心臓が早鐘を打ち、自分の血の音が耳元でうるさく鳴り響く。

 

「うあああああああ!」


 それは叫びというより、耐えがたい現実に対する拒絶の悲鳴だった。

 逃げなければ。

 ここから、この光景から、この残酷な真実から。


 私は逃げ出した。

 その場には居られなかった。

 もはや精霊としての矜持も、騎士としての気高さも欠片もない。

 暗い洞穴の壁に肩をぶつけ、転がるようにして光の差す地上へと這い出た。

 

 肺が焼けるような冷たい空気を吸い込んでも、胸の内の虚しさと怒りは消えない。

 

「……嘘だ、嘘だ! あいつら……大神官……ッ!」


 荒い吐息を吐きながら、雪原を駆けようとした。

 だがその直後、息苦しさに襲われ、地面に倒れる。


「が……っ、あ、げ……ッ!?」


 氷を掻きむしってのたうち回る私の胸元で、大神官に刻まれた聖紋が光を放っていた。

 あまりの苦しみに意識が急速に遠のいていく。


 彼は最初から全部わかっていたらしい。

 あの時彼が施したのは契約を解除するための聖紋ではなかった。

 私をこの地に縛り付け、決して逃げ出せぬよう生贄として固定するための聖紋だったのだ。


 自由を奪われたまま、私は暗闇へと沈んでいった。

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