第九話 離れていく距離
翌朝、目が覚めたとき、胸の奥に重たいものが残っているのを感じた。夢を見たわけでもないのに、起きた瞬間から気分が沈んでいる。昨日の放課後のことが、頭の中に残っていた。教室の夕日、悠真の言葉、そして最後に聞いた「また明日な」という声。そのすべてが、まだ胸の奥で静かに沈んでいる。
制服に着替えながら、自分でも少し不思議だった。昨日はあんなに怒っていたのに、今は怒りよりも別の感情の方が強かった。うまく言葉にはできないが、どこか冷えた感覚に近い。何かが遠くへ離れていくような、そんな感じだった。
学校へ向かう道はいつもと同じだった。朝の空気は少し冷たく、吐く息が白くなる。住宅街の道を歩きながら、俺は何度も昨日の会話を思い出していた。
「誰か困ってる?」
悠真の言葉。あの軽い声。あの時の顔。思い出すたびに胸の奥が静かに沈む。
学校に着き、教室のドアを開ける。中ではいつも通りクラスメイトが話していた。笑い声も聞こえるし、机を動かす音もする。日常は何も変わっていない。
ただ一つ違うのは、俺の目が無意識に悠真の席を探していたことだった。
悠真はもう席に座っていた。
机に肘をつきながらスマホを見ている。いつもと同じ姿だった。
俺は少しだけ立ち止まる。
悠真も俺に気づいた。
一瞬だけ目が合う。
それから悠真は軽く手を上げた。
「おはよ」
その声は、昨日までと同じだった。
何もなかったみたいに。
俺は一瞬迷ったが、結局普通に答えた。
「おはよう」
それだけだった。
それ以上の言葉は出なかった。
自分の席に座り、カバンを机の横にかける。教科書を取り出しながら、横目で悠真の方を見る。
悠真はすでにスマホをしまい、前の席のやつと話していた。笑っている。いつもの顔だった。
その様子を見て、胸の奥で何かが少しだけ冷たくなった。
昨日、あんな話をしたのに。
あんなに怒ったのに。
それでも悠真は、いつもと同じだった。
まるで昨日のことが何もなかったみたいに。
そのことが、なぜか少し寂しかった。
一時間目の授業が始まる。先生の声が教室に響く。黒板にチョークが当たる音がする。俺はノートを取りながら、何度も意識を授業に戻そうとした。
でも気づくと、視線が悠真の方に向いてしまう。
悠真は普通に授業を受けていた。
ノートを取り、時々前の席のやつと小さく話し、先生に当てられれば普通に答える。
何も変わっていない。
本当に、何も。
昼休みになり、教室の空気が一気に緩む。みんな立ち上がり、パンを買いに行くやつや外に出るやつで教室が騒がしくなる。
俺は机の上にパンを置いたまま、少しぼんやりしていた。
すると、横から声がした。
「春人」
悠真だった。
俺は顔を上げる。
「屋上行く?」
その言葉に、少しだけ驚く。
いつも通りの誘いだった。
今まで何度もそうしてきた。
昼休みになると、二人で屋上に行ってパンを食べる。
それはもう習慣みたいなものだった。
でも今は、その習慣が少しだけ遠く感じた。
俺は少し考えてから言った。
「今日はいい」
悠真が少しだけ目を細める。
「なんで」
「ちょっと眠い」
自分でもわかるくらい、適当な理由だった。
悠真は少しだけ俺を見ていた。
それから「そっか」とだけ言った。
「じゃあ俺行くわ」
そう言って教室を出ていく。
その背中を見ながら、俺は胸の奥で小さく理解していた。
今までと同じようにできない。
昨日のことがあって、何もなかったみたいに戻ることができない。
たったそれだけのことなのに。
たったそれだけの距離なのに。
でも確実に、何かが変わっていた。
パンを一口かじる。
味はほとんどしなかった。
教室の中では誰かが笑っている。窓の外では風が木を揺らしている。
その中で俺は、ゆっくり気づいていた。
昨日の怒りは、もうほとんど残っていない。
でも代わりに、別のものが残っている。
それは怒りよりも静かで。
でもずっと消えない感覚だった。
たぶんそれは、失望に近かった。
悠真は今までと同じだった。
何も変わっていない。
でも。
俺の方が、少し変わってしまった。
そしてその変化は、もう元には戻らない気がしていた。




