第八話 初めての怒り
放課後の教室は、昼間とは別の場所みたいに静かだった。部活に向かう生徒たちはもうほとんどいなくなり、廊下の足音も少なくなっている。窓から差し込む夕方の光が机の上に長く伸びて、教室全体をゆっくり赤く染めていた。
俺は自分の席の横に立ったまま、悠真の方を見ていた。
悠真は窓際の席に座り、スマホを片手に何かを見ている。いつもと同じ、気楽そうな顔だった。
その顔を見ながら、俺の胸の奥ではさっきからずっと同じことが繰り返されていた。
昨日の駅前。
ゲームセンターの入口。
制服のまま、中へ入っていく悠真の背中。
あの光景が、何度も頭に浮かぶ。
そして、今朝の会話。
「昨日忙しかった」
「バイト慣れてないからさ」
そう言って笑っていた顔。
俺はゆっくり歩き出し、悠真の机の前で止まった。
「悠真」
名前を呼ぶと、悠真は顔を上げた。
「ん?」
いつもの軽い声だった。
「どうした」
俺は少しだけ息を吸った。
そして言った。
「昨日さ」
「うん」
「駅前いた?」
悠真の指が、スマホの画面の上で一瞬止まった。
ほんの一瞬だった。
でも、確かに止まった。
それから、悠真は画面を消して机の上にスマホを置いた。
「いた」
答えはすぐだった。
「バイトだろ」
俺が言うと、悠真は軽くうなずいた。
「そう」
「何時から?」
「五時」
昨日と同じ答え。
屋上でも聞いた。
五時から。
でも、俺が見たのはその時間だった。
悠真がゲームセンターに入っていくところを。
俺はそのことを思い出しながら、もう一度聞いた。
「忙しかった?」
悠真は笑った。
「まあまあ」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れる音がした。
小さな音だった。
でも確かに。
今まで信じていた何かが、少しだけ壊れた音だった。
俺はそのまま言った。
「昨日さ」
「うん」
「ゲーセンいたよな」
悠真の表情が、一瞬だけ止まる。
それから、少しだけ目を細めた。
「見たの?」
「うん」
悠真は小さく息を吐いた。
そして笑った。
「あー」
軽く頭をかく。
「ちょっと寄った」
その言葉を聞いた瞬間だった。
胸の奥にあった何かが、一気に熱くなる。
「ちょっと?」
俺は言った。
「七時まで?」
悠真は答えなかった。
その沈黙が、すべてだった。
俺の中で、何かが一気に溢れた。
「なんで」
自分でも驚くくらい強い声だった。
悠真が顔を上げる。
「なんで嘘つくんだよ」
教室の空気が少しだけ止まる。
まだ残っていた数人のクラスメイトが、こちらを見る。
でももう止まらなかった。
「バイトしてないだろ」
悠真は黙っている。
「昨日も今日も」
俺は言葉を続けた。
「ずっと嘘ついてるじゃん」
悠真は机に肘をつき、少しだけ視線を落とした。
それから小さく笑った。
「そんな怒ること?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の熱がさらに強くなる。
「怒るだろ」
俺は言った。
「なんでそんな嘘つくんだよ」
悠真は肩をすくめる。
「別に」
「別にってなんだよ」
「大したことじゃないじゃん」
その言葉は、信じられないくらい軽かった。
まるで本当に、どうでもいいことみたいに。
「大したことあるだろ」
俺は言った。
「ずっと嘘ついてるじゃん」
悠真は何も言わない。
「テストの点数も」
「課題も」
「バイトも」
「なんでなんだよ」
教室は完全に静かになっていた。
誰も話していない。
遠くの廊下から、誰かの笑い声だけが聞こえる。
悠真はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「別にいいじゃん」
俺は言葉を失った。
悠真は顔を上げる。
そして言った。
「誰か困ってる?」
その一言だった。
胸の奥の怒りが、一瞬で凍る。
確かに。
誰も困っていない。
先生も。
クラスメイトも。
俺も。
嘘をつかれたからといって、何か大きな問題が起きたわけじゃない。
でも。
それでも。
「違うだろ」
俺は言った。
「そういう問題じゃない」
悠真は少しだけ笑った。
「春人」
「ん?」
「お前さ」
悠真は言った。
「真面目すぎるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすっと冷たくなった。
さっきまであった怒りが、ゆっくり消えていく。
代わりに残ったのは、言葉にできない感覚だった。
空っぽに近い、静かな重さ。
俺は何も言えなかった。
悠真はカバンを持ち上げる。
「俺帰るわ」
それだけ言って立ち上がった。
そして教室の出口に向かう。
ドアの前で一度だけ振り返る。
「また明日な」
その声は、いつもと同じだった。
何もなかったみたいに。
ドアが閉まる。
静かな音が教室に響いた。
俺はその場に立ったまま動けなかった。
窓の外では、夕日がゆっくり沈んでいく。
教室の中は赤い光で満たされていた。
その光の中で、俺はやっと気づいた。
今までずっと。
俺は悠真をかばっていた。
嘘を知っていても。
見ないふりをして。
大したことじゃないと思って。
でも。
さっきの言葉で、やっとわかった。
悠真にとって嘘は。
本当に。
大したことじゃないんだ。
その事実が、なぜか胸に重く残った。
怒りよりも。
疑いよりも。
ずっと静かで。
ずっと深い感情だった。




