第七話 崩れる音
朝の教室はいつもと同じだった。
窓の外では雲がゆっくり流れていて、校庭からは体育の授業の声が聞こえてくる。クラスの中では誰かが笑い、誰かが机を引き、日常の音が静かに重なっていた。
けれど、その日だけは、俺の中の何かが少し違っていた。
昨日の帰り道。
駅前のゲーセン。
中に入っていく悠真の背中。
あの光景が、頭から離れない。
「春人」
声がして顔を上げる。
悠真だった。
「おはよ」
「おはよう」
いつもの笑顔。
何も変わっていない。
俺はその顔を見ながら、少しだけ迷った。
聞くべきか。
聞かないべきか。
でも結局、そのまま普通に会話が始まった。
「今日だるいな」
悠真が言う。
「まだ朝だぞ」
「昨日バイトだったし」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ冷たくなる。
昨日。
俺は見た。
悠真がゲーセンに入っていくところを。
「昨日さ」
俺は言った。
悠真はスマホを机に置いた。
「ん?」
「駅前いた?」
ほんの一瞬だけ。
悠真の動きが止まった。
でもすぐに笑った。
「いた」
「バイトだろ」
「うん」
答えるのが、やけに早かった。
俺は続けて聞いた。
「何時から?」
「五時」
やっぱり同じ答えだった。
昨日屋上で言っていたのも、五時。
でも。
俺はその時間に、悠真がゲーセンに入るところを見ている。
「忙しかった?」
「まあまあ」
悠真は笑う。
「慣れないし」
俺は黙った。
教室の中では別のグループが笑っている。
誰かが机を叩き、誰かが「マジかよ」と声を上げている。
そんな普通の空気の中で、俺の胸の奥だけが少しずつ重くなっていく。
そして気づいた。
俺は今。
悠真の言葉を聞きながら。
嘘だと思っている。
それが、自分でもはっきりわかった。
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昼休み。
俺は一人で屋上に来ていた。
風が強く、フェンスがカタカタ鳴っている。
空は少し曇っていた。
パンの袋を開けながら、考える。
どうして嘘をつくんだろう。
怒られるわけでもない。
隠す必要もない。
それなのに。
悠真は嘘をつく。
しかも、自然に。
まるでそれが普通みたいに。
その時、屋上の扉が開いた。
振り向くと、大輝だった。
「春人」
「お前も来たのか」
「寒いな」
大輝は俺の隣に座る。
少し沈黙が続いたあと、大輝が言った。
「悠真さ」
俺は顔を上げる。
「うん」
「昨日もゲーセンいたぞ」
胸の奥が少しだけ沈む。
「俺さ」
大輝は続ける。
「昨日七時くらいまでいたんだけど」
俺は何も言わない。
「ずっといたぞ、悠真」
風が強く吹く。
フェンスが大きく鳴った。
七時。
悠真は言っていた。
七時までバイトだった。
俺はパンをかじる。
でも味がよくわからなかった。
「バイトって言ってたよな」
大輝が言う。
「言ってた」
「じゃあ違う店かな」
「かもな」
俺はそう答えた。
でも、自分の声が少しだけ遠く感じた。
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放課後。
教室にはまだ何人か残っていた。
俺はカバンを持ちながら、悠真の方を見る。
悠真は窓際の席でスマホをいじっている。
その横顔を見ながら、思う。
今なら聞ける。
今なら。
俺はゆっくり近づいた。
「悠真」
「ん?」
顔を上げる。
いつもの顔。
いつもの声。
俺は少しだけ迷ってから言った。
「昨日さ」
「うん」
「ゲーセンいた?」
教室の空気が少しだけ静かになる。
悠真は俺を見ていた。
ほんの数秒。
何も言わずに。
それから。
笑った。
「あー」
軽く頭をかく。
「ちょっと寄った」
俺は言う。
「七時まで?」
悠真の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
「……うん」
その瞬間だった。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
大きな音ではない。
ただ、小さく。
でも確かに。
長い時間かけて積み上げてきた何かが。
静かに崩れ始めていた。




