第五話 見えないひび
朝の教室はいつも通り騒がしかった。
誰かが笑い、誰かが机を引き、誰かがスマホを見ながら小さく声を上げている。そんな日常の音が重なり合って、教室はゆるやかに一日の始まりを迎えていた。
俺は席に座り、カバンから教科書を取り出す。
窓の外を見ると、空は少し曇っていた。雨が降るかもしれない、そんな色をしている。
「春人」
声がして顔を上げると、悠真が立っていた。
「おはよ」
「おはよう」
悠真は椅子を逆向きに引いて、俺の机の前に座った。
いつも通りの動きだった。
「今日だるいな」
「まだ朝だぞ」
「だからだよ」
悠真は机に頬杖をつく。
「昨日バイトだったし」
その言葉に、俺は少しだけ顔を上げた。
「もう入ったのか」
「うん」
「早いな」
「人足りないらしい」
悠真は軽く笑った。
「昨日いきなり入ってって言われた」
「カフェってそんな急なのか?」
「さあ」
悠真は肩をすくめる。
「忙しいんじゃね」
俺は「へえ」とだけ答えた。
でも、胸の奥にまた小さな違和感が生まれていた。
昨日、大輝は言っていた。
六時頃、駅前のゲーセンで悠真を見たと。
もし面接が終わってから遊んでいたなら、時間的にはおかしくない。
そう思うこともできる。
でも。
俺の頭のどこかで、同じ疑問が繰り返されていた。
本当に面接はあったのか。
そんなこと、直接聞けばいい。
けれど、聞けなかった。
理由は自分でもよくわからない。
ただ、聞いた瞬間に何かが壊れる気がした。
「そういえばさ」
悠真が言う。
「カフェ、コーヒー飲み放題なんだよ」
「いいな」
「春人も来いよ」
「客として?」
「友達割引してやる」
「お前店長じゃないだろ」
「まあ」
悠真は笑った。
その笑顔は、いつもと同じだった。
変わらない。
だから余計に、わからなくなる。
本当に嘘をついているのか。
それとも、俺が勝手に疑っているだけなのか。
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昼休み。
俺は購買でパンを買い、いつもの屋上へ向かった。
風は少し冷たくなってきている。
秋の終わりの匂いがした。
屋上には数人しかいない。
フェンスの近くに座り、パンの袋を開ける。
「春人」
後ろから声がした。
振り向くと、大輝だった。
「珍しいな」
俺が言うと、大輝は隣に座った。
「悠真いないの?」
「今日は別のやつと食うって」
「へえ」
大輝はパンをかじりながら言った。
「悠真さ」
「うん」
「バイトって言ってた?」
俺は少しだけ黙った。
「言ってた」
「カフェ?」
「そう」
大輝は少し考えるような顔をした。
「昨日、俺さ」
「うん」
「駅前いたじゃん」
「言ってたな」
「五時くらいからずっとゲーセンいたんだよ」
俺の手が少し止まる。
「そしたら悠真も来て」
大輝は続ける。
「普通にゲームしてた」
風が強く吹いた。
フェンスが小さく鳴る。
「何時くらい?」
俺は聞いた。
「五時半くらい」
俺は何も言わなかった。
「面接って五時って言ってたんだよな?」
大輝が言う。
「うん」
「じゃあ終わったあとかな」
「かもな」
俺はそう答えた。
けれど、その声は自分でもわかるくらい曖昧だった。
大輝はそれ以上何も言わなかった。
「まあいいや」
そう言って立ち上がる。
「じゃあな」
「おう」
大輝は屋上を出ていった。
俺はフェンスの向こうの空を見上げた。
雲がゆっくり流れている。
頭の中で、いくつかの言葉が並ぶ。
面接。
五時。
ゲーセン。
バイト。
昨日から入った。
どれも単体ならおかしくない。
でも、全部を並べると。
少しだけ、ずれている。
ほんの少し。
でも確かに。
その時、屋上の扉が開いた。
「春人」
悠真だった。
「ここか」
「珍しいな」
「人多いから」
悠真は隣に座る。
「寒いな」
「だな」
しばらく二人で黙ってパンを食べる。
そして俺は、何気ない声で聞いた。
「昨日さ」
「うん」
「バイト何時までだった?」
悠真はパンをかじったまま答えた。
「七時」
俺の心臓が、少しだけ強く鳴った。
「最初は短いんだ」
悠真は続ける。
「慣れてないから」
俺はうなずく。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。
悠真はパンを食べ終わり、空を見上げる。
「今日もあるんだよな」
「バイト?」
「うん」
その横顔を見ながら、俺は思った。
もしかしたら。
悠真は、また嘘をついている。
でも。
もしそうだとしても。
どうしてなのか。
それがわからなかった。
怒られるわけでもない。
隠す理由もない。
なのに。
どうして。
まるで呼吸をするみたいに。
嘘を重ねるんだろう。
風が吹く。
屋上の空気は少し冷たかった。
その日、俺は初めて。
悠真の言葉を、完全には信じられなくなっていた。




