第三話 かばう
放課後の教室は、昼間の騒がしさが嘘みたいに静かだった。
窓から差し込む夕方の光が、机の上を赤く染めている。校庭からは運動部の掛け声が遠く聞こえてきた。
俺は英語のノートを机に広げたまま、ぼんやりページをめくっていた。
その時、後ろの席から椅子を引く音がした。
「春人」
振り向くと、悠真が立っていた。
「帰らないのか」
「ちょっとな」
俺が答えると、悠真は俺の机の前の席にどさっと座った。
いつも通りの軽い動き。
けれど、その顔はどこか落ち着かないようにも見えた。
「なあ」
悠真が言う。
「頼みあるんだけど」
俺はノートを閉じた。
「なんだよ」
悠真は少しだけ目をそらした。
それから、机の端を指でトントン叩きながら言った。
「英語の課題」
「うん」
「出してない」
俺は思わず眉をひそめる。
「またか」
「また」
悠真は笑った。
英語の課題は、昨日提出だった。
ワークブックの問題をまとめてノートに書く、そこそこ量のある宿題だ。
「昨日、“終わった”って言ってたじゃん」
「言った」
「嘘か」
「まあ」
その言い方が、あまりにも軽かった。
俺は少し呆れる。
「なんでやらないんだよ」
「めんどくさくて」
「……」
「忘れてたって言おうと思ったんだけどさ」
悠真は続けた。
「先生、忘れたとか通じないじゃん」
それは確かにそうだった。
英語の佐藤先生は提出物にかなり厳しい。
遅れたら普通に怒られる。
「それで」
悠真は俺を見る。
「明日の授業でさ」
「うん」
「“春人のノート見て途中までやってました”って言うから」
俺は一瞬、言葉を失った。
「ちょっと待て」
「頼む」
「なんで俺なんだよ」
「一番それっぽい」
「それっぽいって」
悠真は笑う。
「春人、真面目じゃん」
「だからダメなんだろ」
俺はため息をつく。
「それ、俺も怒られるやつじゃん」
「ちょっとだけだって」
「ちょっとじゃないだろ」
悠真は机に肘をついた。
そして、少しだけ真面目な声で言った。
「頼む」
その顔を見ると、強く断る気持ちが少しだけ弱くなる。
昔からそうだった。
悠真は、こうやって頼んでくる。
そして俺は、結局断れない。
「……」
俺はしばらく黙っていた。
窓の外では、夕日がさらに赤くなっている。
教室の中には俺たちしかいない。
「今回だけだぞ」
気づいた時には、そう言っていた。
悠真の顔がぱっと明るくなる。
「マジ?」
「今回だけ」
「さすが春人」
「調子乗るな」
悠真は立ち上がる。
「じゃ、明日よろしく」
「お前もちゃんと書けよ」
「写す」
「最低だな」
「効率いいだろ」
悠真は笑った。
俺も苦笑する。
その時は、まだ軽い気持ちだった。
ただ親友を助けるだけ。
それだけのこと。
そのはずだった。
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翌日。
英語の授業が始まる。
佐藤先生が教室に入ってきた。
「じゃあ昨日言った課題、出して」
生徒たちが一斉にノートを机の上に出す。
教室の空気が少しだけ緊張する。
提出物の確認は、毎回ピリッとする。
俺はノートを机の上に置いた。
そして、横を見る。
悠真はまだ何も出していない。
「悠真」
先生が名前を呼んだ。
「課題」
教室の視線が少しだけ集まる。
悠真はゆっくり立ち上がった。
「すみません」
教室が静かになる。
「途中までしかできてません」
先生が眉をひそめる。
「どういうことだ」
悠真は、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「春人のノート見ながらやってたんですけど」
一瞬、胸がドクンと鳴った。
「終わらなくて」
先生の視線が、ゆっくり俺に向く。
「春人」
「はい」
俺は立ち上がる。
教室の空気が重くなる。
一瞬だけ、迷った。
今なら。
「違います」と言えば終わる。
全部。
でも。
「ノート、見せてたのか」
先生が言う。
俺は小さく息を吸った。
「……はい」
声は思ったより普通だった。
「少しだけ」
先生は腕を組む。
「写させるのは構わないが」
静かな声だった。
「最後までやらせろ」
「はい」
「悠真、今日中に仕上げて提出」
「はい」
悠真は頭を下げた。
先生はそれ以上何も言わず、授業を始めた。
俺は席に座る。
胸の奥が、少しだけ重かった。
隣から、小さな声が聞こえる。
「助かった」
悠真だった。
顔を見ると、いつもの笑顔。
まるで何事もなかったみたいに。
「……」
俺は答えなかった。
授業の途中、ノートを取りながら思う。
俺は今、嘘をついた。
先生に。
クラスのみんなに。
でもそれ以上に。
自分に対して。
「春人」
授業が終わったあと、悠真が言う。
「ありがとな」
俺は悠真を見る。
「もうやめろよ」
「何を」
「こういうの」
悠真は少しだけ首を傾げた。
「別にいいじゃん」
「よくない」
「誰も困ってない」
俺は言葉を探す。
でもうまく出てこない。
悠真は机に座りながら笑った。
「春人はさ」
「ん?」
「真面目すぎるんだよ」
その言葉を聞いて、俺は何も言えなかった。
たぶん、その時すでに。
ほんの少しだけ。
俺の中で、何かがずれ始めていた。




