第十話 最後の放課後
その日の放課後、教室にはゆっくりと静けさが戻ってきていた。部活に向かう生徒たちはすでに教室を出ていき、残っているのは数人だけだった。窓の外では夕方の光が校庭を赤く染め、グラウンドの端ではサッカー部の掛け声が風に乗って聞こえてくる。
俺は自分の席に座ったまま、机の上のノートをぼんやりと眺めていた。文字は目に入っているはずなのに、頭には何も入ってこない。
昼休みに屋上へ行かなかったこと。
悠真が少しだけ不思議そうな顔をしていたこと。
その表情が、なぜか頭の中に残っていた。
ふと顔を上げると、教室の後ろの席に悠真がまだ座っているのが見えた。スマホを見ながら何かを打ち込んでいる。時々笑っている。
その姿は、今までと何も変わらない。
けれど俺の中では、何かが確実に変わってしまっていた。
今までなら、放課後になれば自然と二人で帰っていた。特別な約束なんてしなくても、気づけば一緒に校門を出ていた。
でも今日は違った。
俺は立ち上がる。カバンを肩にかける。
そして教室の出口へ向かおうとした。
その時だった。
「春人」
後ろから声がした。
足が止まる。
振り向くと、悠真がこちらを見ていた。
「帰るの?」
俺は少しだけ迷ってから答えた。
「うん」
悠真は椅子から立ち上がった。
「じゃあ俺も」
その言葉に、胸の奥が少しだけ重くなる。
二人で教室を出る。廊下にはほとんど人がいなかった。窓から入る夕日の光が床を長く照らしている。
階段を降り、昇降口で靴を履き替える。
ここまでの流れは、今までとまったく同じだった。
でも空気だけが、どこか違っていた。
学校の門を出て、いつもの帰り道を歩く。住宅街へ続く細い道。電柱の影が長く伸びている。
しばらく二人とも何も話さなかった。
風の音だけが聞こえる。
やがて悠真が口を開いた。
「今日さ」
「うん」
「なんか変じゃない?」
俺は歩きながら前を見ていた。
「何が」
「春人」
悠真の声は、少しだけ真面目だった。
「昼も来なかったし」
俺は少し黙った。
それから言った。
「眠かった」
自分でもわかるくらい、薄い理由だった。
悠真は少しだけ笑った。
「嘘つけ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
俺は足を止める。
悠真も止まった。
住宅街の道の真ん中だった。
夕日が二人の影を長く伸ばしている。
「なあ」
悠真が言う。
「まだ怒ってる?」
俺はしばらく答えなかった。
怒っているのかと聞かれると、少し違う気がした。
怒りはもう、ほとんど残っていない。
その代わりに、別の感情がある。
でもそれは、うまく言葉にできない。
「怒ってない」
俺は言った。
悠真は少し安心したような顔をした。
「だよな」
「うん」
「そんな大したことじゃないし」
その言葉を聞いた瞬間だった。
胸の奥で、また何かが小さく崩れた。
やっぱり、同じなんだ。
悠真の中では、昨日のことは本当に大したことじゃない。
俺は静かに言った。
「悠真」
「ん?」
「俺さ」
言葉を探す。
どう言えばいいのかわからない。
でも、このまま何も言わずに終わらせることもできなかった。
「ずっと思ってたんだけど」
悠真は黙って聞いている。
「なんで嘘つくんだ?」
夕方の風が、静かに吹いた。
悠真は少しだけ目を細めた。
そして、少し考えるように空を見る。
「癖かな」
それが答えだった。
軽い声だった。
俺は何も言えなかった。
「なんかさ」
悠真は続けた。
「気づいたら言ってるんだよ」
笑いながら言う。
「別に意味ないんだけどさ」
その言葉を聞きながら、俺は静かに理解していた。
これはきっと、直らない。
悠真にとって嘘は、本当に大したものじゃない。
だから悪いとも思っていない。
そしてたぶん、これからも同じことが続く。
「そっか」
俺はそれだけ言った。
悠真は少し不思議そうな顔をした。
「それだけ?」
「うん」
しばらく沈黙が流れる。
やがて分かれ道に着いた。
小学校の頃から、ずっとここで別れてきた。
右に行けば悠真の家。
左に行けば俺の家。
夕日が沈みかけている。
悠真が言った。
「じゃあな」
俺はうなずいた。
「また明日」
悠真は手を軽く上げて、右の道へ歩き出した。
その背中を見ながら、俺は立ったままだった。
昔から何度も見てきた背中。
でも今日は、少し遠く見えた。
俺はゆっくり振り返り、左の道へ歩き出す。
胸の奥に、静かな感覚が残っていた。
それは怒りでも悲しみでもなかった。
ただ、長い時間をかけて続いてきた何かが、少しずつ終わりに近づいている。
そんな気配だった。




