第一話 いつもの帰り道
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
廊下の窓から差し込む夕方の光はオレンジ色で、床のワックスをやけに綺麗に光らせている。部活に向かう生徒の声が遠くから聞こえてくるが、教室の中はもう半分くらい空いていた。
「春人、帰るぞ」
背後から声がして、俺は顔を上げた。
悠真だった。
机に肘をつきながら、いつものように笑っている。どこか軽くて、気楽そうで、何も悩みなんてないような顔。
「もう帰るのか」
「腹減ったしな」
悠真はそう言いながら、俺の机の上の消しゴムを指で弾いた。ころん、と音を立てて床に落ちる。
「おい」
「悪い悪い」
まったく悪いと思っていない声だった。
俺は消しゴムを拾いながら、苦笑する。
こういうどうでもいいやり取りを、もう何年続けてきただろう。
悠真とは、小学校からずっと一緒だった。家も近いし、気づけばいつも隣にいる。クラスが別になっても、休み時間には自然と合流していた。
だから俺にとって、悠真は「親友」という言葉が一番しっくりくる存在だった。
「ほら、行くぞ」
悠真は俺のカバンを勝手に持ち上げて放り投げてきた。
「投げるなよ」
「キャッチできただろ」
俺は肩にカバンをかけながら、ため息をつく。
でも、こういう乱暴さも、もう慣れていた。
二人で教室を出る。
階段を降り、昇降口を抜けると、外の空気は思ったより冷たかった。
秋の終わりの風が、制服の隙間から入り込む。
「寒くなってきたな」
「もうすぐ冬だろ」
悠真はそう言って、手をポケットに突っ込んだ。
校門を出て、いつもの帰り道を歩く。
住宅街の細い道。電柱の影が長く伸びて、アスファルトの上に斜めの線を作っている。
この道も、何度歩いたかわからない。
「そういえばさ」
悠真が急に言った。
「今日、数学の小テストあっただろ」
「ああ」
「満点だったわ」
俺は思わず足を止めた。
「え?」
悠真は平然と歩き続けている。
「マジで?」
「うん」
振り向いて笑う。
「簡単だったじゃん」
俺は少し驚いた。
悠真は勉強ができないわけではない。けれど、数学はむしろ苦手な方だった。
この前のテストだって、赤点ギリギリだったはずだ。
「へえ…」
「なんだよその反応」
「いや、意外だなって」
「失礼だな」
笑いながら、悠真は言った。
「ちゃんとやればできるんだよ俺も」
「まあ、そうか」
俺も笑って答える。
その時は、何も思わなかった。
ただ、少しだけ引っかかるものがあった。
でも、それは本当に小さなものだった。
砂粒みたいな違和感。
俺はすぐに忘れた。
角を曲がると、コンビニが見えてくる。
帰り道の途中にある小さな店だ。俺たちはよくここに寄っていた。
「寄ってくか」
悠真が言う。
「またかよ」
「いいだろ」
自動ドアが開き、店内の明るい光が目に入る。
レジの横には肉まんのケースが湯気を立てていた。
「肉まん食う?」
「お前さっき腹減ったって言ってたな」
悠真は迷いなくレジへ向かい、肉まんを二つ買った。
「ほら」
一つ渡される。
「ありがとう」
袋を破ると、湯気と一緒に甘い匂いが広がる。
「うま」
悠真は一口かじりながら言った。
「やっぱ冬はこれだな」
「まだ秋だろ」
「もう冬みたいなもんだ」
コンビニの前の縁石に座り、二人で肉まんを食べる。
夕方の空は、だんだん暗くなってきていた。
「そういえば」
俺は思い出したように言った。
「数学のテスト、何問目が一番難しかった?」
悠真が一瞬だけ黙った。
ほんの一瞬だった。
けれど、その沈黙は、妙に長く感じられた。
「え?」
「最後のやつ」
俺が言う。
「あれ結構難しくなかった?」
悠真は少しだけ目を細めた。
それから笑った。
「ああ、あれな」
少し間を置いてから言う。
「普通じゃね?」
「そうか?」
「公式使えば一発だったろ」
「いや、俺結構悩んだぞ」
「お前真面目すぎるんだよ」
悠真は笑いながら言った。
「もっと適当にやればいいんだって」
俺も笑った。
その時は、やっぱり何も思わなかった。
けれど帰り道を歩きながら、俺の頭の片隅で、さっきの沈黙が小さく残っていた。
家の近くの分かれ道に着く。
ここで、いつも別れる。
「じゃあな」
悠真が手を挙げる。
「また明日」
「おう」
俺は歩き出す。
数歩進んだところで、後ろから声が聞こえた。
「春人」
振り返る。
「ん?」
悠真は、いつもの笑顔で言った。
「さっきのテストさ」
「うん」
「俺、満点じゃないわ」
「え?」
「98点だった」
そう言って笑う。
「一問ミスった」
「なんだよ」
俺も笑った。
「自慢するほどでもないじゃん」
「まあな」
悠真は肩をすくめた。
「じゃあな」
「また明日」
手を振って、悠真は歩き去る。
俺はその背中を少しだけ見送ってから、自分の家の方へ向かった。
家に帰り、カバンを置き、制服のままベッドに寝転ぶ。
天井を見ながら、ぼんやり考える。
数学のテスト。
満点。
98点。
最後の問題。
頭の中で、何かが小さく引っかかった。
でも、それが何なのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、ひとつだけ思った。
悠真は、時々嘘をつく。
それは知っていた。
けれど、それはいつも小さなものだった。
どうでもいい嘘。
誰も困らない嘘。
だから俺は、あまり気にしたことがなかった。
その時の俺は、まだ知らなかった。
小さな嘘が、
少しずつ積み重なっていくこと。
そしていつか、
取り返しのつかないところまで行ってしまうことを。
この時はまだ、
それが始まりだとも思っていなかった。
ただの、いつもの帰り道だった。




