「たぶん見ないといけない」
土曜の朝、午前11時。
渋谷の小さなカフェ。
前回と同じ場所じゃない。
より親密。より静か。
ユキが最初に到着した。
熱いお茶を注文した。緑茶。
手がカップを握っていた。
温かい。心地よい。
でも十分じゃなかった。
何も十分じゃなかった。
「ユキさん!」
顔を上げた。
歩美――潜入中の鈴木芽衣――が温かい笑顔で入ってきた。
また髪に上品な髪留めをしていた。
小さな花がついているもの。
綺麗。
座った。
「元気?電話してきた時心配したわ」
「大丈夫……大丈夫よ。少なくとも……大丈夫になろうとしてる」
「まだ妹さんのところ?」
「ええ」
「健二さんは?」
ユキが視線を落とした。
「分からない。あまり……あまり話してないの」
歩美がコーヒーを注文した。
それからユキに向き直った。
「話したい?」
ユキが息をした。
「戻るかどうか分からない」
「家に?」
「ええ。まだ……まだ彼と一緒に暮らせるかどうか分からない」
「なぜ?」
「だって彼が誰か分からないから。信頼できるかどうか分からない」
歩美がゆっくり頷いた。
「探した?美智子さんが提案したように?」
「いいえ」
「なぜ?」
「だって……だってプライバシーを侵害することになるから。信頼していないと言うことになる。そして信頼のない結婚は……」
「もう終わってる」と歩美が優しく終えた。
ユキが彼女を見た。
目が潤んでいた。
「ええ。たぶんもう終わってる」
沈黙。
飲んだ。
それから歩美が言った。
「ユキさん、一つ言ってもいい?友達として?」
「ええ」
「プライバシーは大事。でもあなたの心の平穏はもっと大事。もし健二さんが何かを隠していたら……もし嘘をついていたら……あなたには知る権利がある」
「でももし探して何も見つからなかったら――」
「なら安心する。間違ってた。そして疑いなしにやり直せる」
「何か見つけたら?」
「なら少なくとも知る。そして何をするか決められる。情報で。恐怖じゃなく」
ユキがカップを見た。
立ち上る湯気。
「勇気があるか分からない」
「あるわ。あると分かってる」
「どうして分かるの?」
「だってここにいるから。諦めていないから。理解しようと戦っているから。それには勇気が必要よ」
ユキが弱々しく微笑んだ。
「ありがとう」
「いつ家に戻るの?」
「分からない。たぶん……たぶん今日。健二は7時まで仕事。家は空いてる」
「一緒に行こうか?サポートのために?」
ユキが考えた。
それから首を振った。
「いいえ。ありがとう。でも……一人でやらないと。もしやるなら」
「分かった。でも後で電話して。いい?大丈夫か知りたいから」
「分かった」
カフェの外で別れた。
ユキが地下鉄に乗った。
世田谷方面。
家の……方面。
移動中、窓の外を見た。
流れる東京。
速い。混沌とした。
彼女の人生のように。
全てが……普通だった。
数ヶ月前まで。
それから何かが変わった。
健二が変わった。
あるいはたぶん彼女がいつもあったものを見始めただけ。
誰にも分からない。
駅に着いた。
マンションに向かって歩いた。
階段を上った。
3階。
ドアの前。
鍵を取り出した。
手がわずかに震えていた。
鍵を差し込んだ。
回した。
カチッ。
開けた。
「健二?」
沈黙。
家は空だった、当然。
彼は仕事中。
7時に戻る。
午後2時だった。
5時間あった。
5時間、何のために?
探すために?
彼の信頼を裏切るため、それとも真実を見つけるため?
入った。
後ろのドアを閉めた。
そして沈黙の中に立っていた。
リビングは同じだった、全ていつも通り。
でも違った。
違う種類の空虚。
哲也が遊んでいない。健二がテレビを見ていない。
彼女だけ。
そして思い出の幽霊。
棚を見て額縁を見た。
写真。
彼女と健二……何年前?
15年?
たぶんもっと。
結婚前。
哲也の前。
全ての前。
額縁を取った。見た。
鎌倉。海岸。
夏。太陽。
健二が白いTシャツ。巻き上げたジーンズ。砂の中の裸足。
彼女が彼の腕の中。
巨大な笑顔。二人とも。
幸せ。
とても、とても幸せ。
あの日を覚えている。
電車に乗った。即興の逃避行。
「海に行こう!」と健二が言った。
「でも火曜日よ!明日仕事があるのに!」
「だから何?生きよう!」
そして彼女は笑った。
はいと言った。
なぜなら彼と……
彼と一緒なら全てが可能に見えたから。
あの時。
全てが軽く、簡単に見えた。
到着した。海岸を歩いた。
アイスクリームを食べた。くだらないことで笑った。
それから彼が振り向いた。
彼女を見た。
そして言った。
「この女性と結婚する」
「まだ頼んでもないのに!」と彼女は笑いながら答えた。
「毎日目で頼んでるよ」
「何がしたいか分かる?」と健二が言った。
「何?」
「書く。俺たちのことを書く。この瞬間を。だから絶対に忘れない」
「今日はロマンチックね」と彼女は笑った。
「本気だよ。全部覚えていたい。全ての詳細。君が俺をどう感じさせるか。太陽が君の髪をどう照らすか。どう……」
彼女にキスした。
「君のことを書く」と囁いた。「いつも」
馬鹿げている。
ロマンチック。
完璧。
彼女は泣いた。
喜びの涙。
「ええ。答えはええよ」
そして彼は太陽が沈む間彼女にキスした。
世界全体が彼らのためだけに止まるように見えた間。
ユキがまたその二人を見た。
若い。無邪気。希望に満ちている。
「君のことを書く。いつも」
あの言葉。
どこに行った?
いつ変化が忍び込んだ?
いつこれから……
今の彼らになった?
同じ家に住む見知らぬ人。
同じベッドで寝るが何キロも離れている。
何も言わずに話す。
あの男はどこに行った?
彼女を笑わせた男。
馬鹿げたロマンチックなことを言った男。
彼女のことを書くと約束した男。
いつも。
どこに行った?
涙が流れ始めた。
静かに。
熱く。
「健二」と囁いた。「何があったの?」
でも誰も答えなかった……沈黙以外は。
額縁を置いた。
目を拭いた。
たぶん……
たぶん探すべきじゃない。
たぶん彼と話すべきだ。
本当に話す、昔のように。
怒りなしで。非難なしで。
ただ……話す。
でもそれから……
それから思い出した。
彼の冷たさを。
嘘を。
「用事」を。
アルコールの匂い。遅刻。
彼の目の距離。
まるで彼女がもう存在しないかのように。
話すだけでは十分じゃなかった。もう試した。
だって隠していることはたぶん言葉より大きいから?
「美智子さんは正しかった」と声に出して言った。
「知らないといけない」
探し始めた。
几帳面に、計画していたように。
まずクローゼット。
開けた。
彼の服。
ポケットを確認した。
ジャケット。パンツ。コート。
何もない。
レシートだけ。小銭。ハンカチ。
変なものはない。
引き出し。
下着。靴下。Tシャツ。
全て普通。
ナイトテーブル、彼の側。
本。目覚まし時計。携帯充電器。
何もない。
浴室。
薬棚。
普通。全て普通。
たぶん……
たぶん本当に何もない。
たぶん彼女はただ妄想的だった。
でもそれから……
それから机を見た。
寝室に。
角。小さい。シンプル。
健二が保管している……何を?
書類?紙?
そこを見たことがなかった。
理由がなかった。
近づいた。
3つの引き出し。
上。
開けた。
請求書。契約書。仕事の書類。
全て普通。
中央。
ペン。メモ帳。クリップ。
普通。
下。
止まった。
取っ手に手。
止まる最後のチャンス。
知らない。
何を保つ?
幻想?
希望?
結婚?
ドアを見た。
去ることができた。
今。
哲也のところに戻る。
全てが……
いや。
できなかった。
もうできない。
知らないといけない。
引いた。
開けようとした。
詰まっている。
心臓が飛び跳ねた。
鍵がかかっている?
鍵を探した。見当たらない。
もう一度試した。
詰まっている。
ただ詰まっている。
両手で取っ手を掴んだ。
引いた。
より強く。
木がきしんだ。
また。
カチッ。
突然開いた。
ほとんど後ろに倒れそうになった。
荒く息をした。
そして中を見た。
中には……
中には書類があった。
古い給料明細。レシート。
普通。
でも下に。
一番底に。
ほとんどまるで……
まるで誰かが他の書類を上に置いたかのように。
わざと。
隠すために。
紙を動かした。
そして見た。
ノート。
シンプルな表紙。茶色。
外側に文字なし。
隠されている。
意図的に隠されている。
忘れられていない。
失われていない。
隠されている。
取った。
手が震えていた。
なぜここに?
なぜこんなによく隠されている?
中に何がある?
開けた。
最初のページ。
文字。
2つの言葉。
活字体で。
見た。
そして囁いた。
「これは何……?」
時に一つの質問で十分だ。たった一つ。「これは何?」そして全て……知っていると思った全てが……揺らぐ。崩壊する準備ができて。




