「(たぶん)人を殺した日」
この物語には三つの真実がある。
そのうち二つは嘘だ。
もう一つは本当じゃない。
あなたはどれを信じる?
俺の名前は田中健二。殺人犯だ。
たぶん。
三十二歳で、二十五の時からトラックを運転している。
七年間、完璧な運転記録。事故ゼロ。スピード違反ゼロ。俺の記録はあまりにも綺麗で、去年は会社からボーナスまで貰った。
「田中さんは我が社の模範ドライバーです」班長が授賞式でそう言った。盾まで貰った。
その盾を今、毎朝、皮肉と恐怖が混ざった気持ちで眺めている。
でもまあ、順を追って話そう。この話を語らなきゃいけないなら——いや、語らなきゃダメなんだ、マジで——最初から始めるべきだろう。全てがクソみたいになった日から。
火曜日だった。
ありふれてるって思うだろうが、災難ってのは大体火曜日に起こるもんだ、違うか?
金曜日には絶対起きない。せめて週末でトラウマを処理できるのに。いや、いつもクソったれな火曜日だ。
目覚ましは相変わらず五時半に鳴った。起きて、シャワーを浴びて、いつものように泥水みたいなコーヒーを淹れて、前の晩にコンビニで買った鮭のおにぎりを食った。ルーティン。安心。日常。
六時四十五分には既に山田運送のデポにいた。いつものルート、東京から大阪まで荷物を運んで、降ろして、戻る。八時間の高速、つまらないポッドキャスト、そして俺の相棒——二〇一九年式の日野プロフィア、東京三百ナンバー、車台番号は…まあ、技術的なことはどうでもいい。
要するに、普通のトラックだった。少なくとも、俺はそう思ってた。
「健二君!おはよう!」整備士の鈴木さんの声が、出発前点検をしてる俺に届いた。
「おはようございます」タイヤをチェックしながら答えた。
「でっかいのは調子どう?」
「相変わらずですよ。この子は不滅です」
鈴木さんは笑った。「ああ、昔の日野はよく出来てるよ。最近の電子機器だらけのゴミとは違う」
俺は上の空で頷いた。
オイル:問題なし。
ブレーキ:問題なし。
ライト:問題なし。
全てが完璧に、完全に、安心できるほど正常だった。
七時十五分、高速に乗った。
最初の異変は十時半頃、静岡あたりで起きた。
中央車線を走ってた。大型車規定の時速八十キロで一定速度。その時、エンジンが…唸った。
他に表現のしようがない。回転数が上がったんじゃない。加速したんじゃない。文字通り唸ったんだ。怒った獅子みたいに、三秒間。
「何だよ——!?」
回転計を確認した。正常。アクセルペダルを確認した。足は動いてない。でもあの音は聞こえたんだ。
疲れてるんだろう、と思った。三十過ぎたら八時間睡眠じゃ足りないのかもな。
ラジオをつけて、音量を上げた。クソみたいなJ-POPで好きじゃなかったが、少なくとも沈黙は埋まる。
十分後、ハンドルが振動した。
道路の凸凹で揺れたんじゃない。振動したんだ。まるで誰かが内側から揺さぶってるみたいに。
「よし、大阪着いたら全部チェックしてもらおう」独り言を呟いた。「パワステに問題があるのかも」
でも心の奥では分かってた。このトラックは三年運転してる。あらゆる音、あらゆる振動を知ってる。そしてこれは…これは初めてだった。
十一時に、サービスエリアで昼休憩に停まった。降りて、背中を伸ばした(クソみたいな仕事で腰が死ぬ)、もう一度簡単にチェックした。
何もなし。全て完璧。
「頭がおかしくなってるな」声に出して言った。別のトラック運転手が変な顔をして、トイレに向かって足早に去った。
最高だよ、健二。今度は独り言か。
フードコートで急いでカレーライスを食った——段ボール味のカレーだったが安かった——そして出発した。
見えたのは十三時四十五分、名古屋の四十キロ手前だった。
男の子。二十歳か、せいぜい二十一。黒いパーカー、英語で何か書いてあったが距離が遠くて読めなかった。ダボダボのジーンズ。リュック。イヤホンをつけてる。
そして手には本。
普通の本じゃない。遠くからでも分かった。ライトノベルだ。
紫髪のアニメ少女の表紙、蛍光イエローの長ったらしいタイトル。
男の子は歩道を歩いてた。その区間で高速に沿ってる一般道の脇。ぼんやりしてる。完全に読書に夢中。
バカめ、と自動的に思った。ちゃんと前見ろよ、クソ野郎。
そしてその瞬間、トラックが加速した。
誤解しないでくれ。
頭がおかしく聞こえるのは分かってる。でも俺の意志じゃなかったんだ。
俺はアクセルを踏んでない。足はクルーズの位置にあった。
でもトラックは加速した。
エンジンの回転が上がるのを感じた。速度が上がるのを感じた。八十五キロ。九十。九十五。
「何だよ——!?」
アクセルから足を離そうとした。意味がなかった。エンジンは勝手に推進し続けた。
ブレーキを踏もうとした。ペダルは下まで行ったがトラックは減速しなかった。
ハンドルが回った。勝手に。右へ。ちょうどあの一般道に出る出口車線へ。
「やめろやめろやめろやめろ——」
ハンドルと格闘した。雄牛と戦ってるみたいだった。全力で左に引っ張ったがクソみたいなステアリングは動かない。
男の子がそこにいる。どんどん近づいてくる。まだクソ本に目を落としたまま。
「逃げろおおおお!」叫んだ。聞こえるわけないと分かってたが。
クラクションを鳴らした。もう一度鳴らした。
二十メートル。
十五。
十。
ハンドルは無理。ブレーキは反応しない。俺にできることは見てるだけ。無力に。俺のトラック——俺のトラックが——あの男の子に向かって真っ直ぐ進んでいくのを。
五メートル。
男の子が顔を上げた。
目が合った。
表情が変わるのが見えた。驚き。それから恐怖。それから——
ドスン。
大きくなかった。映画みたいじゃなかった。鈍い音だけ。くぐもった。
それから何もなし。
トラックが停まった。
そう。勝手に。エンジンはアイドリング。ブレーキは機能してる。全てが正常。
ハンドルに座ったまま…どれくらい経ったか分からない。十秒?一分?一時間?
手が震えてた。心臓が胸の中で狂ったように打ってた。
豚みたいに汗をかき始めた。
轢いた。クソ、クソ、クソ、轢いちまった。
トラックから降りた。足が崩れそうだった。前の道路を見た。
何もない。
トラックの下を見た。
何もない。
後ろを見た。
何もない。
死体なし。血痕なし。衝突の跡なし。本すらない。リュックすらない。
「でも…でもここにいたんだ!」誰もいない場所に向かって声を上げた。「見たんだ!」
沈黙。木々の間を抜ける風と、遠くの高速の音だけ。
その道を三往復した。茂み、溝、全部チェックした。何もなかった。
よし、健二。深呼吸だ。理性的に考えろ。
選択肢A:本当に轢いて、死体が…どっかに飛んだ?どこかに転がった?
いや。ありえない。物理がそんな風に働くわけない。
選択肢B:ギリギリで外して、俺が気づかない間に逃げた。
もっともらしい。でも、なんで衝撃を感じたんだ?
選択肢C:最初から男の子なんていなくて、俺は寝不足で幻覚を見てた。
…これが一番理にかなってきた。
トラックに戻った。心臓はまだドキドキしてたが、少なくとも手の震えは止まった。
ダッシュボードを見た。正常。ハンドルを見た。正常。ブレーキペダルを触った。完璧に反応した。
「五時間睡眠か」呟いた。「もう足りないんだな。もっと寝ないと」
運転を再開した。今度は速度を七十に落として、制限より下。そして道路から目を離さなかった。
大阪には二時間遅れで着いた。倉庫の責任者は不機嫌そうに見たが、何も言わなかった——俺が青白すぎて、体調悪いと思ったんだろう。
ゾンビモードで荷卸しした。書類にサインした。東京に向けて出発した。
帰りの道中ずっと、あの男の子のことを考え続けた。
あの目。黒いパーカー。本。
本物だったのか?本当にそこにいたのか?
考えれば考えるほど、違うと確信していった。
幻覚だったに違いない。
マイクロスリープってやつかも。目覚めたまま夢を見る、あの一瞬の睡魔。
ああ。それだったんだろう。
デポに戻ったのは二十二時半。鈴木さんがまだいた。相変わらず——あのクレイジー野郎は工場に住んでるようなもんだ。
「健二君!どうだった?」
「問題なかったです」嘘をついた。「あの、トラックが…今日変な音してたんです。チェックしてもらえますか?」
「どんな音?」
「エンジンが…唸ってて。ハンドルが振動して。ブレーキが…とにかく、全部見てもらえますか?」
鈴木さんは眉を上げたが頷いた。「分かった、明朝フルチェックするよ」
「お願いします」
家に帰った。カップラーメンを食った。テレビを見たが何も頭に入らなかった。
それからベッドに入った。
でも眠れなかった。
あの男の子が見え続けた。見開いた目。ドスンという音。
そしてあの感覚、理屈に合わない確信が…本当に起きたんだって。俺が誰かを轢いたんだって。
でも死体はなかった。
証拠はなかった。
何も起きてないのかもしれない。
たぶん。
翌日、鈴木さんから朝食中に電話があった。
「健二君、トラック全部チェックしたよ」
「で?」
「完璧だ。文字通り完璧。機械的な問題は一つもない。ブレーキは新品、エンジンは工場出荷時みたいだ。昨日何を聞いたのか分からないけど、このトラックは最高の状態だよ」
「…そうですか。ありがとうございます」
電話を切った。
バックグラウンドでテレビが朝のニュースを流してた。消そうとした瞬間、聞こえた:
「…昨日午後、名古屋地区で行方不明。渡辺祐樹さん、二十一歳、大学生が、午後一時頃家を出たきり戻っていません。家族は大変心配しています。情報をお持ちの方は…」
スプーンが茶碗に落ちた。
画面に写真が映った。
黒いパーカー。黒髪。証明写真の恥ずかしそうな笑顔。
あいつだ。
あの男の子だ。
「…ライトノベルが好きで、よく歩きながら読書をしていました。最後に目撃されたのは高速近くの工業地帯で…」
心臓が止まった。
違う。
違う違う違う違う。
本物だった。本物だったんだ。
そして俺は…
自分の手を見た。また震えてた。
頭がおかしくなってるんじゃないのかも。
もっと悪いのかもしれない。
これを読んでいるなら、おめでとう。人生で最もクレイジーな旅を始めたところだ。俺は田中健二。日本一の非自発的連続殺人犯になった経緯の話だ。いや、違うかもしれない。ただの狂人かもしれない。




