第11話 調査報告(内偵者X視点)
──私の名はX。
この屋敷に身をひそめ、密かに潜入捜査を続けている。
任務の性質上、身元も素性も決して明かすことはできない。そんな私に“名”を与えてくださったのは、他ならぬエリク様だ。
エリク様は、ゲネスの企みにより、この屋敷で奴隷として働かされている。いったい、どれほどの苦痛に耐え、どれほど理不尽を受けてこられたのか。想像するだけで胸が締めつけられる。
先代のフィリップ様の死去が、ここまで屋敷全体を歪ませるとは……。
任務を投げ出してでも、エリク様をこの過酷な境遇から救い出したい──そう願ったのは、一度や二度ではない。自分の無力さに、私は幾度も打ちのめされていた。
──だが、エリク様は決して屈しなかった。
ゲネスに蹴落とされ、執事セルヴァに鞭を打たれ、ワルロに嘲られようとも。
それでも歩みを止めず、むしろ強くなるばかりだった。その成長は、目を見張るものがあった。
奴隷として過酷な日々を送りながら、労役を効率よくこなし、着実に力を積み上げておられたのだ。
……まだ、わずか12歳だというのに……。
──あの方の胆力だけは、少年のそれではなかった。
そして、エリク様がこの屋敷に来られてから、ひと月ほどが過ぎた頃だった。驚くべきことに、あの方はすでに魔法を習得されていたのだ。
私は衝撃を受けた。
こんな短期間のうちに、無属性魔法を自らのものにするとは……。
常識では考えられない速さで、まさに、異例と呼ぶにふさわしい成長ぶりだった。
しかも、すぐさまワルロに一撃を加えたのである。
その威力はまだ小さかったが、それでも、高い才能を片鱗を見せたことに違いはなかった。
いつの間にか、私はエリク様に心を動かされていた。ただ黙って見守るだけでは、もはやいられなかったのだ。
──私は決意した。接触を試みると。
エリク様を信じ、《精神操作魔法》を使う覚悟を固めた。
《精神操作魔法》は、相手の脳内に直接意思を伝える術である。距離を置いたままでも、コンタクトを取ることが可能だ。
しかし、そのリスクは決して小さくない。
一歩間違えれば混乱を招き、相手の精神に深刻な影響を与えかねない。極めて慎重さを要する魔法である。
私は一抹の不安を抱きつつも、ついにその魔法を試みた。
すると、エリク様は最初こそ驚かれたものの、すぐに私のメッセージを受け取り、まるで普通の会話のように意思疎通を成立させてしまったのだ。
──何という強靭な精神力であろうか。
しかも、それだけでは終わらなかった。
情報の伝達のみならず、エリク様は私に《マナ・コントロール》の指導まで求めてこられたのだ。
わずか数分のやり取りで、ここまで的確に理解してしまうとは……。さすがの私も、思わず息を呑むしかなかった。
そして、あっという間に《マナ・コントロール》を習得すると、まさか、あの物置小屋の閂を、いとも簡単に外してしまわれたのである。
その抜群のセンスに、私はただ感服するしかなかった。
私が知っているエリク様とは、まるで別人のようだった。
その変貌ぶりは、日々の努力や才覚といった範疇を超え、もはや説明のつかないもののように思えた。
魔物を狩りに繰り出すその姿は、まるで“経験”そのものを貪る鬼神のようだった。
かつてのエリク様からは、到底想像つかない変化がそこにあった。
さらには、囚われた精霊を解放し、祝福まで受けてしまうなんて……。
──いったい、エリク様に何があったのだろうか……。
常人がこの数ヶ月で成し得ることではなかった。その驚異的な行動力と才能に、私はただ驚くばかりであった。
そんなエリク様の活躍ぶりは、いつしか周囲にも影響を及ぼすようになっていた。
皆が、ひたむきに努力を重ねるエリク様に、心を動かされていたのだ。
本来なら、ゲネスに忠誠を誓うはずの者たちでさえ……、気づけば、自然とエリク様に心を許していた。
これは、大きな変化だった。
エリク様は、人の心を動かし、世界を変えてしまう力がある──。
そして、その圧倒的な力の前に、私もまた、例外ではなかった。
私は、自分を見失ってしまったのだろうか……。
潜入捜査に従事する者として、決して踏み入れてならない一線を、私は越えてしまった。
──あろうことか、
私は、エリク様に直接声をかけてしまったのだ。
『坊や』と。
周囲の目もあり、そう呼ぶしかなかった。
失礼を承知で、あえてその言葉を選んだ。
幸いなことに、エリク様は声をかけた使用人の私が、Xであることに気づいておられなかった。
それでも、胸の奥には、拭いきれない罪悪感が残った。
……私は、内偵者として失格なのだろう。
だが、私がこうして直接声をかけられるようになったのも、ひとえにエリク様の努力の賜物である。
その想いを伝えたくて、私はせめてもの気持ちとして、ほんの小さな声援を送らせていただいた。
次期辺境伯となられるその日には、このたびの無礼を、必ずお詫び申し上げねばなるまい。
しかし、今はその誓いを、胸の内にそっと仕舞い込む。
私は再び、潜入捜査へと意識を向けた。
何としてもゲネスの悪事を暴く──それこそが私の使命である。
そのためには、まず執事セルヴァの結界を突破せねばならない。
だが彼は、ゲネスが莫大な金を投じて雇われた精鋭の魔術師だ。その実力は決して侮れるものでなかった。
屋敷全体に張り巡らされた結界は、単なる障壁でなく、幾重にも重なる防壁と侵入者を即座に探知する魔法が、網の目のように張り巡らされている。
下手に動けば、その行動は瞬時に露見し、すべては水泡に帰すであろう。
まさに、難攻不落──そう呼ぶにふさわしい鉄壁の護りであった。
私は静かに気配を消し、捜査を続けながら、結界にわずかな隙が生まれる瞬間をじっと待ち続けた。もどかしい時間だけが、静かに流れていく。
──その折、屋敷で不穏な動きを掴んだ。
人払いを終え、静まり返っていたはずの廊下に、慌ただしい気配が走る。
私は即座に身を潜め、情報を得るべく、静かにその場所へと向かった。
辿り着いたのは、屋敷内でも特に立ち入りが厳しく制限された、ゲネスのプライベートルームだ。
重厚な扉の向こうから、低く唸るような声が漏れてくる。ゲネスの声に混じって聞こえてきたのは、
──セルヴァだ。
ふたりは密談していた。何やらただならぬ気配を漂わせていた。
私は扉の影に身を寄せ、耳をそばだてる。一言一句聞き逃すまいと、神経を研ぎ澄ませた。
「エリクの様子はどうだ? 変わったところはないか?」
「はい。抵抗の素振りはなく、奴隷としての務めを忠実にこなしております」
「……ふん。そうか。あいつらしいと言えば、あいつらしいが」
「何か、お考えがございますか?」
「セルヴァよ、匂わぬか? あの小僧、ただ大人しくしているわけではないようだぞ。従順を装いつつ、密かに爪を研いでいる」
「爪、でございますか………?」
「最初に剣戟の試合をさせた時だ。あいつはワルロの技を見切っていた。以前のエリクの動きとは、明らかに別物だ」
ゲネス・ダークベルク──この辺境を治める冷徹な領主にして、並ぶ者なき剣豪。その慧眼は、どんな微細な異変すら見逃さぬと恐れられている。
──どうやら、エリク様の変化にも、すでに気づいているようだ。
「エリクが何かを企んでいるということでしょうか……? であれば、いっそ早めに始末をつけては?」
「いや、それはまだ早い。エリクは利用価値がある。その時まで命は取らずにおくのが賢明だ。──ただし、決して目は離すな」
その言葉に、私は血が沸き立つのを感じた。
……いったい、エリク様に何をしようというのか!
母娘を国外に追いやったうえに、なおもエリク様に手をかけようとするのか。権力を守るためなら、家族さえ平然と駒のように使うのか。
──まさしく、外道!
私はもはや冷静ではいられなかった。
「誰かいるのか!」
セルヴァが鋭く叫んだ。
どうやら、私の殺気を察したらしい。
瞬時に潜伏のスキルを発動し、私は静かにその場を離れた。
──復讐は、今ではない。
私にできることは、ただひとつ。
ゲネスの陰謀を暴き、やつの手からエリク様を守ること。
そして何よりも、エリク様の復権を成し遂げる、その時まで、この刃は決して抜かぬと誓おう。
私はそう自分に言い聞かせ、静かに行動を開始した。
エリク様の危機を知らせるべく、ふたたび闇に潜り込んだ。




