『神器』 第24回
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単独行動は久しぶりの事だった。市外からICカードを持たずに訪れた人向けの紙の切符を買い──風代程ではないが全国的にICT化の進んだ日本でも、未だに現金や紙の切符は使用されている──、環状線で風代駅まで行き、そこで普段大学と駅の往復で使っている路線に乗り換える。
ステーションキャンパスの前で降りてから、僕は自分の足が本キャンパスではなく大学病院の方へ自然に向かっている事に気付き、呆然とした。
一人で抱え込むなとは由憐にも言われたが、それで一晩で立ち直れる程単純なものではないようだった。
──昨日、病院のスタッフには顔を見られている。現場見学に訪れていた医学生だとは思われたはずだが、監視カメラがテラスの”目”になっている以上、敵に目を付けられている僕が事件現場をうろつくのは危険かもしれない。
理性ではそのような判断が出来たが、僕は気付いても足を止める事が出来なかった。
僕たちの行動の結果──僕たちが直接手を下した訳ではないとはいえ──何が起こったのか、僕たちの目的達成の為に誰がどのような不幸を被る事になったのか、見ておかねばならないと思った。
入口の自動ドアを潜ってすぐ、喧騒に包まれた。
僕は面食らい、その場に立ち尽くす。ロビーに集まっていたのは、各々に荷物を抱えた大勢の人々だった。彼らは所々に立った医師の周囲に群がり、口々に何かを訴え掛けているらしい。看護師やその他のスタッフが彼らを押し留めながら、「順番に! 順番にお願いします!」と叫び続けていた。
「他の病棟は、大丈夫なんでしょうね!?」
「うちの子が小児病棟に居るんです! 様子を教えて下さい!」
「細かい事はどうでもいいんです! ただ、あいつを家に帰すからあんた方が『許可します』って一言言ってくれれば済む話なんだよ!」
(………!!)
僕は、今起きている事が何なのかを察して息を呑んだ。
彼らは皆、入院患者の身内の人たちだ。システムダウンによりICU患者たちが集団で死亡したという昨日のニュースを受け、同じ事が一般病棟でも起こるのではないかと危惧して家族を退院させようとしている。病院は一度に大量の手続きを要請され、恐慌状態に陥っているのだ。
それは、風代大付属病院の信頼が完全に失墜した事を意味していた。恐らく、ここと同様のシステムを採用している風代総合病院でも近いうちに同じ事態が発生するだろう。そうなれば、風代の二大医療機関は喪失する。
ここまでを「機械仕掛けの神」が意図したのかは判断出来ない。香宗我部博士の推測していた通り、最終的には風代のエントロピーを増大させきって崩壊させる事がその目的ならば、遅かれ早かれこの状況は到来しただろう。しかし、現況に「機械仕掛けの神」の恣意が働いているにせよいないにせよ、「試練の季節」の開始以来の事を顧みれば、人々は今回の事故の原因が病院のシステムではなく、それを実際に運営しているテラスだと考えて然るべきなのではないか。
理性的でない──現状に対して理性という語句を使う方が馬鹿げているが、それが正しいか間違っているかを措くにしても論理的でない。彼らは今、自分たちが何を考え、どのような行動を取っているのか自分たちでも分かっていないのだ──。
「術前処置も始まっていますが、本当に宜しいのですか? もう一度本人を交えて、私どもと落ち着いて話し合いを……」
「必要ありません! あなたたちだって何もかも機械任せにしているから、本当はどうなるかすら見えていないんでしょう!」
近くで、ヒステリックな老婆の声が響いた。思わず視線を向けると、やはり入院患者の家族と思しき高齢女性が、若い医師に対して胸倉を掴まんばかりの勢いで談判しているところだった。
「しかし、旦那様の状態は極めて安定しています。ここで手術を取り消して退院という事になりますと、治療は今よりも困難になるという事は先程も申し上げた通りです。お母様の気持ちは重々承知しておりますが……」
「構いません! 胃癌で死ぬんだったら、訳の分からない機械トラブルで死んだり、薬と毒を間違えられて死んだりするより人間らしい最期でしょう! 主人だって、それなら本望なんじゃありませんか?」
「駄目です、そんなの!」
無自覚のうちに、僕はそう叫んでいた。激しく往来する人々の間を縫い、やり取りする医師と老婆へと駆け寄る。「病院を見限ってはいけません!」
「だ、誰ですか、あなたは?」
老婆が、やや怯えたように身を引いた。自分で思っていたよりも大きな声が出てしまったのか、周囲が急に静まり返る。その”波”は、他の場所で声を上げていた人々にも伝播し、徐々にロビーの喧騒が薄らいでいった。
大勢の視線が、僕に集中していた。
ここでおざなりに詫びを口にし、立ち去るという選択肢も僕にはあった。しかし、一度聞いてしまった事を聞かなかった事には、僕には出来なかった。
「テラスのせいなんです。僕たちが上手くやれなかったから、テラスがやり返してきたんです。それで皆……ICUに居た人たちが、あんな事になってしまって……だから、病院は悪くないんです」
言葉が支離滅裂になっているのは、自分でもよく分かった。興奮を宥めようとしているうちに、僕は言ってしまっていた。
「テラスのネットワークでさえなければ、病院のシステムは完璧です。だから、僕たちは昨日、それを別のネットワークに移行させようとして……そうしないと、皆テラスに殺されてしまう、『機械仕掛けの神』の手に掛けられてしまうから」
「ふ……ふざけないでくれ!」
近くに立っていた初老の男が、拳を軋ませながら低く叫んだ。
「『機械仕掛けの神』だと!? 最近、若い連中が騒いでいるやつか! そんな寝惚けた事を言って……本当に人が死んでいるんだぞ!」
「別のネットワークって何だ? あんた、昨日何かやったのか?」
怯えた声を出す中年。途端に、こちらを見る顔の多くが恐怖に青褪めた。
「それじゃあ、まさか」
「こいつが……ニュースで言っていたハッカー……?」
「……はい」
僕は、一瞬だけ目を伏せた。
「けれど、皆さんに害を及ぼそうなどという気持ちは微塵もありませんでした。それだけは信じて頂けませんか?」
「馬鹿にするのも大概にしろ!」
群衆から声が上がった。
「陰謀論好きの、カルト宗教かぶれの、暇持て余したガキどもが! わざとだろうが何だろうが、事実は一つだけだ! お前らが寝言言って、後先考えずに勝手な事をしたせいで百人も死ぬ始末になったんだぞ!」
「どう責任取るつもりなんだよ、ああ!?」
「姿も倭文も死んだぞ? お前らは死刑にならねえのかよ、人殺し!?」
──人殺し。
僕は、硬化した心臓に錐を突き立てられたような気分になった。実際にどのような意図だったにせよ、僕たちの作戦の結果「試練の季節」開始から最悪の犠牲者を出した事は事実なのだ。その事は分かっていたが、それが世間的にはそのような言い方をされるのだという事を──分かっていたとは、言い難かった。
僕が歯を食い縛り、浴びせられる口々に罵声に耐えていると、不意に三十代程の女性が挙手をしながら言った。
「もし、この人が神曲ゼミナールだったらさ」
「ああ?」
「テラスの”神”の裁きだとか言って、それを信じない私たちまで殺そうとするんじゃないかしら? 誰か、録画とか録音とかしていない? それ、この人にとっては自白したっていう証拠になるのよ」
「そう言われれば、確かに……」誰かが声を震わせる。「奴らは、脱会しようとした連中を毒ガスで殺している。証拠隠滅の為なら、下っ端を切り捨ててでも俺たちをやろうとするかもしれない」
「違います!」
僕は叫んだ。甘んじて受けようと思っていた糾弾だったが、それが分水嶺を越えようとしている事を察し、そうせずにはいられなかったのだ。
「お願いです、僕の話を聴いて下さい!」
「うるせえっ!」
ジュースの缶が飛来し、僕の顎に当たった。歯をぐらつかせるような芯のある痛みと共に、飲み残しがシャツに零れる。よせ、殺されるぞ、という制止の声と、よくやった、という歓声が等分に混ざり合って耳に届く。
途端に、ゴミや閲覧自由の雑誌、パンフレットの類が雨霰と投げつけられた。僕は両手で顔を庇いつつ、病院スタッフたちの方を見る。
彼らは目を逸らし、憮然とした顔で黙りこくっていた。僕が発言している間何も容喙してこなかった代わりに、押し掛けた入院患者の身内たちに対して止めるような事も言わない。むしろ、その声を上げる事で彼らの感情の矛先が自分たちに向けられる事を恐れているかのようだった。
──僕は今、受けるべくして罰を受けているのか。
そう思い、すぐに「否」と頭を振る。僕たちが取った行動は、それが法に反するものであったにせよ、法を犯したという責めを受けてでもここに居る皆を助ける為であり、私情はなかった。
──では、これも「機械仕掛けの神」の段取りの内なのか。
僕たちを追い詰める為、と考えてから再び否定する。何故僕は、全てを目に見えない力のせいにしようとするのか。それでは自分に起こる出来事の全てが「機械仕掛けの神」を中心に回っていると考えるような──畢竟僕たちは彼の掌の中で踊っているのだと、認めるようなものではないか。
──僕たちは踊らされているのか?
そう考える事自体、既に僕たちが抗えない事の示唆なのか?
感情を爆発させ、全てを否定してしまいたいような──あらゆる事に対する怒りを誰かにぶつけたいような気持ちが込み上げた。何処かでそうしないと、僕自身の意思が希釈され、消えてしまうのではないかという不安に支配されていた。
その時、僕が入って来た自動ドアが開いた。
「何の騒ぎだよ、これ……?」
突然の闖入者に、視線が自然に引き付けられる。大きな花束を抱えたその人物の顔を見た時、僕はものをぶつけられる痛みも忘れてあっと声を出してしまった。
「嵐山……さん」
現れたのは、タレントの嵐山紅葉だった。先日、大学の裏山で僕と共に遺跡崩壊に巻き込まれ、精神的なショックで入院を余儀なくされた市外の人間。もう一ヶ月以上経って退院しているはずだが、レスキュー隊到着と共に倒れてしまった彼が搬送された病院はここだったらしい。距離的に考えて当然か、と僕は思う。
突然の芸能人の登場に、人々は僕に対する攻撃の手を止めた。一様に彼に視線を集め、中にはSNSに投稿する為かHMEを構えている者も居る。
嵐山紅葉は「ああ、やめてやめて」と花束で顔を隠した。「今はお仕事中じゃありませんから、プライバシーに関わりますよ」
「紅葉さん、まだ風代にいらっしゃったんですか?」誰かが尋ねた。
「一回帰ったんですけどね、フリーの日はお見舞いに来るようにしているんです。あの事故で奇跡的に助かった人が一人、ここに入院しているから」
彼はにこやかに言った後、「で」と声の調子を変えた。
「これは一体、何の騒ぎだろう?」
「ニュースをご覧になりませんでしたか?」先程僕に殺されるかもしれないと主張した女性が、声を高くして言った。「昨日、この病院がサイバー攻撃に遭ったんですよ! 沢山の人が亡くなりました。その犯人が──」
視線が僕に戻る。その先をなぞった嵐山紅葉が、あっと叫んで指を鳴らした。
「君、この間の学生君じゃないか?」
「えっ……?」
覚えていてくれたのか、と僕は面食らう。彼の言葉を聞いた人々が、急に戸惑うような顔つきになって彼と僕の間で視線を彷徨わせた。
「知り合い……だったんですか?」
「知り合いどころか命の恩人ですよ。この間の『バズリーチ』の時──」
言いかけ、彼ははたと口を噤む。ニュースで僕の顔が隠され、現場に居た「地元の大学生」として扱われていた事を思い出したらしい。僕は無理矢理微笑を浮かべ、「プライバシーの事なら気にしないで下さい」と言った。今更そのような事に、敢えて拘泥するべき事情もない。
嵐山紅葉は頭を掻き、「何だか分からないけれど」と言った。
「良くないですよ、こういうの。大人が寄って集って学生を攻撃するなんて」
「だって……だってこの人は!」
一人が指先を僕に突きつける。
「この人は病院をハッキングしたんですよ! そのせいで、ICUに居た人たちは死んでしまったんです!」
「何? それは」
「嵐山さん」
僕は彼の言葉を遮ると、黙って首を振った。彼は一瞬顔を歪め、息を短く吸い込むと、考え込むかのように目を伏せた。
彼が何を思っているのか、考える事もしたくなかった。彼に対して何かを期待した訳でも、以前から特別の気持ちを感じていた訳でもない。それでも何故か、僕を糾弾する”彼ら”の中に彼が含まれる事に寂しさを感じた。
しかし、次に彼が発したのはそのような台詞ではなかった。
「──あなたたちが感じているのって」
皆が、彼の声に耳を欹てた。
「本当に、彼に対する怒りなんですか?」
「嵐山さん?」
思いがけない言葉に、僕は息すらも止める。彼は続けた。
「ニュースなら、俺だって見ましたよ。彼が本当に百人も殺したハッカー──いえ、テロリストだと思ったら、皆さんは彼を攻撃したりはしないんじゃないですか? そんな事をすれば、今度その牙を向けられるのは自分たちかもしれないんですよ」
「それは」
誰かが反論しかけ、すぐに言葉を切る。
「はっきり言っちゃいますよ。皆さんが怖がっているのは、『機械仕掛けの神』なんじゃないですか?」
彼は、全国放送では徹底して”神”という言葉が使われていたその存在の事を、はっきりと風代市民が使う名称で呼んだ。
「本当にそんなものが居るのかどうかは分かりません。正直、俺は信じていない。テレビ局の人だって、カルト宗教団体がばら撒いた根も葉もない噂だって言っていた。けど、それをあなた方は心の何処かで信じているんでしょう? 非科学的な事なんか起こらないとか思っていても、俺の出ている『バズリーチ』を楽しんで観てくれるように。その学生君だってきっと、あなた方と同じじゃないんですか?」
「けれど……」
「あなた方は、彼がハッキングをして百人の人を殺したとは本当は思っていないんでしょう? 彼の行動の結果、『機械仕掛けの神』が怒ったんじゃないかっていう事を恐れていて、でも理性ではそんなものの存在を認めたくなくて。『機械仕掛けの神』のせいだって言ったら、そんな恐ろしいものが本当に居るんだって認めてしまうようで怖いから、間接的な原因になった彼にぶつけているんじゃないですか? ……勿論、法律違反は褒められるべき事じゃないけどさ」
微笑み掛けられ、僕は言葉を発せなくなる。
嵐山紅葉は一同を見回し、更に言った。
「だけど、彼はそんな法律違反を覚悟した上で、自分がそれをしなければならないって信じる事があったんじゃないですか? 何か、それこそカルト的な思い込みだったとしてもですよ、そうと判断するのは、話を聴いてからにするべきじゃないかな」
「……随分信用しているんですね、この人の事」
「だってそりゃ、彼は俺があの遺跡で事故に巻き込まれた時、助けてくれた人ですよ。自分の命も危ない時にあんな事を出来る人が、テロリストな訳がない」
集まった人たちが、一斉に息を呑んだ。僕が糾弾に遭っている間顔を背けていた看護師の一人が、「そうだったの?」と尋ねてくる。僕は彼に何と言ったらいいか分からないまま、こくりと首肯した。
「名前も知らない人だけど、彼が信用に値する人間だって事は一応言っときます。……いや、そうじゃないな。俺がそう思うって事は、だね」
嵐山紅葉はそう言うと、絶句する人々の間を淀みない足取りで抜け、エレベーターの方に向かった。