『神器』 第21回
二人に手を振り、僕は小走りで廊下を駆け出す。突き当たりの扉を開くとそこも廊下になっており、電灯が点いていない為非常口の灯りだけで、あたかもホラー作品に登場する幽霊の出る病棟を彷彿とさせる。
その非常口表示の下に扉があり、嵌め込まれた磨りガラスの窓から暖色の光が漏れてきていた。微かに人の声も聞こえてくる。クリニックの中待合室だ。
幽霊が怖い訳ではないが、暗い場所に長時間居たくはないので小走りでそこを抜け、クリニックに入る。すぐ隣に大学病院があるので一般人の患者は少なく、開かれた待合室には夏風邪らしい学生の姿が数人見られるだけだった。彼らも、元々二、三人程度しか居ない看護師も、突然駆け込んで来た僕にちらりと視線を向けてきたが特に何も言う事はなかった。件の現場見学の学生が、忘れ物でもしてキャンパスに戻るところだとでも思われたのだろう。
中待合に出てすぐ左手にあるエレベーターに乗り、医学部のフロアへ。こちらは情報工学部のカリキュラムでは授業で立ち入る事は殆どないが、フロア表示を見ながら目的の教室へ向かう。五階の「空き教室」という表示にマグネットの貼られた実習室──S五〇三実習室を発見すると、僕はその中に入って鍵を掛けた。
縦長の室内に、黒い無機質素材の実験台──「理科室の机」のような──が六台並んでいた。それぞれの机の端にはデスクトップPCが備わり、VR用のヘッドマウントディスプレイが箱に収められて入っている。医学部生たちはこれらを使い、昔は一度の実習の度に準備と後片付けに大変な時間が必要だった解剖のシミュレーションを行えるようになっているらしい。
僕の入っていた情報専門のゼミ教室より設備が整っているではないか、と少々羨ましく思いながらその実験台の一台に就く。由憐のノートPCを立ち上げ──一時的にパスワードは解除して貰っていた──、バーチャルの美少女キャラクターが端の方で散歩しているホーム画面のまま待機する。
この間に関係のないフォルダや検索履歴を見たりしないモラルは、僕には当然ながら備わっている。
由憐と諏佐と別れてからここまで、三分程度しか経っていない。まだ病院のサーバとこちらの通信は繋がれていないが、別れた時点で僕たちはサーバルームの入口が見える場所に居た。あの二人の役割は接続口にコネクタを挿すだけなので、予期せぬタイミングで誰かが入って来ないかと細心の注意を払ったとしても時間はそう掛からないはず。
果たして、次の瞬間キャラクターが『接続完了!』と言葉を発しながら小ウィンドウを引っ張り出した。メッセージを読む間もなく、僕はそれをクリックする。
『ネットワークの更新中』というメッセージが表示され、それが消えた瞬間黒地に白い文字列の並んだシェルスクリプトが画面を埋め尽くした。僕は即座に、そのコンピュータ言語の海を目で泳ぎ始める。
今この瞬間、僕とこのPCは「機械仕掛けの神」の目の届く場所へと躍り込んだ。
テラスへの接続。レスポンスタイム──〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇二秒。
一瞬前、彼は風代大付属病院の院内システムへの侵入者に気付いた。
彼──”神のプログラム”を実行。
僕──エンコード開始。
(焦るな、落ち着いてやれば出来るはずだ)
僕は自分に言い聞かせながら、無自覚のうちに背中や額に汗が滲み始めていた事に気付く。PCからこちらの心臓を停止させる程の電流が流れる事は有り得ないし、窓を突き破ってBCSTが飛び込んで来るような事もない。分かってはいても、これまで懸命に韜晦を続けてきた「機械仕掛けの神」の掌に自ら飛び込んだ、という自覚は、容赦なく神経を攻め立ててきた。
僕は今、猛獣の檻の中に踏み込んだのではないか。……否、聖域を土足で侵し、天罰が下されようとしているところなのではないか。
そう考えて止まりそうになる指を、僕は今まで──アウトサイダーの仲間たちと出会うまで、一人で戦っていた時に繰り返していた呪文を思い出して動かした。
踊らされるな、と──。
(いや……あの時も、君嶋先輩は本気で僕と同じ目標の為に……)
指先がキーを叩く度、ここ数日間の突貫工事で詰め込んだエンコーディングの知識と構文が導かれるように浮かんでは画面上で文字列となり、過去の方向へと流れ去って行くようだった。
当然ながら、僕はハッカーではない。同じ情報工学部に居る学生ならば同じように教わってきた知識しか基礎にはなく、究極的には自己満足の為に「機械仕掛けの神」の存在を暴こうと、多少応用的な事柄を短期で必死に吸収したに過ぎない。天才でもなければ本職でもない、学習途上の一大学生なのだ。
だが、由憐たちはそれでも今まで戦ってきたのだ。
PCの中から、高速回転するファンの音が響き始めた。テラスが代行している処理の膨大なキャッシュデータを一挙に引き受け、その上テラスとの中継をしながら全データのファイリング作業を行っているのだ。端末への負荷は相当なものであり、CPUの発する熱もこの短時間で凄まじい量となっただろう。
僕は片手でキーボードを叩き続けたまま、もう片方の手でポケットからSDカードを取り出した。統合ファイル作成の進捗は、直感的な推測だがもうすぐ六十パーセントに達する。ちらりと画面右下の時刻表示を見ると、体感時間の方が遥かに速いらしく作業開始から既に十分が経過していた。
PCの側面からそれを挿し込み、作業が終了し次第即座にデータを移せるように準備を行う。可能ならば作業をしたままデータ移行をしたいくらいだったが、ノートPCのスペックと現在の負荷を考えると、CPU使用率が百パーセントを超えて処理落ちし、全てが水の泡という事にもなりかねない。
急く気持ちを宥めるのに──我慢するのに、僕は指先で行う作業と同じくらいの精神力を要求された。
だが、その僅かな我慢が実を結んでくれたようだった。
暗転した画面の下から、キャラクターがぴょこりと顔を覗かせる。
『新しいファイルの保存先を指定して下さいっ!』
僕は、アニメチックなその声に被せるように音声認識に叫んだ。
「SD - SCR512Gを指定。拡張子とファイル名は自動設定のまま!」
『はーい、由憐お姉様っ!』
飛び出した彼女がファイルのアイコンを何処かから取り出し、隣に表示されたフォルダアイコンに向かって『えいっ』と投げつけるアニメーションを実行する。保存完了の旨を告げると、彼女はウィンクをして画面外へ飛び去って行った。
僕は捥ぎ取るようにSDカードを取り出すと、タスクキルも済ませないまま電源ボタンを長押しし、ノートPCの電源を落とした。
──助かった。
僕は、脱力のあまり椅子ごと倒れ込みそうになるのを懸命に堪えねばならなかった。
「機械仕掛けの神」は無論、僕を見逃しはしないだろう。大学の環境から作戦を実行したとはいえ、テラスに顔が割れている僕がうろついたという記録は必ず何処かに残る。それ以前に、僕たちはこの件を関係各所に伝達するつもりでいるのだから、報復がないと考える事の方がおかしい。
けれど、まず少なくとも統合ファイルは確保出来たのだ。PCはまだ病院のサーバを通じて接続状態だが、SDカードはこの通りテラスの管理下から外れた。このデータが、テラスの引き起こす意図的な”不具合”で抹消される事はない。
暫らく──一分近くもの間、僕は動けなかった。
全力疾走をした後の如く乱れていた呼吸が収まってくると、机に手を突きながら立ち上がる。
次にすべき事は、まだ接続されている由憐のPCを速やかにテラス・ネットワークから切り離し、証拠品であるコネクタとジャマーを回収して脱出する事。通い慣れた学校での出来事なのに大袈裟だな、と自らの思考に苦笑が込み上げたが、実際にここ一ヶ月のうちにアクションめいた事を何度か繰り広げているのであながち芝居がかってもいないのか、と思い直した。
PCをシャットダウンする前に、ネットワーク接続を切ってオフラインにするという手もあった。しかし、あの遠隔操作用のコネクタを抜かない限りは病院のサーバとPCは無線機の如く繋がったままだ。敵に位置が特定されているであろう以上、そのような処理にさして意味はない。
ただ、これで由憐のPCのIPアドレスもテラスに把握される事になってしまった。以降この端末を使ってオンライン作業を行う事は出来ないな、と思い、事前にきちんと説明して許可は貰っていたとはいえ僕は彼女に対して若干の申し訳なさを覚える。
最初は、どうせIPアドレスをテラスに掴まれる事になるのだから、作戦に使用するのは既に掴まれている──というか元々登録されている──僕の端末で良いではないか、と提案したのだが、これには他ならぬ由憐自身から「駄目」と言われた。
「葛西君はあいつが今最も警戒している人物だ。PCがオンラインになったら、その瞬間待っていましたとばかりにメールでマルウェアが送られて来るかもしれない。間違ってクリックしやすい位置にそれを表示する、とかね」
「瞬間っていっても、水鏡のPCを確認して処理を開始するのも一瞬だ。コンマ数秒の差だぞ?」
「他にも罠はあるかもしれない。それこそ”予期せぬエラー”でフリーズさせたり。葛西君に対しては、あいつは幾つも罠を仕掛けているんだから。細心の注意を払って一つ回避しても、その間に次の罠を用意するかもしれない。その一瞬一瞬が積み重なって、一秒以上になるんでしょう。一秒、二秒、三秒あったら、あなたは幾つキーを叩いて処理が出来るの?」
「………」
苦しい理由づけだと思ったが、何故そこまで彼女が”理由づけ”をしたがるのかを考えているうちにその気持ちが分かり、僕は反論するのをやめた。彼女は自分もまた、何かを背負いたかったのだ。