『神器』 第20回
* * *
「この病院には近づかねえって、真栗先輩は言っていたのに……」
「仕方ありませんよ。露木さんのお見舞いに行けないのは、残念ですけど」
真栗先輩、雷先輩にKUの翻訳作業を任せ、僕、由憐、諏佐の”同期組”──この命名者も真栗先輩だった──がやって来たのは、先日重傷を負った露木を運び込んだ風代大学付属病院だった。
テラスのシャットダウンに伴うシステム障害が人命に直結するのは、入院患者の居る医療機関だ。病床数が二十床以上の「病院」のうち、特に重篤な患者が収容されるICUを備えた所は、風代ではこの風代大学付属病院と風代総合病院。この二者間では医療ネットワークの中でも特に強固なパートナーシップが結ばれ、採用しているシステムも同じだと聞いた事がある。
僕たちアウトサイダーが各組織に訴え掛け、各組織がそれに応えてネットワーク移行を行った時に危惧される事が、「機械仕掛けの神」が報復措置に出る事だった。そうなった場合最も恐ろしいのが、自身で防衛の術を持たないICUへの入院患者に危害が加えられる事だ。風代市内に於いて、かつての日本では多くて二十床あるかないかで、設備の維持や看護師の負担の大きさを鑑みてそもそもの必要性についてすら議論される事もあったICUの病床数は、大学病院と総合病院でそれぞれ百五十床、百八十床と、全国一位、二位を三位とは桁違いの差をつけて独占している。
これもまた、運営の為の多くのプロセスが機械化され、その煩雑な管理をテラスが引き受けているという”恩恵”の為だ。それは同時に、それなくしてこの常識外れの規模のICUは回らないという事で、テラスが患者を人質に取っているという事でもある。
しかし、ここで僕たちにとって幸運な事があった。
「風代大学は、三十年代の合併の年から続いています。前身が医大で、付属病院も当初の頃からあったんです。大学の医学部には、テラス・ネットワークへの移行前に使われていたサーバがまだあるはず」
作戦開始前、僕はそう仲間たちに説明した。
「当時と今のスペックを比較しても、付属病院の統合システムをエミュレート出来るだけの能力はあるはずです。システムを仮想化して、そのサーバで実行するように変更すればこれらは簡単にテラスから切り離せる。要件定義の為に話し合ったり、大掛かりな工事をしたりする必要がありません。ICUの自動管理も、もう一台くらいそれ専用のサーバを用意して並列処理させれば」
「仮想化?」これは真栗先輩の台詞だ。
「OSから設定、データベース、アプリなどを全部一つのファイルにして、別のコンピュータのVM(Virtual Machine:仮想マシン)で動かすんです。現在テラスがやっている事に近いですね」
「もう一台か。市外でならそれくらい買えるわね。私のポケットマネーで」
「だけど、そんな二十年近く前のサーバなんて大丈夫なの?」
もっともな懸念を口にしたのは由憐だった。
「経年劣化とか」
「話によると、テラスの社会実験が始まったのはそのサーバが最新のものに買い替えられてすぐだったらしい。その時にはもう国から社会実験の構想が提示されて話がついていたから、本当は一世代前のものをテラスへのシステム移行まで使うはずだったんだけど、テラスが完成する直前に致命的な破損が見つかって買い替えざるを得なくなった。動いているからってそのまま使って、インシデントが起こってからじゃ遅いからな。何しろ人の命が懸かった施設なんだから。
だから当時の最新版サーバは熱で劣化するまで使われていないし、何より今まで十何年も処分されなかったのは医学部がメンテナンスをしっかりしていたからだ。それこそ、いざという時の為に」
「俗に言う『こんな事もあろうかと』ってやつか」
今やとうにネタになってしまった文句を口にした諏佐だったが、僕は説明した。
「万が一、を起こしちゃいけない現場ってあるでしょう? そういう所でシステム運営を行う人たちは、どんな些細な事でも甚大な事故に繋がる可能性には徹底して対策を打たなきゃいけないんですよ。創作物じゃそんなところまで描写しないから、ご都合主義に見えてしまう訳ですけど」
「それにしても、ジロ君」
真栗先輩が、そこでやや引いたような声を出した。「君、情報工学部でしょ? 何でそんなに、他学部の事情に詳しいのよ?」
僕はデータサイエンス部で見慣れた飄々とした顔──考えてみれば彼と真栗先輩の雰囲気は似ている──を思い出し、やや引き攣った顔で答えた。
「それは……君嶋先輩が、何処かから情報を仕入れて来るからです」
閑話休題──。
僕たち三人が付属病院にやって来たのは、そのサーバで実行させる為の統合ファイルを作成する目的だった。院内のシステムへと侵入し、データをコピーする。無論これは患者の個人情報をすら覗く事になる犯罪行為だが、目的は彼らを害する事ではない。それでも悪感情を免れないのならば──それを甘んじて引き受ける事も、また僕たちの”責任”だった。
院内のPCに入り込む為に、本来であればわざわざ現地にやって来る必要はない。予約受付等を行うサーバなどにはインターネットからアクセス出来、一般的なサイバー攻撃もこのような”窓口”から行われがちだ。
しかし、問題はそのPCがテラス・ネットワークに属しているという事だった。入ろうとすると、一度必ず通信がテラスに中継される(テラス自体のセキュリティ機能がそこまで強固でない事はこの間明らかになったが、市内の各組織がそれぞれに設計した対策ソフトであればテラスでエミュレートされる事はある)。そして、テラスはどのような些細な痕跡も見逃さない。「オフィール」から作業を行っている間に位置が特定され、BCSTが襲撃して来る可能性も否定は出来なかった。
「とはいっても、ネカフェから行くのも現地のPCから行くのも、結局はアクセスする前にテラスにバレるか、アクセスした後にバレるかの違いなんだろ?」
プリウスの”運転席”を出ると、諏佐が今更ながら呟いた。
「データがテラスにある以上、絶対一回は『機械仕掛けの神』の目に留まらなきゃならねえ訳だ」
「まあ、その通りなんですけどね。それでも、まさか病院のPCを操作していたら高圧電流が流されるとか、病院に急襲部隊が攻めて来るとか、そういう事は起こらないと考えていいでしょう」
「だけど、ちょっとびっくりしたな」これは由憐の台詞だ。「私たちはパラポネラを相手にあんな大立ち回りを繰り広げて、病院に腕切断の重傷者を担ぎ込んだ。警察が捜査をすれば現場に私たちが居た事はすぐ分かるはずなのに、今の今まで指名手配どころかニュースにもなっていないなんて」
だからこそ、僕たちは一ヶ月もの間堂々と街中を歩けたのだ。無論、可能な限り用心して人気の多い場所では顔を隠すなどの対策は行ったが──。
「警察に逮捕させるよりも、BCSTに暗殺させるつもりなのかもしれない。銃まで撃ったんだから、次に”現行犯”を押さえられたら……そうだな、やむを得ない状況だったとして堂々と射殺出来る」
「……葛西君、よく動揺せずに言えるね」
由憐の僕を見る目は、やや恐れを孕んでいるようでもあった。
「自分の事でもあるのにさ」
「動揺していない訳じゃないよ。正直、怖くて仕方ない。今だって、こうして絶対に逃れられない『機械仕掛けの神』の影響下で電子機器を触らなきゃいけない状況でさ」
本心だった。それを殊更に口に出す事に意味があるとは思わなかったが、由憐はそこでやや安心したように表情を和らげた。
「怖いのは皆同じ、か。何でだろ、不安な事がある時、堂々とされているより一緒に不安がってくれた方が不安じゃなくなるのって」
彼女はトランクを開け、用意してきた三人分の白衣を取り出す。僕たちはわざと私服が見えるように前を開けてそれを着込み、同じく用意した名札を首から提げた。勿論、そこには出鱈目な名前が記されている。
僕が作戦決行日に選んだ今日は、医学部の学生たちが付属病院で見学を行う予定が入っていた。HMEも自分用のノートPCもインターネット通信を切っているので大学の掲示板は見られないが、大学に直接足を運べばそれなりに情報は手に入る。僕は現在失踪した事になっているので誰かに見咎められる訳には行かず、当然顔を隠しながらの行動になるが、それでも危険度は高い。真栗先輩からは油を絞られた。
「それで命を危険に晒すのはジロ君だけだけどさ、君が居なくなったらこれから先の作戦は全部進められなくなる訳なのね」
危険と隣り合わせなのは他の行動をしている時でも皆同じで、真栗先輩自身も例外ではないのではないか、と思ったが、雷先輩が素早く察してか後で
「真栗はお前を心配しているんだよ」
とフォローを入れてきた。
以降は控える事にしよう、と思った僕だが、ともかくそれで今作戦の目途がついた。即ち、付属病院に学生の姿が多くなるこの日、各科の見学にやって来た医学部の中に紛れて院内を歩こう、という。幸い医学部に、僕の顔見知りは居ない。
僕たちは堂々とした足取りで病院に入り、サーバルームを目指して「関係者以外立ち入り禁止」の先に進んだ。医師や看護師たちの目もあったが、こちらが白衣を着た学生のような格好なので特に怪しまれている様子はなかった。
病院の奥が、ステーションキャンパスに付属した小規模なクリニック──こちらは風代大の学生であれば無料で診察して貰う事が出来、年度初めの健康診断やインフルエンザの予防接種も行われる──と繋がっているという事は知っていた。学生健診の際、そちらを通ってクリニックに降りたのだ。その上のフロアは、もう医学部のゼミ教室や解剖シミュレーションなどを行う実技教室となっている。
今回のような現場見学で学生が降りて来る以外に、基本的にクリニックからこちらへ誰かが入って来る事はない。
「水鏡、諏佐さん、これを」
目的の部屋が近づくと、僕は持参したハードウェアを二人に手渡した。諏佐が、割れ物を扱うようなこわごわとした動作で受け取る。
「僕はこれから大学構内に移動して、用意した水鏡のPCを起動します。二人がこれをサーバコンピュータに差し込んだ瞬間に接続され、PCはテラスの監視下に入る。当然ながらそれは、テラスにIPアドレスが登録されていない。『機械仕掛けの神』は戸惑うでしょうが、すぐにそのPCが大学病院のサーバ処理をトレースしていると気付く。気付いて対応策が打ち出されるまで──例えばBCSTが大学だろうが構わずテロリスト討伐に乗り込んで来る事になるとしたら、彼らが到着するまでが勝負です」
「こいつをぶっ挿した後、俺たちはどうすればいい?」
「取り敢えず、病院から逃げる事だけを考えて下さい。ファイル作成が終わったら僕がハードウェアを回収して合流するので、二人はプリウスまで戻って待機。監視カメラ対策の電波妨害装置も僕が回収します」
サーバルームへの扉がある廊下には、当然ながら監視カメラも設置されていた。最終的には病院関係者に事情説明をする事にはなるが、カメラの映像もまたリアルタイムでテラスに送信されている。作戦開始前に「機械仕掛けの神」に勘づかれる事は避けねばならなかった。
電波法により、基本的に個人でジャマーを使用する事は難しい。通販などで売っているものは、電波が微弱な為電波法での規制対象外になっているが、それ故にこのような作戦に於いては殆ど意味がない。では由憐たちが持っているジャマーは何処で手に入れたものなのかというと、彼女曰く
「警察も全てを検挙するのは難しいみたいでね、Nileで個人が売っていた。法外なお金をぼったくられたけど」
との事だった。3Dプリンターで銃を大量生産している事もだが、彼女らがいとも容易く法を蹴り飛ばして進む姿勢には最早呆れを通り越して感嘆すら覚える。……今からクラッキングを行おうとしている僕に言えた台詞ではないのだが。
「因みに葛西君、ハッキングについて経験は──」
「あったら大変だ」
僕が答えると、由憐はくすりと笑った。「そりゃそうだ」
「作業が終わり次第、こっちからプリペイド携帯で連絡する。本当なら例の大学の旧サーバにファイルをインストールするところまでやりたいんだけど、さすがに時間がない。それに何処にあるかも分からないし、一応医学部が今でもメンテをやっている訳だ、勝手に弄って面倒な事になるよりも、そこから先はアウトサイダーとして事情説明をして協力して貰うべきだ」
「……無理、しないでね」
「ああ、二人も」
自然に応えてから、共に行動するようになってから初めて、彼女から優しい言葉を掛けられたな、という思いが過ぎった。諏佐にとっても彼女がそのような言葉を口にしたのは初めてだったのか、彼もぴくりと片眉を上げる。
由憐自身は自分の発した言葉にそこまで深い意味は感じ取らなかったらしく、ジーンズのポケットからジャマーを取り出してスイッチをオンにした。「私たちも早く行こう、諏佐君」