『神器』 第13回
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首都高や中央自動車道の渋滞はなく、世田谷に行く時と同様の時間で風代まで戻る事は出来た。由憐の宣言通り夕方前、午後三時半前にはインターチェンジを抜け、僕たちは再び「機械仕掛けの神」の監視下に入っていた。
アパートが放火された──下手人が神曲ゼミナールともなれば、狙われたのは間違いなく僕だという事になる。だが、それで他の住人は大丈夫だったのだろうか?
「あなたの責任じゃない」
道中、由憐は暗示を掛けるように僕に繰り返した。
「もしもあなたが他の所に住んでいれば、そこの人たちが犠牲になっていた」
「犠牲者が出た事が確定したみたいに、言わないでくれ」
「確定しているよ。ガソリンまで撒かれたんだから」
国産車の百パーセントが電気自動車か水素自動車になった現在、そのようなものを手に入れるだけでも一苦労だ。それだけ、連中が本気になっているという事だった。
アパートが見えてくる前から、もうもうと立ち昇る黒煙は目視出来た。昨夜の生協の件とは異なり、消防は動いているらしいが、直前に露木に確認した限りではまだ燃え盛る炎を完全に消せてはいないという。
彼らは放火犯を追い、北山──風代大学前から風代までの停車駅──方面に向かったそうだ。十分程前の最後の連絡に際し、二時間弱に及ぶ追走劇の末に彼らは犯人を追い詰めたと言っていたが、冷静に考えればそれ程の長時間に渡って鬼ごっこが続いた事はおかしい。僕の頭にあったのは、現在の神曲ゼミナールが「機械仕掛けの神」の操り人形になっているという話だった。
その予想を裏づけるかのように、露木たちを発見する頃には周囲は人通りの全くない閑静な住宅地となっていた。仲間が危ない──僕も由憐も諏佐もその一心で、その危険な罠へと自ら飛び込んだ。
「さっさと洗い浚い喋りやがれ!」
露木が、ゴミ捨て場の壁に神曲ゼミナールの若者を押しつけながら言った。手には、あの3Dプリンター銃も握られている。
「け、警察を呼びますよ……!」
「上等だよ、呼んでみやがれ! こちとらてめえらが火点けるとこ、思いっ切り撮ってんだよ! ……さあ言え、慈郎を尾けて何をしようとした!?」
「皆、大丈夫か!?」
諏佐が声を掛ける。露木の傍では、雷先輩がもう一人の神曲ゼミナール会員と渡り合っている。留学前に部活動か習い事をしていたのか、雷先輩は拳法らしき技を使って相手を追い詰めているが、敵が手にしているのはスタンガンだった。
「真栗先輩!」
由憐が、立ち回りは専門外というように近くで荒い息を吐いている真栗先輩に駆け寄って行く。先輩は疲労を滲ませながらも笑顔を浮かべ、「お疲れ」と言った。
「いやあジロ君、ご愁傷様。保険には入ってる?」
「僕の事はいいです。被害は? 火災現場から逃げ遅れた人とかは──」
僕が言いかけた時、
「大義には犠牲が付き物です」
不意に、よく知った声が背後から浴びせられた。
「しかしその犠牲は、決して無駄なものではありません。たとえ凡夫であっても、崇高なる目的の為に捧げられた命は尊い。そうは思いませんか?」
「あんたは……!」
倭文無忘がそこに立っていた。僕は、軋む程に奥歯を噛み締める。
「何が大義だ! 組織の保身の為に僕を殺そうとして、その挙句に!」
「一年間に渡って導師たる私を欺いていた。嘆かわしい事です。葛西さん、私はあなたを信頼してお香やお札の販売を依頼していたのですよ。その魂はとうに魔物に毒されてしまっている。最早、ムチュを実行するしかありません」
倭文は心から残念そうな表情を湛えて言った。
ムチュ──それは、導師や信者の手による殺害で、穢れた魂が解放されるという教えだった。神曲ゼミナールは、「機械仕掛けの神」の手に掛かって死ぬ事を恐れた者たちが救いを求めて集まった。生きている事への不安、突き詰めれば死への不安を和らげる事が宗教の究極的な目的とすればムチュの教義が罷り通っているのはおかしな話だが、最早金蔓たる”信者”を引き込む事が出来さえすれば、本性を見せようとも彼らを逃げられないようにする事が重要という事だろう。
今まで、実際にムチュが実行されたという話はない。マルチ商法の歯車に取り込まれた者たちを脅すのに適した口実だからだろうと僕は思っていたが、まさか本当に倭文が手を下すよう命令するとは。
狂信者──そのような単語が脳裏を掠める。
「逃げられると思いましたか?」倭文は畳み掛けてくる。「葛西さんはまあ、頭がいい方なのでしょうね。沢山本を読んで、沢山の事を知っている。けれど、それだけです。借り物の知識を自分の力だと思って、過信しない方がいい」
「葛西君、下がっていて」
由憐が銃を抜き、前に出て来る。倭文は興味を引かれたように眉を動かした。
「導師の肉体は”彼”の降りる神殿。それにそのような無粋なものを向けるとは、信仰を知らぬ輩はこれだから。あなたもムチュが必要なようですね」
「あなたは姿の言葉を曲解している!」
由憐が叫んだ。僕の頭の中に、CS脱会者集団毒殺事件の顛末が想起される。
「ナイトメアクリスマス」事件の後に現れ、「機械仕掛けの神」との和解を訴えた姿樟脳は、カンフルセツルメント発足から間もなく超常的な力を見せ始めた。僕も全てを鵜呑みにしている訳ではないが、カウンセリング相手の心や過去、未来を読んだり、遠隔地に居る誰かに思念伝達を行ったり、被験者にプレッシャーを掛けて動きを完全に止めたりする事が出来たらしい。後に神曲ゼミナールの倭文が、自分が空中浮遊をするCG動画を作成してネット上にばら撒いたきっかけでもある。
姿のそれらのPK──超能力に魅せられ、或いは真偽を疑い、多くの者がCSに集う事になった。その数は半年のうちに一万人近くに膨れ上がったという。しかし、姿は団体からの脱会を自由に許し、当然ながらその宗教的な空気感に肌が合わないという者もこれ程数が多ければ当然のように存在した。
一昨年の七月、教団の幹部級メンバーであった弓削という女が現在の神曲ゼミナール会計役・関根と運営方針を巡って対立を起こし、彼女を「アズハール」の号で呼ぶ支持者十三人と共に離反を宣言。彼女が姿に直接この旨を伝え、「あなたにはあなたの神が、我々には我々の神が居る」と言われたらしい、とは後に、事件後のCS解散で教団を離れた元信者がテレビの取材に対して証言している。だがその後彼女ら十四人は、手続きの為にCSの事務所があるビルに行き、一時的にそこで待機するように言われた地下室の鍵を閉められてガスを充満させられ、全員が死亡した。その上毒ガスが漏れ、同じ建物に入っていた個人経営のカフェ、進学塾に居た人々にも深刻な健康被害が発生した。
その日のうちに警察が動き、CS事務所に強制捜査が入り姿が逮捕された。勾留期間十日間の後すぐに起訴された姿は法廷で一切の弁明をせず、ムチュの思想と共に自らが実行犯である事を淡々と語った。彼は死刑判決を受け、控訴する事なく五ヶ月後に刑が執行された。判決から六ヶ月以内と定められながらもごく普通に執行まで十年以上を費やす日本の死刑制度としては、最速ともいえる速さだった。
当時高校三年生であり、CSに加わろうなどという考えは持たなかった──というよりも、両親と暮らしている以上そのような考えは持てなかった僕は、総司の死の衝撃から半ば「機械仕掛けの神」の存在を受け入れ始めていた。だからこそ大学入学後はCSの後継団体として発足した神曲ゼミナールに潜入し、テラスにそれが宿るという話の真偽を確かめるべく行動していた。そんな僕は、姿もまた「機械仕掛けの神」に嵌められたのだと思っている。
僕が、「機械仕掛けの神」と同じ世界を見る事の出来る天才だったのではないか、と推測している姿。彼はそれ故に警戒を受け、和解を提示するように奇跡の力──カオスを知覚出来る存在であれば、そのようなものがあると偽装するのも容易い──を与えられ、新興宗教の指導者というアイデンティティを与えられた。あたかも、現実問題を見誤らせるかのように。そしてその結果もたらされた自身の最期に、彼も「機械仕掛けの神」が全ての糸を引いていた事に気付いたのではないか?
警察やBCSTをも操る「機械仕掛けの神」だ、風代の司法システムに介入している事は疑う余地がない。そして十四人もの人間を殺害していれば、死刑は免れない。姿はそこで足掻く事を無駄だと悟り、これ以上自分が抗った為に犠牲者が増える事を望まず、全ての罪を引き受けて最短で処刑された──というのが真相なのではないか。
そして図らずも、それは神曲ゼミナールを「機械仕掛けの神」の手駒へと堕とす布石になってしまった。
「目を覚ましなさい、倭文! 『機械仕掛けの神』は最初から、あなたたちを見捨てている。あなたたちはあいつの掌の上で踊らされているだけ」
由憐が言い募ると、倭文の表情が徐々に変化を始めた。
余裕そうな大袈裟な表情から、徐々に感情らしき色を失い始める。しかし、その双眸が冷たい怒りを湛えている事に、僕は即座に気が付いた。
「水鏡……」
「”彼”を冒瀆する事は、導師たる私が許容しません」
倭文が言った瞬間、死角から飛び込んで来る人影があった。倭文に引きつけられていた僕の目は、それを捉える事に刹那の遅れを取った。
大胆にも僕の目の前に出て来たその影は、手にした金槌を由憐の頭上に振り被った。僕と真栗先輩は同時に警告の声を上げようとしたが、直後僕の方にも敵が現れる。工具らしきものを無防備な脇腹に打ち込まれ、僕の食道で圧縮された空気の塊が暴発するような音が鳴った。激痛と共に、一瞬呼吸が停止した。
「これはムチュだ、これはムチュだ、これはムチュだ──」
念仏の如く、その攻撃者が繰り返し唱える声が耳に届いた。横倒しにされた僕が見上げると、こちらを見下ろす相手は狂ったように口の端を引き攣らせて笑いながら巨大なレンチを振り上げていた。
──彼らも、自らが直接的な殺人者となる事には忌避感を覚えるらしい。
その時、由憐が発砲した。BCST隊員を相手にした時のように、向こうは防弾ベストを着ている訳ではない。僕は青褪めたが、彼女の銃口は虚空を狙っている。電線が地中化されたここでは、放たれた弾丸が何かを破壊する事はなかった。
神曲ゼミナールの者たちの動きが止まり、視線が彼女に集中した。彼女は市街地であっても容赦なく発砲するのだ、という警戒感を持って。
これが狙いだったのか、と思った僕だが、
「怯んではなりません」
いつの間にか、倭文と合わせてこちらの前後を挟むように立っていた関根が信者たちに言った。すかさず諏佐が殴り掛かったが、彼は露木や雷先輩のように武闘派ではないらしく、関根の取った防御姿勢と反撃の拳に軽くいなされた。
関根は諏佐の腕を捕えようとしながら、同胞たちを奮い立たせるように叫ぶ。
「導師をお守りして死を迎えるのであれば、それは天上界にも至れる程の功徳を積んだ事になるのですよ! それを至上の悦びとは思わないのですか!」
「黙れ、この悪党っ!」
懸命に彼に抗う諏佐に、
「導師の為に─────っ!!」
由憐の発砲に怯えて身を引きかけていた信者が、金槌を構えて向かって行った。
六対六。しかし、ここに居る仲間たちが防弾装備のない人間に対して引き金を引く事が出来るだろうか。それに対し、「機械仕掛けの神」の意思によって明確に僕たちに殺意を持っている神曲ゼミナールの方が、武器の殺傷力では劣りこそすれ立ち回りを優位に進めそうではあった。
そして敵の殺意は、神曲ゼミナールを動かすだけに留まらなかった。
ふと、皆が静まり返った。何らかの”予兆”──それを感じた僕はごく自然に、この場に居る誰もが同じものを感じたであろうと直感していた。
次の瞬間、頭上から降って来るものがあった。
否、それは跳躍したのだ。音もなく滑るように僕たちに接近し、あたかも忍び足で獲物を攻撃圏内に入れたネコ科動物が飛び掛かるかの如く仕掛けてきた。着地点に居た、金槌を持った信者がその下敷きとなり、やや勾配のあるコンクリートに徐々に血溜まりが広がって流れ始めた。