『神器』 第10回
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「風代を出りゃカーチェイスの心配はねえんだしさ」
中央自動車道を東進しながら、”運転席”に座った諏佐がぼやいた。
「ソリッドを組み直す必要もねえし、二人だけで良かったんじゃねえかなあ」
「文句言わない、諏佐君」
由憐は短く言い、ドアポケットに頰杖を突いて窓外を眺める。
アウトサイダーと行動を共にする事になった翌日、僕はその曜日に受講している大学の講義を全て無断欠席した。バイト先でも無断欠勤となっているし、知人から行方不明だと思われるのならば好都合だ。しかし、風代在住の両親がその噂を耳にし、捜索願を出されたりなどしたら厄介だ、とも思う。
警察とBCSTは、公には秘密にしたまま僕を探すだろうか。或いは、何らかの犯罪容疑をでっち上げて指名手配をし、大々的に捜索を行うか。後者の場合、事実を知らない者たちが僕の敵になるという事だ。それ以前に、顔の割れたアウトサイダーを彼らが追っている事は事実で、由憐たちと行動を共にする以上どちらにしても僕と”敵”との遭遇確率が高いのは変わらない。
現在僕は、由憐と諏佐と共に世田谷に向かい、由憐の自宅アパートにあるデスクトップPCを梱包して風代に運ぼうとしている。
今朝、個室に完備された無料のシャワーを浴び、各々がアウトサイダーの持参していたインスタント食品で朝食を済ませると、僕は昨夜君嶋先輩から受け取ったUSBを皆に見せた。
「この中に、オーパーツを解析する為のアプリ『ギルガメシュ』が入っています。僕は昨日これを見せて貰いましたが、現段階ではあの遺跡で撮影した画像を読み込ませ、オーパーツが何パターンあるのか、それぞれがアルファベットではどう表記されるのかをAIに調べさせている段階です」
「って事は、俺たちは結果が出るのを待ってればいいって事か?」
露木に尋ねられ、僕は「いいえ」と頭を振った。
「それを基にKUの文法を推論させ、既存のプログラミング言語から僕たちが手作業で翻訳を行います。それが終わったら、いよいよテラスの機能停止プログラムを設計していく事になります」
「なんか、頭痛くなってくるな」
「KUは本来存在しない言語ですからね。『機械仕掛けの神』が敷いたルールがあって初めて、ネットワーク上で機能するようになっている。だから多分、エミュレータは使えません」
「リンク付きの喋り方はやめろって」
「でも、解析には相当時間が掛かるんでしょ? 香宗我部博士も、一命令当たりの情報量が殆どカオスに近い程大きいって言っていた」
真栗先輩は、口の端に人差し指を当てた。
「実際、それってどういう事? ヘブライ語みたいなもの? 発音通りにアルファベット表記すると字数がめっちゃ増えるよー、みたいな?」
「漢字もそうですけど。ただ、ここでいう情報量が大きいっていう事は、表語文字──一文字で一形態素──と音素文字のビット数なんて単純な問題じゃないと思います。今更言うまでもない事かと思いますが、オーパーツはバリエーションが極端に少ないんです。という事は、それをアルファベット表記にしたKUの配列にも限りがある。適切な喩えかは微妙ですが、平仮名の『ら』はアルファベット表記だと『ra』で、それ以外の発音はしないでしょう?」
「……情報の事はこれから少しずつ勉強するとして」
由憐が咳払いをしてから言った。
「動詞の『歩く』は音節で分けると『あ』と『る』と『く』で、音素まで分けると『a + r + u + k + u』で。漢字の『歩』は『ホ』でも『フ』でもあるけど、文脈や単語によってどう読み分けるのかは、私たちも直感で分かる訳で。ビット数って意味じゃない情報量っていうのは、多分こういう事じゃないかな。
動詞に『歩き回る』とかあるじゃない? これは『歩く』と『回る』を一つにしたもので。オーパーツはその点、葛西君の言う一形態素を一文字で表すって時に、『歩いて家に帰って家に着いたら鍵を取り出して鍵を鍵穴に差し込んで回して鍵が開いたら扉を開けて家に入る』みたいな複雑な動作──命令のまとまり? の、事を……」
「プロシージャ」
「ありがとう、葛西君。……プロシージャを、そういう意味を持つ一つの文字、みたいに表記するって事? そうすると一つの文字が持つ意味がかなり限定されてしまう気がするけど、私たちが複数の音素を持つ単語を自然に読み分けたり、『run』っていう動詞の意味を文脈で『走る』と『進む』と『プログラムを実行する』で区別出来るみたいに、多義的な意味を持っている、と」
「まだ、僕の推測だけれどね。音素レベルでも、ドイツ語とか中国語のピンインとかだとアルファベット表記は同じだけどウムラウトや声調記号を付けて発音パターンを増やしたりする事があるだろう?」
「けど、プログラムだろ? そんな曖昧でいいのかよ」
露木が口を挟んだ。
「齧った程度だけど、確か中学校で最後にやったプログラミングじゃ文字列を表示させるのに『print』って関数を使った」
「中学校って事は、JavaかPythonですね」
「忘れたけど、これが例えば『場合によっては画面を印刷する』とかだったら大変な事になるぜ? コンピュータの中じゃ、関数──一つの命令の持つ意味は一つに定義されてなくちゃあ」
「その通りです。という事は、KUで記述されたコードは、単体では多義的な意味を持ちながら、全体では設計者の意図が把握されて正確な有限オートマトンをモデル化するという事が出来る事になります」
「何で、そんな人間みたいな……いや、人間みたいって言っていいのかな。少なくとも葛西君の言っていたフレーム問題を解決してしまうような」
由憐は口に出してから、「飛躍しすぎ?」と問うてきた。
「だけど、今世界に幾つ語彙があるの? それを更に複雑にして、多義的にして……そんなの、殆ど意味選択の余地が無際限に近いじゃない。AIが設計者の意図を理解しようとするうちに、処理落ちに陥ると思う」
「『殆ど』っていうところが大事なんだと思うよ。フレームはないようでいて、確実にあるんだ。そうじゃなくて処理落ちにもならないなら、究極的にはKUは単語──いや、文字一つで構わないような気がする。ただそのフレーム内で行う判断が、人間には想像がつかない程入り組んだもので。だけど『機械仕掛けの神』なら、そういう論理を当たり前に処理出来る」
「それが『カオス』って事?」
彼女はもうお手上げだと言わんばかりに首を振った。僕は「一つだけ納得が行く事があって」と付け加えた。「テラスは、風代全ての電子機器を接続して個々に処理出来る。そんなコードを香宗我部博士が本来のプラン通りJavaで書いていたら、テキストデータだけでテラバイト単位になっていたはずだ」
「………」
沈黙が支配した場に、柏手を打って音を取り戻したのは真栗先輩だった。
「理解は諦めよう。そういうものだって割り切って使うしかない。KUがどれだけ従来のプログラミング言語とかけ離れているのかは実物を見ないと分からないけど、従来のもののスキルもない私たちの問題はそれ以前かな。とにもかくにも解析に時間が要るって事は間違いないし、その間にジロ君には私たちのプログラミング教室の先生になって貰いましょう。PCなら、私たち皆一人ずつノーパソ持って来てるし」
「それ、ちょっと使わせて頂けますか?」
僕としては、解析を一刻も早く進めたかった。いつまでもくよくよしてはいられないと思い、由憐たちの前では毅然としていようと決めたのだ。しかし君嶋先輩を喪ったという悲しみを欺くには、何かしら動いていなければならなかった。
テラスにIPアドレスが登録されている端末では、行った一切のタスクがテラスに自動バックアップされる。故に、ネットカフェの備え付け端末や僕のノートPCは使用出来ない。由憐から聞いた事を踏まえ、僕は真栗先輩の端末を借りてUSBを挿入し、ギルガメシュを立ち上げた。
しかし、君嶋先輩の途中まで済ませていた解析プログラムを実行した瞬間、PCはフリーズして暗転、電源ボタンすら反応しなくなってしまった。
「あー、ジロ君が私のパソコン壊した。いけないんだあ」
「お子様ですか」由憐が突っ込み、電源ボタンを長押しした。「こういう時は大抵ぶち切れば直ります」
「それは違うけれども……」
何とかロック画面が表示されると、僕は冷静に再起動を掛けた。その後タスクマネージャーのメモリ使用量を見ると、僕がギルガメシュを動かした瞬間使用量が跳ね上がっていた事が分かった。「やっぱり……」
「オーパーツの情報量が著しく膨大って、こういう事なんだ」由憐が呟いた。
「私たちのノーパソじゃスペック不足って事? だけどこれ、シッキーのノーパソでなら普通に動いたんだよね?」
「風代の端末は、実際に処理を行うのはテラスのサーバですから」
「ナルホド」
真栗先輩は言うと、「じゃあさ」と由憐を見た。
「ちょっと手間掛かるけど、ひとっ走り東京まで行ってデスクトップPC持って来て貰おうか。ユレちゃん、最近パソコン買い替えたって言っていたよね? 最新版のやつ」
「NNEC PC - DT VIDA A27ですね」
「……よく覚えられるね、そんな機種名」真栗先輩は「ジロ君」と僕も指名した。「デスクトップなら大丈夫だと思うけど、万が一無駄足になると困るから君も一緒に行って、ギルガメシュが動くか試して来て」
「俺たちはその間は──」発言したのは雷先輩だ。
「情報収集。敵が私たちに対して、何処まで攻性に出るのか。指名手配はされているのか、私道での爆発やスーパーの籠城事件には関わっていると報道されているのか。それにジロ君を追っていたBCSTの件もある」
「分かりました。片道二時間と諸々の作業で、夕方になる前には戻れると思います」
由憐はきびきびと言い、僕も肯いた。
内心では、昨日から極めて速いテンポで進行する状況とアウトサイダーの意思決定に、振り落とされまいと必死に着いて行こうとしていた。