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「西条さん、この資料の数字が間違ってるから訂正して、明日の朝一に再提出してくれるかな?」
「すみません。分かりました……」
ーこの時間からのやり直しなら、残業確定だよねー
今、書類のミスを指摘されてやり直しを食らったのは、西条美羽。営業第一課に配属されて1年、入社2年目の彼女は、度々ミスをするのにも関わらず、上司からは可愛がられている。
「せんぱ〜い助けて下さい」
何と言っても、見た目が子兎みたいに可愛い。
「どうしたの?」
キュルンとした目で助けを求められたら、女の私でも「助けてあげたい」と思ってしまうのは、致し方ない。
「私、今日これから大事な予定が入ってて、どうしても6時には出ないと間に合わなくて……」
「そうなの……」
ー私も涼晟と約束があるんだけど…ー
「分かったわ。私が直しておくから、今度コーヒーでも奢ってもらうわよ」
「先輩、ありがとうございます!」
西条さんは、満面の笑顔で私にお礼を言った後、書類を私に預けて帰って行った。
「それ、残業確定じゃないの?今日、氷緖も武藤と約束があったんじゃなかった?」
「うん、約束はしてたけど、ご飯食べるだけだったし、またいつでも行けるから」
「本当に、氷緖は弱いよね」
「否定はしないわ」
私─吉柳氷緖は、西条美羽とは真反対に位置している。小さくて可愛らしい西条さんとは違い、身長が168cmと少し高目で、目も少し釣り目で冷たい印象の顔をしている。自分で言うのもなんだけど、仕事もできる方だから、男性陣にも負けていないと思っている。世話焼きな性格もあって、“頼れる姉さん”的な立場になっている。
「氷緖の目には“可愛い”としか見えてないだろうけど、西条って“あざと女子”だからね?」
「“可愛いは正義”とも言うわ」
「あの吉柳氷緖が、“実は可愛いモノ大好き”って、誰が信じる?」
そう言って呆れているのは、私と同期で親友でもある佐々木佳奈。大学からの付き合いで、お互い色々知っている仲だ。
見た目とは違って、可愛いモノが大好きな私。
コーヒーよりも、ミルクたっぷりのカフェラテが好きな私。
生クリームたっぷりのケーキや、チョコレートが好きな私。
同じ会社の開発部に居る武藤涼晟と付き合っている事。付き合っている事は、今はまだ秘密にしている。
取り敢えず、私は涼晟に連絡を入れてから、西条さんの資料の訂正を始めた。
******
「あれ?吉柳先輩、まだ残ってたんですか?珍しいですね」
「吉村君こそ、こんな時間迄どうしたの?」
残業している私に声を掛けて来たのは、吉村大和。同じ第一課の後輩で、図体がデカいにも関わらずわんこ系で、上司や先輩達からは可愛がられているいる。
「俺は、今日は外回りからの直帰予定だったんですけど、忘れ物をしたから取りに戻って来たんです」
「それは残念だったね」
「先輩はまだ帰れないんですか?」
「さっき終わったところだから、今から帰るところよ」
ー時間は8時過ぎ。どこかで軽く食べて帰ろうかなー
「先輩、ご飯がまだなら、一緒に何か食べに行きませんか?」
「うーん……」
ー彼氏との約束をドタキャンして、男の後輩と食事するってどうなのかなぁ?ー
「あ……駄目ですか?」
「っ!?」
ギュンッ─と胸を鷲掴みにする吉村君が居ます!スラッとしたイケメンの頭に垂れ下がった耳と、しょぼんとした尻尾が見えるのは気のせいじゃない。
「駄目じゃないわよ。私の行きつけで良かったら付き合ってくれる?」
「勿論!喜んで!」
今度は、耳がピンッと立ち上がり、尻尾がブンブンと嬉しそうに揺れているように見えるように喜んでいる吉村が居る。
「本当に、可愛いって正義よね………」
「何か言いました?」
「何でもないわ。さ、行きましょう」
可愛いに気を取られ過ぎたせいで、何も気付いてはいなかった。気付いていたら───
******
「吉村君、本当にごめん。まさか、臨時休業だとは思わなかったわ」
「先輩のせいじゃないですから。でも、どうします?何でも良かったら、俺のお気に入りの店にでも行きますか?」
「それ、良い───」
「吉柳先輩!………と……吉村先輩?」
「ん?あ、西条さ───りょ……武藤?」
私に声を掛けて来たのは西条さんで、その西条さんの横には私の恋人である武藤涼晟が居る。
「吉柳先輩、ひょっとして、今帰りですか?遅くまでありがとうございます!明日、必ずお返しします!」
「あーうん……ところで、西条さんの外せない約束って……」
「あ!実は私、涼さん─武藤さんとお付き合いしてまして、今日は指輪の受け取りの予約が──」
「あぁ!みっ…西条さん!」
「お付き合い?指輪?」
何とも嬉しそうにしている西条さんとは反対に、涼晟の顔は酷いモノになっている。そりゃそうだ。本当に私もビックリだ。驚き過ぎて何の感情も湧いて来ない。
「そうなんだ?私、武藤が西条さんと付き合ってたなんて、全く知らなかったわ。同期としては、悲しいやら嬉しいやら腹立たしいやら……」
「吉柳先輩、すみません!涼さんに職場には隠しておきたいって言われて……」
「あぁ…なるほどね。先輩でもある武藤に言われたら仕方無いわ。西条さんが悪い訳じゃないし。それに、私が知らなくても………何の関係もないもの」
“職場では隠しておきたい”“冷やかさられるのが嫌だから”と、私にも言っていたのは、こう言う事だったのね。それを真に受けて、秘密の恋愛を楽しんでいたのだから、涼晟からすれば都合が良い女だったんだろう。
「2人の邪魔をしちゃ悪いから、もう行くわね。吉村君、ほら、店に案内してくれる?」
「了解です。武藤先輩、西条さん、失礼しますね」
「吉柳先輩、今度は私も誘って下さいね!」
「ちょっ……待って、ひ──吉柳!」
「安心して、2人の事は誰にも言わないから。ばいばい、武藤…………」
私は一度も振り返る事なく、吉村君と一緒にその場を後にした。
*****
『入社した時から気になってたんだ。俺と付き合ってくれない?』
涼晟からそう告白されたのは、1年前だった。同期で研修が一緒ではあったけど、配属先が違ったから、たまに同期だけで集まる飲み会で交流があるぐらいの付き合いだった。
職場での涼晟はハイスペそのモノだった。でも、実際付き合ってみると、片付けや料理は苦手で、辛い食べ物が苦手で、カレーですら甘口しか食べれないと言う、何とも可愛い人だった。
ーまさか浮気してたなんてねー
いや、この流れからすれば、私が浮気相手だったかもしれない。今年で29歳になる私にとっては、結婚なんて事も視野に入れていた付き合いだった。
「先輩、大丈夫ですか?」
「え?何が?」
「いつもより、飲むペースが早くないですか?」
「ビール3杯なんて序の口よ」
飲まずしてやってられない。
「でも……先輩って、本当はそこまで強くないですよね?」
「え?」
「先輩、よく飲むし、よく飲んでも酔った感じも無いし、寧ろ酔っ払いの面倒を見てるけど、責任感みたいな感じで乗り切ってる……みたいな?」
「……」
ー驚いた。まさか、吉村君に気付かれていたなんてー
「あ、違ってたらすみません。生意気な事言って─」
「謝らなくて良いわよ。生意気だなんて思ってないし……」
彼氏だった涼晟すら気付かなかった。私があまりお酒に強くは無い事。沢山飲んだフリをして、それでも気分が悪くなっても他人の目があれば、他人を介抱する事もできていた。“頼れる姉さん”を演じられていた筈。
「確かに、皆が思ってる程強くはないけど、飲むのは嫌いじゃないし、今日は、何となく飲みたい気分だったから……」
「そうですか。あ、安心して下さい!皆に言いふらしたりしないし、例え今日、先輩が酔ったとしても、俺が責任をもって家まで送り届けますから!」
ー忠犬ハチ公が居るー
「本当に、吉村君って可愛いよね……」
可愛いモノは愛でるに限る。
癒しが居て良かったと言うべきか?それとも、涼晟に対する恋心が、恋心ではなかったのか?ショックを受けた事は確かだけど、その日は涙すら出なかった。