第1話 小間使い
「おはよう」
俺の声に、大きなダイニングテーブルについている父さんが軽く頷く。
父さんの向かいに座っている母さんは、にこやかに「おはよう」と返してくれたけど、
コーヒーの入ったポットを手にした「彼女」が近づいてくると、
その表情はたちまち冷たくなる。
「奥様。コーヒーのお代わりはいかがでしょうか」
「・・・頂くわ」
彼女は小さく礼をしてから、母さんの空のカップにコーヒーを注いだ。
それから彼女は、席についた俺にも一礼し、
「雅人様、おはようございます。すぐにご朝食とコーヒーをお持ちします」と言い、
キッチンへと下がっていった。
俺は、彼女の後姿を目で追った。
ショートカットに近い真っ黒なボブ。
髪が垂れてこないように、白いレースのカチューシャをしている。
仕事の邪魔にならないようになのか、ずっとこの髪型だ。
それに、黒いワンピースに白いエプロン、黒いストッキング、黒い靴。
今なら、彼女のこの格好を見れば誰もがメイド喫茶なる物を想像するだろうけど、
そんな物が流行る前から彼女はいつもこの格好だ。
そもそも、この格好は外国の小間使いの制服のようなもの。
それを、最近日本で勝手に「メイド喫茶の衣装」だと持てはやしているだけだ。
・・・まあ、「誰もがメイド喫茶なる物を想像する」と言ったけど、
この村の人間は想像しないだろう。
いや、できないだろう。
俺、野波雅人は、この岡部村の村長である野波雅信の1人息子だ。
野波家の「お坊ちゃま」として19年、何不自由なく暮らしてきた。
父さんは村のみんなから「旦那様」と恐れられ、
俺はその息子として一目置かれている。
子供の頃から学校ではいつも特別扱いだった。
「旦那様」に睨まれたら、この村じゃ暮らしていけないからな。
実際には父さんは優しい人なんだけど、村人には父さんの本当の顔は分からない。
なら、こんな村から出て行けばいいだろう、と思うかもしれないが、
この村で生まれ育った者は、この村以外で生活することなんて考えられない。
ここの村人にとっては、この村こそが全世界で、
それ以外の土地など、存在しないも同然なんだ。
もちろん、この村にだってテレビというものがある。
それを見れば、都会での生活がどんな物か、一目でわかる。
でもここの村人たちは、それをまるで宇宙の彼方の出来事のように思っている。
自分達には関係ない、
自分達はこの村から出ることはない、
都会なんて恐ろしい所に行きたいとも思わない!
ここは、そんな閉鎖された村、時代から取り残された村なんだ。
俺もずっと、ここでの暮らしに何の疑問も不満もなかった。
俺はここで生まれ、ここで育ち、ここで許婚と結婚して、ここで子供を作り、
ここで年老いて、ここで死んでいく。
俺の先祖がみんなそうだったように。
ただ、一度、俺は父さんの遣いで東京というところに行ったことがある。
そこでは、俺と同い年位の人間が、俺とはおよそかけ離れた生活をしていた。
俺ほど金は持っていないが、みんな楽しそうに、
合コンだ、デートだ、旅行だ、ドライブだ、と笑っていた。
俺の村ではあり得ないことばかりだった。
こんな、テレビの中のような生活が本当にあるのだと、驚いた。
でも、だからと言って、俺の日常が変わる訳じゃない。
岡部村に戻ると、いつも通りの毎日が俺を待っていた。
以前は、何の不満もなかった生活。
でも、一度東京を見てしまった俺は、ここでの生活をたまらなく退屈に思うようになった。
だけど・・・何も変わらない。変えられない。
俺は、野波家の、この村の、跡取りなんだ。
「雅人様。コーヒーをお入れしてよろしいですか?」
「あ、ああ」
いつの間にか彼女が俺の横に、ワゴンを持ってきていた。
その上には、トーストとサラダが乗った皿と、コーヒーカップ。
彼女の手には、さっきのとは違う、コーヒーが入ったポットがある。
彼女は慣れた手つきで、カップにコーヒーを注いだ。
母さんは猫舌で、湯気が出てるような熱いコーヒーが飲めない。
だから、母さんのコーヒーだけは別のポットに入れてあるのだ。
「ありがとう」
俺がそう言うと、彼女はまた一礼し、今度は父さんの空になったカップに、
俺と同じコーヒーを注いだ。
俺はその白くて細い指に見とれた。
彼女の名前は「花」。
苗字も年齢も知らない。
「花」と言う名前が、本名なのかどうかも分からない。
聞けばいいのだけど、何故か母さんが彼女を毛嫌いしているので、
気軽に声もかけられない。
花は、俺が物心ついた頃には、既にここで小間使いとして働いていた。
と言っても、その頃は花もまだ幼かった。
多分俺より年下だと思う。
そんな小さな花が、一生懸命料理や掃除をしている姿に、
俺はいつの間にか心惹かれるようになった。
もちろんそんなことは、口が裂けても言えないが。
いつ、母さんが花をクビにするかもしれない、と思うと、俺は気がきじゃなかった。
それほどに、母さんは花を嫌っている。
「野波家で働く」ことは、この村の住民にとって憧れではあるが、
「野波家を追い出された」となると、打って変わって村八分にされてしまう。
花をそんな目にあわせたくない。
だけど、結局花はクビになることなく、今もこうして野波家で働いている。
そういえば、花の家族はどこにいるんだろう?
この村のどこかにいるのか、それとも天涯孤独なのか。
でも、そんなことはどうでもいい。
花がここにいてくれさえすれば。
「花。コーヒーのお代わりもらえるかな?」
「はい、雅人様」
俺は、少し残ったコーヒーを一気に飲み干し、
カップを花に渡した。
「・・・花が淹れるコーヒーは美味しいね」
「ありがとうございます」
いつも無表情な花が、小さく微笑んだ。
それはまるで、白い百合のような笑顔だった。