蛇たちの巣くう闇の中から
無数の蛇が、薄闇の中で蠢いていた。
何百、否──何千といるであろうか。淡い蝋燭の光をはらんだ闇の中で黒、あるいは赤、もしくは緑の鱗を持つ数え切れない蛇たち……それら数え切れぬ〝長虫〟たちが、気味悪く混ざり合いながら、まるで動く絵画のように石の床を覆い尽くしている。
そこは、蛇蝎城最奥かつ最下層の広間であった。
定められた経路を通過しなければたどり着けぬ、妖力の結界で守られた空間である。そこに滞留する空気は、生暖かく濁っている。朽ちかけた壁にびっしりと張り付いた苔が屋内の微かな光を吸収するので、まるで辺りの闇が無限に広がっているかのような錯覚をおこさせる。
ひとつの壁にだけかかっている蝋燭の頼りない光が、広間の中央に据えられた王座に腰掛ける何者かの影を、ふいに揺らめかせた。
するとその影に向かって、一匹の蛇がずるずると這っていく。それは広間にいる他の蛇に比して、格別に大きな黒い蛇であった。
「……おいで」
大蛇の向かう先にいる影が、ねっとりと絡みつくような女の声を発した。
その声に反応して、大蛇がおもむろに鎌首をあげる。同時に女の周辺にいた蛇たちが場を譲るように離れていき、それまで遮っていたはずの蝋の光が、女の姿をはっきりと照らし上げた。
うっすらとした光の中に映し出されたのは、おぞましい女の姿であった。
高価な宝石のように透き通った緋色の眸が、得体の知れぬ魔力を帯びて放光している。絶え間なく極限にまで瞳孔の開かれたそれは、魔物ですらも目を合わせられぬ、途方もない眼力を帯びた眸であった。
だが女は、ぞっとするほど美しい。
ほっそりとした形を描く鼻は、無駄のない稜線を描いており、対象的にやや肉厚さを感じさせる淡紅色の唇は、男の情欲をかきたてるあどけない少女のような妖しい魅力にあふれ返っている。
そして、それら全てを総じても、さらに特筆すべきは女の髪である。信じられぬことだが、深い緑色でなる頭髪の主な部分は、数多の毒蛇で構成されているのであった。
〝蛇の女王メドゥーサ〟──彼女は、そう呼ばれていた。
魔女王配下の大悪魔集団である六魔導のひとりであり、魔王リュネシス側の戦士たちにとっては第一の宿敵でもある。
その、メドゥーサのそばに這ってきた大蛇の目が、薄闇の中で一種の呪術的な強い光を放った。それは虚空に地上での出来事を──メドゥーサ配下の黒色兵団と魔王勢の戦士たちとの戦いを克明に映し出したのであった。大蛇の内に秘められた、特別な妖力による現象である。
くらい室内に広がる魔術の映像が見せるのは、まさに圧倒的なまでの魔王リュネシス麾下の戦士たちの強さだった。
三万を優に超える大兵団が、魔王勢の前衛を守っているに過ぎない、たった三人の男たちに為す術もなく葬られていく。そのさまは、彼らの実力を十分に知り尽くしていたはずのメドゥーサにとっても、悪夢のような光景であった。
幻像を見つめるメドゥーサの目が見開かれ、絶えず拡大されている緋色の眸が、最前線で猛威を振るう戦士たちの姿をはっきりと捉えた。
金色のオーラを放つ巨漢の拳士が振るう剛腕と、銀色の〝気〟で覆われた細身の賢者の操る光の魔術の前に、魔法防具に身を固めているはずの兵団が次々となぎ倒されていく。
そのうえ大柄の戦士がときおり、気まぐれのように繰り出してくる斬撃の凄まじさはどうだ──その一撃だけで千を超える兵士たちが、軽々と半身を千切られるように吹き飛ばされていくではないか。
「……ふふ……素晴らしい……憎らしいほど素晴らしいわ……」
映像を凝視するメドゥーサの唇が、狂気を含んで派手に吊り上がった。同時に右手に掴む杖を、異様な力で〝ぎしり〟と握りしめる。黒い金剛石で造られた、見かけ以上に遥かに重みのある魔法の杖であった。
「やはり我が配下の軍団では、奴らの足止めしかできなかったか……だが、それでいい……それでいいのだ。下卑た男どもなど、たとえ我が配下でも皆、死ぬがいいわ。この美しい私の役にだけ立ってな。ふははは……」
メドゥーサの呟きに、どす黒い感情の色がこもる。
「……憎い……憎い……私の最も憎いアカーシャ姉さま」
その蛇の女王の呻きに反応したかのように、大蛇の目から放たれる光の映像が、別の光景を映し出そうとしていた。すでに城内に侵入した、漆黒の魔少女の姿であった。
メドゥーサ、一度は死んだ女だった。
もう、百二十年も昔のこと──メドゥーサがまだ人間であったとき、太陽神の子と呼ばれるほど類まれな美しさに恵まれた、正統な血筋の王女として生まれたがゆえに、ときの狂王バルガンの歪んだ欲望の贄にされた。
誰よりも誇り高かった彼女は身も心もずたずたになり、この世の全てに絶望し蛇神の住まうとされる大滝に身を投げた。
そこは、身を捧げる娘の魂と引き換えに、蛇の神がいかなる望みも叶えてくれると言い伝えのある、不吉な滝だった。
身投げしてからの記憶はなく、どのぐらい眠っていたのかも分からない。気がつけばメドゥーサは、何者かの城の中にいた。
なぜ、自分はまだ生きているのか……ここは、どこなのか?
その疑念に応えるように、眼の前に突如として現れた、見る者を戦慄させる凄まじい気配を放つ大柄の女が言った。
「そなた、よく生きていたな──」
語りかけてくる女の顔には、美しくもこれ以上はないであろう冷酷無情さを想起させる影が宿っていた。
だがメデューサは、女につよく惹かれた。彼女こそが、ぼろぼろになった身も心も預けて従うに足る存在であると直感していた。
「おまえが身を投げた蛇神の滝に、今まで九十九人の娘たちが身を投げて、無駄に命を落とした。だが私は、おまえのような娘が来るのを長年待っていたのだ。あの滝に身を投げても生き残る力を持つ者で、真に強い怨念を抱く、おまえのように美しく価値ある娘をな……もう、気づいていよう?私は魔女王ラドーシャ……遥か古の時代より、この世の闇を統べる者」
女王の言葉が悪魔的に重厚に広がり、それを受ける娘の表情が、ときめきをたたえたものに変わっていった。
メドゥーサの瞳に崇拝と服従の色が宿ったことを見て取ったラドーシャは、微笑みを浮かべて続けた。
「フフ……話が解るようだな。私の血を飲ませてやろう。永遠の命と大いなる魔力を授けてやるぞ。そして、おまえを苦しめたこの世界の人間たちに、思う存分復讐してやるがいい……」
自ら手首を切り裂いて血を授けようとする魔女王が、熱に浮かれたようにそこに吸い付いてくるメデューサを見つめながら、妖しく囁いた。
「そうだ。それでいい……気に入ったぞメドゥーサ。今日から、おまえは私の娘だ」
どくん、どくんと体の底から湧き上がる鼓動と共に、メドゥーサの中で途方もない力がみなぎってくるのが感じられた。
少女のたおやかな全身が鋼のように強化されていき、邪悪な姿へと変貌していった。
瞳の色が底知れぬ魔力を帯びて変色し、輝かんばかりの豊かな緑の髪が無数のおぞましい毒蛇に変わっていく
そのようにして彼女は強大な魔の者となり、ラドーシャの寵愛を受け、六魔導と呼ばれる魔女王配下の最高位に据えられたのだ。
当時、六魔導の主柱とも言える存在だったのが漆黒の魔少女アカーシャであった。
魔女王ラドーシャの血を分けた娘にして、ただひとりの地上の魔族の後継者──メドゥーサから見た彼女は、魔族の皇女として尊敬に値する女性だった。
この世で最も気高く美しく、そしてどんな男にも絶対に手の届かない至高の存在であった。
妬ましく思うこともあったが、それ以上に愛しく思えた。
アカーシャこそが孤独なメドゥーサにとって、血の繋がる姉妹であり、同じ王女の位を冠するただひとりの良き共感者だった。
アカーシャは六魔導の誰とも、けして打ち解け合おうとしなかった。
それすらもメドゥーサから見れば、孤高ゆえの気高い振る舞いに感じられた。彼女とたまに口を交わすだけで、その一日が幸福感に満たされた。
いつしかメドゥーサはアカーシャを、自分が失ったものを自分の代わりに永遠に守り続けてくれている、理想の鑑として崇めるようになっていた。
だが──。
突如としてアカーシャは、魔王リュネシスの側についた。何があったのか知らないがあの女は、自らの意思で敵側の男に寝返ったというのだ。
それはメドゥーサにとって、自身の純潔が奪われたときと同じほど、堪えがたい苦痛だった。
──私は、アカーシャに裏切られた!
その烈しい思い込みがそのまま、これまでのアカーシャへの狂信的な愛から、底しれぬ憎しみの深さへと変わっていった。
「さあ、来るがいいアカーシャ……裏切り者の罪を償わせてやるぞ。この手でおまえを八つ裂きにしてやるわ!」
幻像の中の魔少女を見つめるメドゥーサのおどろおどろしい呟きが、闇の中で異様に響いていた。




