少女の初恋
その日を境に少女から、以前のような溢れんばかりの快活さは消えてしまった。
無邪気な性格に変わりはなかったのだが、時々物思いに耽るようになり、幼いながらも遠くを見る目でため息を漏らすことすら度々あった。
美しい魔王に出逢った、あの日のことが忘れられない。
あの時──背を向けて立ち去ろうとする若者は、しかしその間際、顔をわずかにこちらに傾けて、密かに優しく微笑んでくれた。
冷たさの中に偽りのない温もりを宿した──理不尽な暴力にさらされた少女を、いたわる意味で特別に与えてくれたのであろう──そんな笑顔だった。
また、会えるだろうか……もう一度、逢いたい……。
〝恋〟の概念も知らぬはずのほんの小さな少女が、その意味も解らぬまま、燃えるような深い〝恋〟に落ちてしまった。
少女の最も身近にいる母親には娘の心が──その〝想い〟が痛いほど、よく理解できた。
けして、あからさまに咎めることはしなかったが、それは破滅を伴う危険な〝恋〟にしかならぬであろうことを予感した。
母親はあらゆる努力を試みて、娘の魔王への〝想い〟を逸らそうと努め続けた。
だが、〝恋〟は思案の外──ひとたび胸を焦がす狂おしい愛念に捕らわれた者には、いかなる言葉も忠告も、あらゆる魔術も護符も、意味はなさぬ。
いつしか少女は、自身の〝想い〟に染まりきって、外界に対して心を閉ざすようになっていた。
考えるのは、いつもひとりの〝男〟のことだった。
やがて彼女は幼いながらも、その鋭い直感で、隠された本質を見抜いてしまう。
若者の瞳の奥に──誰にも気づかせない〝魔性の瞳〟の奥底に、例えようもないほどの深い哀しみの色が、確かに宿っていたことに。
──きっと、あの人は助けを求めている……あの人自身が自覚していないほど、深い深い奥の部分で……。
拙くも、少女はさらに考察した。
──わたしに、何かできることはないだろうか?
ある時、ある〝想い〟が、恋する少女の胸をぐさりと突き抜けた。
それはあまりに恐ろしく、劇的で、熱に浮かされたような閃きだった。
──きっとわたしにしか、あの人を助けることができない!
もしも他人に話せば、よくもそんな馬鹿げた妄想をと、一笑に付されたことであろう。
もちろんそれを口に出し公言するほど、プシュケは愚かではなかった。
秘めるべき本心として固く口をつぐみ、愛する両親にすらも絶対に、その〝想い〟を打ち明けようとはしなかった。
だが、プシュケにはそうとしか思えなかった。
でなければ、神が計らったとしか考えられぬ数々の偶然の上に成り立った魔王との出逢いに、何の意味があるだろう。
あれは気まぐれの微笑みだったのかも知れない。
それでもあの男が、あんな優しい笑顔を投げかける相手が、そうそういるだろうか?
少女の中で、それらが甘い確信として昇華されるまで数年かかった。
そうして自閉から脱却して健全な精神状態に戻ったときには、彼女は十歳に達していた。
折しも災厄のような不幸で両親を失った時期と重なり、プシュケは祖父である司教に引き取られることとなった。
祖父は、司教としてこれ以上に正しい者がいないと言い切れるほど、神の教えに忠実な人であった。
そこでプシュケは、光の真理を学んだ。
その日々も彼女には、やがて必要になることであると感じられた。
若者への〝想い〟を大切に胸に閉まい、少女は尊敬する母と祖父から受け継いだ心の宝──慈愛という美徳を着実に育んでいった。
その後プシュケは十二歳になって、ひとつの岐路に立った時、自らの意思で神との疎通を図る場所──修道院へと進んでいったのだった。
若者の迷いと苦しみを消し去る術を、確実なものとするために。
儚くなった母の想いを受け、この世の光明の一助となるために。
―――― § ――――
さらに三年が過ぎたある日──。
魔王の下で仕えているというひとりの男が突然、プシュケとの面会を求めて修道院を訪ねてきた。
男はこの国の宰相──テュルゴと名乗った。
初めて会うというのに、宰相テュルゴはプシュケのことをよく知っているようだった。
「プシュケ。あなたには、私の話せるすべてのことを話しておきたい」
出会ったばかりの当初、壮年の男は厳粛な表情の中に隠しようもない苦渋の色を滲ませて、初対面のあいさつを済ませると乙女に語った。
「私の今やっていることは、くだらん仕事だ。自分でも嫌になることがある。宰相というのは肩書だけで、その実は魔王様のご機嫌取りだよ。それも、美しい娘を魔王様にあてがい、関心を買うという情けないやり方まで使うこともある。この国では使用人も宰相も何ら変わりはない。しかしな。こんな仕事であっても、真っ当な意義を持たせたいと思うのだよ。最近は特にそう考える。
数日前のことだ。私がもっと他のやり方で、魔王様にこの国を守って戴くよう働きかけることはできないか、と考えていた時にだが……ふと、何か声が聞こえた。否——直接、頭に響いてくるような、不思議な声と光を感じた。
(こちらへ来なさい。あなたの望む人がいる)
目の前に、ぼおっと光る何かが在り、私に語りかけてくる。その光から響く声は、男のようでも、女のようでもあった。大人のようでも、子供のようでもあった。とにかく温かく引き寄せられる、崇高な〝何か〟を感じたよ。
私は、その光と声に導かれるまま歩き続けた。かなり歩き続けたが、全く苦にはならなかった。すると辿り着いたのが、この修道院なのだ。光はそのまま庭にまで飛んで行き、そこにいた、ひとりの娘の中に入っていった。あなたの中に入っていった。
そして、振り返ったあなたの顔を見たときに驚いた。
私はかつて、あなたほどに穢れのない、天使のような笑顔をくれる娘を見たことがない。そのとき私は確信した。はっきりと悟ったのだ。
この清らかな乙女こそが、今のアルゴスの闇を払う希望の光であるに違いないと。あのとき感じた尊い光と声は、神のお導きに他ならないと」
テュルゴは穏やかな敬意を払う眼差しで、プシュケを見つめた。
「この国が今、リュネシス様の支配下にあるのも、元々は人間たちの蒔いた深い罪業ゆえのことだ。
それでも、まだましだと思っている。あの方がいなければ、この国はとうの昔に魔女王に滅ぼされていたであろうからな。
ああ……ここで解りやすいように、少し私の一族の話をしよう。私の一族は、百年前に〝悪魔狩り〟によって滅ぼされかけた。
しかし、それを生き長らえたのも、百年前に怒り狂ったリュネシス様が、世界中に蔓延った恐怖の〝悪魔狩り〟に終止符を打ってくださったからこそだ。
だが、もうリュネシス様は動こうとはせぬ。
半年前に私の息子が死んだ。自らこの国を守る兵士として志願してな。私は息子を止めたのだ。だが、あれは今の私の在り方に反発をして、出てゆき、そして、そしてな……」
哀れな宰相は肩を震わせ、慚愧の念を露わに涙を浮かべた。
「ま、魔女王の軍勢との戦いで、討ち死にしたのだ。あの親不孝者めが!まだ二十歳にもならぬ内に——私への当て付けか。親より先に死ぬ子があるか。妻が……あれの母親が可哀そうだ。たった一人の息子を魔物たちにバラバラにされて、墓に埋めてやることすらできない。だから妻は今でも毎日泣いている。あれと愛し合っていた娘も、どれほど嘆いたことか——いったい何人の若者たちが、命を落としたことか——こんな時代が、いつまでも続いてはいけないのだ。リュネシス様が立ち上がれば、魔女王を打ち倒すことができる。だが、これだけの犠牲に目もくれぬあの方を——有り余る魔力を持ちながら、弱い民に一切の情けを掛けようともせぬ、あのような方を——いかなる事情があれ、私には『陛下』と呼ぶことなどできぬ」
テュルゴは、目の前の楢のテーブルに両手を突いた。
「神の予言では、全てを正しく導く〝白き子羊〟が現れるという。それは、あなたのことに違いない。愚かさを承知して頼む。どうか、リュネシス様に仕えていただきたい」
長く語り終えた男は、そこでプシュケを直視すると、自分より遥かに年下で位も低いはずの娘に深々と頭を下げていた。
それを受け乙女は少しの間、恐縮するように沈黙を保ち、やがて静かに頷いた。
多くの人たちの哀しい運命に共感し、自分に与えられたのかもしれない使命の重みに戸惑って。
決意を固めていたとは言え、まさか本当に自分が──でも、やはりそうだったのか──という気持ちに揺れ動いて。
あらゆる想いを溜め込んで、知らぬ間に彼女の翠玉の瞳からは、一筋の涙が流れていた。