魔女王ラドーシャ
そこは、地図上にも存在しない人跡未踏の極地であった。
しかし、忌まわしく呪われた地として地上にある者なら、誰もが知る。
万年の積雪が降り積もった荒々しい大地であり、生あるものを拒むがごとく、厳しい環境をあらわにして寄せ付けない領域──そこは〝ヘルヘイム〟と名付けられた極北の魔境であった。
常に身を切るような冷たい風が吹き、大地は凍って固くなり栄養分を失っている。その荒れた地をおおい尽くす空気も希薄で、夜霧のようにくらくて重い。
そこは地上にありながら冥界・魔界ともつながる世界であり、人の侵入を一切許さぬ隔絶された地域であった。
事実、その地にたどり着いたことのある人間は、二百年もの昔、不慮の事故に偶然を重ねて迷い込んだ、ただ一人の若者のみ。
巨大な国土全体をおおい尽くす謎めいた瘴気が、空間に異次元的な断層を生じさせているため、地上の者が踏み込める場所ではないのだった。
地上世界の中央には、アルゴスやルスタリアをも内包する〝超大陸ドゥーラ〟の名で知られる世界最大の陸地が存在する。
ドゥーラの北の海は極北にまで続いていき、地図に描かれぬ広大な空白海域となっていた。
それは迷いの海として知れ渡り、一年のほとんどが荒れ狂った風と波で見舞われ、旅立つ者をけして生かして帰さないとされる狂気の海域であった。
その空白海域の北の果てに存在する〝ヘルヘイム〟の広さは、南北に三千、東西に五千ほどにもなる。広大すぎる未知の暗黒大陸は、それだけで人である者には理解できぬ、闇と混沌が支配する無限の荒野であった。
〝ヘルヘイム〟の海岸線からはるか内陸に、険しい山岳地帯が連なっている。
そのさらに奥地には、荒涼とした平坦な地が開けていた。
そこは神話の時代からある場所で、〝コキュートス〟と名付けられている。
不気味なほどに静まり返った白一色の広大な土地であり、地上世界から孤絶したヘルヘイムの中でもさらに禁じられた地域であった。
大地に降り積もっている万年雪は、ヘルヘイムのほとんどを覆う深い積雪に比べれば薄く、人が歩けぬほどではない。
だが、厚い雲に閉ざされたその空に太陽は一切見えず、永遠の闇に支配された絶望の地であったのだ。
〝コキュートス〟の中心地に、途方もなく巨大な宮殿がそびえ立っている。
およそ人類の持つ建設技術で造り上げることは不可能であろう、信じがたい規模の王宮だった。
魔女王ラドーシャの住まう大宮殿──〝伏魔殿〟である。
地獄の岩山から切り出された魔岩を元に、同じく地の底からもたらされた黄金や希金属で建造されたこの宮殿は、地上で最も豪壮華麗だとされる魔王の誇る〝ディアム城〟より巨大で、その絢爛さもかの城に勝る。
―――― § ――――
カツン──と城内で乾いた音が響き渡った。
耳を打つように、力強く反響する響きである。
不気味に暗く、そして途方もなく広い空間の中で、辺りを支配する静寂を打ち破る楔のように、その音は重く確かに刻まれた。
すると一定の間隔をおいて、また別の音が、カツンと鳴る。
今度の音は、先ほどよりも控えめで、まるで先の一打に遠慮するかのように弱々しかった。
だがすぐに、それに応じるように再び鋭い一音が空間を打ち鳴らす。
その音の源で〝闇〟が揺らめいていた。それは、暗闇の中にあってすらなお、より深い黒を湛える巨大な〝影〟──。
その影は、ただならぬ邪悪な〝気〟を放っている。
だが、意外なまでに整った女性の輪郭を形造っていた。
いかなる存在がそこにあるのだろうか。
屋内にある大きなトーチの炎が、ふとした瞬間、女の影を絶妙な加減で照らし上げる。
浮かび上がったのは、禍々しくも凄艷な大女だった。
夜の闇よりなおくらい漆黒の長髪と、対象的に輝く白い肌。長いまつ毛を飾る双眸は紫を帯びた金色に輝き、見る者を戦慄させる魔力と狂気を孕んでいる。
神話の時代より生き、この世に破滅と絶望をもたらす者として、冥界の果てにまでその名を轟かす狂乱の女支配者──〝魔女王ラドーシャ〟であった。
先ほどから響く音は、彼女とその下僕が打ち交わしていた盤上の遊戯──〝倒竜棋〟の駒音であった。
玉座に腰掛ける女王が白い手をすっと伸ばし、指先につかんでいた駒を、大理石の卓上に据えられた豪奢な盤上に置く。それに応じて、向かいの男もまた駒を差し返す。
その男は、女王の半身にも満たぬ小柄な人物であった。
灰色のローブに身を包み、しわ深い貌は老いを隠しようもない。
だが一見すれば貧相そのものだが、鷹のように鋭い眼光は、底しれぬ狡猾さを物語っている。
「さすがは魔女王様。まことに厳しい一手でございますな」
小男は、恐縮したような苦笑を浮かべながら、おずおずと口を開いた。
「このボレア、一応は名のしれた黒魔術師として、魔界の策士を自称しておりますが──女王様の崇高な知性を前にしては、その自信もなくなります」
ボレアの言葉に、ラドーシャは目を細めて冷ややかに問いかける。
「ふん。一応聞いておく……おまえ、本気でやっているのだろうな?私に遠慮しているのではあるまいな」
「もちろん本気でございますとも。ですが、私の浅知恵ごときでは、とうてい女王様には及びませぬ」
ボレアは首を大仰に振って、恐ろしすぎる主に内心の焦りを見透かせれぬようにと、慌てて話題を変えた。
「それにしても──なぜ突然、このような遊戯を?〝倒竜棋〟は、アルゴスの庶民がたしなむものでございますが」
女王は、常に己の機嫌ばかりうかがう側近をしらけた目で一瞥した。
だが目前の配下が、使えば有能な者であることも理解していたので、少し間を置いて口角を吊り上げる。
「私とて嗜みのひとつも必要だ。それにこの遊戯──あのリュネシスが、得意にしていると聞く。私も習って、あの坊やの思考の一端をなぞりたくなってな」
「……は」
「ボレア……おまえ、このような一節を聞いたことがあるか?」
ラドーシャは盤から目を離さぬまま、意外なまでに静かに語りかけた。
「白き馬に跨がりし者が天を駆け、漆黒の大地に降り立ち、獣の女王を打ち倒す──」
「……失われた聖典の、最終章に記された黙示録ですな。我ら魔界にだけ伝わり、ごく一部の魔族の者しか知らぬ一節でございます」
ボレアは女王の機嫌を損なわぬよう、努めて冷静に応えた。
「ふむ。さすがは知恵者だな。ならば、地上に遺された予言書の一節も知っているだろう」
素知らぬ顔で、ラドーシャは駒を指しながら続けた。
「天と地に追われし禍つ忌み子が、神の白き子羊に導かれし刻、光の皇子目覚め、蘇りし大いなる闇の王を、その剣達を持ち打ち滅ぼさん」
「……」
「これらの意味するところは、いずれ我とディルヴァウスが滅ぼされるという神の予言と解釈できる。しかも、これら予言が指し示している我らを滅ぼす者とは、リュネシスのことを示しているとしか思えぬではないか?」
「いえ、それは……」
応えに窮して口ごもる配下とは対象的に、魔女王の表情にまた笑みが浮かび上がる。これまで冷静さを保たれていた唇に、ある種の狂気じみた色が込められていく。
「だが、獣は滅びない。我らは神話の時代より、神をも欺いてこの世を支配してきたのだ」
断言する女王の言葉に、常日頃から彼女に対して焦がれるようなあこがれをも抱いている従者は、迷いから目覚めたように顔を上げた。
「その通りでございます。魔女王様の栄光と絶頂は時の果てまで続くべきもの。未来とは……常に我々の力で塗り替えるものであります。たとえそれが、神の描いた筋書きだとしても──」
惰弱と思われていた部下の思わぬ力強い進言を聞かされて、ラドーシャは感心したように視線を向けた。
冷酷非情な魔女王とて、自分を本気で敬い慕う者は嫌いではない。
「ほお」
「魔女王様。実は私に妙案がございます」
「言ってみろ」
「予言が示す〝子羊〟と思われる者の居場所に、私なりに心当たりがございます。長い探索の結果つい先日ようやく見つけた場所でありますが、大陸ドゥーラのイリネア森林地帯──その中ほどに小さな隠れ里がございます。長年、人目を避けてきた巫女たちの寄せ集まる村です。察するところ〝子羊〟なる者はそこに潜んでいるようです。女王様がご許可をいただければ、このボレア、すぐに軍を引き連れしかるべき対処をいたしましょう」
「いいだろう」
魔女王の目が、激しい衝動と邪悪な歓びを込めてわずかに開かれた。
同時に白い指につままれていた頑強な駒が、彼女の魔力によって瞬時に凍結し粉砕され、塵のように跡形もなく消え失せていく。
「ボレア、貴様に二千の精兵を貸し与える。だが、動きを見せ始めたリュネシスどもに、けして悟らせるでないぞ。秘密裏に動き、その巫女どもの村に踏み込み、ひとり残らず根絶やしにしてやるのだ!」
「は……はは!」
目の前でなされた光景に畏怖を覚えつつも、忠臣ボレアは偉大なる主の指示を受けて素早く立ち上がっていた。
意外と困難な任務になりそうだと嫌な予感にとらわれながら、小男は慌ただしく大広間から駆け出していく。引きつっている表情を主にだけは見せぬようにと、手でおおい隠して。
立ち去った部下には目もくれず、女王は薄笑みをたたえながら巨大な玉座に背をあずけ、深い息を吐き出して目を閉じる。
その瞑目する魔女の脳裏には、すべてが滅び尽くされ限りなく美しい〝無〟となった世界が、まざまざと浮かび上がっていた。
皆様お久しぶりです。夜星です。
感想などをくれた方。なかなか返信もできず本当に申し訳ありませんでした。
まだ、コロナ後遺症で伏せっているため何もできませんが、今日より少しずつ不定期にですが投稿させていただきます。
ご覧いただければ幸いです^_^




