エストラーダ
ディアム城の夜は、寂しげなほど静まり返っている。
ほどよく豪華な食事でもてなされた後、来客用の居室をそれぞれにあてがわれた三人は、深夜になると申し合わせてそこを抜け出していた。
目指すのは、城の北にあるという円塔である。
広すぎる城内にしーんと響く夜のしじまは、それだけで得体の知れぬ重みを感じさせる。
神聖なはずのこの城のどこかに、やはり超越的な魔性を冠する何者かが潜んでいるのだろうか。
塔に向かおうとする途中、何人かの衛兵に出くわしたが、彼らは皆、頭を下げるのみで咎めてくる者は一人もいなかった。
ディアム城の北へと続く通路も扉も開放されている。
法王による特別なはからいがなされているのは明白だった。
ルナたちは遠慮なく城の北側の庭に出て、歩を進めていく。
そこはよく整えられ、自然との調和が表現された土地であった。
夜空からの淡い光に照らされ美しく映える庭園は、その部分だけで、ひとつの街を造れるのではないかと思えるほど広大である。
庭園をしばらく歩いて、ベテルギウスがふと足を止める。
広漠たる庭の向こう側──大庭園の片隅の目立たない場所にある、ささやかな違和感に気づいた賢者の眉が微かに顰められた。
他のふたりも同様に感づいている。
夜目の効く彼らの瞳が捉えたのは、木々の影で見え隠れする奇妙な建物であった。
それは全体的に丸みを帯びていて、葦や苔の絡みつく、古びた煉瓦造りの塔である。
「北の外れにある円塔……これですね」
気配を探るようにそっと歩み寄り、ベテルギウスは確信をもって呟いた。
ディアム城の特大スケールに比べれば、象の背に乗っかる蟻のごとく貧弱な建造物であった。
しかしそこには、静謐だが神妙な雰囲気が漂っている。
例えるなら、太古から畏れ敬われる神の社に近い神的気配が──。
──これだ。間違いない……。
ルナも黙って塔を見上げ、同意してうなずいた。
円塔の入り口は頑強な杉の木の扉で閉ざされ、魔法的効果のある特殊な錠がしっかりと掛けられていた。
ベテルギウスはその錠を指で押さえ、もう一つの手で印を結ぶと、囁くように呪を唱える。
すると、カチッと金属的な音を立てて、滑らかに扉が開いた。
三人は、慎重に気配を伺いながら中に入る。
塔の中は、がらんどうのカビ臭い広間となっており、くらい静けさを含む闇に占められていた。
まるで農家の納屋を思わせる、あまりに素っ気ない場所であった。
「……ヘンな所だね」
中の様子に納得できない顔で、ルナが辺りを見回した。
すると、突如として扉が自動的に閉まる。
「!?」
三人が振り返り、気が逸れた瞬間──全ての景観が一変した。
まるで気まぐれな創造主がルナたちを残し、空間そのものをすげ替えたかのような、奇跡の一瞬であった。
気づけば彼らを取り囲む世界は、まばゆいばかりの異世界へと姿を変えていたのだ。
それは、青々ときらめく水の世界。
崩れかけた石の床は、まるで幻であったかのように跡形もなく消え失せ、足元には、遥かかなたまで見える静謐な湖が広がっている。
小波ひとつ立たぬ湖面は、深く澄んだ青を湛え、大自然そのものの息吹を映し出していた。
さらに不可思議なことに、戦士たちの足元は沈むことなく、水の上に静かに立っていた。
靴の底からの淡い波紋だけが幾重にも広がり、まるで水鏡に映る幻影のように、彼らの姿を揺らめかせている。
空を仰げば、そこにもまた澄み渡る蒼が広がっていた。
限りなく透明で、どこまでも続く青空──それは、誰もの心の奥底にひそむ、美しき夢の具現化だった。
「うわぁ」
ルナは思わず空を見上げ、気持ちよさげに両手を広げた。
何もかも忘れさせてくれる抜けるような蒼い空の下、爽快な風に全身を煽られて、少女はしばし目を閉じる。
清らかに注ぐ気流──それは天使の息吹となって、ルナの身も心も洗い流してくれるようだった。
その最中、なにげに彼女は前方に目を向ける。
直後、そこにあった信じられない風景に驚愕した。先に気づいていたふたりの漢たちも、すでにそちらを凝視している。
それは、天空へと昇る長大な螺旋状の階段だった。
白い謎めいた階段が渦を巻いて天の高みにまで続いていき、宙空に浮かぶ壮麗な城へと繋がっている。
その螺旋階段の表面には水が流れ続け、たもとでは湖に絶え間なく流れ落ちていく水が、超自然的な虹と水蒸気を発生させている。
いつからそこにいたのか、光と水のイルミネーションに包まれたその場所に、ひとりの女が立っていた。
立ち姿が輝いている。
体全体が淡い光に包まれている。
彼女の存在が、その場の空気をさらに一変させてしまう。
ああ……これほどまでに美しい、魅惑的な女性がいるのだろうか。
絶妙な透明感に透ける青い髪。紺碧の澄んだ瞳。整った鼻筋はあらゆる女性の規範となるべく造り上げられ、宝玉のような唇はこれ以上ないほどの気品が漂い、すべてが完璧な配置でもって、あるべき場所に存在している。
その体型も素晴らしく、なめらかな曲線美を描く右肩だけを露出した水色のロングドレスを纏った姿は、見栄えの良い豊満な胸が大きく強調されてはいるが、淫靡な印象は微塵も感じさせない。
むしろその全身から放たれているのは、近寄りがたいまでの女神のオーラである。
絶世の美女──これは、誇張ではない。
事実、彼女を目の当たりにした三人は──あの双頭守護神と呼ばれ、何者をも畏れさせた漢たちですら、束の間、我を忘れたかのように佇んでいた。
「ようこそ。秘匿せし我らの聖域エストラーダへ。ルスタリアの偉大なる三人の戦士様──ルナ様。ライガル様。そしてベテルギウス様ですね?」
澄み切った美声を発して、女性が歩み寄ってきた。
見積もって見える年齢は、少女と呼べるほど若々しい。
だがその身に宿す気配は、やはり人の娘のものではない。気の弱い者ならば、近づかれるだけで膝を折ってしまいそうな、神々しい威圧感だった。
さらに彼女を超越的な存在として印象付けるのが、その手に握られた再生と変容の象徴たる杖──光の杖と呼ばれる神器──であった。
杖の頂きには蒼白い月が浮かび上がり、その光は周囲に神聖な輪郭を描き出している。
金色の枝が優美な弧を描いて先端の月を包み込み、清浄な青玉が幾重にも重なり、青い光の宝玉となって煌めいている。
──うげえ、なにこの人。めっちゃかわいい。つか、綺麗……それに、何なのあの杖?女神降臨?
ルナは知らず、ドキドキと鼓動を早めていた。
──やばい……マジやばい。
彼女がまとう美神の存在感と圧に飲み込まれそうになってくる。まるで見えない重力のように、胸の奥を押し込めてくる。
沈黙を守るライガルの眉も、ピクリと動く。
だが、ベテルギウスだけは一瞬の動揺から立ち直り、薄く微笑んで女神の〝気〟を受け流すと、礼節をもって応じていた。
「はい。我らルスタリアの王家に連なる三人。定めに従い参りました。不躾な来訪、どうかお許しください」
慇懃に返答しながら、ベテルギウスは直感する。
目の前にいる謎めいた女性が、これからの三人の運命に深く関わる重要人物であろうことを──。
「いえ。けして不躾などとは……我が主もあなた方をお待ちしておりました」
女性の目に宿る紺碧の瞳が、偽りのない慈しみで三人を見つめた。
「申し遅れました。わたくしはディーネ……ディーネ・ラティス・アストレイア。我が主リュネシス。そしてこの聖域〝エストラーダ〟を守護する水の精霊にございます」
ディーネと名乗った女性は、優雅に一礼する。
彼女の物腰はどこまでも柔らかく、ひとつひとつの動きに洗練された気品が宿っていた。
「どうぞこちらへ。我らが城──〝聖天宮〟へとご案内いたします」
唄うような美声でそう告げると、ディーネはゆるやかに背を向け歩き出した。その身のこなしは水の流れのようにしなやかで、されど見た目に反して歩みは早い。
慌ててルナが後に続き、ライガルとベテルギウスも無言のまま彼女を追う。
三人を引き連れるディーネは滑るような足取りで進み、螺旋階段のたもとにたどり着いた。
そこで立ち止まり、女神は空へと顔を向ける。
しばしのミステリアスな沈黙が流れる。
明らかに何かが起ころうとしていた。
特別な気配を感じた三人は、邪魔にならぬようわずかに距離を取り、静かにその場に佇む。
やがて、ディーネの両の手がたおやかに広がる。紺碧の瞳が幻想的な光を湛え、同時に〝光の杖〟の先端も淡く放光した。
その刹那──ルナは、体内に流れる水がわずかに揺れるのを感じた。
次の瞬間、螺旋階段を流れていた水が、流れを逆転させる。
すべての水が、天に向かって駆け上がるように逆巻き、城を目指して昇っていく。
まるで、潮の満ち引きを手のひらで戯れに操ってみせたような神秘の顕現だった。
目の前の奇跡に、ルスタリアの三人は放心したように目を瞠る。
「さあ、参りましょう〝聖天宮〟へ──リュネシス様がお待ちしております」
何事もなかったように言うディーネが、しかしにっこりと振り返っている。
その微笑みはやはり、神が造りたもうかけがえのない〝美〟そのものであった。




